- 旧三和・旧東海時代には本店の営業窓口においても「本店営業部」と呼称したが、合併にあたり登記上本店を、名古屋にあった旧東海銀行本店としつつも、本社機能は事実上旧三和銀行東京本部に置いたためUFJは、本店営業部と呼称する営業店を設けなかった。
- 旧三和の「本店営業部」「本店公務部」は、「大阪営業部」「大阪公務部」へ、旧東海の「本店営業部」「本店公務部」は、「名古屋営業部」「東海公務部」へと、それぞれ合併時に改称された。
- 尚、東京本部内には「東京営業部」があったが、これは合併前の旧三和店舗であり、旧東海の「東京営業部」は合併時に「東京中央営業部」と改称後、旧三和・東京営業部に統合・閉鎖された。
- さらに、旧東海の「東京公務部」は「虎ノ門公務部」に改称後、旧三和の「東京公務部」に統合されたが、その跡地に統合後の東京公務部が設置された。
- そして、三菱東京UFJ銀行に移行後の2007年に「東京公務部」は、神田鍛冶町にある旧東京三菱の「神田駅前支店」を持つ、神田三菱ビルディング内に移転している。
。
UFJは“United Financial of Japan(ユナイテッド・フィナンシャル・オブ・ジャパン、和訳:日本金融連合)”の頭文字を取って名付けた大阪ではユニバーサル・スタジオ・ジャパン(通称:USJ)としばしば混同されていた。ちなみに、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン内には同パーク開業当初から同行の店舗外ATMが設置されている(※現在の名称は三菱東京UFJ銀行大阪営業部ユニバーサル・スタジオ・ジャパン出張所)。。社名発表当時、「英文法的におかしいのではないか」と多くの批判もあったが、旧UFJ銀行側は「固有名詞ではこういった用法は珍しくない」としている。
UFJ銀行は、発足当初から、「こたえていくチカラ。」をコーポレートステートメントに定めていた。
経営
三行経営統合の破談
再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ
名古屋大学出身であった「東海・あさひ」連合に急接近する。「東海・あさひ」連合も、金融再編の中、規模的に中途半端となっていた為、2000年3月、この「3行による持株会社統合」を受け入れることになった。
しかし、三和銀行は経営の迅速化を名目に、三行の合併を主張したために、経営主導権を三和に握られることを嫌ったあさひ銀行が2000年6月に構想より離脱。結局、三和銀行と東海銀行の合併という形になった。
合併に際して
通常、合併に際しては当事銀行間の基幹システムをリレー方式で接続し、1 - 2年かけて統合するという流れを採用しているが、UFJ銀行は合併のシナジー効果を顧客にいち早く提供するとの主旨の下、合併期日の2002年1月15日に両行の基幹システム(旧三和が日立、旧東海が日本IBM)を旧三和銀行系に統合している。両行とも
日立製作所を窓口端末のベンダとしていたことから実現できた。これによって顧客は、旧三和・旧東海の別なく、統一された商品・サービスを享受出来たが、同月25日から26日にかけて、二重引落などのシステム障害が発生。3ヵ月後の、
みずほ銀行の合併処理とともに社会問題となった。
不良債権処理の遅れ
こうして発足したUFJ銀行は、三和銀行時代から引き継がれた
体育会系的営業スタイルの伝統、他行に比べ積極的な貸し出しの姿勢によって、当時の4大メガバンクのなかで
三井住友銀行に次ぐ収益力の高さを誇っていた。反面、旧三和・旧東海はそれぞれ
近畿地方・
東海地方を地盤とする銀行であり、
首都圏における基盤は他のメガバンクほど強くなかった。
また、財務体質は劣悪で経営再建問題で揺れる
ダイエー、ニチメン・日商岩井(現・
双日)、日本信販(現・
三菱UFJニコス)、
アプラス、
大京、
藤和不動産、
ミサワホーム、
国際興業、
国際自動車などに対しての貸し出しの焦げ付きや過剰な貸付、それらに対する損失引き当て不足が当初から懸念されており、多額の
