沢田研二 [Kenji Sawada] [被リンク数: 381]

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沢田 研二(さわだ けんじ、本名:澤田 研二1948年6月25日 - )は、鳥取県生まれ、京都市出身の歌手俳優作曲家ニックネームジュリー。妻は女優の田中裕子。1960年代後半のグループサウンズ全盛期から1980年代にかけて、斬新なヴィジュアルと独特の楽曲群で長年にわたり第一線で活躍し、日本の音楽界に影響を与えた。

来歴

生い立ち

1948年6月25日、母親の実家である鳥取県岩美郡津ノ井村(1963年鳥取市へ編入:現鳥取市津ノ井)で、澤田松雄、智恵子(ちえ)夫妻の次男として誕生。戸籍上の名前では、“研”という文字の右下に点がある。3歳の時に、京都府京都市左京区浄土寺東田町にある(親族の)澤田家に移り、そこで育つ。京都市立第三錦林小学校、同岡崎中学校卒業後、1964年4月京都府立鴨沂高等学校入学。中学では野球部に、高校では空手部に所属。

ザ・タイガース期

詳しくはザ・タイガースも参照
京都市下京区四条河原町にあったダンス喫茶「田園」でアルバイトをしている時、出演していたサンダースに声をかけられ、沢田は付き人(ローディー)兼ヴォーカリストとして加入する。その後、同じく田園に出演していたサリーとプレイボーイズのサリー(現在、俳優の岸部一徳)にリード・ヴォーカルとして誘われた沢田は、1965年12月に鴨沂高等学校を中退し、翌年の元日に正式にメンバーとして加入、グループ名を「ファニーズ」とした。
沢田らは、関西に来たロック歌手・内田裕也(神戸出身)に認められ、渡辺プロダクションと契約。上京後、「ザ・タイガース」と改名する。1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビューを果たした。セカンド・シングル「シーサイドバウンド」と、続く「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」でブレイクしたザ・タイガースは、折りからのグループ・サウンズブームも相まって瞬く間にトップ・アイドルとなる。とりわけ、端正な風貌の沢田は10代の少女を中心に熱狂的な人気を博し、一躍国民的アイドルになった。
ザ・タイガースは1971年1月24日日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散した。

PYG期

詳しくはPYGを参照
ザ・タイガースの解散が決定した後、沢田は1971年1月11日に新たなバンド・PYGを「渡りに舟(本人談)」として参加する。欧米で流行していたスーパーバンドを模した形で、ザ・テンプターズから萩原健一、大口広司の2人、ザ・スパイダースから、井上堯之大野克夫の2人、それにザ・タイガースから、岸部おさみと沢田の2人のメンバー6人によって結成された。このバンドはツインボーカルで、「動」の沢田と 「静」の萩原健一の本格的なロック・バンドを目指した。しかし、日本ではまだ反体制のジャンルとするロックを、当時芸能業界最大手の事務所だった渡辺プロダクション所属のアイドルが演奏することに対して非難する向きもあった。

ソロ活動 - 全盛期

1971年 11月1日、沢田はシングル「君をのせて」でソロデビューする。1973年には、「危険なふたり」で第4回日本歌謡大賞を受賞。この作品からスタイリストとして早川タケジが参加し、以降斬新なファッションが確立された。1975年5月発売のシングル「巴里にひとり」の仏語版「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE(恋人よ、世界の果てから僕は来た)」がフランスのヒットチャートでトップ1(第1週)を取り、フランスのゴールデンディスク賞を受賞するなど、海外での活動も評価を得る。また、同年の8月21日に発売された「時の過ぎゆくままに」は、90万枚を超えるセールスを記録し、沢田にとって最大のヒット曲となった。
同時期に元ザ・ピーナッツ伊藤エミ(当時34歳)と結婚。沢田は27歳だった。しかし、2度の暴力事件を起こし、謹慎の復帰後、1977年5月21日に発売された「勝手にしやがれ」は90万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年末の主要な賞レースを独占した。続けて「憎みきれないろくでなし」も60万枚、1978年には「サムライ」が50万枚のセールスとなり、同年「LOVE (抱きしめたい)」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。その年の「紅白歌合戦」では、それまで演歌歌手が独占していた大トリを初めてポップスの歌手として務めた。
この頃には当時同じ事務所に所属していたザ・ドリフターズ志村けんとの共演も8時だョ!全員集合ドリフ大爆笑で実現している。沢田は志村との共演が1980年代前半頃まで多かった。

