徳川家康 [Tokugawa Ieyasu] [被リンク数: 2146]

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享年75(満73歳没)
德川 家康(とくがわ いえやす)は、日本戦国大名江戸幕府の初代征夷大将軍本姓は当初藤原氏と、次いで源氏と名乗っていた。実は加茂氏在原氏ともいわれる。家系三河国土豪松平氏の男系男子・子孫である。
永禄9年12月29日、勅許を得て徳川氏に改姓。徳川家の祖。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。
死の直前、武将としては史上4人目の太政大臣に叙せられている。
死後、江戸時代を通じて、御家人旗本には「神君」、「東照宮」、一般には「権現(様)」(ごんげん-さま)と呼ばれていた。
※ 日付は、太陰暦による和暦。西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。

概要

小牧・長久手の戦いで10万の秀吉軍相手に互角以上の戦いをしたことから、戦国屈指の軍略家であり、関ヶ原の戦いでの相手への裏工作からして、謀略にも長けているといえる。江戸幕府・開府に始まる江戸時代は264年にわたって続き、日本に長い太平の世をもたらした。家康は「江戸幕府の始祖」として称えられ、今も日光東照宮をはじめ全国に東照大権現(とうしょうだいごんげん)として祀られている。

略歴

]] 戦国時代に三河国岡崎に岡崎城主松平広忠の子として生まれ、人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦い以後、織田信長の盟友(事実上は臣下)として版図を広げ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。
豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従い、豊臣政権の五大老筆頭に列せられるが、秀吉の死後は関ヶ原の戦いで勝利し、朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開く。
家康の生誕地は、三河岡崎だが、生涯を通じて、静岡県(駿府、浜松)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、尾張の織田信長のもとで人質として過ごすなど、三河岡崎にいたのは、幼少期及び桶狭間後10年と、意外にも短い。そのため、三河土着の松平(徳川)家歴代当主や三河譜代の家臣とは違う、広い見識を持っていた。そのこともあり、晩年の家臣団には、本多正信天海大久保長安茶屋四郎次郎など、外交・内政・謀略に長けた異能の人物が集まり、三河以来の武功派は活躍の場を失い徐々に遠ざけられた。

生涯

忍従の日々

三河国土豪である松平氏第8代当主・松平広忠の長男(嫡男)として、天文11年(1542年)12月26日の寅の刻午前四時ごろ)、岡崎城で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)で、幼名は竹千代(たけちよ)と称した。
2歳の時、水野忠政の没後水野家当主となった水野信元(於大の兄)が織田信秀についたため、今川方の庇護を受けていた父は泣く於大を離縁した。そのため家康は幼くして母と生き別れになった。
6歳の時、父・広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は今川義元のもとへ人質として駿河国府中へ送られるところであったが、途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張・織田信秀の元へ送られた。尾張では2年を過ごし、信長とはここで知り合った。その間に父・広忠は死去し(岩松八弥に殺された、病死など、種々の説がある)、岡崎は義元の派遣した城代により支配された。
竹千代は今川方に捕えられた信秀の庶長子織田信広との人質交換によって駿府へ移された。『東照宮御実紀』には、少将宮町という所に家康を置いたと記載されている。同書には駿府在住時の詳細の記述はなく、元服・結婚・祖先の墓参りのため三河国帰参、初陣と続く。
一方、元文時代に成立し、徳川吉宗に提出された家康の伝記である『武徳編年集成』では、竹千代が住んでいたのは「宮カ崎」とされている。 三河岡崎城の墓参りのための帰参のエピソードで、岡崎城の本丸は今川の城代が置かれていたため、二の丸に入った。そこで、鳥居忠吉が、倉庫に兵糧米・金銭を備蓄し、義元が三河を横領し、松平勢が、今川の先鋒として多数討死、捨て石になっている事情を説明、家康は感涙したという。古老の御家人は、祖父清康君によく似ていると感嘆したという。
駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗り、義元の姪・関口親永の娘・(通称築山殿)を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558年)には織田方に寝返った寺部城主鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、これが初陣となった。

