7世紀中ごろに朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。
歴史
『三国史記』の新羅本紀は「
斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代
奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。
3世紀ごろ、半島南東部には
辰韓十二国があり、その中に
斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは
斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この
斯蘆国が発展してが基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。
『
太平御覧』で引用する『秦書』には、
377年に
前秦に初めて新羅が
朝貢したと記されており、
382年には新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べたとされる。この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。この記述から奈勿尼師今の即位(
356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。
また、
広開土王碑や
中原高句麗碑により、時期によっては倭や高句麗によって一定の支配を受けていたことも明らかとなっている。
当初は様々な書き方をしていたのを6世紀に正式に「新羅」という表記に統一した。
6世紀中頃に半島中南部の
伽耶諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が
660年に百済を、
668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐を支援し唐軍とともに戦ったが、その後、百済の旧領の全土と高句麗の南半分から唐軍を駆逐し朝鮮半島をほぼ統一した。首都はほぼ金城(現在の
慶尚北道慶州市)にあった。9世紀末には新羅の国力は衰え、百済・高句麗の再興を図る勢力が出て
後百済・
後高句麗との鼎立による
後三国時代となり、最終的には後高句麗から起こった
高麗に帰順して新羅は滅亡した。
新羅の歴史は、『
三国史記』新羅本紀・
敬順王紀に記されるように、始祖から第28代
真徳女王末年(
654年)までを上代、第29代
武烈王(金春秋)即位から第36代
恵恭王末年(
780年)までを中代、第37代
宣徳王から滅亡までを下代と分類する。
建国神話
『
三国史記』新羅本紀によれば、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話を持っていることが伺える。
- 朴氏初代の朴赫居世
-
辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「バク(=朴)」を姓として名乗った。朴赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される)に龍が現れ、その右脇から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので朴赫居世は王妃に迎えた。当時の人々は赫居世と閼英とを二聖と称した。また、建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。
- 昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)
- 倭国東北一千里のところにある多婆那国の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。
- 金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)
- 脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。
赫居世神話に現れる六村はのちの新羅六部の前身であると見られており、これらの部と王統がそもそも結びついていないことを示している。また3姓の始祖説話については、それぞれに誕生の形態が異なりながらも姓の由来を説くものであり、3つの有力な集団があって王位を持ちまわっていたということが窺い知れる。これらの始祖説話は紀元前後に繋年されたものではあるが、実際に新羅で姓が用いられるようになったのは6世紀からのことと見られており、後代に整備されたものであるとの可能性もある。いずれにせよ、複数の王統を持つことや、建国初期に倭人勢力との関わりを伝えることなど、
高句麗・
百済の始祖説話体系とは異なり、新羅の特徴的事象となっている。
日本側伝承では、『
新撰姓氏録』が新羅の祖は
鵜草葺不合命の子の
稲飯命(
神武天皇の兄)だとしているが、稲飯命は、『
古事記』においては母の国の海原へ行ったとされ、また『
日本書紀』においては神武東征の際に嵐を鎮めるため海に入水したとされるなど、新羅との関わりには触れられていない。しかし
アメノヒボコ伝承や出雲神話などに早い時期から新羅と倭との関わりが暗示されている。
上代
長らく
高句麗に従属していたが、5世紀中頃からはその支配下から脱却しようとして高句麗とも争うようになった。一方で辰韓諸国に対する支配力も高め、
伽耶諸国の領有をめぐって
百済とも対抗する姿勢を明らかにし、三国が相競う様相を示した。6世紀になると
智証麻立干・
法興王らが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には
真興王による急激な領域拡大が可能となった。高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、
562年には伽耶(大伽耶)を滅ぼして吸収し、文字通りの三国時代となった。中国に対しては
564年に
北斉に朝貢して翌年に
冊封を受け、その一方で
568年に
南朝の
陳にも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。
隋、
唐に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。
唐の中国統一の後に危機感を募らせた高句麗は
