球団の歴史
誕生
1931年、
読売新聞社社長の
正力松太郎が中心となって
アメリカメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、全日本軍や六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力は再度のメジャーリーグ選抜軍の招待、特に前回かなわなかった
ベーブ・ルースの招聘を目論んだが、そこに1つの問題が発生した。
1932年に
文部省(当時)が発令した
野球統制訓令である。当時の日本は大学野球全盛であったがこの統制令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった。
市岡忠男、
浅沼誉夫、
三宅大輔、
鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果
1934年6月9日、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ
6月11日には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として
6月6日付で
三原脩、第2号選手として
6月15日付で
苅田久徳を獲得するなどチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった。
1934年
10月15日、
千葉県の谷津海岸に新設された
谷津球場に30名の選手が集まりチームは結成され
11月2日、横浜にメジャーリーグ選抜軍が来日し全日本軍と全国で親善試合興行を行った。試合は全日本軍の15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合)で試合内容も圧倒的だったものの、
ベーブ・ルース、
ルー・ゲーリッグらを擁した全米軍は読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が
草薙球場にある
沢村栄治像と
ベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。
12月26日に全日本軍の選手を中心にした選手19名で
株式会社大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。
1935年
1月14日から
2月3日まで草薙球場で練習を重ね、
2月14日第1次アメリカ遠征に出発する。この時「大日本東京野球倶楽部」ではチーム名として長すぎる事からアメリカで一般的であったチームのニックネームをつけることが提案され、チーム名を「東京ジャイアンツ」とした。そして帰国後、
1936年に
東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)へ正式改称する。これが巨人軍の始まりである。この第1次遠征ではマイナーリーグクラスのチームを相手に128日間で109試合を行い、
田部武雄が105盗塁を記録するなど善戦し、対戦成績は75勝33敗1分であった。
7月16日に帰国し
9月6日からは国内各地を転戦する。これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。結成当初の対外試合も参照のこと。
1936年2月14日、第2次アメリカ遠征に出発。直前の
2月9日から「巨人軍渡米送別試合兼金鯱軍結成記念試合」として
名古屋金鯱軍と3試合を行う。これが現在のプロ野球組織に属する球団同士が行った初めての試合である。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分であった。
戦前期
1936年には正力の働きかけもあって国内には巨人も含めて7チームの職業野球団が結成され、「日本職業野球連盟」も結成されていた。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人は上記のアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、
9月5日より
群馬県館林市の
茂林寺・分福球場で緊急
キャンプを張った。この時の猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。1936年の秋季大会は6回の小規模リーグ戦の勝ち点制で開催され5回目のリーグ戦までリードしていたが6回目のリーグ戦で
大阪タイガースに並ばれる。
洲崎球場で3戦制の優勝決定戦を行い、2勝1敗でタイガースを下し公式戦初優勝球団に輝いた。
1937年9月11日には後楽園球場が開場、以来実質的な本拠地として使用する。
1939年には2度のマニラ遠征を行った。これ以降、戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度の
ノーヒットノーランを達成した沢村、42勝をあげた
スタルヒン、2度のノーヒットノーランを達成した
中尾碩志、連続無失点記録62回、シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した
藤本英雄、職業野球契約選手第一号であった
三原脩、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王(
1965年にプロ野球実行委員会で認定)を記録した
中島治康らを擁して
第1次黄金時代を築いた。この間プロ野球においても
太平洋戦争による影響は避けがたく、
召集によって中心選手の離脱も相次いだほか、
1940年9月13日にはユニフォームのマークが「G」から「巨」に改められるなど巨人にもその影響は及んだ。遂には
1944年11月10日に野球試合不可能として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。
11月13日には国の指導により日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野球は終わった。
なお、1937年と1938年には2リーグ制導入以後スタートした今日の
日本シリーズに相当する年間総合優勝決定戦(7戦4勝制)が行われ、この時は春と秋のリーグ戦がおのおの独立したシーズンと見なされているので、1937年春と1938年秋のリーグ優勝は通算のリーグ優勝として回数にカウントされている。ただし2年とも年間総合優勝決定戦で大阪タイガースに敗れたため日本一は逃している。
戦後期
1946年のリーグ戦再開より参加。
1947年には読売新聞社が経営に当たる事となり、球団名を
東京読売巨人軍に改称、ニックネームを
読売ジャイアンツとする。
南海ホークスの台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、監督・
三原脩や「
赤バット」の
川上哲治、
千葉茂、
青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰、また
1948年オフには南海の
別所毅彦を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の
1949年には戦後初優勝を飾った。1947年
6月23日に
黒沢俊夫が死去、戦死した沢村とともにその背番号は日本プロ野球界初の永久欠番となった。
2リーグ分立
水原監督時代
1950年に復帰した
水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目の同年こそ優勝を逃すものの、翌
1951年からは同年に獲得した
与那嶺要の活躍もあってリーグ3連覇、日本シリーズでは1リーグ時代からの宿敵南海を3年連続で降し
日本シリーズ3連覇を達成。
第2次黄金時代を築き上げた。
1952年8月8日、広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の
公式戦通算1000勝を達成。1000勝時点の通算成績は1000勝518敗38分、勝率.659。
1953年には初めての海外キャンプをサンタマリアで行う、この年は開幕から一度も2位に転落することなく優勝、シーズンを通しての1位独走優勝は球団史上唯一の記録である。
1954年は
杉下茂擁する中日ドラゴンズに優勝を奪われ2位となるが、
1955年にはリーグ優勝。日本シリーズでは南海ホークスとの対戦となり、1勝3敗からの3連勝して逆転日本一を達成する。この頃から第2期黄金時代を支えた千葉茂、川上哲治らに衰えが目立ち始め、水原は新旧交代をしなければならなくなった。
翌
1956年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは水原と入れ替わりに巨人を退団した三原脩監督率いる
西鉄ライオンズとの対決となる。以後3年連続して日本シリーズで対決となり、両者の戦いは「巌流島の決戦」とマスコミに喧伝された。いずれもライオンズに軍配が上がり、特に1958年の日本シリーズでは、第1戦から3連勝するも、第4戦から稲尾和久の力投などで4連敗を喫する。1959年もリーグ優勝は果たすが、日本シリーズでは
南海ホークスの杉浦の力投の前にストレートの4連敗を喫する。
そして
1960年は、三原が当時6年連続で最下位だった
大洋ホエールズ監督に就任し、再び「巌流島の対決」と呼ばれる。大洋は三原の手腕によって巨人と優勝争いを演じ、ついに巨人を破ってリーグ優勝し、巨人は2位に終わった。シーズン終了後水原監督は勇退した。この間、1958年に
長嶋茂雄、1959年に
王貞治がともに大きな期待を背負って入団。長嶋は1年目から本塁打・打点の二冠、打率2位と活躍した。
1959年
6月25日の阪神11回戦はプロ野球史上初めての
天覧試合となった。この試合で王・長嶋がはじめて二人とも
ホームランを打ち(ONアベック弾第1号)長嶋のこの日2本目となるサヨナラホームランで勝利を収めた。
川上監督時代
1961年、
川上哲治がヘッドコーチから昇格して監督に就任する。就任1年目ながら打率と本塁打の二冠を獲得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに日本一を達成。しかし
1962年にはこの年から
一本足打法を始めた王が本塁打王と打点王を獲得したが、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって混戦のセ・リーグで勝率.515ながら4位、2リーグ分裂後初めてのBクラスに終わる。
1963年には長嶋の復活と前年は2名に留まった二桁勝利投手を5名出すなど投手陣が安定してリーグ優勝、日本シリーズではそれまで勝つことのできなかった西鉄を初めて破り日本一になる。
1963年には王と長嶋で打撃三部門だけでなく打点と本塁打の2位までをも占め、
1964年は王がシーズン記録となる55本塁打を記録するものの、3位に終わる。この頃から巨人の3・4番に固定された(両名の打順は流動的だった)王と長嶋は
ON砲と呼ばれ、実力・人気ともに特別な存在となっていた。また
牧野茂、
荒川博ら他球団出身のコーチが招かれ、
1965年には
金田正一が国鉄から
10年選手制度を利用して移籍するなど1965年からの日本シリーズ9連覇へと続く素地が作られていく。
9年連続日本一
1965年から
1973年までは日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的に
V9(ブイナイン)と呼ばれる。この記録に次ぐ日本シリーズ連覇は巨人(1951年から)・西鉄(1956年から)・阪急(1975年から)・西武(1986年からと1990年から)の3連覇であり、他球団の追随を許さない大記録となっている。
1965年
7月25日、中日11回戦の勝利で
公式戦通算2000勝を達成、勝利投手は
宮田征典、勝ち越した後の8.9回を
リリーフしての勝利でありこの年に巨人首脳陣が時代に先駆けて行った投手分業制に従事した中であげた1勝だった。これ以来、宮田は
8時半の男として一躍注目を集めることとなる。
この間、巨人はカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、俗に当時の子供が好きなものとして「
巨人、大鵬、卵焼き」と並び称せられた。また、同時期に連載が開始した漫画『
巨人の星』も人気を集め、プロ野球選手、特に巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。
V9時代後半は長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、前半よりも苦戦することが多くなった。そして
1974年、中日に20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逸す。この年を最後に川上監督が勇退、同時に長嶋・黒江・森も現役を引退した。OBの
広岡達朗曰く、「V9時代途中あたりから、歯の浮くようなおべんちゃらを言うだけで、指導者の職責を果たしているといえるコーチがいなくなっていった。この頃から、選手を育てる、という方針はなくなりつつあった」とある。この後、巨人が連覇を果たす機会は少なくなっていく。
第1次長嶋監督時代
1975年、前年に引退した
長嶋茂雄が監督に就任。「クリーン・ベースボール」のキャッチフレーズを挙げたが自身の穴を埋められず、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することが出来ず、球団史上初の最下位を経験。全球団に負け越した上に9月には11連敗という球団史上最悪の連敗を喫し、