清洲同盟から三河国平定へ

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれた際、今川本隊とは別働で、前線の大高城(尾張国)にあった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川家から自立する。藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略した。永禄5年(1562年)には、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結び(清洲同盟)、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。
西三河を平定したかに見えた頃、三河一向一揆が勃発するも、家康は苦心の末に鎮圧に成功した。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏西郷氏といった諸豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河への対応に遅れる今川氏との間で、宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河北部)を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。この改姓に伴い、新田氏系統の源氏であることも公認させた。
永禄11年(1568年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結んだ。同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とした。遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れてきた氏真を匿う掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻略した。元亀元年(1570年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬に移し、浜松城を築いた。
永禄11年(1568年)、信長が、松永久秀らによって暗殺された室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。後年、足利義昭は、天下の実権をめぐり信長との間に対立を深め、反信長包囲網を形成したとき、家康にも副将軍への就任を要請し、協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。

武田家との戦い

家康は今川領分割に際して、武田信玄大井川を境に東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする協定を結んで友好関係を結んでいた。しかし領土拡大の野望に燃える信玄は一方的に協定を破棄し永禄11年(1569年)、重臣の秋山信友に一軍を預けて信濃から遠江に侵攻させた。これは徳川勢の抵抗、並びに北条氏康から牽制を受け失敗したが、これを契機に武田信玄と徳川家康は敵対関係となった。
元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄はついに上洛を開始し、まずは徳川領である遠江、三河に向けて侵攻を開始した。これに対して家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、織田軍も当時は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺と抗争状態にあり、さらには美濃岩村城までを武田軍に攻撃され援軍を送ることができず、徳川勢は単独で武田勢と戦うこととなる。10月13日、2万2,000人の大軍を率いて伊那谷から遠江に侵攻してきた信玄本隊と戦うために、家康は天竜川を渡って見附にまで進出した。しかし信玄の巧妙な用兵、並びに兵力の差により大敗し、本多忠勝の奮戦により何とか浜松まで帰還した(一言坂の戦い)。 家康は、信玄本隊と同時に侵攻する武田軍別働隊が踏み荒らす三河方面への防備を固められないばかりか、この戦いを契機として武田・徳川の優劣は確定してしまう。そして12月19日には、浜松の北方を固める遠江の要衝であった二俣城が陥落した(二俣城の戦い)。そのような中で、ようやく織田方から援軍として佐久間信盛平手汎秀率いる3,000人が送られてきた。12月20日、三河方面からの別働隊が合流した信玄の本隊は、天竜川の西岸を南下して浜松城下に近づいた。しかし長期戦を嫌う信玄は、浜松城を悠然と無視して、三河に侵攻するかのように武田軍を転進させた。これに対して家康は信長の援将・佐久間信盛らが籠城戦を唱えるのに対して、断固として反対して武田軍を追撃。