不良債権比率はメガバンクでは最も高いとされた。結果的に業務で利益が上がっていても損失引き当ての強化及び
不良債権の処理に伴い利益をはるかに上回る巨額の赤字の計上する状態で、UFJ銀行は発足から消滅までの3年間に黒字を計上することはなかった。
特にダイエー向けの債権はUFJ銀行の発足前は東海銀行、三和銀行、富士銀行、
住友銀行がそれぞれ5,000億円を超える融資額を横並びで貸し付けていたが、UFJ銀行の発足によって融資額が1兆円を超えて突出し、結果的にメインバンクとしての責任を背負い込むと共にその処理が経営の足を大きく引っ張ることになった。
2002年9月に金融担当大臣(経済財政担当大臣兼任)に
竹中平蔵が就任した。同年10月には「金融再生プログラム」が発表され、大手行に対して、2005年3月末までに不良債権残高を半減するよう要求した。これを受け、
みずほフィナンシャルグループが1兆円の増資を実現し、三井住友銀行が破格の条件で
ゴールドマン・サックスに優先株を発行し、さらに
わかしお銀行との
逆さ合併により含み益を吐き出すなど、他のメガバンクは形振り構わず資本増強による不良債権処理を進める。
しかし、
全国銀行協会会長だった寺西正司UFJ銀行頭取は「銀行はルールの中で経営されている。サッカーをしていたのに、突然、アメリカンフットボールだといわれても困る」と反発した。この発言はのちに辿るUFJグループの行末を考えると、当時のUFJグループの経営陣にとっては非常に厳しい条件を突きつけられていたことを物語っている。
ただ、必ずしもまったくの無為無策というわけではなく、2003年3月、
メリルリンチから1,200億円の増資を行い資本強化、また、その後も当時5万円額面換算で10万円を割っていたUFJ銀行の持ち株会社UFJホールディングスの株式をモナコの投信会社に引き受けて保有比率5%の筆頭株主になってもらうなどの株価対策や資産の売却、劣後債などによる資本増強を行った。
結果、日本の株式市場は「りそなショック」を経て株価は上昇に転じUFJ株は結果的に株価上昇の先導役となって株安で抱えていた銀行の含み損はかなり解消した。ただし、
金融庁から業務改善命令を受けるなど経営の視野や選択肢が限られる状況であり現金資産が増えていたわけではなかった。業務改善命令に対して約束した利益は1,300億円程度であった。
派閥抗争
当時のUFJ銀行内は旧三和銀行以来の派閥抗争に終始し、積極的な資本増強策を行っていなかった。UFJ銀行は対等合併とは言われながらも、実際の行内の主導権は規模が旧東海の1.6倍あった旧三和が主導権を握っていた。旧三和行員は、“
緑化作戦”(旧三和の
ロゴカラーが
緑色であることによる)と称して旧東海行員を放逐し、愛知県を中心に旧東海店舗を30店近く統廃合していた。こうした動きは、
名古屋財界からの不満を招き、東海3県における預貸シェアは低下していく。また、前述の大口融資先には、こうした人事抗争に敗れた有力OBを天下りさせた経緯もあり、銀行側が事業再生に主体的にかかわることもできず、なれ合い関係が深まっていった。
金融庁との対立と特別検査
2003年10月に実施された
金融庁特別検査では、多額の不良債権の処理不足が指摘された。しかし、当局の指示通りに不良債権処理を行えば、UFJ銀行は巨額の赤字決算となり、これは公的資金注入行に対する「3割ルール」により、経営陣が退陣することを意味し、必死の抵抗を試みた。
この検査時に、大口融資先の再建・処理は、頭取直轄の「戦略支援グループ」が担当していた。実権を握っていたのは、グループ長の岡崎和美副頭取(
慶應大卒)、その補佐で大蔵省接待汚職時に
MOF担だった早川潜常務(