10月15日には広島の胴上げを本拠地・後楽園で許した。その年のオフに日本ハムから
張本勲、太平洋から
加藤初をトレードで補強、翌
1976年には前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす(同一監督での最下位となった翌年の優勝は史上初)。しかし、
日本シリーズでは
上田利治監督率いる阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れる。
1977年は
王貞治が通算本塁打数の世界新記録を樹立。チームも独走状態で2年連続でリーグ優勝を果たすが、
日本シリーズでは阪急に1勝4敗で敗れた。
1978年は
広岡達朗率いるヤクルトと優勝争いを繰り広げる。8月末に2位のヤクルトに4・5ゲーム差をつけ優勝は堅いと見られていたが、9月以降成績が急降下して、ヤクルトの前に屈した。このときの戦いぶりから長嶋茂雄に対して監督としての資質に、次第に疑問が投げかけられてゆくようになる。
そして1978年オフ、当時
法政大学の
江川卓の獲得を巡って、いわゆる
江川事件が起きる。最終的には
1979年3月に、江川がいったん
阪神タイガースに入団し、その直後に
小林繁と交換トレードをする事で決着がつく。だが、この江川事件はマスコミの総攻撃を受けることになった。
1979年は5月まで首位に立ったものの、6月以降は成績が次第に降下していき、Bクラス5位に終わる。一方で中畑清が3塁のレギュラーを獲得するなど若手の台頭も若干見られるようになる。同年オフに、青田昇がヘッドコーチに就任し、伊東での秋季キャンプでは松本(匡)、中畑、江川、西本、角らを猛練習で特訓した。後に「伊東キャンプ」として語られていく。
1980年は開幕早々ペナントレースから脱落し、長嶋に対する批判はこれまでにないほど高まっていった。シーズン後半から若手を起用して5割Aクラスを確保した。しかしながら、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸であり、10月21日長嶋はチームの不振の責任を取って「男のケジメ」という言葉を残し辞任する。当日スポーツニッポンが「長島解任」とスクープ報道したように、読売新聞の幹部により事実上の解任だった。この動きに対してファンは激怒し、
読売新聞・
報知新聞(
スポーツ報知)の購読打ち切りを行うファンが続出した。。
王も現役を引退、巨人一筋22年の現役生活にピリオドを打った。
TVアニメ「新巨人の星」の舞台になっている。
藤田・王監督時代
第1次藤田監督時代
1981年、
藤田元司が監督に就任。藤田元司監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチによる「
トロイカ体制」が誕生。
江川卓、
西本聖、
定岡正二、加藤初ら先発4本柱で投手王国を形成し(江川20勝・西本18勝・定岡11勝・加藤12勝)、4年ぶりのリーグ制覇、
日本シリーズで8年ぶりの日本一を達成する。なお、この年、江川は史上5人目の投手5冠王(
最優秀防御率、
最多勝、最多勝率、最多奪三振、最多完封)、西本は沢村賞、
角三男が
最優秀救援投手を獲得するなど、投手タイトル独占を達成、藤田監督の投手中心の守りの野球の成果が十分に発揮された。打者も
ルーキーの
原辰徳が新人王を獲得、
篠塚利夫が3割5分7厘の高打率をマークして阪神・
藤田平と首位打者争いをするなど若手の台頭が目立った。
1982年にも0.5ゲーム差の2位となっている(大洋・
長崎と中日・
田尾の首位打者争いのために中日対大洋の最終戦が捨てゲームになったことは物議をかもした)。
1983年にも、
松本匡史が盗塁王(このときの盗塁76はセリーグ記録)、原辰徳が打点王(103打点)を獲得するなどしてリーグ優勝するが、
日本シリーズでは西武との激闘の末、3勝4敗で敗れる。このときの日本シリーズは、サヨナラ勝ちが3度あり、日本シリーズ屈指の名勝負と言われている。なお、テレビのプロ野球中継で現在までで最も視聴率が高かったのは第一次藤田監督時代(平均視聴率25.5%)だった。
王監督時代
第2次藤田監督時代
1989年、藤田元司が監督に復帰。
斎藤雅樹(20勝・防御率1.62)、
桑田真澄(17勝・防御率2.60)、
槇原寛己(12勝・防御率1.79)と三本柱を中心に投手王国を形成し、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成する。、
1989年の日本シリーズでは近鉄に3連敗から4連勝し、逆転で17回目の日本一に輝く。第3戦、近鉄の
加藤哲郎が「シーズン中より楽に投げられました」と述べた主旨のヒーローインタビューとその後にインタビュアーの「ロッテ(その年のパ・リーグ最下位)よりも(迫力がなかった)?」との質問に、加藤が「そうですね」と答えたことから「巨人はロッテよりも弱い」と報道され、原・駒田ら巨人の選手たちはこの大逆転についてこの報道が奮起となったと述べている。
1990年、2年連続20勝した斎藤を筆頭に桑田・
宮本和知(各14勝)、
木田優夫(12勝)、
香田勲男(11勝)と5人が二桁勝利を挙げ、完投数が70(130試合中)という先発投手中心のチームでペナントをリードし、吉村のプロ野球史上初となるサヨナラ優勝決定ホームランにより史上最速で2位
広島とのゲーム差が22という圧倒的な強さで2年連続のリーグ優勝を果たす。しかし、雪辱を期して望んだ西武相手の
日本シリーズでは、一転して先発投手陣が崩壊、攻守共に精彩を欠き0勝4敗で惨敗し、雪辱は成らなかった。
1991年は、投手陣の不調と打撃不振が響き、1979年以来12年ぶりのBクラス(4位)。シーズン終了後、
近藤ヘッドコーチ・
松原打撃コーチが、不振の責任を取る形で退団した。
1992年は序盤の不調が響き、5月には最下位に転落するが、
大久保博元と
ロイド・モスビーの加入、
石毛博史が
リリーフエースとして頭角を現したこと等により、前半戦が終了する頃には首位に躍り出た。しかし、8月に入ると急激に失速し、終盤のヤクルト・阪神・広島との接戦の結果、最終的に2位となるも2年連続のV逸が決定。この年限りで藤田監督は勇退。後任には
「監督浪人」中であった長嶋茂雄氏が13年ぶりに復帰。
第2次長嶋監督時代
1993年、長嶋監督が復帰、背番号は現役時代自らが付けていた「3」を2つ掛け合わせた「33」。同年の
ドラフト会議で注目されていた
松井秀喜の交渉権を阪神・中日・ダイエーとの競合の末獲得。この松井がこの後、1990年代から2000年代前期にかけてのチームの顔としても、打撃の中心としても、精神的支柱としても果たした。また、現役大リーガーの
ジェシー・バーフィールドやヤクルトから
長嶋一茂を獲得して3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振から3位に終わった。オフに、この年から導入された
フリーエージェント(FA)制度によりFA宣言をした中日の
落合博満を獲得する。ポジションが重複し、出場機会を奪われる事に危機感を持った
駒田徳広が同様にFA宣言を行って横浜へ移籍する。その横浜からは自由契約になった
屋鋪要を獲得した。
1994年、前半は投打ともに他のチームを圧倒したが、終盤最大10ゲーム差をつけていた2位中日に追いつかれ、シーズン最終戦(
10月8日の対中日戦(
ナゴヤ球場)、いわゆる「
10.8決戦」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は日本全国の注目を集め、各マスコミでも大きく報道。長嶋監督は「
国民的行事」と称した。その試合を
槙原寛己、
斎藤雅樹、
桑田真澄の当時のエース「
三本柱」の継投で、リーグ優勝を達成。
1994年の日本シリーズでは、4勝2敗で西武を破り18回目の日本一に輝く。
1996年、シーズン中に補強した
マリオ・ブリトーや松井の活躍等で、リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝を成し遂げた。前年の雪辱を果たしたことから、「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。
1996年の日本シリーズではオリックスに3連敗から1勝した時点で「メークドラマ再び」と期待されたが、第5戦に敗れた。
1997年に西武から
清原和博がFA権を行使して入団。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強力な長距離コンビ、「
MK砲」として期待された。この際、清原に押し出されるように落合が「長嶋監督を悩ませることはできない」と異例の会見を開いて日本ハムに移籍。ロッテを自由契約となった
エリック・ヒルマンを獲得したが、ヒルマンを含め主力選手に故障者が続出し夏場まで最下位に沈むなど大苦戦。最終的には4位でシーズンを終了。同年オフにはドラフト1順目で
高橋由伸が入団。
1998年は前半は横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ち頭
趙成珉がオールスターゲームで右肘を故障。さらに
バルビーノ・ガルベスの危険球退場でチームから離脱するなどアクシデントが響き3位に終わる。同年オフにはドラフトで
上原浩治、
二岡智宏が入団。
1999年、
村田真一や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、20勝を上げた上原や途中獲得した
ドミンゴ・マルティネスの活躍もあり2位に終わる。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍。
2000年は、FA宣言をしていたダイエーの
工藤公康と広島の
江藤智、さらに阪神の
ダレル・メイを獲得。長嶋監督は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松井が4番として定着、5番にマルティネス・清原、6番に高橋を擁した打線はシーズンで投打ともに圧倒して2位中日に8ゲーム差をつけてリーグ優勝。
9月24日の優勝決定戦では、0-4で迎えた9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡がサヨナラ本塁打を放ち優勝を決めた。
日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9時代の主軸を担った
王貞治が1995年から率いるダイエーで、「
ON監督対決」として全国的に大いに盛り上がった。シリーズは、序盤こそ2連敗からのスタートだったが、その後一気に4連勝し本拠地東京ドームで19回目の日本一を達成した。
2001年は正捕手候補として
阿部慎之助が入団。シーズン終盤までヤクルトと優勝を争い2位に終わる。同年限りで長嶋監督は勇退し、
終身名誉監督に就任した。それと同時に三本柱の
槙原寛己、
斎藤雅樹両投手そして三本柱を支えた
村田真一捕手が引退した。監督の後任は、原ヘッドコーチ。
第1次原・堀内監督時代
2003年、松井に代わる大砲としてヤクルトから
ロベルト・ペタジーニを獲得。原監督は守備位置の問題を解決できず、鹿取コーチは一任されていた投手陣を整備できず3位に終わった。シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神に15.5ゲーム差をつけられた。そして
9月26日、原監督は責任を取り辞任した。辞任をするにあたってのセレモニーも行われなかった。辞任に関して、人気のある原監督と
渡邉恒雄オーナー(当時)との確執がマスメディアに報じられ、それに失望した巨人ファンが離れる要因となり、この混乱が原因で
川相昌弘がコーチ就任要請を辞退して中日に移籍した。
2004年からはV9時代のエース
堀内恒夫が監督に就任。生え抜きの
高橋由伸らに加え、前年までで近鉄との契約が終わった
タフィ・ローズ、ダイエーから膝の靭帯を断裂した後出場のなかった
小久保裕紀を獲得した。かねてより所属する
清原和博、ペタジーニ、
江藤智などのさまざまな球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという超重量打線となった。長嶋終身名誉監督に「
史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録(それまでのプロ野球最高記録は
1980年の近鉄の239本、セ・リーグ最高記録は
1985年の阪神の219本であった)を樹立。しかし、防御率の低下により成績は前年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発した
プロ野球再編問題では、球団スカウトが行った
明治大学・
一場靖弘投手への不正な金銭授受の責任を取り
渡邉恒雄がオーナー職を辞任した。
2005年、ポジション争いをやめさせ、打順を固定する事により1年を戦う打線として「
不動明王打線」と名付けたが、
高橋由伸、
二岡智宏らが軒並み故障。この年から始まった「
セ・パ交流戦」では4位(セ・リーグでは阪神に次いで2位)と好調だったものの、8年ぶりにBクラスの5位に終わった。また、原監督辞任騒動から巨人人気が一気に下降した影響により、観客動員数の減少やテレビ視聴率の低下が起こった。そのため親会社の
日本テレビでも巨人戦中継の延長が中止されたりその他の放送局でも延長時間の短縮・中止や深夜枠での録画・ダイジェスト版放送に差し替えが起きた。この低迷によって2005年シーズン中から
