東京電燈株式会社(とうきょうでんとう)は、かつて存在した
企業の一つ。
日本初の
電力会社である。
経歴
創始
この時、浅草発電所において東京電燈は
ドイツの
AEG製発電機を購入して使用したが、これは
交流50
Hzによる電気を供給するものであった。ほぼ同時期、関西の大阪電燈が
アメリカゼネラル・エレクトリック製の交流60Hz供給発電機を採用したが、これが現在まで続く日本の東西で
商用電源周波数が異なる原因となっている。
鉄道事業
その後、品川電燈・深川電燈など関東に新しい電力会社が続々設立されるようになる。それらの中には、
鉄道会社が副業として行っていたものや、その逆で余剰電力を用いて電気鉄道事業を行っていた電力会社もあった。なお、東京電燈も
大正から
昭和にかけての一時期、
前橋電気軌道(利根発電合併による)・
利根軌道・
吾妻軌道(東京電力合併による)・
江之島電氣鉄道(現在の江ノ電、横浜電気合併による)などを買収し、直接経営を行っていたことがある。大口の電力需要を持つ電気鉄道会社は、電力会社にとっても経営安定化の面などで魅力的なものだった。しかし東京電燈の場合は、電力事業へ専念しようという考えから、後には全ての路線を
東武鉄道や江ノ島電気鉄道などに譲り渡した。
また、これが縁で江ノ電の架線柱は現在も東京電力の電柱を兼ねており架線柱の片側が異様に長く、その先には電力線やコンデンサ等がぶら下がっている。
競争と買収・統合
明治時代から大正末期になると、
東京鉄道・
利根発電・
鬼怒川水力電気・桂川電力・江戸川電気・猪苗代水力電気など関東における電力会社が続々誕生するようになり、競争状態になった。特に東京電燈と、
東京市電気局と協定を結んでいた鬼怒川水力電気、桂川電力から受電契約を結んで設立された日本電燈の3社による競争は熾烈になり、過当な
ダンピングが行われるまでに至った。この競争は
1917年(
大正6年)に協定が結ばれたことで終結し、東京電燈はその後日本電燈を買収した。
大正末期には地方でも電力会社の統合が進み、東京電燈、
東邦電力、
大同電力、
宇治川電気、
日本電力の5社が
五大電力会社と呼ばれるようになった。しかし東京電燈は、
1923年(大正12年)に
関東大震災で甚大な被害を受けた。だが復興は急ピッチで進み、翌年2月には8割以上の復旧をみた。また、震災後急増した電力需要に対応するため、
隅田川沿いに
千住火力発電所(4本のお化け煙突で有名)の建設も開始し、
1929年(
昭和4年)には50000kWの供給力を持つ大型発電所となった。この間、
1927年(昭和2年)には東京電力(
松永安左エ門の持つ東邦電力の子会社)と合併した。
経営不振と再建
その一方で、一連の企業買収は非効率な発電設備を抱えると共に電力供給能力の過剰を招くことになり、震災による被害とも相まって経営不振の原因となった。東邦電力への対抗策として行った名古屋進出も失敗に終り、加えて社長・若尾璋八による社費の政治活動への流用(若尾は
立憲政友会総務でもあった)や
ペーパーカンパニーを用いた私的流用もあり、同社に多額の融資を行っていた
三井銀行も事態を看過できない程にまで経営が悪化していた。
1927年に三井銀行の
池田成彬によって、
郷誠之助と
小林一三が取締役に就任。債務整理を実施した後に
1930年に若尾を会社から追い、郷が社長・小林が副社長の布陣を取った。特に営業の指揮を振るった小林は、営業所を再編すると共に電気器具の販売にも注力。加えて決められた日に集金を行うことで、加入者に料金負担の意識を植え付けるなど、若尾の放漫経営で低下していたモラールを回復させることに成功した。
戦時体制
そして
満州事変・
五・一五事件・
二・二六事件・
日中戦争と軍色が強くなるにつれ、電力事業の国家による統制が望まれるようになった。
1938年(昭和13年)には「
国家総動員法」とほぼ同時に「電力管理法」・「日本発送電株式会社法」・「電力管理に伴う社債処理に関する法律案」・「電気事業法」が制定され、
1939年(昭和14年)にはそれに基づき国策企業の
日本発送電株式会社が設立、同年
8月には「配電統制令」が発布され、東京電燈を始めとした電力会社は日本発送電と関連する9配電会社に統合された。東京電燈自体は9配電会社設立に伴い、
1942年(昭和17年)
3月をもって解散した。
戦後の変動