魏 (三国) [Cao Wei] [被リンク数: 479]

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(ぎ (Wei)、220年 - 265年)は中国三国時代華北を支配した王朝である。首都は洛陽曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。

歴史

後漢末期、黄巾の乱184年)が起きた後、皇帝の統制力は非常に弱まり、それに代わって台頭したのが曹操であった。曹操は献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れ、李傕呂布張繍などの勢力を滅ぼし、200年には官渡の戦い袁紹を打ち破って、中国北部を手中に収め、後漢の丞相となる。208年、曹操は劉備孫権を攻めるが、赤壁の戦いで大敗を喫した。その後、劉備が益州を制圧し、曹操・劉備・孫権の三者鼎立の様相を呈した。
213年、曹操は十州を持って魏公に封じられた。216年、さらに曹操は魏王に封じられた。当時、皇族以外には「王」の位を与えないという不文律があったのにもかかわらず、曹操が王位に就いたということは、すなわち簒奪への前段階であった。しかし曹操は存命中は皇帝位を奪わずにいた。
220年、曹操が死ぬとともに、曹操の子である曹丕が魏王と後漢の丞相の地位を継いだ。この年、曹丕は、後漢最後の皇帝の献帝から禅譲を受け、洛陽を都とし、魏の皇帝となった。翌年にの劉備も対抗して皇帝を名乗り、さらに229年にはの孫権も皇帝を名乗り、一人しか存在できないはずの皇帝が三人並ぶという異常事態になった。
文帝(曹丕)は九品官人法を実施し、中書省の設置など諸制度を整備して魏の体制を完全なものへと移行させた。
しかし、九品官人法の影響により、後漢から形成されてきた豪族層が貴族化し、官職の独占を行うようになった。この問題は魏の時代はまだ端緒が見えた程度であるが、後の西晋になってから深刻化した。
また、222年魏は3方向から呉を攻め、魏の曹休呂範を破り、魏の曹真夏侯尚張郃らが江陵を包囲攻撃し、孫盛諸葛瑾を破ったが、魏の曹仁朱桓に敗れ、疫病が流行したため退却した。
曹丕は226年に死去し、後を長男の曹叡(明帝)が継ぐ。227年、呉の孫権・諸葛瑾らが3方向から魏を攻めたが、司馬懿・曹休らに敗れた。228年孟達が蜀の諸葛亮と内応して魏に反乱を起こしたが、司馬懿に鎮圧された。同年、蜀の諸葛亮・趙雲が魏を攻めるが、曹叡が派遣した張郃・曹真に撃退された。同年、魏の曹休が呉を攻めるが、陸遜に大敗した。229年、諸葛亮は陳式を派遣して、魏の領土の武都・陰平を奪った。231年、諸葛亮が魏を攻め、張郃を射殺した。諸葛亮が死去した後、国家の脅威が去った安心で気が抜けてしまったのか、曹叡が宮殿造営や酒にのめり込んで国政が疎かになり、国は疲弊してしまった。238年司馬懿を派遣し、遼東で謀反を起こした公孫淵を滅ぼした。
238年(景初二年)に邪馬台国卑弥呼朝貢にやってきたことが『魏書東夷伝倭人条』いわゆる『魏志倭人伝』に記されている(魏志倭人伝中の景初二年は、公孫淵との戦闘の最中である事から、古くから239年(景初三年)の誤りではないかという説があり、これが学会の主流であるが、反対意見もある)。
曹叡は239年に早世し、その後を養子の曹芳が継ぎ、明帝は死去するに際して司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託した。244年には毌丘倹を派遣して、高句麗の首都を陥落させるなど武威を振るったが、内部では曹爽と司馬懿の対立が起こり、曹爽が司馬懿を排除して専権を振るった。司馬懿はこれに逆襲してクーデターを起こして権力を掌握し、曹芳は傀儡となった。
251年、司馬懿が死去し、子の司馬師が権力を引き継ぎいだ。252年、魏の諸葛誕胡遵が呉を攻めるが、諸葛恪に大敗した。曹芳は権力奪還を目論むが、事前に発覚して254年に廃位され斉王とされた。その後、曹髦が皇帝に擁立された。
255年、毋丘倹が反乱を起こしたが、司馬師に鎮圧された。同年、司馬師が死去し、その権力を弟の司馬昭が引き継いだ。同年、蜀の姜維が魏を攻め、王経に大勝した。256年、蜀の姜維が魏を攻めるが、鄧艾に大敗した。257年諸葛誕が反乱を起こしたが、258年、司馬昭に鎮圧された。当時、司馬昭の権力は強く、曹髦は全くの傀儡であった。260年、曹髦はこれに不満を抱き、側近数百名を引き連れて自殺的なクーデターを試みるが、賈充により殺された。その後に擁立されたのが曹操の孫にあたる曹奐であった。
263年、司馬昭は鄧艾鍾会を派遣して蜀を滅ぼした(蜀漢滅亡)。264年、鍾会が益州で反乱を起こし、混乱の中で鍾会・鄧艾が討たれた。
265年、司馬昭は死去した。同年、その権力を引き継いだ司馬炎により曹奐は禅譲を強要され、魏は滅びた。司馬炎は新たに西晋を建て、280年呉を征服し、三国時代を終わらせた。
この三国鼎立の時代は後に陳寿により『三国志』に纏められた。

魏の成立の年代について

厳密に言えば、曹丕が、禅譲を受けて皇帝になった220年を魏の成立とするべきである。しかしながら、曹操の存命中も曹操が皇帝のように君臨して万事を動かしていたのだから、曹操が権力を手に入れてからを魏王朝の成立と見ることもできる。その場合、次のような時期が事実上の魏王朝の成立と捉えられる。
  1. 200年、曹操軍、官渡の戦いに勝利して中国北部の覇権を獲得
  2. 207年、曹操、後漢の丞相となる
  3. 213年、曹操、魏公となる
  4. 216年、曹操、魏王となる
また、文学史的にいえば、後漢の建安年間(196年 - 220年)は曹操を中心とした文学サロンが形成され、新しい文学の形を作っていた(建安文学)。この建安文学の流れが、魏の時代のみならず、魏晋南北朝時代全体にわたって続いていく。それゆえに建安年間も魏の一時期と考えた方が、文学史的にはわかりやすいと言える。

魏の皇帝の一覧

  • 曹騰は、文帝によって、高帝と追号された。
  • 曹嵩は、文帝によって、太帝と追号された。

邪馬台国

魏志倭人伝によれば「倭人は帯方郡(現在の北朝鮮南西部にあたる地域)の東南、大海の中に在る。山島に依って国や邑(むら)を為している。旧(もと)は百余国あった。漢の時、朝見する者がいた。今は交流可能な国は三十国である。・・」などとある。 卑弥呼を女王とする邪馬台国はその中心とされ、三十国のうちの多く(二十国弱=対馬国から奴国まで)がその支配下にあったという。

外部リンク

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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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