淵蓋蘇文が実権を握って緊急軍事態勢を敷き、新羅と激しく対立するようになっていた百済の
義慈王と連携したため、新羅は国際的に孤立することとなった。新羅は
643年に
善徳女王が唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の
毗曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。乱を治めた
金春秋(後の武烈王)と
金庾信とは
真徳女王を立てて親唐路線を継承していった。金春秋は中国の
律令制度を取り入れる改革を始め、
650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(
太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。
中代
武烈王の即位から、その直系の王統が途絶える
780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。
武烈王の即位後、
唐と結んだ新羅は唐の援軍と共に
金庾信に軍を率いさせ、
百済に進軍。
660年に百済を滅ぼし、
663年に白村江にて
倭国の水軍を破り(
白村江の戦い)、
668年に
高句麗を滅亡させた。この間の戦力の成長を支えたのは、
伽耶が開発した鉄生産技術の取得が背景にあったものと見られる。
その後、旧百済領を占領していた唐とその支配権をめぐって対立し、
670年から争ったが、
676年に唐軍を半島から追い出し、旧高句麗領の南半分と合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。これ以後を日本では
統一新羅時代と呼んでいる。
半島統一後、唐に対して謝罪外交をする一方、引き続き唐との小競り合いが続いたので関係は緊張し続け、北境に長城を築くなどして唐に対抗した。しかし、
696年に唐と
渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった。これ以後を韓国や北朝鮮では
南北国時代と呼んでいる。
732年、渤海に山東の蓬莱港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、
735年に唐から冊封を受けて
鴨緑江以南の地の領有を唐から正式に認められた。
統一新羅の成立と共に官僚制度の改革が図られた。降伏した百済・高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、
律令制を取り入れながら政治形態を変化させていった。官吏の養成機関として国学という教育機関が置かれた。また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられた。旧新羅・伽耶領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州が置かれ、これらと
副都五京によって地域支配が行われた。唐の
律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもしたが、8世紀半ばには唐風に改められている。唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て中華風に改められている。
天武天皇の即位から
780年までは、日本との関係は比較的良好であり、双方の間で
遣新羅使、遣日本使が30回以上送られている。しかし、780年に
渤海と新羅の間が緊張し、渤海が日本へ遣日本使を派遣すると新羅と日本の間の国交は停滞した。また、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、人質の献上や朝貢を受けるなどし、従来より新羅を属国と見なして来た日本は激しい反感を持ち、その様子は、
753年に
遣唐使の
大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争った事件や、
恵美押勝(藤原仲麻呂)が渤海の要請により新羅討伐計画を立ち上げた際の主張(新羅が属国であるにも関わらず日本に非礼であるためとしている)に伺える。
国家レベルでの関係は緊張したが民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、新羅商人が大宰府および九州に来て、唐、新羅の文物を日本へ、日本の文物を新羅、唐へと運んで交易に励んだ。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。また、日本の遣唐使も帰国の際には、新羅船を利用することが多かった。
下代
780年に武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位纂奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。また
骨品制により、新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり官僚制度は行き詰まりを見せていた。この780年代から新羅滅亡までの期間を下代と呼ぶ。
この時代には、地方の村主や王都から地方に飛び出した王位継承に破れた王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興した。そして、地方で頻繁に反乱を起こす様になる。
822年には熊州で新羅王族の金憲昌が、
825年には、その息子の金梵文が反乱を起こしているがいずれも鎮圧。
841年には、清海鎮(
全羅南道莞島)で
張保皐が反乱を起こしたが、暗殺されている。しかしながら、これらの動揺は地域社会にも波及し、
9世紀末には、農民の反乱や豪族の独立が頻発する。
王
上代では新羅の王族は姓が一定していない。初代
赫居世居西干は
朴、4代
脱解尼師今は
昔、13代
味鄒尼師今は
金となっており、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がそれぞれ始祖説話を持っている(詳細については既述)。13代金味鄒は
金閼智の子孫とされているが、後になってこの金閼智の子孫を称する一族が
金氏王統となり、統一新羅王朝に於ける唯一の王族となった。ただし、統一新羅王朝末期には、52代
孝恭王に子がいなかったために朴景暉が推戴されて王位を継承(53代
神徳王)し、その後55代