ヴィジュアル期

沢田がアーティストとして最も日本の音楽界に影響を与えた功績は、ヴィジュアル面であった。1960年代にザ・タイガースが、ザ・ビートルズを真似た髪型にしたとき、七三分けが主流だった音楽界において「長髪のため」NHK出演の審査が通らないなど物議を醸したが、このようにソロ活動を始めてからも沢田は「ヴィジュアル系の元祖」とも形容すべき奇抜なファッションや派手な振付で見ている人を驚かせる。1979年2月1日に発売された「カサブランカ・ダンディ」でのウィスキーの霧吹き、「OH! ギャル」での女性用のメイク、1980年1月1日発売の「TOKIO」における電飾衣装にパラシュートを背負った姿や「恋のバッド・チューニング」で着用したカラー・コンタクトなど、加瀬邦彦プロデュース・早川タケジデザインの衣装や装飾は大きな反響を呼んだ。ただし、沢田のスタンスに対して、長年活動を共にしたバックバンドのリーダーである井上堯之は違和感を覚え、井上堯之バンドは解散する。
その後、沢田は吉田建を中心にALWAYS、渚のラブレターバンド、EXOTICSといったバックバンドを相次いで編成し、専属のバンドともに演奏するスタンスを保った。1981年9月21日発売のシングル「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」でも派手な衣装で注目を集め、これは沢田自身の作曲によるオリジナル曲としては最高のセールスを記録した。1982年にはザ・タイガースが「同窓会」と銘打った企画で11年ぶりに再結成する。瞳みのるを除くメンバー5人で復活し、シングル「色つきの女でいてくれよ」は化粧品会社のCMとのタイアップもあり、ヒットチャート上位にランクインさせ、武道館を含む全国ツアーも成功させた。
また、他の歌手にも多くの作曲を提供し、中でも1982年にアン・ルイスが歌った作詞・三浦百恵の「ラ・セゾン」はトップ10にランクインするヒットとなった。

独立期

1985年1月からの半年間の休養を経て、沢田はザ・タイガースの一員としてのデビュー以来所属してきた渡辺プロダクションから独立し、傘下に"株式会社ココロ"を設立。さらにレコード会社ポリドールから東芝EMIに移籍した。第1弾となる作品は、沢田が作詞・作曲した「灰とダイヤモンド」。ペンネームの「李花幻」は「いいかげん」をもじったもの。また、自叙伝「我が名はジュリー」玉村豊男編 / 中央公論社)を刊行。音楽面では、チト河内を中心に新バンドCO-CoLOを結成した。
1987年には離婚や渡辺プロの恩師ともいえる渡辺晋の死、3月の京都公演中のステージからの転落事故とそれに伴う左肘骨折による1カ月の入院があった。この年は、のちの沢田自身が「転機は離婚だった」と語るようにターニングポイントとなる。1988年には3年間活動を共にしたCO-CoLOを解散し、新たにKris Kringlを結成。1989年10月11日発売のアルバム「彼は眠れない」では、村上'ポンタ'秀一を迎えて結成したJAZZ MASTERと共にライブ活動を展開した。この年から、10年間に渡って継続する音楽劇 ACTシリーズもスタートした。年末の「紅白歌合戦」ではソロでの他、ザ・タイガースとしても出場し、同番組の出場者としては初めて同一回で2度出場した。
1992年頃から、沢田はメディアでの過去の映像と歌唱のみの放映を許可しないようになる。「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」として、1995年以降のアルバムではすべて沢田がセルフ・プロデュースを手がけている。1997年には岸部一徳森本太郎とともにユニット"TEA FOR THREE"を結成した。

