新潟県を東北地方に入れる場合には、「東北地方と新潟県」「東北7県」「奥羽越」などと呼ばれる。この場合、総人口は約1192万人、総面積は79,473.09
km2(日本一広い面積を有する地方)となる。
地理
-
人口は約963万人(2005年10月1日-国勢調査)
- (スウェーデン・ベルギー・ポルトガル・ギリシャなどとほぼ同規模)
- (中部地方とほぼ同じ面積。九州・オランダ・スイス・デンマークの約1.5倍。関東地方の約2倍。北海道の約0.8倍の広さ)
-
人口密度は1km²あたり約144人(2005年10月1日-国勢調査)
- (スイスと同程度)
- 東北六県の県民総生産の合計は32兆4200億円(2003年-県民経済計算)
- (スイス・ベルギー・スウェーデン・オーストリアなどのヨーロッパ中堅国のGDPを超える)
<
<
- 国土交通省東北運輸局による統計。「P/S」は総面積(S)に対する可住面積(P)の割合。「DID」は人口集中地区のこと。「DID/P」は可住面積(P)に対するDIDの割合。「DID/S」は総面積(S)に対するDIDの割合。
地形
日本海側には、
ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界が南北に走っているため、那須火山帯と平行に
鳥海火山帯が南北に走っている。この火山帯の上には、
白神山地・出羽山地(太平山地・朝日山地・飯豊山地)・
越後山脈が連なっており、
岩木山・
鳥海山・
月山などの美しい稜線を持った火山が見られる。山地が海に接する部分では、海岸沿いに温泉が湧いており、海を眺めながら入浴することができる。
太平洋側には
北上山地と
阿武隈高地がある。これらは、
隆起地形が侵食され、現在は
老年期地形となった、なだらかで低い山地である。残丘として標高1917mの
早池峰山があるが、基本的になだらかな山地で、奥羽山脈より日本海側と比べると積雪も少ないため
スキー場がなく、火山帯ではないため温泉も少ない。ただし昔、海底にあって隆起した証拠である
鍾乳洞などの
石灰岩地形が多く見られる。北上山地が海にせり出している
リアス式海岸の
三陸海岸では、石灰岩が波に洗われてつくりだされた複雑な海岸線や真っ白な砂浜が見られ、
親潮のコバルトブルーの海とコントラストを作り出している。阿武隈高地と太平洋の間は
離水海岸となっており、リアス式海岸の間の海が埋め立てられたような小規模な
沖積平野が小高い山地と交互に存在しながら延々と続く。
気候
気候は、小地形による修飾があるが、大きく
日本海沿岸、
奥羽山脈西側(盆地)、
奥羽山脈東側(盆地)、
太平洋沿岸 の4つのグループに分かれており、それぞれ異なった傾向を持っている。また、それぞれのグループごとに、北と南で微妙な違いもある。宮城県・福島県の太平洋沿岸を除いて全域が
豪雪地帯で、一部特別豪雪地帯もある。
日本海沿岸と
奥羽山脈西側(盆地)の「日本海側グループ」は、
日本海側気候となっており、夏季は
フェーン現象により、晴天が多く、非常な高温になることがある(山形市で40.8度を記録)。しかし、昼間の高温の割りに夜間は気温が下がって過ごし易い。冬季は、日照時間が少なく、豪雪地帯となっているところが多いが、特に奥羽山脈西側の盆地の降雪量が多い。
太平洋側の
奥羽山脈東側(盆地)は、
内陸性気候になっている。夏季は、フェーン現象により高温となる日と、太平洋沿岸地域のような曇天で気温が低い日との両方がある。冬季も、寒気団や北風・西風などの諸要因が強いと日本海側のように雪が降る場合がある一方、太平洋沿岸地域のように、晴天になる日も多い。
太平洋沿岸は、
太平洋側気候になっている。夏季は、北部・中部は通常曇天で気温が上がらず、数年毎に
やませの流入により、低温で悪天候の冷夏となる年がある。南部(
福島県浜通り)の夏季は、太平洋高気圧の影響下に入り易く、高温で晴天の日が多い。中部・南部は、冬季の積雪量は少なく、晴れて空気は乾燥する。
主な都市の冬 (平年値)
日本海沿岸、奥羽山脈西側、奥羽山脈東側、太平洋沿岸 の4グループに色分けしてある。
- ※降雪量累計:気象庁の統計データでいう「降雪の深さ合計」のこと。日ごとの降雪量を、シーズン全体で合計した量(平年値)
- ※最深積雪:一度に降る最も多い積雪量(平年値)
- ※日隔差:1月の平均最高気温と平均最低気温の差。1日の寒暖の差(平年値)
'主な都市の夏 (8月 の平年値)'
<
日本海沿岸、奥羽山脈西側、奥羽山脈東側、太平洋沿岸 の4グループに色分けしてある。
- ※日隔差:8月の平均最高気温と平均最低気温の差。1日の暑涼の差(平年値)
地域
東北地方内の区分
古代の東北地方において、(1)
多賀城が設置されて早くから
畿内に本拠地を置く政権の勢力が及んだ南東北、畿内政権の影響力が弱く、
俘囚や
奥州藤原氏の本拠となっていた北東北、といった古代からの南北区分と;(2)陸奥国の「内陸国」「政治勢力の地盤」、出羽国の「沿岸国」「商業勢力の地盤」の境界であった
奥羽山脈による東西区分が、意味を変えながらも現代の東北地方内の区分と似た状況になっている。
ただし、文化的には
江戸時代の
藩による区分の方が影響を残しており、また、新幹線・高速道路・空港から遠い
三陸海岸沿岸や
下北半島も、少なくとも意識の上では他の都市圏から独立した独自の地域圏を形成している。
