経歴
大学予備門では
東京帝国大学進学を目指すが、秋山家の経済的苦境から真之は兄の好古に学費を頼っていたため、卒業後は文学を志して帝国大学文学部に進む子規らとは道を異にし、明治19年(
1886年)に
海軍兵学校に17期生として進学。明治23年(
1890年)に海軍兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となる。卒業後は
少尉候補生として海防艦「
比叡(初代)」に乗艦して実地演習を重ね、座礁した
トルコ軍艦の生存者送還(
エルトゥールル号遭難事件)にも従事する。
日清戦争では通報艦「
筑紫」に乗艦し、偵察など後援活動に参加。戦後には「
和泉」分隊士、明治29年(
1896年)年1月には横須賀に転属し、日清戦争での
水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(
海軍水雷学校)の学生となり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第2水雷隊付となる。のちに報知艦「
八重山」に乗艦し、
海軍大尉となる。同年11月には
軍令部諜報課員として中国東北部で活動する。
明治31年(
1898年)に海軍の
留学生派遣が再開されると派遣留学生に選ばれるが、公費留学の枠に入れずにはじめは私費留学であった。
アメリカへ留学した真之は、
ワシントンに滞在して海軍大学校校長、軍事思想家である
アルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に務める。このとき
米西戦争を
観戦武官として視察し報告書を提出する。
アメリカ海軍が
キューバの港を閉塞する作戦を見学しており、このときの経験が日露戦争における
旅順港閉塞作戦の礎となったとも指摘されている。翌 明治32年(
1899年)1月にはイギリス駐在となり視察を行い8月に帰国。明治33年(
1900年)には
海軍省軍務局第1課員、
常備艦隊参謀となる。
明治38年(
1905年)12月の連合艦隊解散後は巡洋艦の艦長を歴任し、第1艦隊の参謀長を経て大正元年(
1912年)12月1日からは
軍令部第1班長(後の軍令部第1部長)に任ぜられる。
大正3年(
1914年)、軍艦建造を巡る疑獄事件である
シーメンス事件が起こる。事件は政府批判に発展し、また、事件に際しては秘密裁判主義に基づいているとして改正が検討されていた陸海軍治罪法の問題が再燃し、衆議院議員の
花井卓蔵が賛同者を集め、軍法会議の公開などを要求。同年1月に調査委員会が設置されると、その委員の一人に指名される。3月に
山本権兵衛が退陣し、
大隈重信内閣が発足すると、
海軍大臣には
八代六郎が任命され、秋山は
海軍省軍務局長として八代を補佐することとなった。秋山は軍艦建造のための臨時会議召集をはたらきかけ、予算成立に尽力する。11月に治罪法改正委員会が設置されると、花井卓蔵らと論争を行う。大正5年(
1916年)2月には軍令部に転出となったため、委員は
鈴木貫太郎に引き継がれる。
軍務局長時代には、上海へも寄港する軍艦「
音羽」に乗艦して中国を実地見聞し、留学生の受け入れなどを提言している。また、
孫文とも交流があったと言われ、非公式に革命運動を援助。小池張造らと同志を集め、革命運動を支援する“小池部屋”を結成。
久原房之助など実業家に働きかける。明治44年(
1911年)、
辛亥革命で清朝が打倒され、
中華民国が成立。大正4年(
1915年)に
袁世凱が皇帝に推戴されると、中国各地で反対運動が起こり、日本政府など諸外国も抗議。またこの頃、
川島浪速ら大陸浪人と
参謀本部田中義一参謀次長らが主導した第二次満蒙独立運動に外務省政務局長となった小池とともに加わっている。その後、軍令部転出となったため、対中政策からは離れる。
大正5年(1916年)3月には、
第一次世界大戦を視察するためにヨーロッパへ渡る。朝鮮半島からシベリア鉄道へロシア、フィンランドなど東欧などを視察。5月にはイギリスへ渡り、日本海海戦を観戦したペケナム中将、イギリス艦隊司令長官のジェリコ提督らに歓迎される。フランス、イタリアに滞在したのち、翌 大正6年(
1917年)9月にはアメリカへ渡り、10月に帰国。帰国後には
第2艦隊の水雷司令官となるが、病状悪化もあり直ぐに辞職。同年7月には名誉職としての海軍将官会議議員となる。
大学校教官時代には、
佐藤鉄太郎らが主宰していた研究会「天晴会」に勧誘され、経典を研究するようになり、晩年は霊研究や宗教研究に没頭するようになった。軍人にも信仰する者が多かった
日蓮宗に帰依。また、神道家の川面凡児に師事して神道研究を行い、二人で皇典研究会を設立。
勢力拡大期にあった
新興宗教の
大本教には
海軍機関学校教官の
浅野和三郎との親交も縁となり入信、綾部参り等を行ったが信仰ではなく神道研究が目的であったとも言われる。
