満洲の範囲
広義の満洲としては、
モンゴル民族の居住地域であるが満洲国に属していた
内モンゴル自治区の東部、「東四盟」と呼ばれる
赤峰市(旧ジョーウダ盟)、
通遼市(旧ジェリム盟)、
ホロンバイル市(旧ホロンバイル盟)、
興安盟が含まれることが多い。
満洲の呼称
満州の本来の表記は
滿洲である(満州という表記が行われるのは、日本の戦後の
漢字制限により「洲」の字が
当用漢字表から外れたため。なお、「洲」と「州」はいわゆる旧字・新字の関係ではなく、同音類字である)。また満洲は本来、地名ではなく民族名である。したがって、満州の「州」は世界各国に見られる地域行政区分としての「
州」ではないことに注意を要する。漢字表記では
五行説の「水」徳を意識して、民族名および王朝名である「満」「洲」「清」いずれも
さんずいの字が選ばれた。
民族名の「マンジュ」(Manchu、
満州民族)は、それまでの呼称
ジュシェン族(女真・女直)を改め、清朝の創始者である
ホンタイジ時代に自称し、国名をマンジュ・グルン(満洲国)としたことによる。由来については諸説あり、一般には民族信仰であった
仏教のマンジュシリ(
文殊菩薩。曼殊、満殊などとも書く)によるといわれることが多い。しかし近年この通説に対し、ヌルハチの勢力圏がすでに「マンジュ・グルン」と呼称されていたことや、史料ではどれも「マンジュ」と「マンジュシリ」を明確に区別していること等の理由をもって、
チベット仏教由来説を否定する説も提出されている。
「満洲」が地名の意味を持ったきっかけは、この地域が清の支配民族の
満州民族の居住地域であったことから、西欧語で「マンチュリア」(Manchuria)と呼ばれるようになったからである。これに対応して
漢字文化圏でもこの地域を「満洲」と呼ぶようになった。なお、「満洲」の語を地名としても使用するようになったのは、
江戸期の日本であるという説もある。その説では
高橋景保の「日本辺疆略図」(
1809年)、「新訂万国全図」(1810年)が初出とされる。この地図では
ネルチンスク条約で定められた国境線の清朝側を「満洲」と表記している。それがヨーロッパに伝わったという。
現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「
中国東北部」が使われる。これは中国における歴史に対する公式見解で、
満洲国の存在を認めていないため、また満洲の地を太古から不可分の中国民族固有の地と主張するためである。そのため今日の中国では、20世紀の満洲国を清朝の前身である満洲国を詐称していると看做して、「偽満洲国」の呼び方以外は認めていない。ただし現在でも、
満洲里のように一部の地域名で使われている。民族名としては旧来から「満族」と呼称している。また、曾ては
中国共産党は、中国共産党満洲省委員会を
ハルピンに設置するなど、「偽」という言葉を用いないで満洲という言葉を使用した例はあった。
満洲語
満洲語(まんしゅうご)は類型論的に膠着語に分類される満洲族が話す言語。清朝では公用語。満洲語の話者は中国政府の教化政策により満洲族の間でも現在では極めて少なくなり、消滅の危機に瀕する言語の一つである。詳しくは
満州語を参照。
満洲をめぐる略史
古代の中国ではこの地域は中華文化圏とは認めず、
東夷・
北狄の侵入を防ぐために
万里の長城を築いて遮断されたことにより「封禁の地」、明代に
山海関と名付けられることになった長城最東端の
関よりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「
関東」とも呼ばれた。
中世に入ると、
唐や
遼の支配を受けて一時中華圏内に入るものの、12世紀には土着の女真族(満洲族)が
金を建国、遼・北宋を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る。金はモンゴル民族の
モンゴル帝国(
元)に滅ぼされ、この地は元の支配下に入る。次いで元は漢民族の王朝
明に倒され、一時は明の支配下となったが、後に
女真族への冊封による間接統治に改められた。満洲族(17世紀に女真族から名称変更)が
後金を起こして同地を統一支配した後、国号を改めた
清朝が明に代わり、満洲地域及び中国本土全体が満洲民族の支配下に入る。清朝は建国の故地で後金時代の
皇居がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治め、漢民族が移入することを禁じた。後には奉天府を改めて
東三省総督を置き、東省または
東三省(
奉天、
吉林及び
黒竜江の3省)と呼んだ。
近代の17世紀になると、
ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が頻発したため、国境を定める必要が生じた。1689年に
ネルチンスク条約が締結され、国際的にも正式に清朝の国土と定められた。その後、清王朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させる。そして兵糧確保のため漢民族の移入を黙認し、農地開発を進めて次々と荒野を農地に変えていった。しかし王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年の
北京条約、1860年の
アイグン条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の
黒竜江以北及び
ウスリー川以東のいわゆる
外満州地域は、ロシアに割譲されることとなった。
さらに、西欧列強の進出などで中国国土が荒廃すると、漢民族の民衆の間にも広く民族的自覚が芽生え、19世紀半ばに起こった
太平天国の乱では「滅満興漢」(満洲族を滅ぼして漢民族を興す)のスローガンが強く叫ばれた。満州族の風習である
辮髪を切って、清朝支配に抵抗を示す者も現れるようになった。
この動きは19世紀末に
日清戦争で清朝が敗北して、中国への列強の進出がさらに激化すると、逆に「扶清滅洋」(清を助けて西洋を滅ぼす)に変わり、
義和団事件が起こり、排外運動がさらに激しくなった。しかし弱体化した清朝は延命できず、1911年の
辛亥革命で倒された。翌年成立した
中華民国は清朝の領土を継承を宣言するが、実態は各地域の軍閥による群雄割拠の状態であり、満洲は
張作霖の軍閥の支配下となる。清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増する。
1931年に
大日本帝国の
関東軍は独走して
満州事変を起こし、満洲全域を占領して、翌
1932年に
満洲国を建国した。満洲国は
清朝最後の
皇帝であった
愛新覚羅溥儀を元首(
執政、のち
皇帝)とした。この時期の満洲は大日本帝国の支配下となる。大日本帝国は
満州鉄道や
満州重工業開発を通じて多額の産業投資を行い、農地や荒野に工場を建設した。結果、満洲はこの時期に急速に近代化が進んだ。一方では
満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため、既存の農地から地元農民を強制移住させる等、元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策を実施し、このことが反日組織の拡大へと繋がっていった。
1945年8月、
第二次世界大戦終結直前に
ソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊した。1946年、ソ連は中華民国に対して外満洲を除く地域を返還した。
国共内戦で
中国共産党が勝利した後侵攻し、満洲は
中華人民共和国の支配下となる。大日本帝国が満洲に残した産業インフラは、経済基盤が脆弱であった建国初期の中華人民共和国を大きく支える力となった。
1990年代以降の中国の開放政策により、
上海や
深センなど
華東、
華南の
経済特区の経済成長が著しくなる一方、満洲は古いインフラ設備により、逆に経済的には立ち遅れた地域となっていった。現在中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、
遼東半島を含む環渤海経済圏を設定するなどして積極的に経済振興を行っており、大都市では経済の活性化がみられる。
満洲に存在した日本の国策会社
関連項目
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まんしゆう
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