近年

2002年自主レコードレーベルとなるJULIE LABELを設立。以降、このレーベルからリリースされた沢田のオリジナル・アルバムは目玉焼きなどの独特のパッケージ・デザインを施されているものが多い。2005年には、ポリドール在籍時代のアルバム21タイトルと3枚のベスト・アルバムのリマスター盤が相次いで再発売され、そのうちベスト盤「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」がオリコンの邦楽アルバムTOP50にランクインした。
現在も、毎年新曲とアルバムをリリースして全国コンサート・ツアーを展開し、パワフルな声量とステージングでファンを魅了している。ここ数年はシングルとアルバムの制作、正月と全国コンサート・ツアー(2008年は38都市)、それに年1-2回の舞台主演と多忙な日々を送っている。また、『憲法九条を守ろう』というメタファーを含んだ沢田作詞の「我が窮状」を発表するなど新たな展開も見せている。
2008年正月公演では、東京C.C.Lemonホールのチケットは連日満席でソールドアウトし、また60歳を記念して11月29日京セラドーム大阪12月3日東京ドームで初のドームコンサート「人間60年・ジュリー祭り」を開催し、2万人と3万人を集めた。コンサートは6時間半(途中休憩30分を挟む)で80曲を歌った。来年の2009年正月公演は『奇跡元年』とし、昭和のデビューから40年と少し、平成21年、奇跡元年として活動する予定である。

影響

今日の音楽界に沢田がもたらした影響としては、やはりそのファッションが特記される。分けても早川タケジのデザインによる、化粧を取り入れたスタイル(時には女装すらすることがあった)は1990年代以降持てはやされた「ヴィジュアル系」の元祖をなすものである。実際に同類にカテゴライズされるミュージシャンが沢田からの影響を語る例は少なくなく、清春BUCK-TICK櫻井敦司河村隆一などは沢田の楽曲をカヴァーしている。沢田のファッションは現在の目から見ても先鋭的なものが多く、近年になっても早川の作品集(ほとんどが沢田の写真)が出版されたり、テレビなどで映像が流されることも(沢田が解禁した2001年以降)少なくない。他にも石井竜也米米CLUB時代の書籍で「カサブランカ・ダンディ」の衣装をまとっていたことがあり、及川光博は「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」をカヴァーした他に早川にデザインを発注したこともあり、両者は「ヴィジュアル系」以外でファッション面での影響が顕著な一例である。また、PYGの「花・太陽・雨」「自由に歩いて愛して」は永沢竜二、「勝手にしやがれ」は、B'z稲葉浩志福山雅治によってカヴァーされている。 またフジテレビ系列で放送された「LOVE LOVEあいしてる」でゲストが影響を受けた歌を取り上げて演奏する「ラブラブな歌」コーナーで取り上げられた回数は最多の4回。近藤真彦「危険な二人」、エレファントカシマシ「サムライ」、SILVA「ストリッパー」、T.M.Revolution「TOKIO」。

功績

  • ザ・タイガース日本で初めての長髪の男性アイドルである。当時は「長髪=不良」の偏見が根強く残っており、タイガースの公演会場の入り口ではPTAが立ち、中高生が入場を締め出されたり、人気のピーク時にもロッテ歌のアルバムNHK紅白歌合戦への出場が叶わないという事態が発生した状況であった。
  • 1968年 8月12日ザ・タイガース後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は日本で初めてのスタジアムライブである
  • 1971年 1月24日ザ・タイガース「ビューティフル・コンサート」(解散コンサート)は日本人として初めての日本武道館単独公演であった。
  • PYG時代、初めてロンドンブーツを衣装に取り入れた
  • 1974年には「Rock'n Julie」と題された公演が行われているが、これは日本で初めての全国ツアーである(16都市34公演)。
  • さらに沢田はソロ活動初期において、PYGから派生した井上堯之バンドと活動を共にしていたが、これは一歌手専属としては日本で初めての、ロックコンボスタイルのバックバンドである。
  • 「MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE(恋人よ、世界の果てから僕は来た)」(邦題:「巴里にひとり」)は日本人として初めてフランスのヒットチャートにBEST10入りした楽曲である。この曲は、フランス人の作詞・作曲で初めて日本人歌手としてヒットした曲である(この10年ほど前に、坂本九の「上を向いて歩こう」が日本人の作詞・作曲、歌唱で世界的にヒットしている)。
  • 1978年第29回NHK紅白歌合戦紅白史上初めて演歌歌手以外で大トリを勤めた
  • 1989年第40回NHK紅白歌合戦紅白史上初めて1回の紅白で2度出演を果たした(ソロとザ・タイガースとして)。
  • デビュー以来約40年間、毎年必ず新作アルバムを発表し、1974年以降毎年全国ツアーを開催している。 これは他に例を見ない連続記録という記事がある。