12月22日、徳川軍8,000人、織田軍3,000人で武田軍3万人に挑んだ(三方ヶ原の戦い、三方ヶ原は現在の静岡県浜松市内)。だが、その結果、徳川方は鳥居忠広成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱をすすごうとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、織田方でも平手汎秀といった援軍の将が討ち獲られるなど徳川・織田連合軍は大惨敗を喫した。夏目吉信に代表される身代わりに助けられて、命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も馬上で脱糞した、とさえ言われている。このとき、浜松城まで追撃された家康は「空城計」を用いた。この計によって城の様子を怪しんだ武田信玄は城内侵攻をためらい、撤収を決断したとされている。なお、この時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせたものと伝えられる。
武田信玄は、浜名湖北岸で越年して三河へ進軍した。元亀4年(1573年)2月16日には三河東部の野田城を開城降伏させ、城主菅沼定盈の身柄を拘束した。ところがその後、信玄は発病。徳川軍を相手に勝ち続けていた武田軍は突如として西進を止めたばかりか、野田城から長篠城まで退き、1か月ほど沈黙する。そこで信玄の回復を待っていたが、容態は快方に進まないために西進作戦を断念、武田軍は甲斐へ帰還した。そして4月12日、武田信玄は帰還途中の信濃駒場で死去した。4か月間、徳川領で戦勝を続けていた武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。5月6日、その生死を確認するため家康は武田領である駿河の岡部に放火し、5月13日には長篠城を攻めるなどしている。そしてこれら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死去を確信した家康は、武田方に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能貞昌親子らを調略し、徳川へ再属させた。奪回した長篠城には奥平勢を配し、武田軍の再侵攻に備えさせている。
天正2年(1574年)5月、武田信玄の後を継いだ武田勝頼が率いる2万5,000人の大軍が、遠江高天神城を侵攻した。これに対して家康は単独で迎撃することができず、信長に援軍を要請したが、信長の援軍が到着する前に高天神城を奪われた。
天正3年(1575年)5月には、1万5,000人の大軍を率いる武田勝頼に三河長篠城を攻められた。これに対して長篠城主・奥平貞昌が率いる500の将兵は善戦し、援軍の到来まで耐え抜いた。そして、5月21日に行われた後詰決戦では、織田・徳川連合軍は武田軍に大勝した(長篠の戦い)。戦功に対する褒美として、奥平貞昌は(信長の偏諱を賜り)信昌と改名した。家康も名刀大般若長光を授けて賞した。(その上、翌年には長女・亀姫を遣わし、正室とさせている。)
この戦いで武田軍は山県昌景馬場信春を初め、多くの有力武将を失って壊滅し、武田と徳川の優劣は逆転した。同年、家康は信玄に奪われていた二俣城を奪還した。
天正7年(1579年)、信長から、正室・築山殿と長男・松平信康に対し、武田勝頼への内通疑惑がかけられた。家康は信長に対し抗弁の使者を立てたが、信長からの要求は、信康の切腹であった。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、正室を殺害し、嫡男に切腹させた。この事件は信長が嫡男・織田信忠より優れた資質を持つ信康に危機感を覚えたためという説もあるが、近年では家康と信康が対立したためで、信長には了承を求めただけ(信康の正室が信長の娘であるため)、という説も強くなってきている。
天正9年(1581年)3月23日、家康は武田勝頼によって奪われていた高天神城を奪回した。
天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿である木曽義昌が織田信長に寝返ってきたことにより、武田征伐が開始された。信長は嫡男・織田信忠を総大将にして木曽口から、金森長近を飛騨口から、北条氏直を関東口から、そして家康には駿河口からそれぞれ武田領に向かって侵攻させた。これに対して、すでに連年の戦争による財政難などで民心が離反していた武田軍には組織的な抵抗力がなく、木曽から攻め込んだ織田軍はあっという間に伊那城、松尾城を落とした。徳川軍も駿河に侵攻して蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらには勝頼の姉婿である穴山信君を調略によって寝返らせるなどして駿河を占領した。これに対して勝頼にはもはや対抗する力はなく、最後は味方だったはずの小山田信茂にまで裏切られて、3月11日に勝頼は甲斐東部の天目山・田野において自害し、武田家は滅亡した。
家康はこの戦功により、信長から駿河一国を与えられた。