一橋大卒)、稲葉誠之執行役員審査第五部長(慶應大卒)の3人である。彼らは、大口先の審査資料として「楽観」「成り行き」「最悪」の3シナリオを用意し、どれを採用するかは、その協議で決めた。その結果、「楽観」シナリオが採用され、債務者区分は「破綻懸念先」が格上げされることにより、不良債権処理損失は圧縮された。また、「成り行き」・「最悪」のシナリオは隠蔽され、さらに議事録も改竄し、金融当局と全面対決する道を選んだ。
岡崎らがここまで金融当局に強気に出たのは、過去における実績からであった。旧三和銀行は、
尾上縫事件や大蔵省接待汚職事件等、過去の金融スキャンダルでは常に自行に有利な事後処理を実現していた。特に1998年の大蔵省接待汚職の際は、当時MOF担だった早川常務を中心に
東京地検特捜部に積極的に情報提供し、自行から逮捕者を出さない目的は達成したものの、大蔵省金融検査部門よりノンキャリア検査官2名が逮捕、1名が自殺に追い込まれる結果となり、以来、金融当局から不評をかっていた。また早川自身も、金融当局に対してはかねてより反抗的であった。
こうした状況下での特別検査におけるUFJ銀行の金融当局に対する姿勢は、敵対派閥からと見られる
内部告発により前述の資料等の隠蔽・改竄が発覚するに及んで金融庁、特に現場の検査官の逆鱗に触れることになる。また、2004年1月、
日本経済新聞が金融庁の特別検査が入っている実態が報道され計画されていた永久劣後債による4,000億円にのぼる増資は取り止めになった。さらに、2004年4月、今度は
中日新聞がスクープの形でUFJグループの不良債権に対する引き当てが不十分とされる報道がなされ金融庁に約束した利益が未達となり寺西らの経営トップの辞任の見通しを報じた(UFJショック)。
結局、2004年の3月期決算では不良債権処理のために損失引当の大幅な積み増しによって約4,000億円の赤字となった。この2期連続の
赤字となり経営責任を取って、2004年5月に頭取の
寺西正司は退任に追いこまれ、この検査忌避によりUFJ銀行は一部業務停止を含む行政処分を受け、さらに、
2004年10月、法人としてのUFJ銀行と、岡崎元副頭取ら「戦略支援グループ」の元担当役員ら3人が
銀行法違反(検査忌避)容疑で金融庁より刑事告発を受けた。
旧三和銀行の行風
特に、渡辺滉頭取(
一橋大卒)時代、企画・秘書・人事中枢部門に権限を集中させ、同時に、一橋大・
京都大出身者、中でも中村明秘書室長(京都大卒)が重用された。中村は、
高杉良の小説『
金融腐蝕列島』で「カミソリ佐藤」と呼ばれ恐れられる銀行マンのモデルとも言われ、頭取の渡辺に「私の思う通りにやらせてもらえば、三和を収益ナンバーワンにしてみせる」と豪語、行内で“七奉行”と呼ばれた若手秘書役(この一人に、UFJ銀行最後の頭取となる
沖原隆宗が居た)を補佐官として登用し、権勢を揮う中、実際に業務純益・経常利益・当期利益で
都市銀行トップを実現した。
こうした経営の意思決定の迅速化は成果を出したものの、学閥を中心にした側近政治の弊害に対する内部に溜まった不満は、1999年当時会長となった渡辺と佐伯尚孝頭取(東京大卒)の主導権争いで爆発し、怪文書等の流布等、陰惨を極めた。
結局両者が辞任し、中間派の
室町鐘緒(
名古屋大卒)が頭取に昇進したものの、2002年、
UFJ銀行の発足を目前にして赤字決算の責任を取り退任した。
室町の後任は、秘書室長経験者だった
寺西正司(
大阪大卒)であった。寺西は幹部層を岡崎副頭取、中村正人企画部門担当常務、末席の執行役員から抜擢した松本靖彦秘書室長(慶應大卒)ら阪大・慶大出身の側近で固める一方、対立派閥に属し、旧三和で
フィナンシャルワンを立ち上げるなど、かつて頭取候補と言われた杉山淳二常務(東京大卒)を
アプラスに転出させ、また、旧東海で合併を担当した藤田泰久常務(
京都大卒)に事実上退行を迫り、より側近政治・派閥抗争を悪化させる。
前述の金融庁特別検査の結果、2004年5月に寺西頭取が退任し、
沖原隆宗(
慶應大卒。現在は、
