経歴
初めは
伊勢慶光院の院主だったが、
寛永16年(
1639年)に
家光に謁見した時に見初められ、
春日局によって
大奥入りする。還俗後は万と名を改め、家光の側室となる。このとき、髪が伸びるまで田安屋敷に留められたという。家光に深く寵愛されるが、子を儲けることはなかった。
徳川将軍家では三代家光以降慣例となった
五摂家または
宮家出身の
御台所(将軍正室)で次期将軍生母となった人物は存在せず、それ以外でも天皇家・公家を外戚に持つ将軍が誕生しないよう大奥が管理していたとされるが、父・六条有純が
参議に過ぎない側室の万も決して例外ではなく、妊娠するたびに堕胎薬を盛られていた、あるいは不妊薬を飲まされていたという俗説もある。但し家光が寵愛していた事で格別の扱いを受けており、大上臈の扱いを受けていたという。
春日局の死後は家光より「春日同様」に奥向きを取り締まることを命じられ、春日局の後任として大奥の支配者となった。
慶安4年4月20日(
1651年6月8日)に家光が死去した後は、他の側室達とは違い落飾せず、「お梅の局」と名を変え、大上臈として再び大奥勤めを始めたといわれているが、実際の彼女のそれ以後の経歴はほとんど伝わっていない。お梅の局という人物も別人だとする説もある。
しかし、
明暦3年1月18日(
1657年3月2日)に起きた振袖火事(
明暦の大火)で
江戸城の本丸が焼け落ちてしまい、家光の正室の中の丸(
鷹司孝子)と共に小石川の無量院に避難したとされているので、少なくともこの頃までは大奥に居たと思われる。正徳元年10月11日(
1711年11月20日)、88歳で死去。
家光は彼女の弟の六条右衛門氏豊を召し出し、高家に任じた他、従四位下
侍従土佐守に叙し、母家である戸田の姓と千石の知行を与えた。その後、さらに千石を与えている。
逸話
永光院はテレビドラマや小説の影響で才色兼備で性格の良い女性だというイメージがあるが、実際には家光時代後期の大奥の支配者であり、新御殿造営時の役人の不手際を将軍に逐一報告したり、幕閣の反対を押し切って大奥にて
猿楽(
能)を催したりしたとされ、このために幕閣から「第二の春日局」と恐れられたという。
また、春日局が築き上げた質実剛健な武家風の奥向きを、永光院は華美で豪奢な
京都の
公家風に改めていったという。
永光院を裏で操っていたのは春日局の姪・
祖心尼であったとする説もある。
演じた俳優
映画
-
二宮さよ子:「将軍家光の乱心 激突」(東映、1989年)
- この作品では、阿部重次の妹という設定になっている。また当初は阿部の家臣の家に嫁いでいたが無理やり離縁させられたため、家光を恨んでいるという設定になっていた。
テレビドラマ
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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