本能寺の変

天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。
6月2日、堺で遊覧中に京都で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数だったので、極めて危険な状態となり狼狽し信長の後を追おうとするほどであった。このとき、本多忠勝に説得され、家康は服部半蔵の進言を受け伊賀越えを決行し、加太越を経て伊勢国から海路三河にかろうじて戻った(神君伊賀越え)。
その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張にまで進軍したが、このとき中国から大返しした羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀が討たれたことを知った。
一方、信長の領土となっていた武田遺領の甲斐と信濃で一揆が起こった。さらに越後上杉景勝相模北条氏直も侵攻の気配を見せたため、信濃の森長可毛利秀頼は領地を捨てて逃亡し、上野滝川一益は北条氏直と戦って惨敗し、尾張に撤退した。甲斐の領主・河尻秀隆に至っては、武田家の税法や慣習を認めず、一方で大規模な武田の残党狩りを行い、領民や旧武田浪人から恨みを買っていたため、信長の死を契機として一揆が発生し、攻め殺されてしまった(ただし家康が影で煽動したという説もある)。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田遺臣の岡部正綱依田信蕃、甲斐の辺境武士団である武川衆らを先鋒として甲斐に派遣し、自らも8,000の軍勢を率いて、甲斐に攻め入った(天正壬午の乱)。
一方、甲斐と信濃が空白地帯となったのを見た相模の北条氏直も、叔父・北条氏規北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃に侵攻した。北条軍は、越後から北信濃に侵攻していた上杉景勝軍と川中島で対峙した後に、北信4郡を上杉に割譲することで和睦し、南下した。次いで甲斐へ侵攻中だった徳川軍と甲斐新府城、若神子で対陣。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、徳川方の依田信蕃の調略を受けて徳川方に寝返った真田昌幸らの執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条方は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野を北条が、甲斐・信濃を徳川がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5か国を領有する大大名へとのし上がったのである。

秀吉との戦い

信長死後の天正11年(1583年)、織田家筆頭家老であった柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が台頭する。これに不満を覚えた信長の次男・織田信雄は、家康と手を結んだ。そして徳川・織田連合軍は天正12年(1584年)3月、尾張小牧において羽柴軍と対峙した。このとき、羽柴軍の兵力は10万、徳川・織田連合軍は5万であった。家康は兵力的に不利であったが、秀吉が小牧に到着する前の3月17日、秀吉軍の武将・森長可率いる軍勢を酒井忠次に命じて撃破させた(羽黒の戦い)。
4月5日に秀吉率いる羽柴軍主力は犬山城に入り徳川軍と対峙したが、秀吉は家康の武略を恐れて動かず戦線は膠着状態に陥った。4月7日、秀吉方の武将・森長可とその岳父である池田恒興が「中入り」によって三河岡崎城を奇襲すべく、別動隊を率いて出陣した。しかし家康は別働隊の動きを捕捉し、逆に自ら羽柴別働隊に奇襲をかけて殲滅し、敵の総大将・羽柴秀次を敗走させ、恒興と長可、池田元助(恒興の嫡男)らを討ち取った(小牧・長久手の戦い)。
これを機に、秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、家康の味方である伊勢の織田信雄を攻めた。信雄軍には単独で羽柴軍と対抗できる力はなく、11月11日、秀吉と単独講和してしまった。家康は小牧・長久手の戦いの大義名分を「信長の遺児である信雄を助けて、秀吉を討つ」としていたため、信雄が秀吉と講和したことで名分を失った家康は撤退を余儀なくされた。そして12月12日、秀吉との講和として、次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子(人質)とすることで大坂に送った。
天正13年(1585年)に入ると、紀伊雑賀党や土佐長宗我部元親越中佐々成政など、前年の小牧・長久手の戦いで家康に味方した勢力は、秀吉によってことごとく討伐された。このため秀吉との対立で不利になった家康は、相模の北条氏直との同盟関係を強化するため、上野の沼田領を割譲する約束を出した。ところが、沼田を支配していた信濃上田城主・真田昌幸はこれに応じず、家康から離反して越後の上杉景勝に寝返った。これに対して家康は、大久保忠世鳥居元忠を大将とした1万の軍勢を真田攻めに派遣したが、昌幸の巧妙な戦術の前に大敗を喫し、さらに上杉の援軍が来たこともあって、撤兵を余儀なくされた。
また、この頃になると徳川家中は、酒井忠次本多忠勝ら反秀吉の強硬派と、石川数正ら秀吉支持派の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。そして11月13日、数正が徳川家から出奔して秀吉に寝返り、家康は窮地に陥っていった。この事件で徳川家の軍事機密が筒抜けになったことから、軍制を武田信玄を見習ったものに改革していった。
天正14年(1586年)4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は妹の朝日姫を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。5月14日、家康と朝日姫は結婚するが、家康はなおも臣従しようとしなかった。しかし10月18日、秀吉が生母・大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、遂に家康は秀吉に臣従することを決意する。10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いに来て、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城にて秀吉に謁見し(諸大名の前で)秀吉に臣従することを表明した。

