社団法人経済同友会(けいざいどうゆうかい、
Japan Association of Corporate Executives )は、
日本経団連、
日本商工会議所と並ぶ、「経済三団体」の一つ。
組織概要
企業経営者が個人の資格で参加し、国内外の経済社会の諸問題について、一企業や特定業界の利害にとらわれない立場から自由に議論し、見解を社会に提言することを特色としていた。発足は、
第二次世界大戦敗戦後、占領軍による財界パージで旧経営陣は一掃され、各企業では部長クラスの中堅幹部がいきなり経営の舵取りを担うこととなった。戦後の混乱状況が続く中、若手経営者たちがお互いに切磋琢磨しながら親交を深める団体が必要であるということから、
諸井貫一(秩父セメント常務)と
郷司浩平(重要産業協議会事務局長)が中心となって、米国の青年会議所や全米製造業者協会を参考にしながら骨子をまとめ、
1946年4月30日に東京丸の内の
日本工業倶楽部にて設立総会が開かれた。設立趣意書には、メンバーの並々ならぬ意気込みと理想主義があった。「日本はいま焦土にひとしい荒廃の中から立ち上がろうとしている。新しき祖国は人類の厚生と世界文化に寄与するに足る真に民主々義的な平和国家でなければならない…われわれは経済人として新生日本の構築に全力を捧げたい」
創立時の幹事
氏名肩書年齢
青木均一品川白煉瓦社長48
磯村乙巳保土谷化学社長41
岩井雄二郎岩井産業社長43
牛尾健治神戸銀行取締役47
大塚万丈日本特殊鋼管社長49
金井寛人日本塩扱社長48
川勝傳寺田合名理事44
川北禎一日本銀行理事49
栗本順三栗本鉄工顧問44
小池厚之助山一證券社長47
郷司浩平重要産業協議会事務局長45
櫻田武日清紡績社長42
鹿内信隆日本電子工業常務34
島田藤島藤組社長50
清水康雄清水組社長45
鈴木治雄昭和電工常務33
鈴木万平東洋紡績社長42
武富英一大成建設会長59
寺田栄吉大日本紡績常務44
永野重雄日本製鉄取締役45
野田信夫三菱重工業調査役53
萩尾直東芝柳町工場副工場長48
藤井丙午鉄鋼協議会事務局長40
帆足計日本産業協議会創立委員40
堀田庄三住友銀行東京支店長47
松本幹一郎明治鉱業社長51
森暁昭和電工社長38
諸井貫一秩父セメント常務50
渡辺忠雄三和銀行常務47
設立総会後、幹事会が委任を受けて、次の13名を幹事に追加した。
- 刀根文雄 - 三井精機社長
- 今井一三 – 三井物産常務
- 二宮善基 – 日本興業銀行理事
- 藤本輝夫 – 理研工業社長
-
水野成夫 – 国策パルプ常務
-
正田英三郎 – 日清製粉社長
- 堀武芳 – 日本勧業銀行理事
-
麻生太賀吉 – 麻生セメント社長
- 熊沢貞夫 – 王子製紙取締役
- 寺岡恭次郎 – 芝浦工機理事
- 瀬戸弥三 – 日本鋼管取締役
- 永井仙吉 - 日興証券取締役
- 中村隆一 – 日立製作所総務部長
企業民主化提案と大塚万丈
戦後
GHQは
ポツダム宣言に基づき、経済の民主化を推し進めていった。同友会としても議論・見解を整理する必要に迫られ、
1947年1月、
大塚万丈を委員長とする経済民主化委員会を発足させた。大塚は精力的に調査活動を進め、企業活動の中心は株主でなく経営者に置かれるべきであるとしたジェームズ・バーナム(James Burnham)の『経営者革命』などを参考にして試案をまとめ、
1947年8月に「修正資本主義の構想」という表題で起草された。
大塚試案は企業の民主化改革を大胆に謳ったもので、