太平洋側と日本海側
この分類は、
気候 による区分でよく用いられ、
日本海側は脊梁山脈である奥羽山脈の西側にあるため冬の降雪量が多く、太平洋側は少ない。夏の気候では、日本海側は
フェーン現象のために晴天で気温が上昇し易いが、太平洋側は
やませの影響で気温が低い年がある。
また、
海流の面で、太平洋側は
親潮と
黒潮、日本海側は
対馬海流(と
リマン海流)の影響を受けるため、
海運 の面でも「
太平洋側」と「
日本海側」に区分する。前近代においては、太平洋岸は波が荒く、航海が危険であるため、日本海側と比較して海運は活発ではなかった。現在は、動力を積んだ大型船の時代であり、また、
太平洋ベルトに近い利点から、太平洋側の海運が活発である。
陸奥国と出羽国
一方、日本海側(出羽国)は、沿岸に
庄内平野、
秋田平野、
能代平野、
津軽平野と、内陸部につながる沿岸平野がほぼ均等な間隔で存在し、
北前船に代表されるように、古代から明治時代まで、海運による
近畿地方との関わりが深い「沿岸国」としての歴史が綴られている(→
越後国の先にある地域)。
藩政時代には、おおむね日本海沿岸の地域は銀遣い、太平洋沿岸の地域は金遣いであり、その境界線はおおよそ下北半島の東岸であった。
陸奥国と出羽国の境界とされる
奥羽山脈は、所々で山脈自体が低い部分があり、かなり低い
峠が存在したりするため、日本海側に区分すべき地方の一部が太平洋側に組み込まれているとも言える。
令制国
の区分では、
太平洋側の「
陸奥国」に、奥羽山脈の西側にある
会津地方や
津軽地方を含んでおり、その他の
日本海側の部分が「
出羽国」となっている。しかし、特に古代においては陸奥国と出羽国の境界は、時期により変更されることが度々あった。
基本的に、奥羽山脈東側(太平洋側)が陸奥国、日本海沿岸南部地域が出羽国であり、その間の挟まれた奥羽山脈西側盆地群は、陸奥側の政治勢力の盛衰によって陸奥国と出羽国の間で所属が変化していたようである。そのため、会津地方や津軽地方の他、現在の山形県内陸部(
村山地方および
置賜地方)や秋田県内陸部(仙北三郡)が、陸奥国に区分されたこともあった(→#歴史、
陸奥国、
出羽国)。
- 奥羽山脈西側盆地群(斜字 は令制国の陸奥国):青森平野 (青森湾)、鹿角盆地、横手盆地(仙北三郡)、新庄盆地、山形盆地、米沢盆地、会津盆地
即ち、
測量された
地図が無かった時代には、東北地方の「内陸勢力」の版図が陸奥国、日本海側「沿岸勢力」の版図が出羽国とされていたと考えられる。
鎌倉時代以降は、日本海沿岸地域は政治勢力化せずに商業勢力に留まることが多く、陸奥国側の内陸政治勢力が、陸奥国と出羽国を一体的に「奥州」として管轄した。
北東北と南東北
東北地方は、主要都市の間に
東北新幹線・
山形新幹線・
秋田新幹線が通ることで、全ての県に
新幹線が通っている唯一の地方となった。そのため、新幹線が優位に立つ中距離移動(200km〜800km)が便利である。また、東北地方を南北に貫く
東北自動車道の他、太平洋側と日本海側を結ぶ
高速道路がいくつも整備され、奥羽山脈を越えた地方内の近距離移動(200km程度以内)の利便性も上昇した。これに伴い、運行本数が少なく、往々にして運賃・料金が高い在来線よりも、安価で速く便利に移動できる
高速バスが、各都市間で運行されるようになった。すると、それまで空路で東京とつながってバラバラだった主要都市間の関係が、新幹線によるつながりや高速道路(高速バス)によるつながりによって再編成されることになった。
北東北三県は、各県知事の政治主導で「三県連合」の枠組みがつくられたが、元々各県都間の地理的距離があり、うち
青森市や
秋田市の場合、陸路では
東京からの所要時間が長いため、新幹線が開通しても空路から陸路への旅客シフトが劇的には起きなかった。その結果、新幹線の結節点である
盛岡市を中心とした相互交流や、高速バスの低廉化・高頻度化などはあまり発生しなかった。そのため、期待していたほど北東北三県都(青森市・盛岡市・秋田市)の経済的結び付きは強くならなかった。
一方、南東北三県は、各県の
県庁所在地や中心都市が元々近接していた上、陸上交通の再編成によって、経済主導でその枠組みをさらに強くした。南東北においては、
仙台市との経済的結び付きが強い地域が「
仙台経済圏」を形成しており、南東北三県都(仙台市・
山形市・
福島市)がある中枢部は、
南東北中枢広域都市圏という名称の協議会を結成して、人口334万人を抱える大都市圏行政を行っている他、「三県都連合」が経済後追いの形で形成されている。
周辺地方との関係
ただし、近代において大間の例は青森県内の一般的な事例とというわけではない。当たり前のことだが、(1) 青森〜函館間が最短でも列車で2時間弱を要する点、(2) カーフェリーの便はあるが、所要時間が長くて便数が少ない点、(3) 海峡の長さから道路橋や道路トンネルが建設されていない点、の3点から、
関門トンネルや
瀬戸大橋を挟む地域のように、通勤・通学を含めたより日常的・定期的な交流が生まれるには至っていない。
定義域と名称
当地方を一括して呼ぶ名称は、歴史的に変遷している。まず、
古代には、
畿内から始まる
海道(後の
東海道)と
山道(後の
東山道)の各々の
道の奥にあることから「みちのおく」「
みちのく」とされ、当地方南部(