豊臣家臣時代

天正14年(1586年)11月1日、家康は京都に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は居城を浜松城から駿府城へ移した。
天正15年(1587年)8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任される。秀吉から羽柴姓も与えられた。その後、家康は後北条氏と縁戚関係にあった経緯から、氏政の弟で旧友の氏規を上京させるなど秀吉と氏直の仲介役も務めたが、氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が始まる。家康も豊臣軍の一員として出陣し、ここに秀吉による天下統一が成った。なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から領内の徹底した実情把握を目指したものである。この検地は直後の移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。
その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵伊豆相模上野下野上総下総の7か国に移封された。これは150万石から250万石への加増であるが、徳川氏にとっては縁の深い三河の土地を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党など、なおも不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。だが、家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。
関東の統治に際して家康は有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正向井正綱成瀬正一日下部定好ら、有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治され、関東は大きく発展を遂げることとなる。
【家康によって配された有力家臣たち】
文禄元年(1592年)より、秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣することだけで許された。『常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードを残している。しかし実際に渡海せずに済んだのは、小田原攻めと奥州攻めでの先鋒を務めたための優遇措置との見方もある。が、「際限りなき軍役」といって苦しんだ朝鮮出兵で徳川軍が渡海を免れたために、家康は兵力と財力の消耗を免れ、自国を固めることができた。しかし、渡海しなかったのは家康だけが特別なのではなく、一部の例外を除くと東国大名は名護屋残留であった。
文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が発生した。豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の沈静化を図った。家康も秀吉の命で上洛したが、これ以降家康は、開発途上の居城・江戸城よりも、伏見城に滞在する期間が長くなった。豊臣政権内に占める家康の比重が高まっていったのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより、中央政権の政治システムを直接学ぶことになった。
慶長3年(1598年)より秀吉が病に倒れると、秀吉は後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老五奉行の制度を定め、五大老のひとりに家康を任命した。そして8月、秀吉は死去した。

