生涯
幻の第11代将軍
一時期は将軍世子とまで言われた定信は、このことにより田沼意次を激しく憎み、後に田沼暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入りを狙って、田沼に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話・伝説である。
白河藩主就任
白河藩主に就任したのは、
天明の大飢饉の最中である
天明3年(
1783年)であるが、それ以前から養父・松平定邦に代わって藩政を代行していたと言われている。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。特に
東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、これは異例のことと言ってもよい。ただし、食料救済措置は市場の米を買い漁る方法で行われたため、米価の急騰及び他の藩での餓死者の増加をもたらした。
庶民のための学校も設置し、民衆に学問への道を開いてもいる。
寛政の改革
老中は、
譜代大名が就任するのが
江戸幕府の不文律であるが、白河藩主・松平氏は譜代大名であり、定信はそこに養子に出た者であるから、この原則には反しない。家康の直系子孫で、大名に取り立てられた者以外は、
親藩には列せられず、家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、原則として譜代大名とされる。しかし、松平定信は、吉宗の孫だったため、譜代大名でありながら、親藩(
御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だったので、混乱を招きやすい。
前任者である田沼意次の
重商主義政策と役人と商人による
利権賄賂政治から、
朱子学に基いた
重農主義による
飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、
旗本への文武奨励などで一応の成果をあげる一方で、老中就任当初から、
大田南畝により『
白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの
田沼こひしき』とうたわれ、その改革も形式に流れることが多く、抜本的改革には苦心した。
処士横断の禁で
林子平らの世論煽動を禁止し、
寛政異学の禁で朱子学を正統とし、幕府の学問所である
昌平坂学問所では朱子学以外の講義を禁じ、書籍出版取締令により出版統制についても行っている。
定信引退後、
三河国吉田藩主・
松平信明(長沢松平家。「知恵伊豆」・
信綱の末裔)、
越後国長岡藩主・
牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、定信の政策を引き継いだので、彼らを
寛政の遺老と呼ぶ。定信の寛政の改革における政治理念は、
幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。
その後
老中失脚後は、白河藩の藩政に専念する。白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。また、民政にも尽力し、白河藩では
名君として慕われたという。ところが、寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が
文化7年(
1810年)に実施に移されることになり、最初の駐屯は主唱者とされた定信の白河藩に命じられることとなった。これが白河藩の財政を圧迫した。
文化9年(
1812年)、
家督を長男の
定永に譲って
隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である
伊勢国桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたものとされている。桑名には良港があったため、これが目当てだったと云われている。ただし、異説として前述の江戸湾警備による財政悪化に耐え切れなくなった定永が江戸湾岸の
下総国佐倉藩への転封によってこれを軽減しようと図ったために、佐倉藩主・
堀田正愛やその一族である
若年寄・
堀田正敦との対立を起こしたために懲罰的転封を受けたとする説もある。
人物・逸話
- 政治力に優れていたことから、江戸時代後期の名君の一人として高く評価されている。また、学問を好み、著書に『花月草紙』、『宇下人言(うげのひとこと)』、『集古十種』等100以上を残す。また、頼山陽をはじめ多くの学者との交流を持った。白河藩に日本初の公園(南湖公園)を造るなどの文化人だった。
- 詩歌もよくし、「心あてに見し夕顔の花散りて尋ねぞ迷ふたそがれの宿」(一説に「心あてに見し夕顔の花散りて尋ねぞわぶるたそがれの宿」とも)から、たそがれの少将とも呼ばれた。
