雲仙岳 [Mount Unzen] [被リンク数: 72]

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雲仙岳うんぜんだけ)は、長崎県島原半島中央部にある火山。広義では普賢岳、国見岳、妙見岳の三峰、野岳、九千部岳、矢岳、高岩山、絹笠山の五岳からなる山体の総称。「三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれる。行政区分では島原市南島原市雲仙市にまたがる。狭義ではいわゆる「三峰五岳」のうちの「三峰」を指すこともある。

概要

主峰は普賢岳(ふげんだけ)で、標高は1,359mである。現在では、からにかけての火山活動で形成された平成新山(へいせいしんざん)の方が高く1,482.7mとなっている。この平成新山は長崎県で最も高い山となっている。
古くは『肥前国風土記』で「高来峰」と呼ばれているのがこの山であり、温泉についての記述がある。雲仙はもとは「温泉」と表記され「うんぜん」と読ませていたが、国立公園指定の際に現在の表記に改められた。701年(大宝元年)に行基が大乗院満明寺を開いたことが伝えられている。この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」である。以後、雲仙では霊山として山岳信仰(修験道)が栄えた。
また、行基は同時に四面宮(温泉神社)を開いたといわれている。祭神は、『古事記』にて筑紫島をあらわす一身四面の神である。この神社は上古には温泉神社、中古には四面宮と称されていたが、1869年(明治2年)の神社改正により筑紫国魂神社と改称され、の県社昇格に際して温泉神社に戻した。島原半島中に10数の分社がある。
雲仙温泉としては、1653年(承応2年)に加藤善右衛門が開湯した延暦湯が始まりといわれている。水蒸気が噴出して硫黄(実際は硫化水素)の臭いがたちこめる光景が「地獄」と形容される。キリシタン弾圧の舞台にもなった。
天気のいい日には、佐賀県南部、福岡県筑後地方熊本県西部などの見通しのいい場所でその姿を眺めることができる。

最高峰の平成新山(1,483m)を中心に、周囲に、普賢岳(1,359m)、国見岳(1,347m)、妙見岳(1,333m)、野岳(1,142m)、九千部岳(1,062m)が存在する。

平成新山の噴火と災害

噴火活動

現在の平成新山を形成した噴火活動は、の橘湾群発地震より開始された。に噴火し、それ以降噴煙活動が観測された。最初の噴火は大規模なものではなく、12月には小康状態になって道路の通行止めなども解除になり、そのまま終息するかと思われたが、に再噴火、さらに4月3日、4月9日と噴火の規模を拡大していった。5月15日には降り積もった火山灰などによる最初の土石流が発生、さらに噴火口西側に多数の東西方向に延びる亀裂が入り、マグマの上昇が予想された。5月20日に地獄跡火口から溶岩の噴出が確認されたが,粘性が高かったため火口周辺に溶岩ドームが形成された。翌21日には崩壊が始まったことが確認され、事態は一気に深刻化した。溶岩ドームの崩壊は、新しく供給されるマグマに押し出されたドームが斜面に崩落することにより発生し、破片が火山ガスとともに山体を時速100kmものスピードで流れ下る火砕流(メラピ型火砕流)と呼ばれる現象を引き起こした。噴火活動は途中一時的な休止をはさみつつごろまで継続した。火砕流が世界で初めて鮮明な映像として継続的に記録された火山としても有名である(過去には、プレー山などの火砕流が写真としては多く記録されており、小規模なものの映像も撮影されている)。