景哀王までの3代は朴氏王統となる。なお、新羅最後の王(第56代)
敬順王の姓は金氏であり、新羅は王位が金氏王統に戻ってから間も無く滅亡したことになる。
新羅の王(君主)を表す称号としては『
三国史記』には居西干(コソガン)、次次雄(チャチャウン)、尼師今(イサグム)、麻立干(マリッカン)の固有語由来の表記が見られ、第22代の
智証麻立干の代で王号を「王」に定め、
諡の制度が始まったとしている。また、
中原高句麗碑文や『
日本書紀』には寐錦、
蔚珍鳳坪碑文には寐錦王、
迎日冷水碑文には
葛文王、『
太平御覧』で引用する『秦書』には楼寒(これについては麻立干に相当すると考えられる)などの表記が見られる。
六部
建国神話に現れる
辰韓の六村はのちの新羅六部であり、王都金城(
慶州市)に居住してそれぞれ自立的な政治的集団として存在していたが、王都外部に対しては王京人として結束して優位性を保ち続けた。新羅が周辺諸国を取り込んで領域を拡げていく過程で、これら六部の優位性を維持するために、元来は六部の内部的な身分制度が拡大していき、
骨品制が成立したものと考えられている。第3代の
儒理尼師今9年(
32年)に、元の六村に対して部名を改めるとともに姓を下賜したと伝えられているが、『三国史記』と『三国遺事』との間でも伝える内容が異なっており、姓の表記については
高麗の前半期に整備されて付加されたとする見方もある(→井上訳注1980 p.54)。
政治機構
官位制度
『
三国史記』新羅本紀によれば、建国の当初のころは「大輔」という官名が最高位のものとして確認されるが、第3代
儒理尼師今の9年(
32年)に、下表の17階級の官位(京位)が制定されたとする。枠外の官位としては、第23代
法興王の18年(
531年)に宰相に相当するものとして「
上大等(上臣)」が設けられた。また、三国統一に功績のあった
金庾信を遇するものとして、第29代
武烈王の7年(
660年:この年
百済を滅ぼす)には伊伐
飡(角干)の更に上に「大角干(大舒発翰)」、さらに第30代
文武王の8年(
668年:この年
高句麗を滅ぼす)には「太大角干(太大舒発翰)」という位が設けられた。
新羅王が新たに即位すると、直ちに最高官位の上大等(古くは大輔、舒弗邯)が任命され、その王代を通じて権力の頂点にたつという例が多い。これは貴族連合政治体制の現れであると見られている。強力な王権が確立した三国統一の後にも上大等が任命されるという慣習は続いているが、
真徳女王の代になって
651年には国家機密を掌握する執事部が設けられ、その長官の
中侍が上大等に代わって政治体制の要となった。
京位は首都金城に居住する六部のための身分体系でもあり、これに対して地方に移り住んだものに対しては外位という別途の身分体系を併せ持っていた。しかし百済・高句麗を滅ぼした後、両国の遺民を取り込み
唐に対抗していくため、京位・外位の二本立ての身分制度を再編することに努めた。
673年には百済から帰属してきた者のうち、百済の2等官の
達率の場合には、金城に移住した者に対しては京位10等の大奈麻に当て、地方に留まった者には外位4等の貴干を当てた。翌
674年には外位を廃止して、京位に一本化した。さらに唐との戦闘を終えて
684年に
報徳国を滅ぼして半島内の混乱を収拾した後、
686年には高句麗人に対しても官位(京位)を授けた。このときには高句麗の3等官の
主簿に対して京位7等の一吉
飡を当てた。このようにして、百済・高句麗両国の官位体系の序列を格下げした形で新羅の身分体系に組み入れることによって、それまで三国独自に展開されていた身分体系が新羅の政治秩序のもとに一本化され、統一国家としての内実を整えることに成功したと考えられている。
ハングル表記についてはを参照。
九州
6世紀以来、新羅は一定の領域に州を設けてその下に郡・村を置き、州には軍主を、村には道使を派遣し、さらに在地の有力者を村主に任命して地方を掌握しようとする、州郡制ともいうべき独自の地方統治を行なっていた。三国統一を果たした7世紀後半からは村を県に改めて、州・郡・県とする支配方法に切り替わっていった。州には都督、郡には郡太守、県には県令を中央から派遣し、さらに州・郡に対しては外司正という検察官を別途派遣する二重化を図った。第31代の神文王の687年には九州が完成し、州治が地方統治の拠点となるとともに、旧三国のそれぞれを三州とすることで、三国の統一を改めて印象付けることに成功したとみられている。
五小京
新羅は一貫して首都を金城(慶州市)に保ち続けて
遷都をしなかったが、領域の拡大に伴って王都が南東辺に偏りすぎていることが課題となっていた。軍政的側面の強い州郡制の整備と平行して、6世紀中頃よりかつての敵国の地に小京が副都として設けられた。小京に対しては中央から仕臣・仕大等が派遣されて地方行政支援の役割を担うとともに、王都金城の貴族や住民が移住させられて新羅文化の各地への普及が図られた。これら小京は685年に五小京として整い、九州の州治とあわせて地方統治の徹底がなされたと見られる。
文化
4世紀後半から6世紀前半にかけての慶州新羅古墳からは、金冠その他の金製品や西方系の
ガラス器など特異な文物が出土する。この頃の新羅は中国文化よりも北方の
遊牧騎馬民族(
匈奴・
鮮卑など)の影響が強かったことを示している。
脚註
関連事項
参考文献
- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
- 『三国史記』第3巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986 ISBN 4-582-80454-3
- 『三国遺事』 一然撰 坪井九馬三・日下寛校訂<文科大学史誌叢書>東京、1904(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
- 井上秀雄『古代朝鮮』、日本放送出版協会<NHKブックス172>、1972 ISBN 4-14-001172-6
- 『朝鮮史』武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
-
上垣外憲一『倭人と韓人』講談社<講談社学術文庫>、2003 ISBN 4-06-159623-3(原著『天孫降臨の道』 筑摩書房 1986)
-
由水常雄『ローマ文化王国-新羅』<改訂新版>新潮社、2001 ISBN 4-10-447601-3
外部リンク
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