肥後宇土藩主・
細川立之の長男。母は
土井利厚の娘。正室は
浅野斉賢の娘。子に
細川慶前(長男)、
細川韶邦(次男)、
細川護久(三男)、
津軽承昭(四男)、
長岡護美(六男、熊本藩執政)、娘(越前
松平慶永正室)。幼名は与松。宇土藩主時代は立政と名乗る。官位は従四位下、中務少輔、
越中守、左近衛権中将。
侍従。
父の後を継いで宇土藩主となっていたが、
文政9年(
1826年)に叔父で第9代藩主・
細川斉樹の養嗣子となって本家の家督を継いだ。この時、名を立政から斉護に改め、宇土藩主は弟の
細川行芬が継いでいる。
当時、熊本藩では代々の藩主による出費などで、すでに80万両という膨大な借金を抱え、財政は破綻寸前となっていた。しかもこのような中で、
アメリカや
イギリスなどの日本接近もあって、幕府から
天草地方や
相模湾警備を命じられ、その出費で財政はさらに悪化した。このため、斉護は財政再建のために藩政改革に取りかかるが、重臣の
横井小楠と松井佐渡が藩政改革の方針をめぐって対立し、かえって藩内が二分されてしまった。このような混乱と苦悩の中での万延元年(1860年)、斉護は57歳で死去したのである。後を次男・韶邦(慶順)が継いだ。
ほそかわなりもり
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なりもり
ほそかわ なりもり
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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