南東北)に「道奥国」(みちのおくのくに)が設置された。後に
陸奥国と
出羽国が設置されると、両者から1字ずつ取った「
奥羽」「奥羽両国」「奥羽州」と呼ばれた。また、両者を一括して実効支配を敷いた
奥州藤原氏や
奥州探題などの例から、単に「
奥州」ともといわれた。
1868年(
明治元年)
旧暦12月7日、陸奥国が5分割(
磐城・
岩代・
陸前・
陸中・
陸奥)、出羽国が2分割(
羽前・
羽後)されると、「
陸羽」または「
三陸両羽」との呼称が生まれた。この場合、現在の福島県全域と宮城県南端に相当する磐城・岩代の2国を除いた、残りの「陸」と「羽」が付く5国の地域を指し、「奥羽」とは指し示す領域が異なっているが、分割前の「
陸奥国」と「出
羽国」と見ることもできるため、混同されて使用される例も見られる。
「
東北」と称する文献例は、主に
江戸時代・
天保期以降の
幕末になってから散見されるようになり、この場合、「東北国」と称する例もある。地方名としての「東北」の称が公的な史料で初見されるのは、
1868年(
慶応4年)正月に
佐竹義堯(
秋田藩主)に下賜された内勅とされる。ただし、この場合の「東北」の範囲は、東海道・東山道・
北陸道の3道全てを指しており、
天皇の在所である
畿内からみて
北東に位置する
地方全体、あるいは、
東国と
北陸の合成語と考えられる。
明治政府による
中央集権的・統一国家的な地方支配が進められる中、当初は政府直轄の石巻県
石巻が当地方(軍事的には
北海道を含む)を支配する際の中心地とされた。間もなく
廃藩置県が実施されて全国が政府直轄となると、
仙台県仙台(後の
宮城県仙台市)が当地方の中心地とされ、仙台に設置された出先機関が管轄する範囲が「東北地方」となり、多くは奥羽両国と同じ範囲であった(北海道との切り離しも図られた→
北海道の分領支配)。奥羽両国は、明治元年成立の旧国の数から「東北7州」、あるいは、新設の
県の数から「
東北6県」ともといわれるようになった。
なお、明治以降135年以上に渡って、東北地方の主要企業・国家の出先機関・大学などの名称に「東北」が多く用いられてきたため、現在は「奥羽」よりも「東北」の方が当地方の呼称として一般的である。
新潟県を東北地方に編入する場合
民間でも、明治10年代から「東北」の称が頻繁に用いられるようになっていったが、新聞・雑誌各誌では、仙台に本拠を置く出版社を中心に、広く東北6県および新潟県で「東北」を冠した新聞・雑誌が発行され、
新潟市でも「東北日報」という新聞が発行されていた(仙台でも同名の新聞が発行されていた→後の
河北新報)。また、現在の
北陸本線にあたる、近畿地方から新潟県柏崎までの路線建設を計画する会社が1881年(明治14年)7月に設立されたが、その名称も「東北鉄道株式会社」であった。すなわち、1868年の
東京奠都および
明治天皇の
東京行幸の後、
京都の他に
明治政府が所在する
東京も都との認識が生まれ、「東北」の定義域は、畿内から見た場合は現行の東北6県および新潟県、東京から見た場合は現行の東北6県として認識されていたことになる。
現在でも、法的・経済的に新潟県が東北地方に区分される場合がある。それは、
明治時代から始まった
水力発電との関係が強い。当地での電源開発の最重要地域の1つに
阿賀野川(
只見川)があるが、これは新潟県下越地方と福島県
会津地方(両地域とも
分水嶺である
奥羽山脈の西側)を流域としており、
電力において下越地方と会津地方は不可分であった。このため、「東北7県」を供給範囲とする電力会社として、戦中の
1942年には
国家総動員法と配電統制令により東北配電、戦後の
1950年には電力事業再編政令により
東北電力が設立され、その後も「東北7県」を対象範囲とする地域開発の法律がつくられた。
- 新潟県を含めた7県を「東北地方」と定義する法律(戦後)
- 北海道東北開発公庫法(1956年〜1999年)< 中央省庁再編にあわせ、北海道東北開発公庫は解散し、日本政策投資銀行へ継承。
- 東北開発株式会社法(1957年〜1986年)< 1986年に東北開発株式会社(特殊会社)は民営化。その後、三菱マテリアルと合併。
- 東北開発促進法(1957年〜2005年)< 国土総合開発法の改正に伴い、他の地方開発促進法とともに廃止。
- 地方行政連絡会議法(1965年〜)
- ※1〜3をまとめて「東北三法」ということがある。
昭和30年代後半から始まる
全国総合開発計画と
国土形成計画でも、これらの法律に則って「東北7県」を以って「東北地方」としている(2007年4月1日から施行された国土形成計画法施行令以降は「東北圏」と称す)。また、北海道と「東北7県」で、北海道東北地方知事会議が開催されている。
経済においては、これら法律の「東北7県」の枠組みにしたがって
東北経済連合会が構成され、関連する産・学・官連携
シンクタンク(現在の名称は「東北開発研究センター」)、研究開発機構(東北インテリジェント・コスモス構想など)、地域
ベンチャーキャピタルや地域
投資ファンド、観光事業などでも新潟県が含まれている。
東北経済連合会では、
東京都より北に本社を置く企業で最大である東北電力がリーダーシップをとっており、その経済力を背景に、同社提供の
ブロックネットの