三菱東京UFJ銀行の代表権のない副会長)が取締役付きでないにも関わらず、常務執行役員からいきなり頭取に就任するという異例の昇進をした。この時、沖原は「(2005年3月期の)上期中に大口融資先の対応について布石を打つ。」「十指に満たない融資先の債権の処理を念頭に置いている。」「UFJ銀行の問題は一言で言えば大口融資先の問題に尽きる。」などとのべ不良債権処理の断行を示唆した。
しかし、人事面で見れば、寺西と共に退任を余儀なくされた岡崎副頭取を
日本信販会長へ、中村常務を
JCB専務への転出を決定し、また松本秘書室長も常務執行役員に昇格させ、松本を筆頭に直属の部下である佐野極(秘書役、京都大卒)・企画部長・広報部次長のいわゆる「4人組」を側近に据えた。
こうした旧態依然たる人事施策は、再び金融庁の逆鱗に触れ、これらの人事が撤回させられたばかりでなく、UFJ消滅への遠因となった。その後、すでに優秀な人材は流出していたUFJ内部は疲弊し、派閥抗争の余裕すら失っていく。
三菱東京FGによる救済
住信へのUFJ信託売却と撤回
前述の巨額赤字決算は自己資本を大きく毀損し、このままでは国際業務に必要な
自己資本比率8%の維持が困難となった。このため、2004年
5月21日に持株会社の
UFJホールディングスは
UFJ信託銀行を
住友信託銀行へ3000億円で売却すると発表せざるを得なくなった。しかし、この売却でようやく繰延税資産の自己資本への組み入れが監査法人に認められて、2004年3月期の自己資本比率割れを何とか繕っている形であり、UFJの不良債権処理は体力的に難しい問題を抱えていた。特に問題になった債権は
ダイエー、
双日で貸付の規模は1兆円を上回っていた。この発表からわずか3日後の5月24日、UFJホールディングスの2004年3月期決算がUFJ信託銀行の売却でも埋められない大幅赤字となることが判明する。
この売却発表から2ヶ月も経たない7月14日、持株会社経営陣はUFJ信託銀行の住友信託銀行への売却を撤回と、三菱東京フィナンシャル・グループとUFJホールディングスの経営統合で大筋合意し、翌
7月16日に
三菱東京フィナンシャル・グループと経営統合に向けての協議を開始すると発表した。統合の時期は2005年度上半期を目標とし、2004年
8月12日、2005年10月メドによる新会社
三菱UFJホールディングス(当時の仮称)の設立に基本合意し、「
三菱東京UFJ銀行」に行名を改める予定となった。
これに対して、住友信託側が
東京地方裁判所に交渉差し止めを求める
仮処分申請を行ない、東京地裁は2004年
7月27日、当該仮処分申請を認める決定を下した。UFJ側がこれに対し異議を申し立てるも、
8月4日に却下された。
さらに、UFJ側は即日
東京高等裁判所に
抗告し、2004年
8月11日、東京高裁は、地裁の決定を取消し、三菱東京とUFJの統合交渉を可とする決定を下した。住友信託側は同日、
最高裁判所に特別抗告を行ったが、最高裁は
8月30日、高裁の判断を妥当とし、住友信託側の申請を退ける決定が確定した。その後、住友信託側が売却の白紙撤回に対する民事訴訟に切り替えてUFJ側と争ったものの、
2006年11月21日に東京高裁の提案による住友信託に対して25億円の和解金を支払う事で和解が成立した。
SMFGによる経営統合の申入れ
この間、2004年7月30日、突如、
三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)がUFJホールディングスに対して経営統合の申入れを表明、8月24日に発表した「1:1」の合併比率はUFJにとっては破格の条件だった。8月30日には、UFJに対する増資引受条件に関する提案を送付する。
2004年8月12日、三菱東京とUFJが2005年10月までの経営統合で基本合意。さらに、9月10日、それまで9月29日までに行うとしていた三菱東京からUFJに対する増資を9月17日への前倒しする事を発表した。増資は、公開企業のUFJホールディングスにではなく、その傘下にあり非公開企業のUFJ銀行に優先株7,000億円で行い、さらに、