(1) 企業は経営、資本、労働の三者で構成される協同体とする、(2)企業の最高意思決定機関として「企業総会」を置き、経営、資本、労働の三者の代表で構成する、(3)企業利潤の分配は、経営、資本、労働の三者が対等の権利を有する 、という画期的な内容であった。しかしながら、あまりにもラディカルであったため、財界の保守派から資本主義の否定につながると批判を浴び、同友会内部でも、
青木均一や磯村乙巳らの保守派は激しく反発した。事態収拾のため、大塚試案については同友会見解として機関決定しないこととした。全体の合意を得るには至らなかったものの、流行語となった「
修正資本主義」という言葉とともに、同友会の進歩性を大きく世間に印象付けることとなった。また、これ以後労使協調をベースに問題の解決を図る姿勢が同友会に定着することとなり、大塚試案が果たした役割は決して小さいものではなかったといえる。
主な活動・提言
発足以来、同友会は様々な提言や活動を行ってきた。ここでは以下に主なものを紹介する。
生産性運動
第二次大戦後の西欧諸国では、疲弊した経済を再建するため、米国の生産性の高さに学ぶべきだという気運が高まり、各国で生産性向上運動が展開されていた。日本においても、1950年代初頭に大争議を経験し、労使が対決し合うだけでなく、経営者の側から新しい経営理念を提示して状況の打開を図るべきであるという意見が強まっていた。
1953年にヨーロッパ視察を行った
郷司浩平は、直ちに各方面に生産性運動の導入を働きかけていった。経済の復興と成長による資本主義体制の安定化を期待した米国の支援もあって、
1955年3月に、
(1)雇用の維持拡大、(2)労使の協力と協議、(3)成果の公平な分配の三原則を柱として
日本生産性本部が発足した。初代会長に
石坂泰三(東芝社長)、副会長に
永野重雄(富士製鉄社長)と
中山伊知郎(一橋大学教授)、専務理事に郷司が就任した。郷司は後に第3代会長となる。
生産性運動についての労働界の反応は、
同盟は「日本経済の自立と国民生活の向上を目指す総合的施策に貫かれた運動である」と好意的であったが、
総評は「経営者側が労使協力、生産性向上の美名の下に、労働強化と賃金抑制を図る」目論見であるとして批判的であった。日本生産性本部は
1994年に社会経済国民会議と統合され、
社会経済生産性本部に改組されて現在に至っている。
「経営者の社会的責任の自覚と実践」
1955年頃、政争や汚職による政治不信の蔓延と労働攻勢に危機感を抱いていた
大原総一郎(倉敷レイヨン社長)は、議会制民主主義擁護のために経済界も積極的に働き掛けを行わなければならないと訴え、財界関係者に同調を呼びかけていた、声望の高い大原の問題意識に触発され、同友会も創立十年を期に、企業の社会的な存在意義とかくあるべき経営理念のあり方について研究を進めることとなった。
1956年3月から8ヶ月にも及ぶ研究と議論を経て、
1956年11月に「経営者の社会的責任の自覚と実践」として機関承認された。
概要をまとめると、経営者は「経済体質の改造」と「企業経営の近代化」が最大任務とされ、前者においては
(1)社会平衡力の形成(各経済勢力間のチェック・アンド・バランスの確立)と
(2)公正競争ルールの確立が重要な方策であり、後者では
(3)技術革新と市場開拓を中心とする企業所得の増大、(4)企業所得の公正な分配、(5)後継経営者の養成が、企業が維持発展によって社会的責任を果たすための基本的対策であるとしている。これを期に、「経営者(企業)の社会的責任」という言葉が人口に膾炙するようになった。またこの理念をバックボーンとして、後に
木川田一隆らによって、「民間主体の自主調整」が経済人の社会的責任であるとして唱えられるようになる。
産業問題研究会
1965年頃の日本経済は、貿易の自由化に伴う国際収支の悪化と過剰設備投資に起因する需給バランスの崩れにより不況に陥り、
山陽特殊製鋼の倒産や