俳優業

歌手として多忙な生活を送り続ける傍らで、沢田は舞台や映画にも積極的に出演している。主にタイガース時代に出演した典型的なアイドル映画にとどまらず、人気絶頂期に公開された映画「太陽を盗んだ男」では原爆を作る理科教師を演じ、キネマ旬報読者選定邦画ベストテン第1位になった。また映画「魔界転生」も大ヒットとなった。
舞台においてもその実験精神は発揮されており、とりわけ1989年から1998年まで続いた舞台「ACT」シリーズ(演出・加藤直)では、1人芝居や哲学的な内容を演じている。なお同シリーズから現在の久世光彦マキノノゾミが演出している音楽劇など、沢田の舞台音楽はアコーディオン奏者cobaが担当している。なお、近年の作品では南流石振り付けを担当していることが多い。また、近年ではそうした音楽劇と並行して、藤山直美との人情芝居にも出演している。

エピソード

  • ニックネームの「ジュリー」は、ザ・タイガースのデビューの際にメンバーの中で沢田だけあだ名がなかっため、沢田自らが「ジュリー・アンドリュースのファンだから、ジュリーってどうだろう?」と提案し、自らで名付けた。
  • 沢田がジェリー藤尾が好きだったので"ジェリー"という考えもあったがそのままでは失礼なので海外のジュリー(アンドリュース)に落ち着いた。ジュリーというのは女性名であるが沢田の中性的な容姿と相まってすぐに定着した。
  • サリーに「サリーとプレイボーイズ」のメンバーに誘われた時の言葉は「お前、ルックスがまあまあだからボーカルやらないか」だった。
  • ザ・タイガースの命名は作曲家すぎやまこういち。「関西から来たので(阪神)タイガース」と名付けられた。

作品(★別ページに掲載)

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  • 沢田研二のシングル、アルバム、映像作品、楽曲提供、カヴァー作品は沢田研二の作品の項を参照。
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出演

映画(主演)

テレビドラマ(主演)