ストーブリーグを見越した活動が表面化し、成績不振と怪我の重なったローズや清原が8月頃からチーム編成からはずれ、また初の他球団出身監督として阪神の
星野仙一シニアディレクターの名前があがった。星野招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩すことに一部OBやファンが反発。星野は
9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した。
10月5日、堀内監督は成績不振の責任を取って任期を1年残し退任し、翌年からの新監督として原辰徳が2年ぶりに復帰することを正式に発表した。
第2次原監督時代
第1次では同じ時期に巨人で現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに
近藤昭仁、守備走塁コーチに
篠塚和典が復帰。投手コーチに
尾花高夫を招聘、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・
内田順三が復帰した。選手補強も積極的に行った。投手陣ではオリックスを自由契約となった
ジェレミー・パウエル、FA宣言した
豊田清(西武)、
野口茂樹(中日)を獲得した。野手ではロッテの
李承燁を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した
小坂誠(同)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に構想から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。
2006年はチーム方針として2005年に
ワールドシリーズを制した
シカゴ・ホワイトソックスばりの「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初のベストメンバーを組めていた時期には首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して西武を自由契約となり米国挑戦したものの契約を結べず帰国していた
小関竜也を入団テストを経て獲得、広島の
木村拓也を交換トレードで獲得、前年阪神を解雇されたもののメキシカンリーグで好成績を収めていた
ジョージ・アリアスを獲得するなど建て直しを図ったが、結果として最も戦力不足に悩まされた6 - 7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫し、一時は最下位にまで転落した。最終的にチーム防御率は1点以上の改善があったものの野手陣の不調で4位に終わり、いずれも球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。
この結果を重く見た球団はさらなる改革に着手した。首脳陣ではまず走塁面の強化に西武黄金期に三塁コーチャーとして活躍した
伊原春樹を野手総合コーチとして招聘。篠塚守備走塁コーチを打撃コーチへ配置転換、
伊勢孝夫スコアラーを打撃コーチ補佐として現場復帰させた。なお近藤ヘッドコーチが退任し、総括ディレクターに就任、それに伴って開幕直前に伊原がヘッドコーチを兼任することとなった。選手では
仁志敏久を交換トレードで横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに移籍したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの
大道典嘉を無償トレードで、オリックスの
谷佳知を交換トレードで、日本ハムの
小笠原道大をFAで、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜の
門倉健も加入する。一方門倉の加入に伴って補償選手として工藤を放出することとなり、逆にソフトバンクから小久保の補償選手として
吉武真太郎を獲得した。
2007年
5月2日に行われた
ナゴヤドームの中日5回戦でプロ野球史上初めてとなる球団通算
5000勝を達成した。また2軍も
5月29日のヤクルト戦で
イースタンリーグ史上初の通算
2000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた
高橋由伸を1番に、怪我で出遅れていた
上原浩治を先発からストッパーとして起用するなどの大胆な配置転換を行った。これが成功し、前年のような大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった
交流戦も2位でクリア。そして
9月23日の横浜戦に勝利し、この年から導入された
クライマックスシリーズの出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデットヒートの末、優勝マジックナンバーが1となってむかえた
10月2日のヤクルト戦、9回裏二死満塁から、
清水隆行の遊撃内野安打と、直後の
宮本慎也の一塁悪送球の間に二塁走者が生還し、サヨナラ勝ちで5年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、同年より導入された
クライマックスシリーズ第2ステージで、第1ステージで阪神を2連勝で破った中日に0勝3敗でストレート負けを喫し、最初の「
リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となってしまった(パ・リーグはリーグ優勝の日本ハムが進出している)。このため恒例の
銀座での優勝パレードも中止となった(巨人はこれまでリーグ優勝しても日本一になれなかった場合は優勝パレードを行ってこなかったが、日本シリーズ不出場による優勝パレード中止はもちろんこれが初である)。また、2軍も
9月21日のヤクルト戦に勝利しイースタンリーグ優勝を飾ったが、
9月29日に行われた
ファーム日本選手権では中日に2-7で敗れ、こちらも日本一はならなかった。
球団は前年に続き日本シリーズ終了後すぐ改革に着手。まず、ロッテを自由契約になった
藤田宗一投手、横浜から自由契約となった
マーク・クルーン投手を獲得。期待不足に終わったGGとパウエル、ファンからの人気も高かったホリンズの外国人3選手を自由契約とする。中日からFA宣言した
福留孝介の獲得には失敗したが、ヤクルトから自由契約となった
セス・グライシンガー投手及び、
アレックス・ラミレスを獲得。
2008年はオープン戦から主力選手の故障、大きく台頭した
坂本勇人を除いた若手の伸び悩み等でなかなか満足な試合運びを出来ず、黒星を重ねていった。ペナントレース開幕直後もチームはオープン戦の不調を引きずり、開幕戦となる3月28日のヤクルト戦(神宮球場)から4月2日の中日戦(東京ドーム)まで、
球団ワースト記録となる開幕5連敗を喫した。開幕戦で4番打者を務めた
李承ヨプが絶不調で二軍降格し、昨年のストッパーから先発ローテーションに復帰した
上原浩治の不調による二軍降格など戦力の足並みが揃わず開幕ダッシュに失敗した。だが、交流戦あたりから調子を上げはじめ、若手の積極的な起用策が功を奏し、後半戦も順調に勝ち星を重ね、7連勝中の9月19日から首位阪神に3連勝、最終的に
球団として32年ぶりの12連勝を記録するなど猛追し、同率で迎えた10月8日の最終直接対決で勝利し単独首位に立ち、10日に接戦の末に
セ・リーグ記録となる最大13ゲーム差からの逆転優勝(7月8日時点でのゲーム差。日本プロ野球全体では
1963年の西鉄ライオンズに次ぐ2番目)を果たした。11.5ゲーム差を逆転し「メークドラマ」と呼ばれた1996年の優勝時以上の大差を逆転したことから、マスコミ等は、「
メークレジェンド」(伝説をつくる)と呼んだ。
クライマックスシリーズでは、第二ステージで中日ドラゴンズと対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で勝ち抜けし、
2002年以来の
プロ野球日本選手権シリーズへの出場を決めるが、3勝4敗で西武ライオンズに敗れ“日本一奪回”は果たせなかった。
チーム成績・記録
- チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。
- 特に断りのない場合は2006年シーズンまでの数値。
試合、勝敗、勝率に関する記録
- 優勝 41回(日本プロ野球記録)
- (1936年秋 - 1937年春、1938年秋 - 1943年、1949年、1951年 - 1953年、1955年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1976年 - 1977年、1981年、1983年、1987年、1989年 - 1990年、1994年、1996年、2000年、2002年、2007年、2008年)
- 日本一 20回(日本プロ野球記録)
- (1951年 - 1953年、1955年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1981年、1989年、1994年、2000年、2002年)
- 連続優勝最長記録 9年(日本プロ野球記録)
- Aクラス 65回
- (1936年秋 - 1946年、1948年 - 1961年、1963年 - 1974年、1976年 - 1978年、1980年 - 1990年、1992年 - 1996年、1998年 - 2004年、2007年、2008年)
- Bクラス 8回
- (1947年、1962年、1975年、1979年、1991年、1997年、2005年 - 2006年)
- 連続Aクラス入り最長記録 14年(1948年 - 1961年)
- 連続Bクラス最長記録 2年(2005年 - 2006年)
- シーズン最多勝利 92勝(1955年)
- シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日 - 8月3日)
- シーズン最多敗戦 80敗(2005年)
- シーズン最多連敗 11連敗(1975年9月4日 - 11日)
- シーズン最多引分 16引き分け(1978年)
- シーズン最高勝率 .769(1938年秋)(2リーグ制以降.731 1951年)
- シーズン最低勝率 .382(1975年)
- 通算試合 8748試合(日本プロ野球記録・2リーグ制以降7527試合)
- 通算勝利 4982勝(日本プロ野球記録・2リーグ制以降4199勝)
- 通算敗戦 3503敗(2リーグ制以降3093敗)
- 通算引分 263引き分け(2リーグ制以降235引き分け)
- 通算勝率 .587(日本プロ野球記録・2リーグ制以降.576)
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1974年、1986年)
- 最大ゲーム差 27.0ゲーム(1975年)
- 最長試合時間 5時間42分(2004年8月20日対広島東洋カープ)
- 最短試合時間 1時間14分(1951年3月31日対大阪タイガース)
チーム打撃記録
- 通算本塁打 8402本(日本プロ野球記録・2リーグ制以降7829本)
- シーズン最多得点 738得点(2004年)
- シーズン最多安打 1332本(2004年)
- シーズン最多2塁打 221本(1953年)
- シーズン最多3塁打 57本(1946年)
- シーズン最多本塁打 259本(2004年・日本プロ野球記録)
- シーズン最多塁打 2340本(2004年・日本プロ野球記録)
- シーズン最少本塁打 1本(1936年秋)
- シーズン最多打点 719打点(2004年)
- シーズン最多盗塁 212盗塁(1950年)
- シーズン最多犠打 144犠打(1990年)
- シーズン最多犠飛 43犠飛(1978年)
- シーズン最多四死球 591個(1950年・日本プロ野球記録)
- シーズン最多三振 1083三振(2004年)
- シーズン最高打率 .292(1952年)
- シーズン最低打率 .208(1943年)(2リーグ制以降.227 1961年)
- ゲーム最多得点 26得点(1946年8月31日対中部日本軍、1948年10月16日対大陽ロビンス)
- ゲーム最多安打 27本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
- ゲーム最多2塁打 11本(1948年10月16日対大陽ロビンス・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス、1957年8月27日対大洋ホエールズ)
- ゲーム最多本塁打 8本(1984年7月4日対ヤクルトスワローズ、1984年9月4日対中日ドラゴンズ、1985年6月28日対阪神タイガース)
- ゲーム最多塁打 59本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
- ゲーム最多打点 25打点(1948年10月16日対大陽ロビンス)
- ゲーム最多盗塁 5盗塁(1943年4月11日対西鉄軍、1951年9月12日対国鉄スワローズ)
- ゲーム最多犠打 4犠打(1952年2度、1966年1度、1987年1度)
- ゲーム最多犠飛 4犠飛(1939年10月8日・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多四死球 16個(1946年8月31日対中部日本軍)
- ゲーム最多三振 17三振(2004年8月1日対阪神タイガース)
