尾張藩支藩であった
美濃国高須藩主
松平義建の次男。母は
水戸藩主
徳川治紀の娘。正室は
二本松藩主
丹羽長富の娘・矩姫(かねひめ)、
側室は4人。子は
徳川義宜(三男)、
徳川義恕(十一男)、道姫(三女、尾張支流
松平義生正室)、登代姫(四女、
徳川義礼正室)、良姫(徳川義礼継室)、富姫(
毛利元昭正室のち戸田康泰継々室)。幼名は秀之助、元服後は
松平義恕(よしくみ)。相続当初は
徳川慶恕(よしくみ)。号は月堂。
なお、ここではすべて「慶勝」に統一する。
生涯
江戸四谷藩邸に生まれる。尾張藩では10代藩主
斉朝(なりとも)から13代藩主
慶臧(よしつぐ)まで4代将軍家関係からの養子が続いた。また、11代藩主
斉温(なりはる)がその在世中一度も尾張に入国せず江戸暮らしをするなど、尾張藩士の士気を地に落とすような出来事が続き、下級藩士を母体とする金鉄党などの養子反対派が、尾張支藩の高須藩出身である慶勝の藩主就任を渇望していた。
嘉永2年(
1849年)に慶臧が死去すると、慶勝の14代藩主就任が実現する。
万延元年(
1860年)に井伊が
桜田門外の変で暗殺されると、
文久2年(
1862年)に「悉皆御宥許」の身となった。その年に上洛し、将軍家茂の補佐を命じられる。文久3年(
1863年)、茂徳が隠居し、実子の元千代(
義宜 / よしのり)が16代藩主となったため、その後見として尾張藩の実権を握る。
その後、慶勝はたびたび上洛するが、その
京都では文久3年(1863年)に
会津藩と
薩摩藩が結託した
クーデターである
八月十八日の政変が起こり、長州藩が京を追放された。翌
元治元年(
1864年)に慶勝は雄藩の藩主経験者からなる
参預会議への参加を命じられる(実際には辞退)。
その年、
池田屋事件が発生し、これに憤慨した長州藩が京都の軍事的奪回を図るため
禁門の変(蛤御門の変)を引き起こす。しかしこれに失敗して長州藩は
朝敵となり、幕府が長州征伐(第一次
幕長戦争)を行うこととなる。長州征討軍総督には初め
紀州藩主
徳川茂承が任じられたが、慶勝に変更され、慶勝は
薩摩藩士
西郷吉之助を大参謀として出征した。この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取り京へ凱旋した。しかし、その後長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、
第二次長州征伐が決定する。慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任についた。征伐を受けそうになった長州藩は密かに薩摩藩と秘密同盟を結び(
薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地で破った。
慶応3年(
1867年)10月14日には
土佐藩の勧めで15代将軍
徳川慶喜が
大政奉還を行い、徳川幕府が消滅した。慶勝は上洛して新政府の議定に任ぜられ、12月9日の
小御所会議において慶喜に辞官納地を催告することが決定、慶勝が通告役となる。翌慶応4年(
1868年)1月3日に京都で旧幕府軍と薩摩藩、長州藩の兵が衝突して
鳥羽伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で
大坂から江戸へ逃亡し謹慎する。慶勝は新政府を代表して
大坂城を受け取る。そのうち、尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの知らせを受け、1月20日尾張へ戻って佐幕派を弾圧する(
青松葉事件)。閏4月21日
議定を免ぜられ、その後政界に立つことはなくなった。
明治8年(
1875年)、16代当主義宜の病死を受けて当主を再承した。明治11年(
1878年)から始まった旧尾張藩士による
北海道八雲町の開拓も指導。明治13年(
1880年)家督を養子
義礼(よしあきら、
高松藩主
松平頼聡の子)に譲り隠居。明治16年(1883年)に死去、享年60。
官職位階履歴
※日付=旧暦。但し、明治8年以降は新暦。
家系
- 正室:矩姫(かねひめ)、丹羽長富の娘
- 側室:お玉の方(武藤氏)
- 三男:徳川義宜(尾張藩16代藩主)
- 三女:道姫(松平義生室)
- 四女:登代姫(徳川義礼室)
- 側室:由起(秋月氏)
- 側室:たけ(那須氏)
- 良姫:徳川義礼後室
- 富姫:毛利元昭室、後戸田康泰と再婚
- 側室:加津(鈴木高美養女)
ほか養子
演じた人物
関連書籍
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城山三郎著「冬の派閥」新潮文庫 ISBN 4101133174
関連項目
よしかつ
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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