ローカル番組が複数制作されて「東北7県」(番組内では「東北地方と新潟県」という)に放送されたり、同社が関係して「東北7県」の
地方紙で連携企画が掲載されたりしている(→
河北新報#紙面参照)。
以上のように、東北電力関連や経済政策の面においては、「東北7県」を以って「東北地方」とする例が見られる。しかし、新潟県は、明治初期において日本で最も人口の多い
道府県であり(→
都道府県の人口一覧)、1940年の統計で新潟県1県の工業生産額が
南東北3県合計とほぼ同じであるなど経済背景も異なる。新潟市と東北諸地域を結ぶ交通網では、1914年に
磐越西線、1924年に
羽越本線、1997年に
磐越自動車道が全通し、2002年に
日本海東北自動車道の一部が開通したものの、仙台に立地する機関が新潟県を管轄して「東北7県」とする例は限定的である。そのため、新潟県を東北地方に編入する場合は、「東北地方」との呼称を用いずに、「東北7県」「東北地方と新潟県」「奥羽越」「東北圏」などと言って区別する例が多い(→
新潟県#新潟県の分類)。
歴史
-
東北地方を経済の視点から見た歴史は「東北地方の経済史」を参照
畿内政権の
律令制・
中央集権体制下では、出羽国は
越国(
北陸道)の先にある沿岸国(船で到達できて畿内に近い)、陸奥国は
東山道を徒歩で行くために、「道奥=みちのおく(
みちのく)」すなわち内陸国と見なされていた。そのため、現在のような
測量された
地図がなかった時代には、出羽は日本海沿岸の政治勢力の版図、陸奥は本州奥地の政治勢力の版図とされ、その境界は在地の政治勢力の盛衰にしたがって変化し、必ずしも
奥羽山脈できれいに東西に分かれていたわけではない。
蝦夷(
俘囚)勢力が後退した
鎌倉時代以降は、政権のある
鎌倉からは陸奥国の方が近くなり、また、鎌倉と出羽国とは船での繋がりをもてなかったために出羽の沿岸国としての意味合いが薄れ、奥羽両国を一括して「奥州」とするようになった。
奥州(東北地方)は、
近畿地方の諸政権(
天皇・公家政権、
室町幕府、織田・豊臣政権)が支配した時代には、政権所在地からは遠いため、半独立的な政治勢力が生まれていた。しかし、
関東地方の諸政権(
鎌倉幕府、
江戸幕府、
明治政府)には近いため、政権への従属的傾向が強くなる。明治以降は、知識層である武士階級を大量に失い、
野蒜築港が
台風のために2年で閉港となったため、開港場が近くにない唯一の地方となって
資本主義経済に乗り遅れた。また、日本人の9割以上が農民だった明治期までは、寒冷地であるため農産物による人口の涵養ができずに、人口の少ない地方となっており(→
都道府県の人口一覧)、国内市場としての重要度も低かった。
現在は人口も増え、
新幹線が全ての
県に通っている唯一の地方となり、
高速道路の整備も進んだため、東北地方内における陸上交通の再編と経済圏の形成が進んでいる。一方で、人口の
仙台都市圏への集中、その他の地域の過疎化も進んでいる。
旧石器時代
旧石器時代は
氷河期に当たり、現在よりも寒冷であった。そのため、当時の海岸線は現在よりも沖合いにあり、現在は海底に沈んでいるため、海岸線での生活についてはほとんど判っていない。内陸の生活については、東北地方でも富沢遺跡や金取遺跡などで判るが、他の幾つかの遺跡が
旧石器捏造事件によって研究が振り出しに還ってしまったため、現在検証作業中である。
縄文時代
縄文時代には気候が温暖化して、東北地方も現在より暖かかった。当時の採集・狩猟・漁労を中心とした生活では、
西日本よりも
東日本の方が生活に適しており、
関東地方・
中部地方・東北地方の諸地方の人口が多かった。最も人口密度が低かった
近畿地方・
中国地方・
四国地方と比べて、人口密度が最も高かった関東は30倍以上、東北も5倍〜10倍程度の人が住んでいたと見られている。そのため、1440年も続いた巨大集落である
三内丸山遺跡などが造られ、関東や北陸などと共に縄文文化の中心を担った。
弥生時代
弥生時代になると、大陸の
中国・
長江下流域から
水稲耕作技術(
ジャポニカ種)が
九州北部などに伝わった。それまで人口の少なかった九州・山陰・山陽・近畿の諸地方は、これで人口が急増し、以後、日本の中心地となっていく。東北に水稲耕作技術が伝わったのは弥生時代前期であるが、一般的には紀元前後と見られる弥生時代中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、特に北部においては
続縄文文化であったとする見方もある。
※ 弥生中期、北端の青森県の
垂柳遺跡・砂沢遺跡でも水稲耕作が行われていた形跡は見られるが、その後の気候の寒冷化により、稲作は長い中断を余儀なくされたとみられる。
古墳時代
古墳時代には、東北地方でも多くの
古墳が造られた。青森県でも古墳が見られるが、小規模な終末期古墳に限られる。古墳が集中している地域は
仙台平野や
会津地方などの東北地方南部となっている。また、
奈良盆地に起源があるとみられる
前方後円墳も造られ、
ヤマト王権との交流がすでに始まっていたと考えられている。東北地方最大の前方後円墳は、
宮城県名取市にある
雷神山古墳である。
古代
古代に入ると、
ヤマト王権と東北地方との関係は、古墳時代までの緩い連合体、文化交流のレベルから、より強い主従関係、ないしは中央集権的な都と地方という関係が強まっていく。
畿内政権側から見た