- イニング最多得点 13得点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
- イニング最多安打 10本(1941年5月11日対阪急軍4回、1951年8月8日対広島カープ7回)
- イニング最多2塁打 6本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回・日本プロ野球記録)
- イニング最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス3回・日本プロ野球記録)
- イニング最多本塁打 4本(1985年9月9日対横浜大洋ホエールズ4回、1987年5月12日対阪神タイガース7回、1999年7月31日対広島東洋カープ1回、2000年6月21日対中日ドラゴンズ7回)
- イニング最多塁打 18本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回)
- イニング最多打点 13打点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
- イニング最多盗塁 5盗塁(1937年5月16日対名古屋金鯱軍1回)
- イニング最多犠打 3犠打(多数)
- イニング最多犠飛 2犠飛(多数)
- イニング最多四死球 8個(1959年10月20日対中日ドラゴンズ5回)
- イニング最多三振 4三振(2004年8月1日対阪神タイガース2回)
- 最多連続得点 10得点(2003年4月27日対横浜ベイスターズ8回)
- 最多連続試合得点 174試合(1980年8月4日 - 1981年9月20日)
- 最多連続イニング無得点 31イニング(1985年6月5日対阪神タイガース4回 - 6月8日対中日ドラゴンズ7回)
- 最多連続打席安打 9打席(1996年7月9日対広島東洋カープ2回・日本記録)
- 最多連続打数安打 9打数(1954年9月29日対広島カープ1回、1四球を挟む)
- 最多連続イニング安打 21イニング(1985年7月10日対中日ドラゴンズ6回 - 7月16日対横浜大洋ホエールズ1回・日本記録)
- 最多連続試合本塁打 33試合(2004年4月2日 - 5月12日、開幕からの連続記録)
- 最多連続イニング本塁打 6イニング(1967年10月10日対広島カープ2回 - 7回)
- 最多連続本塁打 3人(通算5度)
- 最多連続打数本塁打 4人(1四球を挟む)
- 最多連続四死球 5人(1963年5月3日対国鉄スワローズ2回、1964年4月7日対国鉄スワローズ9回)
- 最多連続試合盗塁 16試合(1951年7月29日 - 8月9日)
チーム投手記録
- シーズン最多被安打 1427本(2005年)
- シーズン最多被本塁打 193本(2004年)
- シーズン最多与四死球 529個(1978年)
- シーズン最多奪三振 1123個(2003年)
- シーズン最多失点 737点(2005年)
- シーズン最高防御率 1.38(1943年)
- シーズン最低防御率 4.80(2005年)
- ゲーム最多被安打 25本(1994年9月10日対広島東洋カープ)
- ゲーム最多被本塁打 8本(1949年4月26日対大映スターズ)
- ゲーム最多与四死球 16個(1985年7月30日対広島東洋カープ)
- ゲーム最多奪三振 16個(1967年6月7日対大洋ホエールズ、1994年8月13日対阪神タイガース)
- ゲーム最多失点 19点(1994年9月10日対広島東洋カープ、2003年6月11日対ヤクルトスワローズ、2003年9月16日対中日ドラゴンズ)
- イニング最多被安打 10本(1994,1997,1998,2003に4度)
- イニング最多被本塁打 3本(多数)
- イニング最多与四死球 10個(1978年7月6日対広島東洋カープ)
- イニング最多奪三振 4個(1997年7月4日対阪神タイガース3回、2005年4月6日対横浜ベイスターズ6回)
- イニング最多失点 12点(2003年9月16日対中日ドラゴンズ6回)
- 最多連続試合完封勝利 4試合(9度・日本記録)
- 最多連続イニング無失点 50イニング(1966年6月15日 - 6月22日)
- 最多連続試合被本塁打 18試合(2001年8月11日 - 9月2日)
チームの特徴
球団名
- ニックネームの「ジャイアンツ」はアメリカメジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)から取り、創設時には東京ジャイアンツと名乗った。
- 現在でもアメリカのマスコミや日本の英字新聞などではTokyo Giantsと呼称される事がある。
-
セ・リーグに加盟している球団の中では球団名の正式名称に唯一地域名を入れていない(パ・リーグでは同様の例としてオリックス・バファローズがある)。
「巨人」について
戦前から、「ジャイアンツ」を日本語に意訳(Giants = 巨人+複数形のsを軍)した愛称「巨人軍」が用いられている。球団の運営会社は現在も「株式会社読売巨人軍」である。球団広報等では、多く球団の自称に「巨人軍」を用いている。野球規約上定められている球団呼称は「読売ジャイアンツ」であるが、テレビ放送などでは、一般には
日本野球機構の球団名を漢字2字で表す慣習から、「軍」を略して「巨人」と呼ぶことが多い。
読売グループを含めた全てのマスコミが「
読売」と略称せず「巨人」と称するのは、他球団と異なり「巨人」という和名的愛称が広く定着しているためである。ただし、
ドラフト会議においては「読売」と呼称されている。例えば自軍主催試合ではチケットの印字など他球団の表記も略称を使っている場合には「巨人」と表記され、場内アナウンスなど他球団でも球団呼称を使用する場合には「読売ジャイアンツのスターティングラインナップをお報せいたします。」などのように使用されている。したがって、本球団を指す呼称は「巨人」および「読売ジャイアンツ」の両方とも正しい事が明らかであるため、どちらか一方のみの呼称が正しいとするのは適切ではない。なお、読売巨人軍を指して「巨人」と言った場合、アクセントは「きょじん」の「
きょ」に置かれる。
ユニフォームの変遷
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1935年 球団創立(大日本東京野球倶楽部)時の第一次米国遠征では、背番号を漢数字にしたユニホームが使われた。左胸には「日の丸」をあしらったマークで「TOKYO」の文字が入り、右袖に(背)番号、左袖に漢字で「日本」と入る。色はグレー地。帽子は濃紺色でマークはオレンジで「T」。
-
1936年 - 1937年 球団名が「東京ジャイアンツ」になり、第二次米国遠征。背番号は普通のアラビア数字に、胸のレターが花文字(一般に早稲田型ロゴという)で上に「TOKYO」下に「GIANTS」の2段組になっている。色はグレー地。帽子は濃紺色でマークは金糸で「G」。帰国後は白地で胸に黒で「GIANTS」、帽子は白に濃紺のつばに黒の「G」マーク。グレー地で同じ物が作られ、これを着用するときは帽子は濃紺色、「G」マークは赤に白を縁取った七宝焼きで出来ていた。どちらも袖に黒のダブルライン、パンツはシングルのサイドラインになっている。
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1938年 - 1940年 白いユニフォームをマイナーチェンジし、パンツのサイドラインをダブルに変更。このユニフォームが戦後V9を達成したときのユニフォームの原型となる。
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1941年 太平洋戦争勃発の年、軍事色が濃くなりユニフォームの胸のレターも「GIANTS」から漢字の「巨」に変更された。白地とグレー地の二種類があり、帽子のマークも「巨」、国防色の戦闘帽タイプも作られた。
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1945年 - 1947年 白地に胸にエンジ色と黒で「GIANTS」(文字の形が稚拙で、背番号もバランスが悪かった)と入った二種類のユニフォームが作られ、左袖には読売新聞社の当時の社章が付いた。
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1947年 - 1949年 戦前のユニフォームに近いスタイルに戻る。1936年 - 1937年に使用されたユニフォームに近いが、パンツのサイドラインがダブルになっている。白地とグレー地があるがグレー地のパンツには腰のところに(背)番号が入る。
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1950年 日本で初めて野球ユニホームにラグランスリーブを採用する(このラグランスリーブのユニホームを製作したのは、スポーツ用品店でなく、『銀座テーラー』という老舗の紳士服専門店であった)。
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1951年 - 1952年 白地に胸のロゴ、背番号とも赤色の派手な、子供受けを狙ったデザインが使用される。1951年途中から戦後から続いていた前立てラインが消えシンプルになった。ビジター用の左袖に初めて「TOKYO」の文字が入る。
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1953年、ニューヨーク・ジャイアンツを真似てチームカラーをオレンジと黒とし、胸のロゴも今までの花文字からアメリカ型ロゴに変わったが、このユニフォームはウィルソン社製のもの(戦前、第二次米国遠征に使用した二段組みの「TOKYO GIANTS」の胸ロゴが入ったものも作られた)だけで、日本社製のものは従来の花文字が使用された。この年からビジター用の胸に「TOKYO」のロゴが入り、左袖に「GIANTS」と入ったユニフォームがお目見えした。ホーム、ビジター両方とも白地だった。翌年にはYGマークも登場した。
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1960年はカラーテレビ用として、帽子のつば、胸のロゴ、背番号の3箇所が赤いユニフォームが使用された。またこのユニフォームより胸ロゴの下に胸番号が付いた。
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1961年 - 1974年 最も長期間にわたって使用されたデザイン(年現在)。黒とオレンジの組み合わせに戻り、ホーム用がアイボリー地、ビジター用がブルーグレーになり、首、パンツに黒とオレンジのダブルのラインが入る。また首、ベルトループに黒とオレンジのラインが入り、川上哲治監督率いるV9に象徴される常勝巨人のシンボルとなる。長嶋茂雄引退、川上哲治監督勇退の1974年まで使用された。1972年頃、伸縮性に優れたニット生地に切り替わっている。
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1975年 - 1980年 長嶋茂雄監督就任に伴い、「GIANTS」「TOKYO」(胸ロゴ。左袖ロゴ)の書体がサンフランシスコ・ジャイアンツと同タイプのものになり、胸番号、背番号の書体も変わる。さらに首のライン、両袖およびパンツのラインがシングルになり太くなる。
- 1976年より、ホーム用の左袖の「TOKYO」ロゴが「YOMIURI」に変わり、背番号の上に選手名が入る。
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1981年 - 1992年 藤田元司監督就任に伴い、V9時代のタイプに戻る。マイナーチェンジを繰り返し、基本デザインは1992年まで使用された。
- 1986年より、ボタン式からプルオーバー式のVネックになる。
- 1990年より、ホーム用がアイボリー地からオフホワイト地に変わる。
-
1993年 - 2005年 長嶋茂雄監督復帰により、モデルチェンジ。プルオーバー式からボタン式に戻り、首元から胸にかけてのラケットラインが入り、ベルトループのラインが消える。また、ビジター用がグレー地に変更され、黒からミッドナイトブルー(濃紺)に変更される。
- 2001年、ホームゲーム3連戦の2日目に選手名を外す「バックナンバーデーユニフォーム」を採用。
- 2002年 - 2004年 オープン戦や公式戦の試合前の練習用に限定したセカンドユニフォームをホーム、ビジター共に2004年まで使用。さらに2002年7月1日より、読売グループの組織変更に伴い、球団を運営する社名が株式会社読売巨人軍となった為、ビジター用の胸ロゴが「TOKYO」から「YOMIURI」に変わり、胸番号、背番号の書体が丸ゴシック体に変わる。
- 2005年、ビジター用の胸ロゴが「YOMIURI」から、帽子と同一のYGマークが左胸につき、胸番号は右腹部に移る。
-
2006年 - 原辰徳監督復帰に伴い、1975年以来31年続いたデサント社製からアディダス社製になる。同時にデザイン変更。ホーム、ビジター共パンツにアディダスの3本線、右胸にアディダスのブランドロゴが入り、細めのストライプシャドーが入る。胸ロゴが早稲田書体から変更になり、同時に選手名の書体も変わり。背番号の大きさがやや小ぶりになる。また帽子のツバのふちがオレンジ色になる。
- ホーム用は、基本的にデザインは変わらない。
