右横手から時速140km/h前後のストレートと130km/h台、110km/h台、100km/h台の3種類の
シンカーを武器に、
セーブを重ね続けている。
2007年シーズン終了時点での
日本通算286セーブは歴代1位。また、
日米通算300セーブは
佐々木主浩に次いで史上2人目となる快挙である。
来歴
アマチュア時代
日本球界時代
- 入団当時は先発投手として活躍を期待されていた。特に目立った特徴の無いピッチャーだったが、プロ入り後、長い年月をかけてシンカーを熟成させ頭角を現す。
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1993年
5月2日 プロ入り初セーブを達成。この年抑え投手に転向し、20セーブをあげてヤクルトのリーグ優勝、日本一に貢献。
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1994年 プロ入り初のタイトル、最優秀救援投手を獲得。
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1997年 シーズン序盤の不調、伊藤智仁の復活と抑え転向によって中継ぎとして起用されるが、チームの日本一に貢献。
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1998年 年間を通じて不調でストッパーの座を失う。
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1999年 若松勉監督の就任とともに抑えに復帰、最優秀救援投手獲得。
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2001年 最優秀救援投手獲得、チームのリーグ優勝および日本一に大きく貢献。日本シリーズでは連続無失点。
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2003年 佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新。最優秀救援投手獲得。
メジャー時代
日本球界復帰
2005年秋、
古田敦也の東京ヤクルト監督就任が決定。入団テストを経て
2006年、3年ぶりにヤクルトに復帰した。シーズン当初は中継ぎを任されたが、
石井弘寿、
五十嵐亮太の「ロケットボーイズ」が故障離脱したため、
木田優夫と共にセットアップとクローザーを任され、高津は主に定位置だった抑えを務めた。
10月7日の対広島(
神宮)で日米通算300セーブを達成するなど、結局チーム最多の13セーブを記録した。なお、日米合計で通算300セーブを達成した日本人選手は
佐々木主浩に次いで史上2人目。
2007年もロケットボーイズの両名は、手術後のリハビリのため登板できない状態だったことから、高津は前年同様、抑えを任された。しかし
6月30日の対中日戦(
秋田)に登板したその夜、宿舎の
秋田市内のホテルで入浴中に足を滑らせて転倒し、爪先を負傷。腫れが引かないため急遽帰京して検査したところ、左足親指を剥離骨折しており全治3週間と診断され、戦線を離脱した。高津は「グラウンド外での負傷なので恥ずかしいし、悔しい」と反省を口にしたが、監督推薦が決まっていたオールスターゲームには何とか間に合い、第1戦(東京ドーム)の2回から2番手で登板、1回を三者凡退無失点に抑えて復帰を飾った。
しかし、夏場は制球が定まらず、救援失敗を繰り返した。結局8月半ばから再び二軍に降格となり、約1か月にわたっての調整を余儀なくされた。高津が離脱した間、クローザーは
館山昌平が務めていたため、復帰後は主に中継ぎで投げていたが、館山も不安定な投球が続いた事から併用する形で抑えに復帰。
10月4日、
鈴木健の引退試合として行われた対横浜戦(神宮)では、1失点でシーズン12セーブ目をマークした。その後もシーズン最終戦までセットアップとクローザーを務めたが、最終戦翌日の
10月10日になって、球団幹部から突如戦力外通告を受けた。
高津はシーズン終盤以降「フロントから、来季契約の話が無い」と不安を口にしていたが、その不安が的中した格好となった。また球団側がこの通告を発表した際、東京ヤクルト球団社長の鈴木正が「(実績のある選手だけに、お別れ登板などの配慮を行うべきだったのでは、という報道陣の問いに)それが配慮だとは思わない。現役を続けたければ、トライアウトを受ければいい」と心無い発言をした事がファンやメディアの間で物議を醸し、球団には約600件もの苦情が寄せられたことから、球団は鈴木名義で謝罪文を公開するなど事態収拾に追われた。なお、高津はこの一連の経緯について後日「“ひょっとしたら解雇かもしれない”という覚悟は少しだけですけど、していました」と語っている。
高津自身はこの時点で現役続行の意向を表明していたものの、12球団合同トライアウト(同年オフに2回実施)については「自分にもプライドがあるし、考えていない」と否定し、結局2回とも参加しなかった。また高津の地元である
広島東洋カープなど国内の複数球団が非公式ながら獲得に動いたとされたものの、結局いずれの球団も獲得を見送った。その後東京ヤクルトは
11月30日、高津を
自由契約選手として公示した。
二度目のメジャー挑戦
2008年
1月18日、
シカゴ・カブスと1年間のマイナー契約を締結。2月中旬の春季キャンプに招待選手として参加し、3年ぶりのメジャー復帰を目指した。しかし、オープン戦で登板した5試合のうち3試合で失点するなど計5失点という内容で、4回1/3を投げて0勝1敗、防御率9.64と結果を残せなかった。結局
3月11日(現地時間)の第二次カットに残ることができず、カブスを解雇(自由契約)された。高津は戦力外通告を受けた後「キャンプに入った時から、(内容が)悪かったら外されると思ってやってきた。去年ヤクルトをクビになって、嫌な(現役生活の)終わり方をしたくなかった」と話し、現役続行を表明。
韓国球界時代
2008年6月、韓国プロ野球球団の
ウリ・ヒーローズと契約金6万ドル、年俸12万ドルで契約。韓国プロ野球では
在日韓国人を除くと4人目の日本人選手となった。6月24日に初
登板、6月29日には
LG戦の8回途中からマウンドに立ち、1回2/3を無失点に抑え初セーブを挙げた。これにより日本プロ野球、米大リーグ、韓国プロ野球のすべてでセーブを挙げた初の投手となった。高津は「だから野球はやめられない」とコメントした。
