登録名は「ゆふね」だが、本名は「ゆぶね」と濁る。
経歴
アマチュア時代
興國高等学校では
左翼手としてクリーンナップを打つ。その後は
奈良産業大学に進学、野球部の第1期生となり、エースとして活躍。2年春に1部リーグに昇格、同年秋には優勝を飾り、そのシーズンから
近畿学生5連覇を果たす。大学通算26勝2敗。4年時には第17回
日米大学野球選手権の日本代表に、後に阪神でチームメイトとなる
葛西稔らとともに選出される。
1989年
藤村富美男の長男・
藤村哲也が監督として率いていた
本田技研鈴鹿に入社。1年目から
NTT東海の補強選手として
都市対抗に出場する活躍を見せるが、
野茂英雄を擁する新日鐵堺の前に初戦敗退。同年、野茂らとともに全日本代表に選出されるが、これは後に「あの年の代表ならプロの力を借りずとも世界で戦えただろう」と言われた伝説の最強チームとなった。翌年はエースとしてチームを都市対抗出場に導き、
社会人野球日本選手権にも出場。ベスト8進出を果たし、2年連続で全日本代表に選出される。
1990年
ドラフトでは
小池秀郎の外れ1位として阪神タイガースに指名され入団。既婚で子供がいたため、「子連れルーキー」として話題になった。
プロ時代
しかし、シーズン終盤に
田村勤が故障で離脱、一時的に抑えとして起用された
10月7日の
ヤクルトスワローズ25回戦(
明治神宮野球場)では押し出し
四球を与えて救援失敗。ブルペンではヤクルト戦に強い
御子柴進が投球練習していたこともあり、元々立ち上がりが悪かった湯舟をなぜ起用したのかと、中村監督の采配にファンから不満が続出した。この年、湯舟は11勝を挙げ、6月・9月には月間MVPを獲得する活躍を見せ、チームもヤクルトと最後まで優勝を争ったが、最終的には2位に終わった。
翌
1993年阪神のエースとなり、
オールスターにも出場。自己最多の12勝を挙げる。しかし、初の開幕投手を務めた
1994年時の打線が貧弱だったこともあり、自身は防御率3.05の好成績を残しながらも負けを重ね、以降は3年連続5勝、逆に
1995年13敗、
1996年には14敗で2年連続最多敗の不名誉な記録を残す。
1997年4年ぶりの10勝を挙げるが、翌
1998年には一塁ベースカバー時に軸足を故障し、結局この年の登板は4試合とシーズンの大半を棒に振ってしまう。
以降は満足な成績を残すことができず、
2000年オフに
山崎一玄・
北川博敏とともに
酒井弘樹・
面出哲志・
平下晃司との3対3
トレードで大阪近鉄バファローズに移籍。投手不足のチーム事情から一時は移籍即開幕投手の声も上がるが、故障の影響で出遅れ、結局中継ぎで通算60勝となる勝利を挙げたのみで
2001年に引退した。
現役時代は打たれても抑えていても、感情を表情に出さず、常に穏やかな表情でマウンドに上がっていたことから「球界屈指のポーカーフェイス」と呼ばれた。また、阪神時代は
木戸克彦と相性がよく、名コンビとして鳴らした。
現役引退後
通算成績
タイトル・表彰・記録
- 初登板 1991年4月10日読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)3回1/3を4失点 被安打6 奪三振6 四死球1
- 初勝利 1991年4月14日ヤクルトスワローズ戦(甲子園)8回1死より登板、2/3回無失点 被安打1 奪三振2 四死球1
- 初完封 1991年9月14日広島東洋カープ戦(広島市民球場)被安打2 奪三振3 四死球2
- 初セーブ 1995年9月15日中日ドラゴンズ戦(甲子園)9回1イニング無失点 被安打0 奪三振2 四死球0
- ノーヒットノーラン 1992年6月14日広島戦(甲子園)奪三振11 四死球2
- 月間MVP(1992年6月、9月)
背番号
-
15 (1991 - 2000)
-
34 (2001)
-
91 (2002)
現在の出演番組
関連項目
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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