後には仏教研究に戻り、生涯特定の宗教に帰依したりはしなかったようである。大正7年(
1918年)に死去する直前には
般若心経を唱えていたという。
晩年は
腹膜炎を煩って
箱根で療養に努めたが、のちに悪化して小田原の
山下亀三郎別邸にて死去。享年49。
人物
日露戦争における
日本海海戦が彼の人生のピークであったと評されることもあり、最後は中将まで登りつめたが、
第一次世界大戦の結果を見事に言い当てた事を除き、以後は特に目立った活躍をしていない。
しかしながら、日本海軍では長らく秋山真之を神秘的な名参謀として崇拝の対象としていたようである。ただし、近年の研究によって、秋山の業績として知られていたものに、実際には
島村速雄の発案・企画を継承したものであることが明らかになっている部分が少なからずあり、研究が進められている。
同郷の俳人・
正岡子規とは幼少時代よりの友人であり、東京へ行った後も共立学校の同級生として交遊し、和歌なども学ぶ。また、
大蔵官僚となった
勝田主計も秋山や子規の松山時代からの友人として知られている。東郷平八郎は「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と評価した。
秋山真之は、名文家としても知られており、後に「秋山文学」と称せられるほどの文章家でもあった。
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節である『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』は、「本日天気晴朗ノ為、我ガ連合艦隊ハ敵艦隊撃滅ニ向ケ出撃可能。ナレドモ浪高ク旧式小型艦艇及ビ水雷艇ハ出撃不可ノ為、主力艦ノミデ出撃ス」という意味を、漢字を含めて13文字、ひらがなのみでも僅か20文字という驚異的な短さで説明しているため、今でも短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として高く評価されている(モールス信号による電信では、わずかな途切れでも全く意味の異なる文章になるため、とにかく文章は短ければ短いほど良いとされている)。
また
Z旗の信号文「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も彼の作である。
また、
日本海海戦に勝利した
連合艦隊の解散式における、東郷平八郎の訓示(
聯合艦隊解散の訓示)の草稿も秋山が起草したものとされている。この文章に感動した時の米大統領
セオドア・ルーズベルトは、全文英訳させて、米国海軍に頒布した。
身なりなどを気にしない性格であったと伝えられる。晩年の宗教研究は戦争で目撃した人の生死や戦争の勝敗について人知外の力を感じたとされる。
日本海海戦に関しては事前に戦況を幻で見たと語っている。
山本英輔大将は、秋山はあまりに理性的なため、理論で突き詰められない宗教にのめり込むことが出来なかったのだろうと指摘する。
なお参謀としての秋山の功績は、長らく東郷平八郎の影に隠れ、広く一般に知られている人物とは言い難かったが、戦後
島田謹二によって紹介され、
昭和47年(
1972年)に
司馬遼太郎が発表した小説『
坂の上の雲』で主人公としてとりあげた結果、国民的な知名度を得るようになった。
逸話
- 幼少の頃は腕白なガキ大将だった。多くの子供を引き連れて戦争ごっこをするにとどまらず、本を参考に花火を打ち上げたりするほどだった。あまりにも腕白がすぎるため、貞は「お前も殺して私も死ぬ」と言って涙を見せるほど手を焼いた。他に絵や水泳、かけっこが得意であった。
- 少尉候補生時代、食事中にパンくずでビスマルクやナポレオン、豊臣秀吉などの頭像を作って遊んでいた。
- 同じく候補生時代、後輩から「猛勉強しているわけではないのになぜいつも成績がトップなのか?」と聞かれた真之は「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだ。また必要な部分は何回も説明することから試験問題を推測できる」と、答えた。
- 煎り豆が好物で、ポケットに忍ばせてよく食べていた。
- アメリカからの帰国中、賭博詐欺にあった。イカサマだと気づいた真之は、リーダーの男を部屋に連れ込み「黙ってやらせておけばいい気になりおって。このままでは侍の名折れだ、金を返せ」と、語気鋭く短刀の鞘を払った。怯えた男は金を返して逃げ出したという。
系譜
宗清━信久━久良━久軏━軏久━久徴━久敬┳則久
┣好古
┗眞之
著作
- 『兵語界説』
- 『海軍基本戦術』
- 『海軍応用戦術』
- 『海軍戦務』
- 『海軍用務令』
- 『海軍英文尺文例』
- 『軍談』
秋山真之を題材としたフィクション
関連項目
注
参考文献
- 『提督秋山真之』 水野廣徳
- 『秋山真之』 桜井真清
- 『アメリカにおける秋山真之』『ロシア戦争前後の秋山真之』 島田謹二
- 『伝説の名参謀 秋山真之』 神川武利
外部リンク
人あきやまさねゆき