歴史
213年、曹操は十州を持って魏公に封じられた。
216年、さらに曹操は魏王に封じられた。当時、皇族以外には「王」の位を与えないという不文律があったのにもかかわらず、曹操が王位に就いたということは、すなわち
簒奪への前段階であった。しかし曹操は存命中は皇帝位を奪わずにいた。
220年、曹操が死ぬとともに、曹操の子である
曹丕が魏王と後漢の丞相の地位を継いだ。この年、曹丕は、後漢最後の皇帝の
献帝から禅譲を受け、
洛陽を都とし、魏の皇帝となった。翌年に
蜀の劉備も対抗して皇帝を名乗り、さらに
229年には
呉の孫権も皇帝を名乗り、一人しか存在できないはずの皇帝が三人並ぶという異常事態になった。
文帝(曹丕)は
九品官人法を実施し、
中書省の設置など諸制度を整備して魏の体制を完全なものへと移行させた。
しかし、九品官人法の影響により、後漢から形成されてきた
豪族層が
貴族化し、官職の独占を行うようになった。この問題は魏の時代はまだ端緒が見えた程度であるが、後の
西晋になってから深刻化した。
曹丕は
226年に死去し、後を長男の
曹叡(明帝)が継ぐ。
227年、呉の孫権・諸葛瑾らが3方向から魏を攻めたが、
司馬懿・曹休らに敗れた。
228年、
孟達が蜀の
諸葛亮と内応して魏に反乱を起こしたが、司馬懿に鎮圧された。同年、蜀の諸葛亮・
趙雲が魏を攻めるが、曹叡が派遣した張郃・曹真に撃退された。同年、魏の曹休が呉を攻めるが、
陸遜に大敗した。
229年、諸葛亮は
陳式を派遣して、魏の領土の武都・陰平
郡を奪った。
231年、諸葛亮が魏を攻め、張郃を射殺した。諸葛亮が死去した後、国家の脅威が去った安心で気が抜けてしまったのか、曹叡が宮殿造営や酒にのめり込んで国政が疎かになり、国は疲弊してしまった。
238年、
司馬懿を派遣し、
遼東で謀反を起こした
公孫淵を滅ぼした。
238年(景初二年)に
邪馬台国の
卑弥呼が
朝貢にやってきたことが『魏書東夷伝倭人条』いわゆる『
魏志倭人伝』に記されている(魏志倭人伝中の景初二年は、
公孫淵との戦闘の最中である事から、古くから
239年(景初三年)の誤りではないかという説があり、これが学会の主流であるが、反対意見もある)。
曹叡は
239年に早世し、その後を養子の
曹芳が継ぎ、明帝は死去するに際して司馬懿と皇族の
曹爽に曹芳の後見を託した。
244年には
毌丘倹を派遣して、
高句麗の首都を陥落させるなど武威を振るったが、内部では曹爽と司馬懿の対立が起こり、曹爽が司馬懿を排除して専権を振るった。司馬懿はこれに逆襲して
クーデターを起こして権力を掌握し、曹芳は傀儡となった。
255年、毋丘倹が反乱を起こしたが、司馬師に鎮圧された。同年、司馬師が死去し、その権力を弟の
司馬昭が引き継いだ。同年、蜀の
姜維が魏を攻め、
王経に大勝した。
256年、蜀の姜維が魏を攻めるが、
鄧艾に大敗した。
257年、
諸葛誕が反乱を起こしたが、
258年、司馬昭に鎮圧された。当時、司馬昭の権力は強く、曹髦は全くの傀儡であった。
260年、曹髦はこれに不満を抱き、側近数百名を引き連れて自殺的なクーデターを試みるが、
賈充により殺された。その後に擁立されたのが曹操の孫にあたる
曹奐であった。
265年、司馬昭は死去した。同年、その権力を引き継いだ
司馬炎により曹奐は禅譲を強要され、魏は滅びた。司馬炎は新たに
西晋を建て、
280年に
呉を征服し、三国時代を終わらせた。
この三国鼎立の時代は後に
陳寿により『
三国志』に纏められた。
魏の成立の年代について
厳密に言えば、
曹丕が、
禅譲を受けて皇帝になった
220年を魏の成立とするべきである。しかしながら、
曹操の存命中も曹操が皇帝のように君臨して万事を動かしていたのだから、曹操が権力を手に入れてからを魏王朝の成立と見ることもできる。その場合、次のような時期が事実上の魏王朝の成立と捉えられる。
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200年、曹操軍、官渡の戦いに勝利して中国北部の覇権を獲得
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207年、曹操、後漢の丞相となる
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213年、曹操、魏公となる
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216年、曹操、魏王となる
また、文学史的にいえば、後漢の建安年間(
196年 -
220年)は曹操を中心とした文学サロンが形成され、新しい文学の形を作っていた(
建安文学)。この建安文学の流れが、魏の時代のみならず、
魏晋南北朝時代全体にわたって続いていく。それゆえに建安年間も魏の一時期と考えた方が、文学史的にはわかりやすいと言える。
魏の皇帝の一覧
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曹騰は、文帝によって、高帝と追号された。
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曹嵩は、文帝によって、太帝と追号された。
邪馬台国
魏志倭人伝によれば「倭人は帯方郡(現在の北朝鮮南西部にあたる地域)の東南、大海の中に在る。山島に依って国や邑(むら)を為している。旧(もと)は百余国あった。漢の時、朝見する者がいた。今は交流可能な国は三十国である。・・」などとある。
卑弥呼を女王とする
邪馬台国はその中心とされ、三十国のうちの多く(二十国弱=対馬国から奴国まで)がその支配下にあったという。
外部リンク
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