同棲時代TBSサンデービッグプレゼント1973年2月18日放映 ※イラストレーター・江夏次郎役で主演。初の主演ドラマ。圧倒的な支持を得た同タイトルの漫画作品をドラマ化。 原作:上村一夫(同棲時代) 脚本:山田太一 演出:竜至政美 共演:梶芽衣子、萩原健一、初井言榮研ナオコ山本コウタローほか 悪魔のようなあいつTBS金曜ドラマ1975年6月6日-1975年9月27日(全17回) ※三億円事件の犯人・加門良役で主演。実際に起きた三億円強奪事件の時効(1975月12月10日)に合わせてストーリーを展開させた。挿入歌「時の過ぎゆくままに」(作詞:阿久悠、作曲・編曲:大野克夫)が大ヒット。 原作:阿久悠、上村一夫(悪魔のようなあいつ) 脚本:長谷川和彦 演出:久世光彦、和田旭ほか 共演:藤竜也、若山富三郎、篠ヒロコ(現 篠ひろ子)、安田道代(現 大楠道代)ほか 爆笑怪盗猫ニャン捕物帳TX新春ヤンヤン大時代劇1979年1月1日放映分 ※正月特番に主演。 共演:郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎、山口百恵、桜田淳子ピンクレディーほか 源氏物語TBS資生堂スペシャル1980年1月3日放映 ※光源氏役で主演。妖艶な源氏と多数の女優陣との共演が話題に。第17回ギャラクシー賞受賞(向田邦子)対象作品。 原作:紫式部(源氏物語) 脚本:向田邦子 演出:久世光彦 共演:いしだあゆみ倍賞美津子、渡辺美佐子、叶和貴子風吹ジュン八千草薫、岸本加世子、藤真利子ほか いつか黄昏の街でTBS木曜座1981年10月1日-1981年12月24日(全13回) ※瀬川高之役で主演。 脚本:田向正健 演出:楠田泰之 共演:多岐川裕美、佐藤友美、萬田久子、山本郁子、中山仁ほか 陽のあたる場所TBSザ・サスペンス1982年4月27日放映 ※1984年9月まで放映されたザ・サスペンスの第1回作品に主演。 原作:Theodore Dreiser(アメリカの悲劇) 脚本:田村孟 演出:竜至政美 共演:夏目雅子森下愛子、北村和夫ほか 嵐立つなりMBS西武スペシャルドラマ1982年8月26日放映 ※宮沢隆二役で主演。 脚本:田向正健 演出:瀬木宏康 共演:十朱幸代山田五十鈴、仲谷昇、乙羽信子ほか 恋人よ、われに帰れ Lovers Comeback to MeCX 1983年9月23日放映 ※ケン・オータ役で主演。 脚本:早坂暁 演出:大林宣彦 共演:小川真由美、財津一郎、泉谷しげる大竹しのぶ、風吹ジュンほか '''ジュリーと鉄矢の源氏物語'84MBS 1984年1月1日放映 脚本:松原敏春、佐々木守 共演:武田鉄矢小柳ルミ子、大竹しのぶほか にっぽん笑売人KTV花王名人劇場1988年1月10日-1988年2月1日(全4回) 吉本興業会長・林正之助役で主演。第1回「春団治八方破れ」、第2回「漫才誕生!エンタツアチャコ」、第3回「漫才王国への道」、第4回「お笑い戦争ぼっ発」 共演:小川真由美、横山やすしオール阪神・巨人宮川大助花子、岸部シロー(現 岸部四郎)ほか ナレーション:桂三枝 ザ・ディーラーANBシリーズ男の決断1988年10月9日-1988年10月23日(全3回) ※敏腕為替ディーラー・古村寿一役で主演。挿入歌は「Stranger -Only Tonight-」(作詞:阿久悠、作曲・編曲:大野克夫) 脚本:岩間芳樹 演出:和泉聖治 共演:若村麻由美、柴俊夫、山口美江、佳那晃子ほか 二人の医師ABCスペシャルドラマ1988年11月11日放映 ※医師・竹田役で主演。1989年度芸術祭参加番組。 共演:蟹江敬三、押谷かおり 幸福な市民NHKドラマ・スペシャル1989年11月4日放映 ※損害調査員・雲居鶴彦役で主役。第8回向田邦子賞(中島丈博)受賞対象作品。 脚本:中島丈博 演出:長沖渉 共演:藤真利子、麿赤児島田歌穂円広志ほか マネージャーANB市川準の東京日常劇場 哀愁編1990年7月25日-1990年7月28日(全4回) ※タレントのマネージャー役で主演。市川準監督の短篇オムニバス作品。別週で田中裕子も出演している。 脚本・演出:市川準 共演:田中律子 流れてやまず 長流不息〜遥かなる黄河NHK土曜ドラマ1992年11月7日-1992年11月14日(全2回) ※溝江遼役で主演。前後編に分けて放映。 脚本:大野靖子 演出:菅康弘 共演:渡瀬恒彦、真野響子、周里京ほか 愛と平和の特別企画 総務課長戦場を行く!!CX金曜エンタテイメント1994年8月12日放映 ※総務課長・山倉久志役で主演。サブタイトルは「歯医者もボーイも運転手も代理店もみんな戦場で頑張った」。 脚本:三谷幸喜 演出:鈴木雅之 共演:梨本謙次郎、前田吟、萬田久子、阿部寛ほか ふたつの愛NHK水曜シリーズドラマ1998年8月26日-1998年9月30日(全6回) ※小児科医・伊野原亨役で主演。 作:大石静 演出:長沖渉、出水有三 共演:田中好子河合美智子桂米朝、角野卓造、菊池隆則ほか 最悪BS-iスペシャルドラマ2001年3月30日放映 ※町工場の社長・川谷信次郎役で主演。エンディングテーマはザ・タイガースの「青い鳥」'''(作詞・作曲:森本太郎) 原作:奥田英朗( 脚本:成島出 演出:大森一樹 共演:西田尚美原田健二斉藤洋介、角替和枝、入江雅人ほか