古代の東北地方と、
新潟県の
米山峠以東(
中越地方・
下越地方・
佐渡島)は「未征服地」であり、畿内政権に服従しない異民族「
蝦夷(えみし)」が住んでいるとされた(
蝦夷の住んでいた範囲には諸説ある)。以降、古代から中世にかけて、畿内政権側の征服戦争と、東北地方(特に
奥六郡)の独立や半独立の動きの中で、征夷軍と蝦夷軍が衝突し、東北地方の歴史は作られていった。
7世紀中期〜後期に、
天皇を中心とした強力な官僚制が志向されるようになると、それまでの地方豪族が
国造として独自に支配していた地方分権体制から、中央集権体制へと国家体制が大きく変化した。
この流れの中で、7世紀半ばに、太平洋側の現在の
福島県から
宮城県中部辺りまでと、
山形県の南部(
置賜郡)と中部(
最上郡)が畿内政権側に服従し、
常陸国から分離される形で道奥国(みちのく。後に
陸奥国)が設置された。この地域は、古墳時代に前方後円墳が幾つも造られた地域である(7世紀の内に、宮城県内は平定された)。
日本海側では、すでに新潟県
上越地方(
頸城郡)まで征服した
ヤマト王権と
越国(こしのくに)の連合軍が、「
柵 (き)」と呼ばれる前線基地を築きながら北進する。まず、
647年に
渟足柵(現在の
新潟市中心部)、さらに
648年に
磐舟柵(現在の
岩船郡、
村上辺り)を設置し、日本海沿岸を次々と
越国に組み入れていった。
658年になると、越国守であった
阿倍比羅夫が、180艘の軍船を率いてさらに日本海沿岸を北上し、「鰐田(あぎた)の浦」(現在の秋田市周辺?)から
津軽地方へと到った(
日本書紀)。これが蝦夷征討なのか武装交易船団なのかは定説がない。少なくともこの阿部水軍は658年〜
660年の間に三度来航し、交易をして帰っている。その後、畿内政権と同盟関係にあった
百済が
新羅の侵攻を受けたため、阿部水軍もその戦列に加わり東北日本海側への遠征は中断された。
律令制整備が進み、中央集権国家として確立してくると、さらに地方の支配体制の整備も進んだ。朝廷軍は、北進して
庄内地方に達し、現在の
酒田市の
最上川河口部辺りに
出羽柵を設置。越国(こしのくに)が
越前国・
越中国・
越後国の3ヶ国に分割されると、
708年(
和銅元年)9月28日、
庄内地方に
出羽郡が設置され、越後国に組み入れられた。この出羽郡は、
712年(和銅5年)9月23日に越後国から分立して
出羽国になり、しばらく後に
陸奥国から
置賜郡と
最上郡を譲られて、沿岸国だった出羽国は内陸部を得る(
国府は現在の酒田市の北東部にある
城輪柵遺跡に設置されたと考えられている)。さらに北進した畿内側の軍は、
733年に出羽柵を秋田高清水岡(現在の
秋田城跡)に移した。ただし、現在の秋田県の領域では、沿岸部のみが支配下に入っただけで、内陸部はやや緩い支配だった。
朝廷の支配が確立すると、関東地方や北陸地方から多数の入植者(柵戸)が入り、東北地方の内地化が進んだ。俘囚の中から
安倍氏が勢力を伸ばして
奥六郡を支配したが、
源頼義と対立し滅ぼされ(
前九年の役)、その後
清原氏が勢力を張ったが
源義家に滅ぼされた(
後三年の役)。
中世
平安時代末期から
中世初期には、北上川流域(奥六郡)で
奥州藤原氏が栄え、
平泉が
平安京に次ぐ日本第二の
都市になるまで発展する。この時、奥州藤原氏は、平安京の畿内政権側から半独立が補償されていた。しかし、
源義経を匿ったかどで、
鎌倉政権側に討伐の口実を与えてしまい、
源頼朝により滅ぼされた。
その後
板東出身を中心とする
武士団が多く配置されるとともに、
北条氏の所領が広く設定されたが、一部には
津軽地方の
安藤氏のように在地領主と見られる豪族も勢力を維持した。安藤氏は
北条得宗家から
蝦夷代官に任命され、北東北から北海道を支配したとといわれている。安藤氏の本拠地
十三湊は交易で栄え、日本有数の都市となった。しかし、
室町時代には安藤氏は
南部氏との抗争により津軽を追われ秋田地方に移り、十三湊の繁栄は失われた。
なお、出羽国の内陸部(
奥羽山脈の西側に連なるいくつもの盆地群)は、
甲斐国の
武田信玄と同様に、盆地の領域支配を早々と確立し、東北地方の戦国時代の主役を担った。それは、職業歩兵(
軍人)である
足軽が農民から分離されていなかった戦国初期においては、組織できる兵力に限界があり、盆地程度の広さが領国支配に適していたためで、出羽国内陸部の盆地の諸勢力は、陸奥国領域にも積極的に攻勢に出た。
江戸時代
江戸時代後期の
天明年間の地球的な気象変動などにより起こった
天明の大飢饉では、10万人以上の餓死者、疫病者を出し、多くが無宿者となり江戸へ流入した。その中で、
米沢藩主
上杉鷹山などは藩財政の改革を行って飢饉に抗した。
天保の大飢饉でも東北地方は多くの死者を出した。
江戸幕府が倒れて後、幕末の
1868年には
北陸地方東部の
北越戦争から続く
会津戦争など
戊辰戦争の舞台となり、東北や北陸東部の諸藩は
奥羽越列藩同盟と呼ばれる軍事同盟を結んで新政府軍より身を守ろうとしたが、結局敗れた。この報復として、同盟に参加した藩は所領を大幅に減らされ、その経済は壊滅同然にまで追い詰められた。その結果
北海道(
蝦夷地)へと口減らしも同然に家臣団(武士階級、知識階級)などを移住させざるを得ず、東北発展に取り返しのつかない打撃を与えた。新政府側につき、奥羽越列藩同盟を離脱した