TOB(公開買い付け)によりUFJホールディングス株が20%超買い占められた場合は、その優先株に議決権が発生する
ポイズンピルを盛り込ませる。
2004年9月下旬、三井住友フィナンシャルグループは、株主提案を行うために必要なUFJホールディングス・300株を取得、「委任状争奪戦」(プロキシーファイト)を仕掛ける姿勢を鮮明にする。しかし、UFJ側にしてみれば先の住友信託に続く2度目の契約反故は許されない道義的な問題のほか、公的資金を完済した三菱東京に対して、三井住友は当時1兆3,000億円の公的資金残高があり、UFJの1兆5,000億円を合わせると「三井住友+UFJ」新銀行は発足当初から2兆8,000億円の公的資金を抱え込む経済的な問題がネックとされていた。
2004年秋までには、三井住友側が大勢を覆すには至らないのは明白になっていくが、この三井住友側の動きが、三菱東京との交渉においてUFJ側に有利に働いたことは否定できない効果であった。
救済までの不良債権処理
この間、UFJは三菱東京との統合前に不良債権処理を進めていく。特に、UFJグループのなかでもっとも問題とされたのは
ダイエー向けの債権だった。当時のダイエーは
中内功の会長退任後、
高木邦夫の指揮下で資産の売却や売り場の改善を進めていたがその売り上げは低迷凋落の一途をたどっていた。高木は2002年3月に決まった再建計画の途中(期限は2005年2月)でメインバンクサイドの意向で
産業再生機構に送られてしまうことに難色を示した。また経済産業省もこれを支持していた。しかしダイエーの決算の前提に金融機関の支援の不可欠とする監査法人の見解を受けて高木が翻意して再生機構へ送られることが決定した。
金融庁の懸念と合併延期
年が明けた
2005年2月17日、三菱東京とUFJは正式に合併を決定し社名を「
三菱UFJフィナンシャル・グループ」とすることになった。
翌2月18日には合併比率を「1:0.62」で最終合意、4月20日、合併契約が正式調印、同年6月29日、それぞれの株主総会で合併が承認される。なお、東京三菱銀行との合併について、持株会社や傘下の信託銀行・証券会社と同じく2005年10月1日を予定していたが、システム統合準備の遅れが金融庁より指摘され、8月12日、3ヶ月延期が発表された。
そして、2006年1月1日にUFJ銀行は、
東京三菱銀行に事実上救済合併され、発足からわずか4年で消滅した。
引当と経営統合の妥当性
三菱東京との経営統合から1年後、三菱UFJフィナンシャル・グループが2006年11月21日発表した2006年9月中間決算では、旧UFJグループが過去に積んだ
貸倒引当金戻入益などが過去の累計で1兆円を超えた。前述の金融庁の指導により旧UFJが2004年度から一気に不良債権として処理を進めた大口債務者の一つが、この中間期に正常債権となり、多額の繰戻益につながったためである。その内訳は、2005年度上期で約4,000億円、同年下期にも、旧UFJの経営悪化で「評価性引当金」として簿外に計上していた
繰延税金資産を、5,000億円近く資本として繰入れた。2005年通期だけで旧UFJからの戻益は9,000億円規模となり、2006年上期分を合わせて1兆円を超えたことになる。
これは旧三菱東京が旧UFJ救済のため出資した7,000億円を大きく上回るだけでなく、旧UFJにとって「統合に突き進んだ過去の経営判断が正しかったのか」という疑問を想起させかねず(2006/11/21付
日経金融新聞)、さらに、過去の金融庁検査が妥当であったかの疑問を提起させた。
もっとも、戻益の過半を占める繰延税金資産の計上は、経済環境の好転もさることながら、経営統合により収益性が増したために可能であったとの見方もあり、一概には言えない。
沿革
関連企業
旧三和銀行関連(現物出資&親密)
旧東海銀行関連(現物出資&親密)
補足
関連項目
外部リンク
ゆえふしえいきんこう
*ゆえふしえいきんこう
きんこう