災害の様態

噴火活動は島原半島、特に島原市深江町に大きな被害をもたらした。被害をもたらす主たる要因は火砕流と堆積した火山灰による土石流であり、これらが流れ下るコースに当たる水無川および島原市の千本木地区が大きな被害を受けた。また、火山活動中島原大変肥後迷惑の原因となった眉山の山体崩壊が懸念されたが、今回の噴火活動では眉山が火砕流から島原市中心部を守る形となった。
特に大規模な人的被害をもたらしたのはの火砕流であり、取材に当たっていた報道関係者16名(アルバイト学生含む)、火山学者(クラフト夫妻と案内役)3名、警戒に当たっていた消防団員12名、報道関係者に同行したタクシー運転手4名、警察官2名、選挙ポスター掲示板撤去作業中の職員2名、農作業中の住民4名の合わせて死者行方不明者43名と多数の負傷者を出す大惨事となった。 なお、火砕流で殉職した日本テレビのカメラマンが撮影していた映像が2005年6月になって発見・修復され、火砕流が襲来する直前までの記者や警官らの姿や音声が記録されていた。この映像は、同年10月16日に「NNNドキュメント'05 解かれた封印 雲仙大火砕流378秒の遺言」として放送された。
この火砕流以降、島原市など地元自治体は強制力を伴う警戒区域を設定し最大11,000人が避難生活を余儀なくされたが、以降の犠牲者は1名に抑えられている。被災地域では噴火活動の終息に伴い堤防や地面のかさ上げ工事を実施し一部地域を除いて住民が再び住める環境が整えられた。

防災活動

前兆現象が観測されていたため事前に対策会議が開かれており関係機関の関係はおおむね良好であった、特に長崎県島原市、島原に観測所を持つ九州大学と被災者救助のために派遣された陸上自衛隊(第16普通科連隊など)との関係はきわめて緊密であった。報道、学術、防災機関のすべてが火砕流で犠牲になったため、当時唯一火山近傍で行動できる能力を保有していた自衛隊への期待は高く、自衛隊も救援活動のため九州大学などの指導を受けつつ協同で火山観測を行い、その成果を関係機関及び地元住民への24時間のリアルタイムな情報提供したことで、民心の安定と復旧作業の進展および火山研究に大きく貢献した。自衛隊は火山観測と地元に対する支援のシンボルとして以降まで1,653日間(史上最長)にもわたり災害派遣を継続した。

報道について

被害の背景には当初発生した小規模の火砕流が衝撃的だったことから取材競争が過熱し、十分な知識を持たない報道関係者が、取材のため「定点」と呼ばれた山と火砕流を正面から望める地点に入ったことがある。これにより報道関係者は消防・警察も立ち入らない危険地帯に多く滞在することとなった。また報道関係者は避難して無人となった人家に侵入するなどトラブルを起こし、6月1日にはテレビ局の取材班による盗電も発生していたため、消防団員、警察官が引きずり込まれる形で被災地域に出動せざるを得なかったとされる。結果的に火砕流は報道陣の想像を超え、「定点」を飲み込んで犠牲者を出した。
この経緯に対し、消防団、警察官ならびに報道関係者にチャーターされたタクシー運転手は、報道関係者のせいで犠牲になった被害者だとする批判が強まった。ただし大火砕流の発生当時は、被災地域は拘束力のない避難勧告地域に指定されたのみで、住民も立ち入ることが可能であり、実際に畑仕事や所用、市の公務で立ち入っていた住民にも死傷者が出ていて、報道関係者がいなければ消防団員や警察官の被害が無かったというわけではない。住民からはむしろ、強い避難措置を打ち出さなかったことが被害の拡大を招いたという、行政に対する批判も強かった。
犠牲者発生以降はこの反省も踏まえ、6月7日に災害対策基本法に基づく警戒区域が設定され、無許可の立ち入りが禁止された。これ以降は報道関係者が警戒区域内に入ることはほとんど無かったが、その後も自衛隊の情報独占に不満があると主張するジャーナリストらが許可なく警戒区域内に侵入し書類送検される事例もあり、報道のあり方が問われる事件となった。

歴史

雲仙岳の防災

山頂付近になお不安定土砂(火砕流堆積物)が多数存在しており、豪雨時には土石流となり下流の集落、国道などへ流下してくることから、山麓では治山砂防事業によるダムの設置、緑化工事、導流堤の設置など、大規模な防災施設の設置が進められている。

関連項目

参考文献

外部リンク

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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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