略歴
幼名は虎三郎、敬三郎。
諡号は烈公、
字は子信、
号は景山、潜龍閣。本当は
なりあきとは読まず、
なりあきらと読むが、同時期に有名な
島津斉彬がおり、混同を避けるために、なりあきと読まれる。
神号は「押健男国之御楯命」(おしたけおくにのみたてのみこと)・「奈里安紀良之命」(なりあきらのみこと)など。
官位は
従三位権中納言だが、薨後、
正一位権大納言が贈られている。
藩政改革に成功した幕末期の
名君の一人である。しかし将軍継嗣争いで
井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去した。
生涯
家督相続
藩政改革
- 「経界の義」(全領検地)
- 「土着の義」(藩士の土着)
- 学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)
- 「総交代の義」(江戸定府制の廃止)
を掲げた。また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置をするなどした。さらに蝦夷地開拓や大船建造の解禁などを幕府に提言している。
しかし、
弘化元年(
1844年)に
鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の
仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の
徳川慶篤に譲った上で強制
隠居と謹慎処分を命じられた。その後、水戸藩は門閥派の
結城寅寿が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって弘化3年(
1846年)に謹慎を解除され、
嘉永2年(
1849年)に藩政関与が許された。
幕政参与
安政2年(
1855年)に軍制改革参与に任じられるが、同年の
安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが事故死してしまうなどの不幸もあった。安政4年(
1857年)に阿部正弘が死去して
堀田正睦が名実共に老中首座になると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する
井伊直弼と対立する。
最期
3月に起こった
桜田門外の変から間もない時期であったために、当時は
彦根藩士に暗殺されたのではないかとの風説が流れた。
人物・逸話
- 諡号の「烈公」にもあるように、まさに幕末をその荒々しい気性で生き抜いてきた人物であった。
- 斉昭は単に艶福家であったのみならず、女色に淫すること甚だしく、兄嫁・峯姫(徳川家斉の娘)の上臈・唐橋(元大奥女中)にも手を出していたと言われる(三田村鳶魚の著作より)。そのほかに、長男の嫁・線姫にも手を出したなどという説もある(そのため、線姫は結婚5年で自害)。また大奥の女性達に対して、今で言うセクハラまがいの発言も多かったと指摘されている。このため、大奥の女性達に忌み嫌われており、息子・慶喜の将軍継承にも影響があったとされる。なお、斉昭は生涯に男女あわせて37人の子供をもうけたが、その多くが各地の藩主になったり、嫁いだりしている。
- 幼少期から水戸学の影響を受けたため、開国には猛反対していたが、西洋の物品に対しては大いに興味を示したといわれる。
- 幕末期に人材の少なかった徳川家では唯一のカリスマ性と行動力を持ち合わせた人物だった。そのため、その死は幕府にとっては痛手であり、彼の死後、水戸藩では内紛が起こって彼が見出した人材はことごとく自滅することとなる。
官職位階履歴
※日付=明治5年12月2日までは旧暦
家系
- 正室:登美宮吉子 - 有栖川宮織仁親王皇女
- 側室:萩原氏
- 長女:賢姫(佐加子) - 伊達宗城婚約者
- 次女:色許姫
- 三女:祝姫(欽子、本岐姫) - 山野辺義正室
- 側室:松波春子
- 側室:お猶 - 山野辺義貫の娘
- 四女:比呂姫
- 四男:四郎麿
- 七女:庸姫
- 八男:松平直侯 - 川越藩主
- 八女:一葉姫
- 十男:松平武聰 - 浜田藩主
- 十三男:余三麿
- 側室:柳原氏
- 側室:立原氏
- 側室:万里小路睦子
- 十四男:松平昭訓
- 十一女:茂姫(貞子)
- 十七男:土屋挙直 - 土浦藩主
- 十八男:徳川昭武 - 水戸藩主
- 二十男:廿麿
- 二十二男:松平頼之 - 守山藩主
- 側室:高丘氏
- 十五男:余五麿
- 十六男:松平忠和 - 島原藩主
- 十二女:愛姫 - 井上正順室
- 二十一男:廿一麿
- 側室:庵原氏
- 側室:高橋氏
- 十九男:松平喜徳 - 会津藩主
- 十四女:寧姫
- 十五女:正姫 - 池田徳澄室
関連項目
関連人物
徳川斉昭を演じた人物
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なりあき
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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