山一証券への日銀特別融資の発動などの大事件が連発し、経済界は深刻な危機意識を持っていた。折りしも当時「ミスター通産省」の異名を取っていた
佐橋滋通産省企業局長のイニシアティブにより、貿易・資本の自由化に備え、競争力強化のために企業再編を官僚主導で推進することをねらった「特定産業振興臨時措置法案」が国会に提出され、財界に衝撃を与えた。
各経済団体は猛反発して法案成立阻止に動き、結局廃案に終わったが、この経緯から、当時の代表幹事
木川田一隆(東京電力社長)らは「石坂泰三流の
レッセ・フェール(自由放任主義)では危機を乗り切るには限界があり、政府の介入を防ぐためにも、産業界が自主的に調整を行うべきだ」との思いを強くしていた。木川田と
中山素平(日本興業銀行頭取)、岩佐凱実(富士銀行頭取)を中心に、民間版産業調整会議の発足に動き、
1966年頃から徐々に会合を重ね、「産業経済研究会」(略称「産研」)の名称の下で本格的な活動を行うこととなった。
永野重雄、
土光敏夫(東芝社長)ら財界の実力者が結集し、マスメディアは「財界参謀本部」などと書きたてた。
国際競争に立ち向かうための産業再編成と経済構造の改革について論議され、積極的に社会に提言された。代表的なものとしては、 (1) 投資の効率的な投入により競争力の向上が期待できるとして
八幡製鉄と
富士製鉄の合併を支持した
「八幡・富士合併について」の見解採択(
1968年)や、(2)
1974年参議院選挙での
自由民主党大敗を期に別働隊として立ち上げられた「政治資金と議会政治の近代化委員会」(
今里広記委員長)による、
自民党への政治資金献金を取り止める絶縁提言の発表がある。
産研は、一時期は財界五団体(同友会のほか、経団連、日商、
日経連、
関西経済連合会)のトップがメンバーとして顔を揃え、日本の財界をリードする組織として君臨するものと思われたが、皮肉なことに、主要団体の協調体制が進む一方で、革新的な提言や行動は次第に影を潜めていった。木川田は
1977年に逝去、後継者の河野文彦(三菱重工業会長)も
1982年に亡くなり、以後事実上活動は停止した。産研の興隆と衰退は、同友会自体の行く末を先取りするものであったのかも知れない。
現況
同友会は以前から会員の老齢化に伴い「
経済老友会」、一体「
どうゆう会」などと揶揄されていた。ここ最近、同友会を経て経団連や日商の要職に転ずる財界人があまりにも多いため「
財界人養成所」などともいわれている。元代表幹事の
小林陽太郎のように、同友会の理念に基づいて問題意識を持って参加している会員もいるが、全体として「不要論」「他団体との合併」の声を払拭するほどの存在感を示すに至っていないのが現状である。個人参加を建前としながら、実際には出身会社に会費を負担させている例が少なくないと、古賀純一郎は『経団連』(
新潮社、2000年)の中で指摘している。
利益重視、株主重視の経営が主流となる中、同友会が設立当時の理念に立ち、かくあるべき経済社会のあり方を広く訴えていく方向性も取り得るはずであるが、なかなか声が聞こえてこない。むしろ
奥谷禮子理事の「
過労死自己責任論」「
労働基準監督署不要論」など、かつての同友会を知るものの耳を疑わせるような声が目立ってしまう状況である。
歴代代表幹事
複数代表幹事制をとっていた時期があるため、在任期間が一部重複している。
参考文献
- 山下静一『戦後経営者の群像 私の「経済同友会」史』(日本経済新聞社、1992年)(ISBN 4-532-16045-6)
- 岡崎哲二・菅山真次・西沢保・米倉誠一郎『戦後日本経済と経済同友会』(岩波書店、1996年)(ISBN 4-00-002996-7)
関連項目
外部リンク