秋田藩・
弘前藩などもまた、戊辰戦争で多くの犠牲を払い莫大な出費をしたため、困窮は避けられなかった。
近代
この時期、
戊辰戦争の敗北によって、幕藩体制に則った社会秩序は完全にその権威を失った。
秩禄処分によって経済的な困窮へと追い込まれた各地の領主と家臣団の間では、窮余の策として「北海道移住」と「帰農」が広く行われ、また土地の産物ではなく貨幣により税金を払うシステムが初めて導入された地域では、現金収入を得ることに慣れない人々に大きな混乱を与えた。この戦争によって東北地方は政治、経済体制を完全に破壊され、例えば現在でも「奥羽越列藩同盟」の旧勢力圏である東北6県(官軍側となった旧秋田藩領域なども含む)と新潟県の「大学進学率」や「高学歴住民の割合」に見られる通り、当時の悪影響は現在までも尾を引いているなどともといわれている。
また明治以降の
富国強兵・
殖産興業の時代においても、郡山盆地における
安積疎水、宮城県の
野蒜築港、
東北帝国大学設置、岩手県の
釜石製鉄所などの例外を除いて、政府は東北地方での大規模な投資や開発に積極的ではなかった。野蒜築港が台風によって破壊された後も修復や代わりの港の建設はされず、
東北本線などの鉄道開発も、官営による国家計画としては行われなかった。
大蔵卿・
松方正義による
松方デフレは、農産物の価格下落をもたらし、全国的に
小作農の比率を上昇(小作農率の全国平均38%→47%)させた。その影響によって、全国的には富裕層による
地主所有の寡占化が進み、また産業化(
生糸産業・
造船業など)が進んでいた関東の都市部などは経済が好調となった一方、工業化の遅れていた東北地方は更なる経済的ダメージを蒙ることとなった。そのため多くの者が女工や各種
労働者として都市部などへと働きに出ざるを得ず、また昭和になってからは、農家の次男・三男などを中心に旧
満州国などへの移民が活発化した。
第二次世界大戦以後においてもこうした人材の流出傾向は改善されず、
太平洋ベルトへの産業の集中に取り残された。
高度経済成長時代には
東京方面への
出稼ぎ、
集団就職は非常に広い範囲で行われた。
このように中世から現在に至るまで、東北地方は時々の政治や経済に強く翻弄される歴史を歩み、明治以降は、
東京の影響を極めて強く受けることになった。東北地方は、首都圏の後背地として、東京の繁栄を支える人材(
原敬、
米内光政など国政の中枢で活躍した東北人も少なくない)を多数輩出し続けている。
方言
東日本方言に属し、太平洋側では
関東方言との共通点が多くみられるほか、日本海側では
関西方言の影響もみられる。 この地域の中でも方言の差は激しく、ある地方では普通に使われている語が隣県では全く通じなかったり、同一県内でも全く特徴の違う方言が存在していることが少なくない。
東北地方の方言アクセントは、太平洋側南部(宮城県中部〜福島県)の
無アクセント、日本海側の北奥羽式アクセント(外輪
東京式アクセントの亜種)、そして太平洋側北部の無アクセント、北奥羽式アクセント及び外輪東京式アクセントに大きく分かれる。
かつては聞き取りにくい・理解しにくい方言の代表として、
鹿児島弁とともにあげられることが多かった。また東北地方は他の地方と比べて決定的に開発が遅れた。そのため東北地方やその方言について、他の地方の人々から暗いイメージや否定的印象を持たれたり、方言に劣等感を抱く東北地方出身者も増えていった。東北地方の出身者が他の地方に赴いた時、極端に無口になるとといわれているのはこのような事情のためであった。
現代においては、温かい人情や素朴さの象徴とする肯定的見方も生まれたが、その話者にとっては「勝手なイメージ付け」に過ぎない点において他の否定的な評価と何ら変わるところではなく、方言話者にとっては必ずしも好意的に受け取られるとは限らない。現代では東北地方でも若い世代では方言の影響が薄れている一方、東北地方の貧困イメージも薄れつつあり、これらの古いイメージに最初から囚われない人も増えてきている。
なお、「一般的に東北地方の方言のものと思われている特徴」としては、
- シとス、ジとズの混用(中舌母音、いわゆるズーズー弁)
- イとエの混用
- 「んだ(「そうだ」の意)」「だべ(「だろう」)」などの語尾(後者は関東地方の方言の特徴でもある)
- 「べこ(「牛」の意)」などの語彙
などがある。しかし当然ながら、これらの特徴が当てはまる方言、当てはまらない方言が、それぞれ複数種にわたって存在している。
東北地方以外でその方言を聞ける場所の代表として、かつては
上野駅(厳密にはJR東=旧国鉄の上野駅。特に長距離列車が多く発着した地上ホーム)がよくといわれた。実際に石川啄木の短歌や、高度成長期の望郷ものの流行歌に登場するなどもしていたが、しかし
東北新幹線の東京駅への乗り入れ(1991年)などによって駅と東北地方との結びつきは劇的に弱まり、すでに過去のイメージとなりつつある。
人口
東北地方全体としての人口動向を見てみると、戦後は自然増(第一次
ベビーブーム)を中心に人口増の時代となり、1960年には東北地方全体で約970万人に達した。60年代の
高度経済成長時代には、「
金の卵」の名の下に、主に
京浜方面に
集団就職したり
出稼ぎに出たりするようになり、民族移動にも似た人口減(社会減)の時代に入る。この流れは1970年初頭まで続き、第二次