- ビジター用は、上着が黒、パンツが明るめの灰色(白色に近い)になり、ビジター用の胸ロゴも「GIANTS」となり、胸ロゴ、胸番号、背番号がグレーに白の縁取りとなる。
- 日曜日・祝日のホームゲーム限定で、デザインは白色ベースに「Giants」の筆記体文字(2002年 - 2004年に採用されたビジター用セカンドユニフォームで使われたものと同じロゴ)が取り入れられて、胸番号、背番号が丸ゴシック斜体のユニフォームを併用して使用。
- 2007年、5000勝達成記念として東京ドームで6月8日 - 6月11日に行われた東北楽天ゴールデンイーグルス・北海道日本ハムファイターズとの交流戦で9年連続日本一を決めた時代のユニホームをモチーフにした復刻ユニホームを着用した。(詳しくは後述する)
- 2008年、当初交流戦のビジターゲーム限定で、上下ともライトグレー(白色に近い)のものを使用。交流戦終了以降のビジターゲームでも使用されている。ホーム用と非常に似ている。
マスコット
- 初代マスコットはミスタージャイアンツ。長嶋茂雄が「ミスタープロ野球」と呼ばれているのは、敬意の他にこのマスコットと混同しないという目的も当初あったが現在ではそう呼ばれることが自然となっている。ミスタージャイアンツは長嶋茂雄の太い眉、王貞治の大きな目、川上哲治の太鼓腹がモチーフになったと言われている。
- 2代目はバットに乗りボールに帽子と顔と手足を足した「バットに乗った少年」で、1980年から1991年までの12年間の長きにわたり使用された。
- 3代目は1992年から今日まで使われている「ジャビット」である。これはチームのロゴマークであるYGの組み合わせに、ウサギを絡ませたものである。また、「ジャビットファミリー」として5人のキャラクターが登場する。2007年からそれぞれ個別のキャラに愛称がつけられた(http://www.giants.jp/G/gnews/news_20070407_0004.htmlを参照)。
- 2006年からエンブレムが変更、「G-KING」という巨人が描かれたものになった。マスコットはジャビットのままである。
応援スタイル
ジャイアンツの応援は、私設応援団である
東京読売巨人軍応援団の先導によって、声援とメガホンか手拍子で応援するスタイルとなっている。ただし、応援団としてはメガホンを使用しない応援スタイルを採用している。
応援時の格好は他球団同様、ホーム、ビジター用のユニフォームやシャツを着ることが多いが、ホームゲームにおいてビジター用のユニフォームやシャツを着ていたり、すでに退団した監督・コーチ・選手(特に
松井秀喜)のユニフォームやシャツ、松井が所属している
ニューヨーク・ヤンキース(松井のロゴが入っているもの)のユニフォームやシャツを着ていることも多くその統一性はあまり高くない。
2003年、応援団が暴力団からの依頼で外野自由席の席取りを行っていたことが社会問題化し刑事事件に発展した。
一時期私設応援団のひとつであった
G-FREAKSが行っていた応援スタイルに対して、そのオリジナリティに関する論議が発生した。
その他
- 監督は創立当初を除けば全てチームの生え抜き選手が就任しており、他球団OBが監督になっていない唯一の球団である(球団創立時の初代監督:藤本定義はプロ選手の経験がないので他球団OBではなく、巨人軍生え抜き扱いになる)。
-
1949年のセ・リーグ成立以降、1950年から2007年の56回のうちリーグ制覇は31回。<川上哲治監督の下でV9を達成した第三期黄金時代(1965(昭和40年) - 1973(昭和48)年)以降、長嶋茂雄第一次監督時代から現在の原辰徳第二次監督時代までの34年間、セ・リーグを12回(そのうち日本シリーズ制覇は5回)制覇している。
- パ・リーグで大映が毎日に吸収合併され大毎となり6球団制となった1958年から近鉄がオリックスに吸収合併されて近鉄が消滅した2004年までの47年間、パ・リーグの当時の6球団全てと日本シリーズで対戦していた(日本一も6球団全てで経験)。巨人が日本シリーズで敗北したことがあるのは西武(西鉄)とオリックス(阪急)の2球団のみ。西武(西鉄)との相性は悪く、西鉄時代からの対戦成績は3勝7敗と大きく負け越している。
ユニフォーム等のスポンサー
- ユニフォーム袖(2軍限定) - コナミ
- 公式戦主催ホームゲームは全試合を「伊藤ハムシリーズ」と題して開催し、「小さな時からジャイアンツ・小さな時から伊藤ハム」を合言葉に、東京ドームの1・3塁側1階席と2階席の仕切りにある広告看板に伊藤ハムの商品の広告看板を掲げている。かつては中畑清らをCMモデルに起用した。(1986年までは明治製菓がそれを担当し、「Meijiチョコレート」などの看板を掲げており、チケットや後楽園球場のバックネット裏の看板にも「明治スイートシリーズ」と銘打たれた公式戦であった)
歴代本拠地
歴代監督
- 1934年 - 1935年 - 三宅大輔、浅沼誉夫 ※1
- 1936年 - 浅沼誉夫
- 1936年 - 1942年 - 藤本定義
- 1943年 - 中島治康(第1次)
- 1944年 - 1946年 - 藤本英雄
- 1946年 - 1947年 - 中島治康(第2次) ※2
- 1947年 - 1949年 - 三原脩 ※3
- 1950年 - 1960年 - 水原茂
- 1961年 - 1974年 - 川上哲治
- 1975年 - 1980年 - 長嶋茂雄(第1次)
- 1981年 - 1983年 - 藤田元司(第1次)
- 1984年 - 1988年 - 王貞治
- 1989年 - 1992年 - 藤田元司(第2次)
- 1993年 - 2001年 - 長嶋茂雄(第2次)
- 2002年 - 2003年 - 原辰徳(第1次)
- 2004年 - 2005年 - 堀内恒夫
- 2006年 - - 原辰徳(第2次)
※太字は優勝達成監督<
-
※1 ここから東京巨人軍
<
-
※2 ここから読売ジャイアンツ
<
-
※3 1949年は4月15日まで指揮、7月23日に復帰するまでは中島治康が代行
永久欠番
-
1:王貞治(1989年 - )
- 本塁打世界新記録(868本)の功績を称え、決定。巨人では選手そして監督と通算30年使用していた。
-
3:長嶋茂雄(1974年 - )
-
4:黒沢俊夫(1947年 - )
- 現役中に腸チフスで死去。球界初の永久欠番。2007年10月 - 12月に放送されたドラマ「ドリームアゲイン」(日テレ系)で「04」として復活している。
-
14:沢村栄治(1947年 - )
- 太平洋戦争で戦死。戦後今泉勝義と坂本茂がつけていた。
-
16:川上哲治(1965年 - )
- 引退後もつけていたが、背番号を77に変更したことを機に決定。
-
34:金田正一(1970年 - )
尚、2006年シーズン開幕よりこれら永久欠番の選手のユニフォームを模った(背番号のみで選手名ローマ字表記は無し)像を東京ドームの外野スタンド後方部の支柱部に設置。除幕式が同年開幕戦に行われ、本人や遺族等が招かれた。王に至っては
福岡ソフトバンクホークス監督で現場を離れられないと言う事で次女の
王理恵が代理出席。なお、黒沢の遺族は消息がつかめなかったという。
またOB戦でも王、長嶋、川上、金田が出場しており、その時に限り見る事が出来る。
2007年現在、期間限定で、現在のホームユニフォームをアレンジした形で、ジャイアンツの公式ホームページの通販コーナーで予約発売している。
完全試合・ノーヒットノーラン達成者
完全試合達成投手
ノーヒットノーラン達成投手
参考記録
7回表1死降雨コールドゲームの為、セ・リーグ参考記録
史上初のノーヒッター
完全試合
日本プロ野球において
完全試合を達成した選手はわずかに15人。1936年から職業野球連盟に加盟しているジャイアンツで完全試合を達成したのは2人である。
日本球界初の完全試合を決めたのは
藤本英雄。
1950年6月28日、
青森球場で開かれた
西日本との一戦で自身2度目(戦前の
1943年にも名古屋戦で達成)のノーヒットノーランを完全試合で飾った。日本球界初の大偉業でありながら、北海道遠征の帰路だったため取材記者が4人、カメラマンは誰もいなかったこともあって報道の扱いは小さく、また新聞も製紙事情からページを割くことが出来ず、写真も掲載されないという何とも寂しい結果となった。
そして20世紀最後の完全試合を決めたのが
槙原寛己である。
1994年5月18日に
福岡ドームで開かれた広島戦。ジャイアンツ創設7000試合目の公式戦となった記念の試合で、槙原はそれに花を添える史上15人目、
1978年の
今井雄太郎(
阪急)以来のパーフェクトを達成。現役引退後、
TBS解説者として出演する際は「
ミスターパーフェクト」として紹介されている。
奇しくも、藤本英雄、槙原寛己の両投手とも、完全試合達成時の背番号は、ともに「17」であった。
逆に、ジャイアンツが完全試合を達成されたことは70余年の球団史上一度もない。日本プロ野球で現存する12球団のうち、直系の前身球団を含めてもこの経験がないのは、ジャイアンツ以外では
東京ヤクルトスワローズ・
東北楽天ゴールデンイーグルスの2球団しかない(なお、2004年まで存続した
近鉄バファローズも完全試合を許したことはない)。
歴代の球団歌・応援歌
読売ジャイアンツには球団歌と応援歌の2つの定義があり、球団歌は現在までに3曲が制定されている。それに対して応援歌は球団が作成する応援歌もあるが広義に捉えれば私設応援団による選手別応援歌も応援歌といえるので数は非常に多い。その為ここでは球団歌のみを紹介する。
キャンプ地
現在
過去
出来事
結成当初の対外試合
チーム結成当初は、まだ職業野球のクラブチームがジャイアンツ1チームしか存在しなかった。その為1935年は上半期を
アメリカ合衆国遠征、後半は日本国内の
社会人チームとの対戦に割り当てて、長期間にわたる遠征をこなすことになった。
まず、アメリカ遠征。2月(まだこの時は「大日本東京野球倶楽部」)に当時の選手ら総勢18人で秩父丸に乗船し横浜港からアメリカに向けて出発。当時日本とアメリカはフェリーで2週間以上の期間を要したので、選手たちは船上でも試合に向けての練習をこなした。
この時、先発隊で渡米していた鈴木惣太郎マネジャーは「『大日本東京野球倶楽部』では長ったらしいから何か簡単な名前が思いつかないだろうか」と、現地マネジャーの
フランク・オドールに相談する。すると「ジャイアンツとヤンキースのどちらかはどうだろう。アメリカではどちらも人気があるチームだから(ニューヨークのチーム)」と提案。鈴木は「ヤンキースは日本語で適当な言葉が見当たらない。ジャイアンツなら巨人。これならいけるだろう」ということでジャイアンツのチーム名はこうして決まった。
チームは2月27日(現地)にサンフランシスコ湾に到着し、全米各地で128日間109試合(
ダブルヘッダー17日34試合含む)という超異例の過密日程を戦った。主な対戦相手は
大リーグの
マイナークラスのチーム。最初は物珍しもあって観客が集まったものの徐々に減少。その為ダブルヘッダーを開催することで、ファン確保を狙ったが、選手らは体力の負担を強いられるとして反対意見も相次いだという。それでも75勝33敗1引き分けの好成績でアメリカ遠征は無事終了した。このアメリカ遠征では日本独特の文化を出そうということで選手の背番号は漢数字(例えば沢村栄治だと十七=17)を使用した。ところが漢字文化のないアメリカ人にはさっぱり分からず、「あのプラス(+=10)とマイナス(-=1)は何を意味するんだ?」という疑問が後を絶たなかったといわれる。
選手らは帰国後夏休みを挟んで9月6日から今度は日本の社会人野球チームとの親善試合をこなすことになる。この国内巡業も原則的にはファン確保の名目で1日2試合のダブルヘッダー開催が多く、後座試合として巨人軍選手による
紅白戦が開かれた。この国内巡業の試合は40試合行い36勝3敗1引き分け。圧倒的な実力を見せたが、社会人チームに3敗したことが響いたのか、
三宅大輔監督は解任される。3敗のうちの2敗は
東京鉄道局からであり、三宅解任後は同チームの監督をしていた
藤本定義が後任として迎えられた。
職業野球連盟所属チーム同士の初対戦
1936年
2月9日に、
名古屋市郊外・
鳴海球場で開かれた
名古屋金鯱軍との対戦は現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った初めての試合である。この試合は巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と金鯱軍の結成記念を兼ねたもので、第1試合は金鯱軍に敗れたが、翌日行われた第2戦、第3戦は巨人が連勝した。
提訴したためにV逸
第二次世界大戦が終わった翌年の
1946年、日本プロ野球は
1944年以来2年ぶりに公式戦を再開したが、兵役についていた選手たちが元の球団に復帰するかどうかでもめごとがあった。当時は「元いたチームが敗戦前に解散していれば元のチームに戻る必要はないが、元いたチームが敗戦後も解散せずかつチームから何らかの形で給与を受けていた場合は、敗戦前に所属していたチームに復帰しなければならない」という決まりがあった。
しかし巨人からは
ヴィクトル・スタルヒンと
白石勝巳が、阪神からも
藤井勇が、球団の許可なく
パシフィックへ入団してしまった。これによりパシフィックは連盟から問題が解決するまで3選手の出場を禁止するように言い渡されたが、
藤本定義監督は3選手を5月下旬に行われた4試合に出場させてしまった。このことで巨人と阪神はパシフィックを提訴した。