この年は18試合に登板し、1勝0敗8セーブ・防御率0.86と優秀な成績だったが、チームが7位に低迷しセーブ数は少なかった。韓国プロ野球でシーズンを過ごす高津の様子は、2008年秋に
NHKの
スポーツ大陸で放映された。しかし
12月17日、外国人野手獲得の為ヒーローズを退団することになり、今後は韓国球界を含めて移籍先を模索する。
人物
- 100km/h台のシンカーは野村克也監督に「西武ライオンズの潮崎哲也のシンカーを盗め」と言われて完成させたもの。1992年、ヤクルトは日本シリーズで潮崎のシンカーに苦しめられた。その後秋期キャンプで臨時コーチだった山田久志にシンカーを伝授されたというのは有名な話だか、高津本人はとあるインタビューで「難しくて覚えられなかった」と答えている。なおシンカーには曲がりが大きいのと、球速が速いのと2種類あり、これを使い分けている。
- プロ野球の抑え投手と言えば佐々木主浩を筆頭として、150km/h級の剛速球とフォークボールを武器とする投手が大半であり、高津のように「打たせて取る」タイプの投手は異例である。しかしその抜群のコントロール、加えてバッテリーを組む古田敦也との絶妙なコンビネーションによって、球界屈指の抑え投手となった。「高津-古田のバッテリー」は、'90~'00年代初頭を代表する黄金バッテリーとして、現在でもプロ野球ファンの記憶に残る。古田の引退試合(2007年10月7日、広島東洋カープ戦)では9回表に登板し、古田が現役最後にバッテリーを組んだ投手となった。結果は緒方孝市を得意のシンカーで見逃し三振。
- プロ入り初セーブを上げた1993年5月2日、当時読売ジャイアンツ入団1年目の松井秀喜に、プロ入り第1号ホームランを献上した。これは野村監督が、スカウトが調べあげた松井秀喜の得意コースが本物であるか確かめるために、そこに球を放らせ続けたら見事にホームランを打たれた、というものであった。そのことから、高津の制球の良さがわかる。また、1996年のオールスター第2戦、イチロー登板に際して松井秀喜にかわる代打に送られたり、MLBデビューの最初の打者が松井秀喜(結果は二塁打)とちょっとした縁がある。
- 登板時、得点圏までランナーをためるが後続をしっかり抑えるピッチングスタイルは「高津劇場」と呼ばれた。
- TBSのニュース23のコーナー内では筑紫哲也ならぬ高津哲也で出演した事がある。
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日本シリーズでの通算8セーブ、10SPは日本記録である。また、日本シリーズでは通算11試合に登板して、1点も許していない。当然、防御率も0.00である。このためメジャーリーグに移籍した際は『Mr. Zero』と呼ばれた。
- 上記のようなピッチングスタイルから、ホワイトソックス時代には、USセルラーフィールドに「イッツ・シンゴタイム!」の表示がともった。しかしアメリカ人には「シンゴ」の発音は難しかったらしく、日本人には「イッツ『チンゴ』タイム」としか聞こえなかったようである。
- シンカーの速度がアメリカの他の選手の投げるものより数段遅いため、解説者からはチェンジアップと呼ばれていた。日本では投球のほとんどがストレートとシンカーのみであったが、メジャーではカーブも投げるようになった。
- シーズン途中で解雇されたものの、その後ホワイトソックスがワールドシリーズを制したため、チャンピオンリングを入手している。
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2005年
12月5日放送(大阪)の「クイズ!紳助くん」にてゲスト解答者として出演。このときは「プー(太郎)です」(現在どこの球団とも契約していない、という意味)と語っていた。
- プロ野球選手をタレント的に扱った最初の雑誌『プロ野球ai』(1991年~)創刊時に一番人気があった選手だった。人柄の良さと喋りの上手さ、面白キャラが受けて人気投票ではたいてい1位だった。
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カラオケの十八番はクリスタルキングの「大都会」。オフのプロ野球選手が登場する番組でも、クリスタルキングのムッシュ吉崎のパートをものまねで歌っている。野球界では岩本勉(引退)、佐伯貴弘と並ぶ「芸達者」として知られる。
- 選手名鑑の「趣味・特技」欄には、「マッチを使った手品はプロ級、将棋は初心者」と10年以上変わらずに掲載されている。
年度別投手成績
- AAA通算(2005年) 7試合 0勝1敗0S 7 2/3投球回 6奪三振 防御率3.375
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太字はリーグトップ。<span
style="color:red">赤字は歴代トップ。
タイトル・表彰
記録
- 2002年4月28日 通算200セーブ(史上2人目)達成
- 2003年6月20日 270セーブポイント(日本記録)達成
- 2003年12月 名球会入り
- 2006年10月7日 日米通算300セーブ(史上2人目)達成。(1位は佐々木主浩)
- 2006年10月7日 通算273セーブ(日本記録)達成。
背番号
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22(1990年 - 2003年) ヤクルトスワローズ
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10(2004年 - 2005年途中) シカゴ・ホワイトソックス
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18(2005年途中) ノーフォーク・タイズ(ニューヨーク・メッツAAA)
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10(2005年途中 - 末) ニューヨーク・メッツ
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11(2006年) 東京ヤクルトスワローズ
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22(2007年) 東京ヤクルトスワローズ
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33(2008年) ウリ・ヒーローズ/ヒーローズ
著書
- 『ナンバー2の男』(2004年、ぴあ)ISBN 4835609301
関連項目
外部リンク