プレースタイル
プロ入り当初は速球一本やりのタイプで、制球力や変化球に目立つ物はなく投球の幅も狭かったことから、変化球を狙い打ちされるケースも目立った。しかし、肩を故障して手術(後述)を受けた後にはスローカーブを習得し、力任せではなく、総合力で勝負するタイプへとモデルチェンジすることに成功した。
現在、
球種はストレート、カットボール、スローカーブ、スライダー、
フォーク、と多彩に操る。特にスローカーブは球速が100km/h台とストレートとの緩急の差が大きいうえ制球力が高いため、多くの打者の脅威となっている。
投手ながらも打撃も上手く、2006年シーズンまでに2本の
本塁打を打っている(2本とも、
東京ドームでの対巨人戦)。さらに2006年8月19日には、タイムリー2本を含む3安打を放ち勝利投手になるという一人舞台となった。
経歴
二岡智宏とは、小学校から
広陵高まで同窓であり、小学校1、2、5、6年生の時はクラスメイトだった。野球を始めたのも二岡と実の兄の影響である。二岡と二枚エースだった広陵3年最後の夏は優勝候補筆頭だったが、
新井貴浩のいた
広島県工に県予選で敗れた。当時はかなり細い体で
ドラフトには掛からなかった。
東洋大学4年の時、東都大学秋季リーグ2部で6連勝をして1部復帰の原動力となり、のドラフトで3位指名を受けて
阪神タイガースに入団。
入団当初から150km/h台の豪速球は注目されており、ルーキーイヤーの1999年は当時の
野村克也監督に抜擢され、新人投手で4月中に初勝利と初セーブを挙げるという球団史上初の快挙を成し遂げ、中継ぎ・抑えとフル回転し10勝7敗9セーブの好成績を残した。、はシーズン当初先発でスタートしたものの、援護に恵まれず、後半はリリーフに回るようになる。また徐々に右肩に違和感が生じるようになり、オフに手術。翌
8月31日の対
ヤクルトスワローズ戦で先発として復帰戦に臨み、見事勝利投手となる。かつて阪神で同じ背番号をつけていた往年の剛速球投手
江夏豊と左右の違いはあるものの、速球王としてファンの人気が高かった。
シーズンは先発でキレの良い
直球とスローカーブ、
スライダーのコンビネーションで相手をねじ伏せ、4月は5勝0敗防御率2.43で月間MVPを受賞した。この活躍により、監督推薦で
サンヨーオールスターゲームに出場、第2戦で先発登板し、3回を
新庄剛志の
ホームスチールの1失点に抑え、サンヨーオールスター新人賞を受賞した。しかし、ここでも援護に恵まれず、1失点で敗戦投手になる。シーズン後半に入り調子を落とし、好投したときは援護のない試合が続き勝ち星は伸びず、10勝15敗の成績に終わった。またこの年、対
読売ジャイアンツ戦には滅法強く、
5月13日の巨人9回戦には7回まで投げて、巨人が開幕から続けていた連続試合本塁打を止めるなどして、8試合登板6勝無敗防御率1.73と脅威的な強さを誇った。
は好投するも勝ち星に恵まれない試合が続いた。この「力投したときに限って打線の援護に恵まれない」「炎上する時は突如派手に」という傾向が、
2004年まで阪神に在籍していた先輩の
藪恵壹そっくりと指摘するファンもいる。4月14日の巨人戦にて
清原和博に
本塁打を許し、清原に本塁打を打たれた200人目の投手になった。この年は8勝14敗の成績を残した。
は腰痛で約1か月半出遅れるものの、
カーブを主とした緩急を使ったピッチングで阪神投手陣の中では抜群の安定感を見せ、勝ち星に恵まれるようになる。ペナントレース終盤では
井川慶を押しのけ、先発ローテーションの中心を担った。
9月10日の
横浜ベイスターズ戦で自己新となる11勝目をあげた。最終的に12勝5敗、防御率2.09の好成績を残した。オフにはチームメイトの
安藤優也とともに映画『青空のルーレット』(2007年公開)に出演。
はポスティングで
ヤンキースに移籍した井川に替わりエースを張ることを期待されたものの、キャンプでの怪我で出遅れた上に精彩を欠く投球が目立ち、2勝8敗、防御率6.53の成績に終わった。
はキャンプ・オープン戦ともに故障がなく意欲的に調整することができ、開幕3戦目となる3月30日の横浜戦でシーズン初登板を完封勝利で飾るという絶好のスタートを切ったが、4月24日の
中日ドラゴンズ戦でバントを試みた際、ボールを右人差し指に直撃させてしまい負傷退場。右示指(じし)末節骨骨折と診断され離脱した。シーズン後半には復帰するものの、前年と同様に不満足な成績に終わった。
年度別投手成績
関連項目
外部リンク