提訴が受け入れられ、3選手が出場した4試合は全て0-9でパシフィックの敗戦となったが、パシフィックの実際の勝敗は1勝3敗であった。その1勝はこの年巨人と優勝争いをしていたグレートリングから上げたものだったため、ライバルに1勝をプレゼントしてしまう結果となった。最終的に1ゲーム差でグレートリングが優勝し、同率でプレーオフとなるはずが提訴をしたために優勝を逃した。
日本シリーズ終了後にペナントレース
1955年、この年のペナントレースは
大洋との3試合が天候不順の中止による順延が続いたため、
日本シリーズの対
南海戦の開幕までに全て消化し切れなかった。そのため、日本シリーズ(ジャイアンツ優勝)、更にその後にも
日米野球・
ニューヨーク・ヤンキースを招待した親善試合が組まれていたこともあってそれらの大会が終了した11月下旬にようやく残った大洋戦3試合を消化。最終戦の開催は11月23日となった。
なおジャイアンツは以下のシーズンに未消化試合を残したままペナントレースを終了している。
- 1937年秋季は10月27日の東京セネタース戦がきっかけとなる。<1-2とリードされた9回裏1死1・3塁のジャイアンツの攻撃で、水原茂の打球は投手ゴロ。投手→二塁手→一塁手と転送されるも、一塁がセーフとなる。この時にセネタースの二塁手・苅田久徳が「一塁走者の平山菊二が送球を妨害した」と抗議。これが認められ一塁もアウトとなり、試合が終了した。<ジャイアンツはこの判定を不服として日本野球連盟に提訴(プロ野球初の提訴試合)。11月30日の連盟理事会でこの試合を無効として再試合を行うことを決定したが、すでに大阪タイガースの年度優勝が決まっており、仮にこの試合が行われたとしてもシーズンの順位に影響が及ばないことから、12月9日に中止が決定した。
- 1949年は2リーグ分立のあおりを受けて11月26日に日本野球連盟が解散したため、11月29日にペナントレースを打ち切った。このため6試合(阪急戦・大映戦・阪神戦各1試合、大陽戦3試合)を未消化のまま終了した。
- 1951年は120試合の予定だったが、日米野球の日程が迫っていたので10月9日を持って打ち切りとなり、6試合(国鉄戦2試合、広島戦4試合)を消化しないままで公式戦を終了。この時は9月23日に「打ち切り」が決定したことを受けてリーグ優勝が確定した。
- 1953年も国鉄との5試合の対戦が未消化だったが、これも日本シリーズ、更には日米野球がこの年は2チーム(エド・ロパット・全米オールスターチームとニューヨーク・ジャイアンツ)が招待されており、残り試合の日程調整が付かなかったため、その5試合の開催を打ち切った。
- 2004年はオリックスと近鉄の合併に端を発した一連の球界再編問題で2日間(中日戦2試合)がストライキの対象となった。この2試合の代替日が設定されなかったため、138試合でリーグ戦を終えている。
史上初の2日またぎの試合
1961年
9月7日の対
国鉄戦(後楽園)で、史上初めての2日間またぎの試合が行われた。事の発端は延長11回表の国鉄の攻撃。3塁ゴロを捕球した
長嶋茂雄がベースを踏んでアウトにしたはずが、2塁走者・
土屋正孝の脚が早かった。ところが、アウトと思っていた土屋は3塁コーチャーズボックスに入っていた
砂押邦信監督に促されてホームに向って走った。これを見た長嶋が土屋を追いかけ三本間で交錯、そこへ長嶋からの送球を受けた捕手
藤尾茂が土屋にタッチした。
島秀之助球審は一旦はアウトと宣告したものの国鉄側が長嶋の走塁妨害を主張、審判団協議の結果判定が覆ってホームインが認められることになったため、今度はジャイアンツ側が土屋はラインアウトだったと主張するなど両チームが論争になった。更に興奮したファンがスタンドに火を付けたり物をグラウンドに投げ込んだりするなどの行為を行い、2人のファンが公務執行妨害の現行犯で逮捕された。2時間近くの中断の末、土屋のホームインが認められ試合が再開されたのは23時53分で、結果的に試合終了は翌
9月8日の0時11分となり史上初の2日間またぎの試合となった。
2日間またぎの試合はセ・リーグの大会規定で
1990年-
2000年に「時間無制限・延長15回・引き分け再試合」という取り決めがあった際、15回フルイニングス戦ってそうなった事例が数例あった。
V9決定日
-
1973年
10月22日、阪神甲子園球場で阪神タイガースと年度優勝をかけた最終戦が行われた。この直前の10月20日に巨人ナインは新幹線で大阪に移動している最中にナゴヤ球場で行われた中日ドラゴンズとの対戦を少し見て、勝機があると確信。
- そしてこの試合で巨人は阪神ファンの罵声の飛ぶ中で9-0の快勝をし、日本プロ野球史上初の9連覇の偉業を決めたが、試合後阪神ファンが余りの不甲斐ない試合に大激怒。巨人ベンチに襲い掛かる始末となり、グラウンドで行われる予定の胴上げは中止。大阪での試合の宿舎だった芦屋市竹園旅館で胴上げをするという異例の展開となった。
後楽園シリーズ(1981年)
1981年の日本シリーズでは、
大沢啓二監督率いる
日本ハムファイターズと対戦。同じ
後楽園球場を本拠地にするチーム同士の対戦であり、史上初めて全試合同一球場で行われたシリーズとなった。第1戦の始球式は東京決戦にちなみ、当時の
東京都知事・
鈴木俊一が行なった。両球団は同日にリーグ優勝。巨人の祝勝会のわずか55分後に日本ハムの祝勝会が行われ、報道陣は大忙しだった。
なお、この時、球場に詰め掛けた巨人:日本ハムのファン比率は9:1で巨人が全戦ホームの状態だった。
東京ドーム移転後も2003年までは同一球場シリーズが開催される可能性があったが、
2004年に日本ハムが本拠地を札幌に移転したため、今後行われる見込みはない。
疑惑のホームラン
1990年の開幕戦・ヤクルトスワローズとの地元・東京ドームでの試合で、
篠塚利夫が
内藤尚行から放った打球が、1塁
塁審を務めていた
大里晴信審判員によってホームランと判定された。この判定に対して、「打球はライトポールより前方で通過し、ファールスタンドへ入った。」と、ヤクルト
野村克也監督は抗議したが、判定が覆ることはなかった。同日の
スポーツニュースではこの打球の
VTRを再三放送し、「打球はライトポールより前方で切れ、ファールスタンドへ入った。」と結論付けるものが多かった。この年からセントラル・リーグでは
外野審判を廃止して4人制で行っていた。この疑惑後、東京ドームのポールは打球がわかるように黄色に塗装され、その後オレンジ色に変更された。当判定を下した大里審判員は、同年審判員を引退し審判指導員の道を歩んだ。
1年間に8点差を2度逆転される
1999年は中継ぎ投手の不振や
村田真一捕手の負傷もあり、4月9日の横浜戦と4月28日のヤクルト戦では一時8点リードしながらともに逆転負けした。
ほか、
1991年7月19日の中日戦でも8点差を逆転されている。この時には
中村武志に8回に代打同点満塁、10回にサヨナラと2打席連続
本塁打を打たれて敗れた(
ナゴヤ球場の「8点差からの大逆転」も参照のこと)。
球団史上初の3連続引き分け
2005年、交流戦のオリックス6回戦(5月29日)から日本ハム5回戦(6月1日)まで、プロ野球7度目、球団史上初の3試合連続引き分けを経験した。<オリックス戦は初回に
小久保裕紀の3ランで先制しながらも追加点が奪えず、7回に追いつかれて3-3。札幌に舞台を移した日本ハム戦は両日とも23時前までもつれ込む大接戦となった。初戦は日本ハム投手陣が13被安打・11四死球と乱調だったもののジャイアンツ打線も18残塁の拙攻で4-4、2戦目は守護神・
木佐貫洋が最終回に
セギノールに1発を浴びて追いつかれ、5-5の引き分けに終わった。<この3戦ではいずれもリードしながらも追いつかれ、また同点となった後は勝ち越し点を奪えずと、図らずも2005年のジャイアンツの拙攻と中継ぎ抑えの弱さを露呈することとなった。
取り消された本塁打
2006年
6月11日、交流戦のロッテ最終戦(第6戦)で
李承燁の本塁打が取り消されるという前代未聞の珍事が発生した。3回表2死得点1-1の同点の場面、一塁に走者
小関竜也を置いて、李がロッテ先発・
渡辺俊介から右中間席へホームランを打ち、勝ち越しかと思われた。しかし打者走者生還後、渡辺が投球する前にロッテ三塁手・
今江敏晃が「一塁走者の小関が三塁を空過し本塁に生還した」として三塁触塁の
アピールプレイを行い、これが三塁塁審・
西本欣司に認められ小関はアウトとなった(野球規則7.10)。これにより本塁生還前に3アウトになったため李の得点は認められず、記録上はシングルヒットとされた(野球規則7.12)。ホームランで打者走者がベースを空過しためアウトとなったことはあるが、走者が空過したため
ヒットとされたのはプロ野球史上初の出来事である。
原辰徳監督はこの裁定に関して抗議を行ったが西本が「踏んでいないという絶対的な自信がある」と発言した為、激しい抗議を行わなかった。
翌
6月12日にジャイアンツは、セントラル野球連盟に対して口頭で抗議を行った。
6月13日には抗議書と映像を記録したDVDを提出して審判技術の向上とビデオ判定導入を文書で要望し、同時に口頭で記録の訂正を求めた。
6月19日に連盟より回答が示され、その中で連盟は「審判員の判断に基づく裁定は最終のものである」(野球規則9.02(a))ことと野球規則内に映像での判定の規定が無い事から「検証結果に論評すべきでない」として、誤審かどうかについてはコメントを避けた。また「映像で確認した場合」に「当該ジャッジと変わっていることもあるのは残念ながら事実」としたものの、野球が肉眼によって裁定される競技であるという原則は守られるべきであるとして、ビデオ判定導入については考えていないとした。球団は、再度抗議書を提出したが同様の回答が再度示され、それ以上の抗議は見送った。なお、2007年よりオープン戦で本塁打の判定に限定してビデオ判定の導入テストの実施が検討されたが球場によっては設備が不十分であったため見送られた。
セントラル・リーグ唯一のサヨナラ勝利V決定球団
キーワード
「紳士」
正力松太郎オーナーが「
巨人軍は常に紳士たれ」という言葉(
巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓のうちの1つ。残りは「巨人軍は常に強くあれ」「巨人軍はアメリカ野球に追いつけ、そして追い越せ」で計3か条)を残したようにジャイアンツ選手は社会人、人間として模範となることを求められており、テレビ出演や試合の移動の際は
スーツ姿に
ネクタイが義務付けられてきた。
また、髭を生やす事と茶髪・金髪・長髪も禁止されている。しかし、この規定は他チームからの移籍選手や外国人選手には適用を除外されるケースがある。具体的には髭がトレードマークの
屋鋪要が横浜から移籍してきた時は条件付き(活躍する事)で認めていた他、
日本ハムから移籍した
小笠原道大に球団は「無理強いをするつもりは無い」と、髭を認めていたが、ジャイアンツ移籍後は本人の意思で髭を剃った。外国人選手では
大洋時代は「ライオン丸」と形容される顎髭がトレードマークの
シピンや近鉄バファローズから移籍してきた
タフィ・ローズのコーンロールと髭を例外として認めていた(シピンはその後この「紳士たれ」のルールに沿って髪とひげを切り落とした)。
さらに明示はされていないものの、清原和博選手がジャイアンツ在籍時代ピアスをつけていたことがあったが、OBを中心に「(紳士らしくないので)外すべきだ」という意見が存在した。
2007年度からは近年の成績不振もあり初心に帰ったのか、再び「紳士たれ」という言葉を実行するとのこと。
外様の意見としては、
野村克也の『巨人軍論』では、このようないわゆる紳士野球については肯定的であり、自身が監督を勤める際も茶髪、ピアスなどを厳禁している。
堀内恒夫の監督就任後に茶髪やピアスを承認したときには、かなり否定的な意見を発している(なお堀内自身もは監督就任後チームの気分転換を図るため、髭を蓄えた時期があった)。野村曰く、強いチームを作るには厳しいルールが必要であり、選手は茶髪やピアスで目立とうとするのではなく、プレーで目立つべきだと主張している。また、厳しいルールの下で人間が鍛えられ、それが野球によい影響を与えるとしている。
また選手登録に関しても本名を原則としてきたが、
ジェレミー・ゴンザレスが入団するに当たり、初めてニックネームの「
GG」を登録名にすることになった。これは既に
ルイス・ゴンザレスと
ジェレミー・パウエルという選手が各々実在し、ゴンザレス、あるいはジェレミーだけで登録してしまうとそれらの選手と間違えられやすくなってしまうことを考慮した特例である。
伝統の一戦
巨人と阪神タイガースの対戦カードは伝統の一戦と主にマスコミなどで表現されることがある。ただし伝統の一戦という表現は必ずしも単純にこの対戦が勝敗の拮抗したライバル関係であることを示すものではない。
戦前は
1936年のプロ野球が始まって以来、11シーズン中8度の優勝を果たしていた巨人に対して、阪神は残り3シーズンで優勝を果たすなど、プロ野球を代表する強豪同士であったといえる。しかしその後は阪神の長い低迷もあって
2006年シーズンまでの通算成績は巨人の902勝692敗57分、72シーズン中、実に7割以上の52シーズンで巨人が勝ち越すなど戦績は一方的である。また
2003年から
2006年にかけて阪神が復調傾向にある中では逆に巨人がその間球団史上初めて4シーズン連続で優勝を逃しており、やはりどちらかに一方的なシーズンであることが多い。同じセ・リーグ内で言えばむしろ中日の方が巨人の通算勝率は悪く、純粋に勝敗の拮抗を争う関係であればそちらがむしろ適している。
それでもこの対戦カードが伝統の一戦と表現されるのは単純な勝敗を超えて、戦前の野球ファンの注目の的となった
沢村栄治と
景浦將の対戦にはじまり、ミスタータイガース
村山実とミスタージャイアンツ
長嶋茂雄、奪三振王
江夏豊と本塁打王