バラエティ番組

  • 今夜は最高!(1981年、1982年、1987年、日本テレビ)
  • 沢田研二ショー(1983年、TBS)
  • 森田一義アワー 笑っていいとも!(テレフォンショッキング・ゲスト、1985年、1986年、1991年、フジテレビ)
  • 優雅なエゴイズム(1994年、TBS)
  • 新常識クイズ! 目からウロコ(2001年、フジテレビ)
  • SMAP×SMAP BISTRO SMAPゲスト(フジテレビ)

ラジオ番組

  • 沢田研二の素晴らしい世界(1972年 - 1973年、ニッポン放送
  • 沢田研二ラブコレクション(1978年 - 1979年、ニッポン放送)
  • 沢田研二と白石冬美のオレンジ通り5番街(1978年 - 1979年、文化放送
  • 沢田研二のサウンド・フリーウエー(1979年 - 1980年、ニッポン放送)
  • 沢田研二・志村けんのジュリけん(2001年10月6日 - 2003年3月30日、文化放送、志村けんとの共演)
  • 沢田研二の「そんなんこんなん」(2001年 - 2003年、朝日放送
  • 今日は一日ジュリー三昧(2008年11月3日、NHK-FM放送

CM

紅白歌合戦出場歴

沢田はソロ・デビュー翌年の昭和47年に初出場して以来、新幹線暴行事件で出場を辞退した昭和51年(1976年)を除き、15回連続で紅白出場を果たしている。昭和53年には、紅組の山口百恵と共にポップス歌手としては初めて、紅白のトリ(大トリ)を務めた。これは彼にとって唯一のトリである。また平成元年(1989年)にはザ・タイガース名義でも出演し、「一回に別名義で二回出場する」という珍しい記録も達成した。 年度/放送回回曲目出演順対戦相手備考 1972年(昭和47年)/第23回初許されない愛20/23ちあきなおみ 1973年(昭和48年)/第24回2危険なふたり16/22欧陽菲菲 1974年(昭和49年)/第25回3追憶23/25由紀さおり 1975年(昭和50年)/第26回4時の過ぎゆくままに19/24梓みちよ 1977年(昭和52年)/第28回5勝手にしやがれ18/24小柳ルミ子(1) 1978年(昭和53年)/第29回6LOVE(抱きしめたい)24/24山口百恵(1)大トリ(1) 1979年(昭和54年)/第30回7カサブランカ・ダンディ14/24山口百恵(2) 1980年(昭和55年)/第31回8TOKIO06/23岩崎宏美 1981年(昭和56年)/第32回9ス・ト・リ・ッ・パ・ー14/22ロス・インディオスシルビア 1982年(昭和57年)/第33回106番目のユ・ウ・ウ・ツ15/22桜田淳子 1983年(昭和58年)/第34回11晴れのちBLUE BOY06/21小柳ルミ子(2)紅白最優秀歌手(金杯)受賞 1984年(昭和59年)/第35回12AMAPOLA12/20高橋真梨子 1985年(昭和60年)/第36回13灰とダイヤモンド13/20原田知世 1986年(昭和61年)/第37回14女神06/20中森明菜 1987年(昭和62年)/第38回15チャンス13/20金子由香利 1989年(平成元年)/第39回16DOWN18/27小比類巻かほる 1989年(平成元年)/第39回1ヒットメドレー(ザ・タイガース名義)04/27ピンク・レディー 1994年(平成6年)/第44回17HELLO17/25藤あや子
(注意点)
  • 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
    • 1983年は、紅白歌合戦出場歌手から最優秀歌手賞(野球で言うMVP)が選ばれる制度があり、沢田研二は最優秀歌手として金杯を授与された。

演じた俳優

著書

  • 我が名は、ジュリー(中公文庫)

脚注

関連項目

外部リンク

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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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