ベビーブームによる大幅な自然増があったにも関わらず、1970年には924万人にまで人口が減った。その後、
ニクソンショックと
オイルショックによって低成長時代に入った
東京への流出が減少し、東北地方は再び人口増の時代に入る。ベビーブーム終了後は、900万人を越える市場性と
第三次産業への産業転換により地方中核都市の社会増が起き、日本全体の長寿化(死亡率低下)も手伝って堅調に人口は増え続けた。
バブル景気期には、一時、東京圏から転入超過ともなり、20世紀末に約985万人に達した。21世紀に入り、東北地方全体の景気低迷と、高度情報化や
金融の
東京一極集中のために、人口は再び社会減による減少に転じている。今後は、長寿化の限界と
団塊の世代の高齢化による死亡率の増加、および
少子化の影響で自然減になり、人口は引き続き減少していくと見られている。
- ※ : 以下の統計の順位は全国順位、人口の単位は「人」
主要都市圏
- 東北地方の主な都市圏
- 2000年国勢調査をもとにした都市雇用圏(10%通勤圏)による
- 都市圏名・人口は2000年当時のもの
- 「■」:県庁所在地を中心とする都市圏
県別人口・主要都市人口
明治時代(19世紀末)の東北地方の人口 (順位は全国順位)
19世紀末は、産業の中心が
農業であったため、
稲作に適した
南東北の方の人口が多く、また、同
緯度では、夏季の高温(
フェーン現象)で収量が安定している日本海側(山形県、秋田県)が、
やませの影響で収量が不安定な太平洋側(宮城県、岩手県)よりも県別人口で上回っている。この時期はまだ
都市化が進展していなかったため、江戸時代の経済の名残りで、
城下町と
港町が都市としての地位にあった。
現在は、都市化が進んでおり(東北地方全体の都市部の人口75%)、県別の人口順位も
DID面積順位(→
東北地方#地理)とほぼ一致する。
年齢構成
交通
東北地方は、
白河の関から
本州最北端の
大間崎まで道なりに630km以上あり、東京〜姫路間の道のりより距離がある。そのため、東北地方の陸上交通路は、東京までの到達時間短縮が第一に重視され、街道、鉄道、道路の整備は、まず南北を結ぶ交通路が整備された。また、太平洋側の交通の整備が先に進み、日本海側については概してその後に整備された(以下は主要駅間の路線距離の5km毎概数。東北地方の諸都市の間隔に近い
太平洋ベルトの都市を示す)。
現在、南北陸上交通においては、主に
東北新幹線・
東北自動車道により
関東地方と連結され、旅客では新幹線が優位に立っている。東京への到達時間短縮のために高速交通機関が発達したが、一方で東北地方内の旅客移動も活性化させ、特に太平洋側は、距離に関わらず南北間の都市間交流が盛んとなっている。また、
本州・北の
ターミナルである
青森県は、
津軽海峡を挟んだ
北海道との間に
青函トンネルの開通し、諸都市間の関係が深まっている。以前は青森・函館間に
青函連絡船が運航されていたが、トンネル開通で
フェリー航路が設定され、東北道・八戸道と連動した
トラック流通に対応している。なお、近年、
南東北と
東京との間に都市間
ツアーバスが格安で参入し、
高速バスと熾烈な旅客獲得競争を繰り広げている。
他方、東西の交通については、山脈・山地などに阻まれながらも明治時代から鉄道や
国道が整備されてきたが、高速交通への対応は遅れた。東西高速交通は、「幹」である東北新幹線や東北自動車道と接続する「枝」のように整備され、20世紀末までに
秋田新幹線や連絡線の高速道路が整備された。この結果、
郡山と
会津若松、
仙台と
山形、
盛岡と
秋田となどとの間で、自然障壁を越えた地域圏や経済圏の形成が進んでいる。
東西交通の高速化により、現在の東北地方は、交通インフラの利便性の違いにより2つの地域に分類される。東京との交通上の関係で見ると、太平洋側から奥羽山脈西側に隣接する盆地群までがいわば「新幹線派地域」、それ以外の日本海沿岸地域が「飛行機派地域」に分けることができる。両者の東西の境界はほぼ出羽山地である。
「新幹線派地域」にある
仙台空港(
仙台都市圏内の
名取市・
岩沼市)は、多数の国内線や国際線が就航していて、国際線に至っては利用者の半分以上が宮城県居住者以外となっており、「新幹線派地域」の拠点空港となっている。日本海沿岸地域(
津軽平野・
秋田平野・
庄内平野)は、東北新幹線に接続するまで時間がかかるため、東京とは空路需要が多く、「飛行機派地域」となっている。
空港
現在、東北地方の各空港同士を結ぶ路線は存在しない。過去に空港同士の直線距離が300km程度以内で定期路線が就航していたのは以下の4路線。
- (参考)新幹線…東京駅〜仙台駅:351.8km(東京駅〜名古屋駅:366.0km)
- 仙台空港〜青森空港(直線距離:約290km)
- 仙台空港〜三沢飛行場(直線距離:約288km)
- 仙台空港〜新潟空港(直線距離:約160km)
- (参考)高速道…仙台宮城IC〜新潟中央IC:253.5km
1982年の
東北新幹線開通(
大宮駅〜
盛岡駅)によって羽田便が同1982年に廃止され、三沢便も廃止に至った。新潟便は、
磐越自動車道が次々整備される中、1992年に廃止された。青森便は、新幹線の利便性が得られない地域であったために設定されたが、JRとの運賃値下げ競争に負けて廃止された。