王貞治、ミスタータイガース
掛布雅之と巨人のエース
江川卓、
星飛雄馬と
花形満(こちらは架空の選手であるが)といった時代の人気選手たちの対戦が含まれるなど日本を代表する人気球団同士のライバル関係も同時に示している。
読売ジャイアンツの球団運営会社
ジャイアンツの運営会社は複雑な変遷を辿っている。1934年に大日本東京野球倶楽部が発足したとき、読売新聞は大いにバックアップを行ったが実際の出資額は僅少で、あくまで正力松太郎の関係による独立企業であった(因みに筆頭株主は
京成電鉄。
東芝、
阪神電気鉄道、
東京急行電鉄、
吉本興業がこれに続いていた)。1947年
2月、読売新聞社が全株式を買収し、完全に系列下。球団旗の右肩に「讀賣」の二文字が入り、社名を「大日本東京野球倶楽部」から「読売興業」に改めたが、1950年
1月に「読売巨人軍」(第1期)として分離。しかし僅か1年2ヶ月で読売興業に吸収されている。
1963年、読売新聞は
九州に進出するに当たり、読売興業に読売会館(当時の
有楽町そごう[現
ビックカメラ有楽町店]や当時の読売新聞東京本社ビル[現
プランタン銀座]の保有・管理会社)を合併させ、読売興業内に事業本部としての「読売新聞西部本社」を設けた。先が見えない九州での新聞事業の赤字をプロ野球興業と不動産の収入で補填するとの意図であったが、この結果読売興業はプロ野球、不動産、新聞の3事業を抱える
コングロマリット(複合型企業)となった。1988年には経営不振の中部読売新聞社から東海地方での新聞事業を受け継ぎ、「読売新聞中部本社」としている。2002年
7月の読売新聞グループの再編により、「
よみうり」(
1992年6月に読売興業から改称)は新聞事業を読売新聞東京本社中部支社(中部本社が読売新聞社改め
読売新聞東京本社に吸収)と
読売新聞西部本社に分割してプロ野球専業となり
「読売巨人軍」(第2期)の社名が復活した。これに伴いビジター用ユニフォームの胸マークも「
TOKYO」から「
YOMIURI」に変更となった(2004年まで使用)。
当初の背番号
例えば
1936年夏季の場合、1番・
田部武雄(上層部との対立により公式戦参加前に退団したので、その後は
林清一が受け継いだ)、2番・津田四郎、3番・
中島治康、4番・
永沢富士雄、5番・
伊藤健太郎までは背番号と打順が一致する。当時の巨人軍には背番号6の選手がいなかったため、6番は背番号7の
筒井修、7番は背番号8の
白石敏男が「繰り上がり」、8番は捕手、9番は投手が入るのが基本オーダーだった。背番号9の
山本栄一郎をはさんで捕手の背番号は10番から始まり、10番が中山武、11番が内堀保、12番が倉信雄と続いていた。13番からが投手の背番号で、
青柴憲一(13番)、
沢村栄治(14番)、畑福俊英(15番)と続く。再び16番が欠番で
ヴィクトル・スタルヒン(17番)、前川八郎(18番)と続いた。秋季以降に加入した選手はヤンキース方式の背番号が適用されず、19番は田部と同様に上層部との対立により退団したもののその後復帰した
水原茂、林が1番に変更して空き番となった20番は青森林友から入団したチーム初の左腕投手・成田友三郎、21番は助監督として入団したものの夏季のチームの不甲斐なさに現役復帰を決意した
三原修がつけ、
藤本定義監督がチーム最大となる22番をつけた。
選手が増えたため
1938年以降はこの基本から外れることが多くなったが、
川上哲治が16番をつけたのはヤンキース方式の背番号の名残で、川上が投手として入団した証拠とも言える。
カラーテレビ用ユニフォーム
最初の変更は
1959年9月。袖のオレンジ×黒×オレンジのライン、背番号、胸の「GIANTS」の縁取りが赤に変更された。しかしこの変更はホーム用のみでビジター用は従来通りのユニフォームが使われたため、ファンにも気付かれることのないままこの年の公式戦終了と同時に元のユニフォームに戻された(
南海ホークスとの
日本シリーズでは元のユニフォームが使用された)。
次にカラーテレビ用ユニフォームが登場したのは
1960年6月11日。ホーム用・ビジター用ともに帽子のつば・胸のロゴ・背番号が赤いユニフォームで、それまでのジャイアンツのチームカラーを覆すものだった。当時のカラーテレビは白いものが映ると
ハレーションが起こったため、ホーム用の地色もドーラン効果を狙ってベージュに変更された。
このようにカラーテレビ用ユニフォームは世間の評判が悪かった上、前年まで6年連続最下位だった
大洋ホエールズにリーグ優勝をさらわれたこともあって、このユニフォームもこの年限りでお役御免となった。当時の
東京23区にはカラーテレビが100台ほどしかなく、当初の目的だった「カラーテレビの普及」にも貢献することが出来なかった(カラーテレビが普及するきっかけとなったのは
1964年の
東京オリンピックである)。
最下位転落で大集会が開かれる
1975年に球団史上初となる最下位に転落したがそれ以前にも途中経過であるが最下位に沈んでいたシーズンがあった。しかしこの年最下位に沈んだのはそのまま低空飛行を続けていたためである。そのためこの年のシーズン中「日本雑学協会」の主催で
「長島巨人を励ます緊急大集会」を当時の練習場である
多摩川のグラウンドで開いたという逸話が残っている。内容は巨人ファンの思いをプラカードや横断幕に書いてデモ行進をするというものであった。前年まで巨人応援のためのデモ行進が開かれたというケースはなかったため非常に話題となっていた。結局この年は大集会の甲斐もなく低空飛行のままペナントレースを終えた。
三本柱
藤田元司は先発投手陣を中心に守備力を重視した野球を展開し、通算7年間の監督在任中に4度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いた。この藤田野球に欠かせない存在だったのが「三本柱」といわれる、3人の先発ローテーション投手である。
1981年から
1984年の3年間で中心となったのは江川卓、
西本聖、
定岡正二。西本は
松山商業高等学校からドラフト外で入団したものの、持ち前の反骨心で同年齢の定岡、
法政大学から入団した江川と肩を並べるまでに成長した。藤田の監督在任時の成績は、江川55勝(20 - 19 - 16)、西本48勝(18 - 15 - 15)、定岡33勝(11 - 15 - 7)の成績を残している。
1989年から
1992年のの4年間で中心となったのは
斎藤雅樹、
桑田真澄、
槙原寛己。斎藤は安定感、桑田は投球術、槙原は球威と、それぞれ違った持ち味を発揮して白星を積み上げていった。藤田の監督在任時の成績は、斎藤68勝(20 - 20 - 11 - 17)、桑田57勝(17 - 14 - 16 - 10)、槙原40勝(12 - 9 - 9 - 12)の成績を残している。
ワンピース型ユニフォーム
1982年・
1983年に盗塁王のタイトルを手中にし、盗塁時に青い手袋をしていた事から「青い稲妻」の愛称で知られた
松本匡史は
1981年~
1985年にかけてワンピース型のユニフォームを着用していた事がある。これは盗塁をする際に余計な心配をせずにすむためだとの事。松本自身はユニフォームがプルオーバー形に変更された
1986年から普通のユニフォームを着るようになっている。
主催試合開催方法関連
地方球場開催
かつては地方都市の球場での開催も積極的に行い、特に
北海道シリーズ(
円山、
旭川、
札幌ドームでの2-3連戦)、
九州シリーズ(
平和台、
北九州、
福岡ドーム、
熊本など)、更に隔年で
北陸シリーズ(
金沢、
富山県営、
富山市民(アルペンスタジアム)、
福井などでの2-3連戦。富山が正力松太郎の出身地であることから継続して開催されてきた)、
東北シリーズ(
盛岡、
仙台、
郡山などでの2-3連戦)を率先的に実施してきた。
しかし近年は東京ドームの試合を中心に編成したため(ドーム開催のほうが観客収入が多いことと、移動を減らして選手の負担を減らそうとするフロントの考えと思われる)、東北シリーズ・北陸シリーズは廃止、更に北海道や九州のシリーズも会場を1ヵ所(福岡ドーム・札幌ドームでナイターのみ)に絞る形にして試合数を減らしていた(2004年度には九州シリーズの1試合に、ジャイアンツのキャンプ地である
宮崎での開催がある)。それが災いして、ファン離れが深刻になってしまった。そこで、2005年度は地方都市の開催を進めることになり、仙台での15年ぶりの復活開催や、
長野、
長崎での公式戦初開催(
長野県では過去に
松本で開催した事例あり)など地方開催を再び増やすことになった。特に長崎では伝統の一戦・
阪神タイガースとの試合を編成したが、これは1日移動日を挟んで東京ドームでもう1試合を開催する変則2連戦となった。
2008年は、交流戦1試合を含む9試合の地方主催試合を実施。4月に1956年以来52年ぶりに
宇都宮で横浜戦を開催した。また、7月には旭川、8月に久しぶりに北陸地方(富山、金沢)でも開催された。
2009年は、7試合を地方主催試合で実施予定。4月21日長崎県営野球場、4月22日
佐賀県立森林公園野球場(佐賀での巨人主催試合は初)、4月23日ヤフードーム、8月4日旭川スタルヒン球場、8月5日札幌ドーム、9月1日京セラドーム大阪、9月2日福井県営球場(福井での巨人主催試合は、1985年以来24年ぶり)となっている。
また公式戦ビジターゲームは相手のホームチームのフランチャイズ以外(つまりビジターの地方ゲーム)での開催はしばらく無かったが、ここ数年は
静岡草薙球場や長野オリンピックスタジアムでの横浜戦、2009年7月14日(予定)には福島県営あづま球場でのヤクルト戦など、地方ビジターゲームも行なわれる。
大阪ドーム(京セラドーム大阪)での主催ゲーム
関東以東の球団が
近畿圏各地でホームゲームを行う機会は
1952年に
フランチャイズが確立してからは稀で、確立当初、球場難等を理由に
西京極、
大阪などでいくつかのチームが試合をした事例がある程度だ。特に
1955年の
大映スターズは西京極で15試合を開催し、事実上準本拠としていた(親会社の
大映が京都太秦に撮影所を持っていた事も関係している)。
ジャイアンツもフランチャイズ確立前は近畿圏の球場でもホーム扱い(後攻め)となる試合が稀にあったが、それが確立されてからは近畿圏でのホームゲームを行う機会は
西京極球場でのオープン戦を除き、殆どなかった。しかし
1997年に
大阪ドーム(京セラドーム大阪)が竣工し、その年には
読売新聞大阪本社の創刊45周年も重なって、ヤクルトを帯同した公式戦2試合を同球場で開いた。その後大阪ドームでは
1999年と
2001年以後は毎年1-2試合開催している。2001年以後は東京ドームで開く
都市対抗野球の開催時期が8月下旬-9月初めに移動したためによる処置。しかし2006年は4月に開催され、2007年も4月に開催された。この2007年は神戸(スカイマークスタジアム)でも1試合組み込まれており、巨人軍初の関西3連戦が実現したことになる。(これまでも大阪ドームを含めた3連戦の遠征はあったが、1試合は倉敷や松山での開催で、大阪ドームは2連戦だった)
カードは、
ヤクルト戦(1997年、1999年、2002年、2005年、2006年)が最も多く、
横浜戦(2001年、2004年、2009年(予定))が3回、
広島戦(2007年、2008年)が2回、
中日戦(2003年)が1回となっている。阪神戦は保護地域の関係からかまだ1回も行われていない。
長期ロード
プロ野球の長期ロードといえば
全国高等学校野球選手権大会開催中の阪神が有名だが、巨人も2週間近く長期ロードが毎年組まれている。これは毎年、本拠地の東京ドームで
都市対抗野球大会が開催されるためで、阪神の
死のロードと入れ替わる形で始まる。この間、巨人は
札幌ドームなどで主催試合を行う。2007年は、札幌ドームでの主催ゲームを含め、11試合を東京ドーム以外で行った。(
8月24日 -
9月6日)なお都市対抗が7月下旬 - 8月初旬の開催だった頃も長期遠征があったが、この時は主催試合はなかった(全て他球団主催のビジターマッチ)。
2008年は
8月29日 -
9月11日までの12試合が組まれ、
京セラドーム大阪と
松山坊っちゃんスタジアムの変則3連戦が主催試合となっている。
ホームでのデーゲーム開催
東京ドームでのデーゲーム開催の恒常化も検討されている。
後楽園時代は頻繁に日曜日や
ゴールデンウィーク期間中のデーゲームが開催されていたが、東京ドームが開業した
1988年以降は、初期にゴールデンウィーク期間中や開幕シリーズなどで部分的にデーゲームを開催した事例はあるものの、後には
ビジターゲームも含めてデーゲームで開催されることは殆どなくなり、ナイター設備がない円山球場・
旭川スタルヒン球場での北海道シリーズ(現在は
札幌ドームで行われる)と消化試合などで組まれる程度となった(2002年度の札幌ドームでの北海道シリーズは
ワールドカップサッカー日韓大会=札幌ドームも会場の一だった=のテレビ中継の関係で3試合ともデーゲーム開催だった。また2004年9月23日の
横浜スタジアムでの横浜戦もデーゲームで開催された)。しかしファン離れが深刻になってきていることを踏まえて、春季の試合を中心に年間6-7試合程度を日曜日のデーゲーム開催で対応することでファンの更なる増加を目指そうという考えを示しており、以下のような活動が認められる。
2005年は東京ドームでの日曜日のホームゲームのうち、5試合(5 - 6月の
交流試合(日本版インターリーグ)3試合、セントラル・リーグ2試合)の試合開始を17時からのトワイライトゲーム(ナイトゲームは18時開始)、また5月5日の
横浜戦は14時からのデーゲームとした。また、ビジターゲームでは5月1日の
広島戦(