- 『宇下人言』は定信の字をいじって付けた名前として知られている(定⇒宇下、信⇒人言)。この『宇下人言』の中で定信は、自分は幼少の頃は短気だったが、師として付けられた大塚孝綽・黒沢雉岡、近習だった水野為長の3名の指導によって性格が改まったとしている。大塚孝綽は田安家は徳川将軍家の藩屏として朱子学を奉じるべきであると主張しており、定信が古文辞学や古学に通じながらも寛政異学の禁を出した背景には自己の学問と老中としての政治的立場を分けて考える定信の学問観があったと考えられる。
- 儒学を尊重するあまり、自らの欲望をも極端に抑えた。「房事(性行為)というものは、子孫を増やすためにするもので、欲望に耐え難いと感じたことは一度もない」と『宇下人言』に記している。一度手をつけた女性を屋敷から召し放つ前に、寝所を共にして嫁ぐための心得などを教え諭したこともある。これは定信が情欲に耐えられるかという修行の目的で行ったことで、「いささかも凡情(欲望)起こらず」と記している。
- 田安宗武は国学を保護した事で知られているが、定信は逆に『花月草紙』において本居宣長の「もののあはれ」を批判するなど、国学に対して冷淡な態度を取っていた。これは、宗武に保護されていた荷田在満が門外不出とされた大嘗会の記録を刊行した『大嘗会便蒙』事件によって、田安家の責任問題に発展した経緯から師の大塚孝綽ともに国学に対する反感を抱いていたからと言われている。後年、定信も国学者を求めて人づてに宣長にも紹介を求めているが、あくまでも古典研究のための人材募集であり、宣長の推挙した人物を結果的には断っている。なお、本居宣長の方は寛政の改革に強く期待して著書の『玉くしげ』を定信に献上するなど、自己の考え方が政治に生かされる事を願ったが、失敗に終わる事となった。
- 当時、職人に作らせた白河だるまは白河市の特産物で今でも毎年2月11日には「白河だるま市」という祭りで売られている。
- 白河そばを特産物としたのもこの人物である。飢饉の時には藩の者を誰一人餓死させなかったという。民話も多々あり、今でも白河市の人々の心に生きている。
- 大名ながら、起倒流柔術の鈴木邦教(鈴木清兵衛)の高弟で、3,000人といわれる鈴木の弟子のうち最も優れた3人のうちの一人が定信だったと伝わる。自らも家臣に柔術を教え、次男の真田幸貫にも教えたという。隠居後も柔術の修行を怠らず、新たな技を編み出した。なお、定信が柔術を志した背景には自身が病気がちで自己の鍛錬に努めた事にあったという。
- 藩祖・松平定綱が家臣とともに編み出したと伝わる甲乙流剣術がすたれていたが、これを復興し、自らが工夫した柔術を加え、甲乙流を剣・柔の2術からなる内容に改めた(それ以前の甲乙流と区別するため、定信が改変した以降のものは「新甲乙流」と呼ぶ場合もある)。
-
砲術についても、三木流、荻野流、中島流、渡部流の皆伝を得て、4流の長所を合わせて三田野部流を寛政年間に開いたが、その後、さらに多くの砲術流派を研究し、文化年間に御家流を開いた。
- 大御所尊号事件の際、将軍・家斉と対立し、怒った家斉は小姓から刀を受け取って定信に斬りかかろうとした。しかし御側御用取次・平岡美濃守頼長が機転を利かせて、「越中殿(定信)、御刀を賜るゆえ、お早く拝戴なされよ」と叫んだために家斉も拍子抜けし、定信に刀を授けて下がったという。
- 読書家でもあった松平定信は、人材登用の手段として学力試験を行った。当時、学問・教養にあまり関心がなかった幕臣たちの態度に定信は落胆し、幕臣たちに学問を奨励するために試験を考えたという。受験資格は、主に幕臣や地役人などに限定し、昌平坂学問所で試験(学問吟味)を行った。近藤重蔵はこの試験で好成績だったため、定信に登用され、後に寛政10年(1798年)、蝦夷地調査隊のメンバーに加わった。
官職位階履歴
※日付は旧暦
脚注
関連項目
関連作品
書籍
漫画
テレビドラマ
- 『大奥』(1968年、フジテレビ、演:穂高稔)
- 『闇を斬れ』(1981年、フジテレビ、演:沖雅也)
- 『大江戸捜査網』
- 1970年~1984年放映版(テレビ東京、第1期1970年~1974年、演:堀雄二、第2期1974年~1979年、演:黒川弥太郎、第3期1979年~1984年、演:永井秀明)
- 1990年~1992年放映版(テレビ東京、第1期1990~1991年、演:田村高廣、第2期1991~1992年、演:若林豪)
- 『鬼平犯科帳』第8シリーズ(1998年、フジテレビ、演:市村羽左衛門)
- 『四千万歩の男・伊能忠敬』(2001年、NHK、演:片岡仁左衛門)
- 『幻十郎必殺剣』(2008年、テレビ東京、演:中村敦夫)
映画
- 『隠密同心・大江戸捜査網』(1979年、演:三船敏郎)
参考文献
-
渋沢栄一 『楽翁公伝』 1937年 岩波書店
-
童門冬二 『田沼意次と松平定信』 2000年 時事通信社
-
藤田覚 『松平定信』 1993年 中公新書
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さたのふ
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