名称
元々は
中臣氏の一族で初期の頃には
中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)と名乗っていた(
欽明天皇朝で
物部尾輿と共に排仏をおこなった
中臣鎌子とは別人)。その後
中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)に改名。そして臨終に際して
大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、生きていたころの彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」を用いる。
系譜
父:中臣御食子、母:大伴夫人(大伴囓子の娘)の長子。
- 正妻:鏡王女(?-683)(最初、中大兄皇子妃であった)
- 妻:車持与志古娘
- 長男:定恵(俗名、真人)(644-665)(僧侶)
- 次男:不比等(659-720)(『尊卑分脈』による。なお『興福寺縁起』では不比等の母は鏡王女とされている)
- 母未詳
来歴
早くから中国の史書に関心を持ち、『
六韜』を暗記した。隋・唐に留学していた
南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、
蘇我入鹿とともに秀才とされた。『
日本書紀』によると
644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭官につくことを求められたが、鎌足は固辞して
摂津国三島の別邸に退いた。
密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(
孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近した。また、蘇我一族内部の対立に乗じて、
蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。
645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の
蘇我蝦夷を自殺に追いやった(
乙巳の変)。この功績から、内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を握った。ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。
その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の
阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我(倉山田)石川麻呂と対立した。647年の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。649年に梯麻呂・石川麻呂が死去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年(白雉5年)ごろには大紫冠(だいしかん)に昇格した。669年、死の直前に天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。天智天皇から大織冠を授けられ、
内大臣に任じ、「藤原」の
姓を賜った。
鎌足の業績ははっきりしていない。『藤氏家伝』には
近江令の編纂を命じられたとされているが、これを疑問視する研究者も多い。
墓所・祭所
『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれたときにどこからか鎌をくわえた白い狐が現われ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたと描かれている。このエピソードにちなみ、談山神社では鎌をくわえた白狐のお守りが売られている。
墓処は定かではないが、『
日本三代実録』
天安2年(
858年)条には「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」という記述があり、平安時代中ごろ成立と見られる『多武峯略記』などに「最初は摂津国安威(現在の
大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。
<!--覚え書き。
内臣(のちの内大臣)に任じられたのは大化元年。冠位は、大錦。
当時の左大臣は阿部内麻呂。右大臣は、蘇我倉山田石川麻呂。
大化四年、阿部内麻呂、没。直後蘇我倉山田石川麻呂失脚して自殺。
かわりの左大臣は、巨瀬徳陀古、右大臣は、大伴長徳
白雉五年 大紫。
斉明天皇四年、巨瀬徳陀古、没。
天智天皇十年、太政大臣、大友皇子。左大臣、蘇我赤兄。右大臣、中臣金。
-->
和歌
『
万葉集』に2首所収。『
歌経標式』に1首所収。『万葉集』の1首は正室・鏡女王に送った物で、もう1首が鎌足が
采女安見児(やすみこ)を得たことを喜ぶ歌である。
『われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり』
(私は安見児を得た、皆が手に入れられないと言っていたあの安見児を得たのだ)
采女とは、各国の豪族から天皇に献上された美女たちである。数は多しといえども天皇の妻ともなる資格を持つことから、当時、采女への恋は命をもって償うべき禁忌であった。鎌足の場合は、おそらく天智天皇に覚えが良かったことから、特別に采女を賜ったのであろう。
上の歌には万葉らしく、鎌足の二重の喜びが素直に表現されている。すなわち、恋を成就した歓びと、天皇が自分だけに特別な許可を与えたという名誉である。
関連項目
補注
外部リンク
かまたり
かまたり