その他にも、新幹線の開通で空港の旅客数が顕著に減少する例が多い。分かり易くするため、空港に近い新幹線駅と東京駅との営業キロ数を、
東海道山陽新幹線との対照で付記する。
-
花巻空港〜羽田空港間に航空路が設定されていたが、東北新幹線が盛岡駅まで開通したため、最大の利用客居住地の盛岡市から離れた花巻空港は、トータルで東京都心までの到達時間での優位性がなくなり、かつ、東北新幹線の方が運行頻度が高かったことから採算割れして廃止となった。
-
山形空港では、羽田便を中心に1991年に70万人以上の年間利用客があり、ピークとなったが、1992年の山形新幹線開業で減少傾向に転じ、最盛期の3分の1以下の20万人となった。山形新幹線がミニ新幹線であり、福島駅で列車接続をするため、所要時間短縮効果がフル規格新幹線と比べて大きくないことから、自治体の支援で羽田便が1日1便で運行している。
-
秋田空港では、1996年に約150万人の年間利用客があったが、1997年に秋田新幹線開業、1998年に大館能代空港開港により利用客が減少した。しかし、秋田新幹線がミニ新幹線であることにより東京までの所要時間がそれほど短縮しなかったため、空路から新幹線への旅客の移動はあまり進まず、130万人程度で横ばいとなっている。
- 東京駅〜秋田駅:662.6km(東京駅〜相生駅:665.0km)
-
三沢飛行場では、全体の年間利用客数が2001年に58.3万人に達したが、2002年12月1日に東北新幹線が八戸駅まで延伸されたため、主に羽田線の旅客が減少し、2004年度には33.4万人まで旅客数を減らしている。
- 東京駅〜八戸駅:631.9km(東京駅〜姫路駅:644.3km)
-
青森空港も1998年〜2002年は150万人以上の年間利用客がいたが、東北新幹線の八戸延伸以降減少し続けている(現在、青森市に新幹線駅はないが、東北新幹線が延伸・建設中である)。
- 東京駅〜新青森駅(建設中):713.7km(東京駅〜岡山駅:726.0km)
- 東北地方内の全ての空港に就航している路線は大阪国際空港(伊丹)便のみ。
- 2006年度旅客数(日本の空港#乗降客数参照)[http
- //www.tht.mlit.go.jp/zudemiru/31.zu.pdf 空港別乗降客数の推移](国土交通省東北運輸局)
- 出典は国土交通省航空局・2006年度空港管理状況調書
- チャーター便の旅客数含む
-
三大都市圏への便は太字
- 括弧は季節運行を示す
- 東京便(羽田便)がない空港には★
- 2005年貨物
-
仙台空港 18,360t(国内 15,524t、国際 2,836t)
-
青森空港 4,981t(国内 4,952t、国際 29t)
-
秋田空港 4,094t(国内 4,054t、国際 40t)
-
庄内空港 1,203t(国内 1,203t)
-
花巻空港 1,176t(国内 1,176t)
-
福島空港 964t(国内 886t、国際 78t)
-
三沢空港 872t(国内 872t)
-
山形空港 163t(国内 163t)
-
大館能代空港 152t(国内 152t)
港湾
江戸時代には、
北前船によって日本海側の港町が、東回り航路によって太平洋側の港町が栄えた。また、大小さまざまな漁港があり、
遠洋漁業が盛んだった時代には大いに賑わった。現在は、地場の魚(
沿岸漁業・沖合漁業)の特産化や高級化で活気がある漁港が数多く存在する。工業港・貿易港としては、仙台・小名浜・石巻・八戸・秋田が、旅客港として青森・八戸・仙台が重要な港湾となっている。
鉄道
-
東日本旅客鉄道 (平均 48.4万人/日。2004年度)
-
北海道旅客鉄道
-
私鉄、第三セクター鉄道(平均 5.1万人/日。2004年度)
-
地下鉄 (平均 15.0万人/日。2004年度)
道路
東北地方は、
医師の数が人口比で全国水準より低い上、無医地区も広いため、高速道路や国道体系と
医療体制との関係が深い。高速道路・国道は、都市部にある高度医療を行う病院や
救急救命センターへの搬送路として機能し、
救急車緊急退出路も整備されている。また、都市部に偏る常勤医を郡部へ非常勤医として送る供給路としても利用されている。
主な道路
-
※ ここでは主要路線のみを掲載する。その他、「東北地方の道路一覧」も参照する事。
- 高速道路
- 一般国道
メディア
- * 北東北3県(正三角形2局ごと)
- ** 青森・RAB青森放送「@なまてれ」
- ** 盛岡・TVIテレビ岩手「5きげんテレビ」
- ** 秋田・ABS秋田放送「ゆうドキっ!」
- * 仙台経済圏(MMTを中心に放射状2局ごと)
- ** 盛岡・TVIテレビ岩手「5きげんテレビ」
- ** 仙台・MMTミヤギテレビ「OH!バンデス」
- ** 山形・YBC山形放送「ピヨ卵ワイド430」
- ** 郡山・FCT福島中央テレビ「ゴジてれシャトル」
経済
- 東北経済産業局はその経済波及効果を、「東北地域における自動車関連産業の集積を高め、域内部品等調達率を50%に向上させた場合には7,366億円まで拡大する可能性がある。」と分析している。http://www.tohoku.meti.go.jp/cyosa/io/kaitei_jidosya050203.htm
脚注
関連項目
外部リンク
歴史
経済
教育
コミュニティ
*