広島市民球場)と、9月17・18日の横浜戦(横浜スタジアム)2試合の週末の3試合がデーゲームで開催された。
2006年は全てのホームゲームで試合開始を18時のナイターに戻すことになった。一方ビジターゲームでは広島、横浜戦に加え、
ナゴヤドームでの
中日戦についても、一部土・日開催分に関してはデーゲームで行った。対象となるのは横浜戦3試合(4月16日、9月16日、17日)、広島戦2試合(7月8日、9日)、中日戦4試合(4月8日、9日、6月24日、25日)の9試合。これは、テレビ中継を行う放送局のゴールデンタイムの定時番組枠確保という狙いもある。
2007年はホームゲームでは6月23日の
西武戦(
ひたちなか市民球場)と7月15日の広島戦(東京ドーム)の2試合、ビジターゲームでは
神宮球場での
ヤクルト戦についても、一部土・日開催分に関してはデーゲームで開催されることになり、また交流試合でも
楽天戦及び西武戦がデーゲームで開催される。対象となるのは横浜戦4試合(3月31日、4月1日、9月1日、2日)、広島戦2試合(6月30日、7月1日)、中日戦3試合(5月3日、19日、20日)、ヤクルト戦2試合(7月7日、8日)、楽天戦1試合(5月26日)、西武戦1試合(6月3日)の13試合である。
2008年はホームゲームでは日曜日を中心に8試合(1試合を除き会場は東京ドーム)組まれることになった。対象となるのは阪神戦2試合(4月6日、5月6日)、ヤクルト戦4試合(4月13日、7月27日、9月13日、14日)、横浜戦1試合(7月13日)、中日戦1試合(7月15日 この試合だけ旭川での平日デーゲーム)である。一方、ビジターゲームではヤクルト戦2試合(3月29日、30日)、広島戦4試合(4月19日、6月28日、29日、9月23日)、中日戦2試合(7月5日、6日)、横浜戦2試合(7月19日、20日)、西武戦1試合(5月24日)、楽天戦2試合(6月14日、15日)の13試合となり、ホーム・ビジター合わせて21試合となる。なお、阪神戦の東京ドームでのデーゲームは
1991年以来17年ぶり、阪神主催分を入れると
2002年の薄暮(17時開始)以来である。
キャンプ期間中のファンサービス
2005年度の
宮崎キャンプで様々なファンサービス事業を実施した。内容は以下のとおり。
- 会場に訪れるファンのためにその日の練習プログラムを紹介する「ジャイアンツ新聞」を毎日配布。
- OBの長嶋一茂、宮本和知、水野雄仁が宮崎県内の小学校を訪れてトークショーを行った。
- 週末と祝日には全国各地の小学校をテレビ電話やインターネット回線の中継で結んで選手とのふれあいトーク会を開催した。
- 練習開始前・終了後にグラウンドをファンに開放し、選手とのサイン・握手会なども開いた。
FA制度導入以後の補強傾向
マスコミ(読売・報知・日テレなど)を親会社に持っており、チーム成績が放映試合の視聴率や新聞の売上に直結しているため、好成績を目指して投入される資金額は大きい。またチームに真新しさを求める親会社の意向の為に毎年のように新しい大物選手の獲得を目指すこととなる。特に
FA制度が導入された
1993年以降は同制度を利用して大物選手の獲得が容易になった事もあって、毎年のように選手獲得が目指されている。-
読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧も参照
しかし、そのような親会社の事情が反映されるあまり、本来の強化ポイントと外れた選手の獲得に奔走したり、ポジションの被る選手を獲得するなど、むしろその補強がチーム強化の障害となっている。2000年以降は
松井秀喜を除いて、高校生出身の生え抜きのスター選手が少ない。このように、生え抜き選手の目立った台頭がないため、毎年のように補強に頼らざるを得ない状況が続く。2005、2006年度の
Bクラスの要因として、主力選手の故障もさることながら、選手層の薄さ、特に若手選手の層の薄さが挙げられる。チームの将来を見据えた、長期的展望を描けない状況、新旧転換時期を先送りする姿勢が、FA制導入以降の特徴といえる。また、獲得対象が4番打者、エースクラスと節操がないため、他球団のファンの顰蹙を買うことも少なくない。特に、
鹿取義隆退団以来の課題である「絶対的なクローザー」については2007年は
上原浩治がやったものの、毎年補強失敗を繰り返している。2007年度オフ、
横浜ベイスターズの
マーク・クルーン投手の獲得を発表。
1990年代では「巨人軍」或いは当時監督であった「
長嶋茂雄」というブランドの求心力でFA宣言した他球団の4番・エース、またアメリカの
メジャーリーグなどで活躍した外国人選手などを獲得。特に4番を集めるというのは当時の長嶋監督の「ホームランをたくさん打って子供たちに夢を与えたい」という方針でもあった。この積極的な補強のため、「FA選手の獲得は1球団2選手まで」という制限も誕生した。
近年、巨人が他球団から獲得した選手の成績を見ると、ほとんどの選手が巨人移籍前に比べて成績を落としている。その原因はいくつか考えられる。まず、巨人が好んで利用するFA制度には、選手が権利を獲得するまでに年数がかかり過ぎるという問題点が挙げられる。この規制のため、FA権を獲得した選手は、その時点で選手としてのピークに達していることが多い。つまり、その後は大幅な成績向上を見込めないどころか、成績が下降していく選手も少なくない。巨人に限らず、FA移籍の選手が移籍後に活躍した例は多いとは言えない。
マスメディアの注目度という要因も無視できない。マスメディアを通した露出度で言うと、巨人戦は全国ネットでTV中継されるので、他の試合に比べて露出度は格段に上と言える。その結果、巨人の選手は他球団の選手よりも多くの注目を集め、人気を獲得している。しかし一方で、巨人と対戦する球団は、ほかの試合に比べて多くの注目を集められる巨人戦に全力を注ぐ傾向がある。その結果、巨人は各チームのエース級の投手との対戦が続くなど、好成績を挙げにくい状況に置かれやすい。最近でも、阪神がセ・リーグを独走していた2008年の交流戦においてまで、パ・リーグの全球団が巨人戦に合わせてローテーションを組んでいた。
背番号の大量変更
球団史上初となる4年連続優勝逸・2年連続Bクラスとなった
2006年オフ、ジャイアンツは
原監督の意向により、選手への「発奮材料」として育成選手を含め実に
25人の選手の背番号を変更した。
変更は以下のとおり
5000勝キャンペーン
- 2006年のリーグ戦終了時点で、巨人軍は1936年の公式戦初勝利から数えて4982勝をあげており、2007年度の公式戦中にも日本のプロ野球で史上初となる5000勝を達成する可能性があった。そこで5000勝達成記念キャンペーン企画を実施した。
- 1つはオープン懸賞で、5000勝の達成日付を予想し、正解した参加者に500万円分の旅行券、サマージャンボ宝くじ5000枚分などが当たるもの。
- もう一つは東京ドーム開催のホームゲームにおいて、各試合抽選でファンにiPodなど、また勝利ゲームに関してはその試合のヒーロー選手サイン入りのカウントダウンボール(実際の使用球)を贈呈する。
- そして2007年5月2日対中日5回戦(ナゴヤドーム)で日本プロ野球史上初の5000勝達成。1965年に通算2000勝をはじめ、1979年に3000勝、1993年に4000勝とすべて対戦相手が中日で、今回5000勝したのも中日戦だった。
- 通算勝利数が5000勝となった記念として2007年5月4日に1961年 - 1974年まで使用されたユニフォームを2007年6月8日・6月9日の対楽天交流戦と同年6月10日・6月11日の対日本ハム交流戦用として復刻使用すると発表した。前者(楽天戦)はホーム用、後者(日ハム戦)はビジター用を使用した。後者で本拠地で戦うのは公式戦に限れば1963年以来(この時代は後楽園球場。この年まで国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)と併用していた)44年ぶりとなる。また日テレでは6月8日 - 11日に限り(6月9日はNHK中継のため対象外)、「V9復刻ナイター」と称してV9が始まった1960年代当時の「日本テレビナイター中継」をBGMから字幕スーパーにいたるまで忠実に再現したものになった。(ただし特定のジャイアンツ攻撃中のイニング限定)
- また、5月4日から5月13日にかけての主催6試合(4日から6日の東京ヤクルト戦、11日から13日の中日戦)を「5000勝達成記念感謝週間」として、観客に5000勝を記念した5円硬貨入り大入り袋(鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社で球団関係者が洗い清めたもの。5000勝を決めた5月2日・中日戦の日付とスコア入り)を贈呈するとともに、抽選で巨人軍特製グローブ(1試合20人)とトランプ(1試合400人)を贈呈する。
- 6月8日には、当時の監督だった川上哲治をはじめとしたV9戦士(福岡ソフトバンクホークスの監督である王貞治を除く)が復刻ユニホームを身に着けて東京ドームに集結し始球式を行った。投手は、堀内恒夫。
-
京王線各駅のA Lot(駅売店)では協賛キャンペーンが実施されていた。
マイレージキャンペーン
- 巨人軍は2007年度のファンサービスキャンペーンのひとつの目玉として「ジャイアンツポイントチャレンジ・G-Po」を実施する。
- ファンはG-Poのウェブサイトにある会員募集フォームに必要事項を入力し、仮登録確認画面(もしくはメール)をプリントアウトし、東京ドーム主催試合開催日のカウンターで正式登録を行う。その時点でカードが配布される。(発行手数料無料。この時点で10ポイント贈呈)
- その他携帯電話(同じく10ポイント贈呈)、東京ドームカウンター(この場合手数料200円必要)でも受付される。
- 来場時に20ポイント(週末と祝日は10ポイント)が付与され、さらに試合の活躍動向によるボーナスポイントや、巨人軍ファンクラブ会員やシーズン席購入者などにはシーズン開幕前のアドバンテージポイントとして20-40ポイントが付与される。
- 200ポイント以上獲得ならそのポイント獲得数に応じてピンバッチコレクションをプレゼント。(それぞれ3種類ずつ。全12種類)さらに東京ドーム観戦席ご招待やシーズン終了後のポイント最高獲得者にはチャンピオンペナントに選手のサインを添えて原監督直々に感謝デーで贈呈するほか、日本一になった場合の優勝パレード観覧ご招待などの企画を行う。
- 2008年は少しバージョンアップさせ、これまでの無料会員にプラスして有料会員も募集される。
- プライムメンバー 年会費4800円
- ジュニアメンバー(2008年4月で小学生以下の会員のみ限定) 年会費3500円
- エンジョイメンバー 年会費無料(2007年度会員で希望者は継続会員となることが出来る)
- 有料会員の特典
- プライムメンバーには「オレンジシート」「G-POエリア」の会員限定座席に優待、それ以外の座席についても一般販売に先だって会員限定優先抽選発売が受けられる。(巨人ホームゲーム=地方開催分含む全試合。クライマックスシリーズは抽選でなく完全先行発売)この場合でもチケット購入ポイントが獲得できる。
- またビジターのうち阪神甲子園球場での阪神戦、ナゴヤドームでの中日戦は外野レフトのビジター応援団席を会員限定抽選発売する。この場合はチケット購入ポイント加算はなし。
- また「ウェルカムチケット」として、東京ドームD指定席(地方開催分は外野自由席)に希望者の応募で抽選でご招待する。(1名辺り年間20試合まで)
- その他グラウンド体験ツアー(球場の練習見学や、ベンチ等のバックステージ見学が出来る)、試合前の表彰式花束贈呈、スピードガン測定、内野・外野ノック体験(以上は希望者抽選)、勝利時の選手とのハイタッチ(携帯電話利用会員希望者限定)、ファンフェスタご招待(希望者抽選)、イースタン・リーグ主催試合無料招待が受けられる。
- 来場ポイントが全日10ポイントに統一される。アドバンテージポイントは有料新規会員に50ポイント加算。
主催試合の中継
詳細は読売ジャイアンツの主催試合の中継を参照
長年、主催試合のテレビ中継は読売系の
日本テレビによる独占状態が続き(但し
1959年6月25日の
天覧試合・
阪神戦だけ
NHK総合テレビジョンとの併用中継)、全国の系列局へネットされていた事から、全国に多数の巨人ファンを獲得した。2004年から視聴率の低迷をうけて日本テレビの独占が崩れ、他局の中継も行われるようになった。それにあわせて中継試合が削減されたり、中継時間が縮小されるなどしている。
<!--記事内容の正当性に疑問があるためノートにて議論提示します、ノートをご確認ください。
株主構成
-
現在
- 読売新聞社
- 日本テレビ
日本テレビは巨人の球団株を保有し、日本テレビ出資の
アール・エフ・ラジオ日本が横浜球団株を保有しているため、野球協約に違反している。にも関わらず、横浜ベイスターズの株問題の際には渡辺恒雄はフジサンケイグループを痛烈に批判していた。
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関連項目
読売ジャイアンツを主な舞台とする作品
参考文献
- 項目全般
- 宇佐美徹也 『宇佐美徹也の記録巨人軍』、2000年
- 越智正典 『ジャイアンツの歴史』、1974年
- 巨人軍歴史新聞編纂委員会『巨人軍歴史新聞』、2000年
- ベースボール・マガジン社 『日本プロ野球40年史』、1976年
- チーム成績・記録節については以下のとおり
- 読売巨人軍広報部『2007年 メディアガイド』、2007年
脚注・出典
外部リンク
*よみうりしやいあんつ