来歴・人物
東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)、
東京大学法学部卒業後、
1968年に
日本興業銀行に入行。主に国際畑を歩み、将来を嘱望されてきた。
1988年、グループ議長だった義兄・
鹿内春雄の死去に伴い、信隆と養子縁組しフジサンケイグループ議長代行に就任(実権は信隆が握った)。
1990年信隆が急逝した後に議長に昇格する。
宏明の議長就任後は、春雄や信隆の死後グループのカリスマが不在になり鹿内家への求心力が弱まっていたが、グループの結束力強化を図るという名目で
1991年2月にグループの最高意思決定機関である「株式会社フジサンケイコーポレーション」を設立。宏明が会長兼社長に就くとともにグループの主幹四社(
ニッポン放送、
フジテレビジョン、
産経新聞社、
サンケイビル)の会長職も兼務。また主幹四社の社長を同社の役員に置き、フジサンケイグループの権力を掌握した。しかし、宏明の経営手法が各社の代表者とは相容れず、とりわけフジテレビの
日枝久社長(1988年に義兄・春雄の死後社長就任)とは確執を生んだ。
1992年
6月23日のフジテレビ株主総会で、
1982年の
岡田茂三越社長解任劇(
三越事件)のように宏明も解任されるのではないかとの怪情報が流れる。宏明自身も自己に対する情勢が不利であることを認識しており自身の権力維持のため強硬な人事を行う。フジテレビ制作担当の
三ツ井康常務取締役を
扶桑社社長に、以前から確執があったという
羽佐間重彰ニッポン放送社長(
NHKの
羽佐間正雄元
アナウンサーの従兄弟)を赤字の産経新聞社長においてフジテレビ取締役から追放する。代わりに
加山雄三の親友である川内通康をニッポン放送社長に、白川文造、
亀渕昭信ら宏明派を新たにグループの取締役に就かせ権力基盤を構築したように思われた。
しかし
7月21日、鹿内姓を名乗ってはいるものの、鹿内一族とは養子縁組で血縁関係があるわけでもなく、グループを私物化し新聞を代表する者として不適任であること等の理由から羽佐間・日枝を中心とする企業クーデターが発生。産経新聞社取締役会にて突然会長職を解任される。当初、ニッポン放送を拠点に反抗を期するも、川内ら宏明派の役員は、日枝派に寝返るか右往左往するばかりであった。期待していた興銀他、財界の支援も鈍く、何より大株主であった信隆の未亡人・英子からも彼自身の私生活の問題から既に見放されてしまっていて宏明は孤立無援状態になってしまった。翌
7月22日、宏明は記者会見を開き、ニッポン放送、フジテレビジョン、サンケイビルの会長職とフジサンケイグループ議長を辞任すると自ら発表する。その後取締役も辞任し、フジサンケイコーポレーションは解散。羽佐間・日枝を中心とするグループ基盤が構築され、鹿内家の経営的支配は終わりを迎える。
「フジサンケイコーポレーション」を事実上の
持株会社とし意思決定の効率化と迅速化を図る手法は、企業統治の面で先進的な発想であり(
読売新聞が持株会社方式として再編されるのは、これより10年後の
2002年。また
2008年には
フジ・メディア・ホールディングスが設立され、フジサンケイグループ自体も
放送持株会社体制に移行した)、銀行(興銀)出身者としてグループの財務内容の健全化を図ろうとしていたとする指摘もある。
その後もニッポン放送の筆頭株主として復権を図っていたが、ニッポン放送の上場により保有比率が低下。
2005年1月に2970株を残し、計262万5000株(発行済株式の約8%)を
大和証券SMBCに売却し、
ロンドンに生活の拠点を移した。これにより、フジサンケイグループから鹿内家の
直接的な影響力は無くなった。
ただし、鹿内家と財界はいまだに太いパイプを維持し続けている上、かつて低視聴率の期間が長く「振り向けば
12チャンネル」(最下位のテレ東に次ぐ低視聴率)と揶揄され続けたフジテレビが現在のような頂点にまで上りつめることができたのは宏明の義兄である春雄がいたからこそであり、強いて言えば、クーデターを起こした日枝久が今の地位(フジテレビ編成局長・取締役・社長・会長)につけたのもまた春雄がいたからこそであり、日枝は春雄が改革して作り上げた遺産(現在も続く
「軽チャー」路線や
「楽しくなければテレビじゃない」路線、信隆をはじめ歴代の社長の誰もができなかったグループの基準統一(「
目玉マーク」へのロゴマーク変更)など)を守ってきた存在に過ぎないのである。
このため、日枝、羽佐間の背後に鹿内家の支援があったからこそできたクーデターであり、現在でも鹿内家の影響力そのものはフジサンケイグループから完全には消えていない。
外部リンク
ひろあき