覇権奪取にむけて

古戦場]] 秀吉の死後、家康は「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という秀吉の遺言により専横の兆しを見せ始める。さらに秀吉の生前である文禄4年(1595年)8月に禁止されていた大名同士の婚儀なども行って、巧みに味方を増やし始めた。その婚儀の内容は次の通りである(ちなみに婚姻した娘は、全て家康の養女とした)。
さらに家康は、細川忠興島津義弘増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問して、多数派工作を行った。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家五奉行石田三成らは憤激し、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老堀尾吉晴らを問罪使として派遣した。ところが家康は、吉晴らを恫喝して追い返したと言われている。もっとも、2月2日、家康は前田利家らと対立する不利を悟って、誓書を交わして和解した。しかし、閏3月3日に利家が病死すると、豊臣政権下で家康と互角に渡り合えるだけの勢力を持った人物はいなくなった。
利家が死去すると、福島正則や加藤清正らが石田三成を襲撃する事件が発生した。これは豊臣政権下における福島ら武断派と、石田ら文治派による対立が表面化したものである。家康は武断派諸将を慰撫してその支持を集めるとともに、三成を奉行職から解任して、佐和山城で蟄居させた。
9月7日、家康は大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。そしてそのまま大坂に居座って、政務を執り続けた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城西の丸に居座って、大坂で政務を執り続けた。
さらに家康はこの頃、豊臣政権下における諸大名の切り崩し工作も行なった。9月9日に登城した際、前田利長(前田利家の嫡男)・浅野長政大野治長土方雄久の4名が家康の暗殺計画を企んだとして、10月2日に長政を甲斐府中で隠居の上、蟄居させ、治長は下総結城の結城秀康に、雄久は常陸水戸佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を強行しようとしたが、利長が生母の芳春院(まつ)を江戸に人質として差し出したことで、征伐を取りやめた。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれた。家康の暗殺計画は、家康を大坂から追い出し兵を挙げようとする三成らの事実無根の謀略であったとも言われている。
さらに家康は多数派工作も行なった。
  • 対馬宗義智に1万石を加増。
  • 遠江浜松12万石の堀尾吉晴に、越前府中5万石を加増。
  • 美濃金山7万石の森忠政を、信濃川中島13万7,000石に加増移封。
  • 丹後宮津の細川忠興に、豊後杵築6万石を加増。
  • 薩摩・大隅の島津氏に、5万石を加増。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)3月、家康は越後堀秀治出羽最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強するという不穏な動きがあるという知らせを受けた。3月11日には、上杉氏の家臣で津川城城代を務め、さらに家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠のもとへ、「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。
これに対して家康は4月1日、伊奈昭綱を正使として景勝のもとへ問罪使として派遣した。ところが景勝の重臣・直江兼続は「直江状」という有名な挑戦状を返書として送ったことから、家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして、5月3日、上杉討伐を宣言した。このとき、前田玄以長束正家増田長盛ら三奉行と堀尾吉晴・中村一氏生駒親正らが征伐の中止を訴えたが、家康は無視して征伐を強行した。6月2日には、家康直属の関東の諸大名に陣触れを出し、6月6日には諸大名を大坂西の丸に集めて軍議を開いた。6月8日には後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜された。6月15日には秀頼から黄金2万両、兵糧米2万石を下賜され、ここに朝廷・豊臣氏から、家康の上杉征伐は、「豊臣氏の忠臣である家康が、謀反人の景勝を討つ」という義戦となったのである。
6月16日、家康は大坂城京橋口より、軍勢を率いて上杉征伐に出征した。同日の夕刻には伏見城に入った。ところが6月23日には浜松、6月24日には島田、6月25日には駿府、6月26日には三島、6月27日には小田原、6月28日には藤沢、6月29日には鎌倉、7月1日には金沢、7月2日には江戸という、遅々たる進軍を行っている。
この出兵には、家康に反感を持つ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際に、7月、石田三成大谷吉継とともに挙兵。7月17日には家康によって占領されていた西の丸を奪い返し、増田長盛長束正家ら奉行衆を説得するとともに毛利輝元を総大将として擁立した。さらに家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。7月18日には家康の命令で伏見城を守っていた鳥居元忠を攻め、8月1日に元忠は討ち取られ、伏見城は落城した。さらに三成ら西軍は伊勢、美濃方面に進出した。
これに対して家康は7月24日の下野小山の陣において、伏見城鳥居元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。
家康は、上杉征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感を持つ武断派の大名らは家康に味方すると告げ、ここに家康の東軍が結成されたのである(小山評定) 。
東軍は、家康の徳川直属軍と福島らの軍勢、合わせて10万ほどで編成されていた。そのうち、一隊は徳川秀忠を総大将として宇都宮から中山道を、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かうこととなる。一方で家康は江戸城に1か月ほど留まり、160通近い書状を諸大名に回送している。これは、三成が大坂城と秀頼を事実上擁立していることが伝わったため(小山評定の段階では三成の単独挙兵として伝わっていた)、彼らが三成のもとへ駆けつけることを恐れたためである。
8月10日、福島正則ら東軍は尾張清洲城に入る。8月21日には西軍の勢力下にあった美濃に侵攻し、8月23日、西軍の織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき、家康は信長の嫡孫であるとして、秀信の命を助けている。
9月1日、家康は江戸城から出陣し、9月14日に美濃に着陣した。同日、前哨戦として三成の家臣・島左近宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲をかけてきた。それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色頼母が戦死してしまった(杭瀬川の戦い)。
9月15日午前8時、美濃関ヶ原において遂に東西両軍による決戦が繰り広げられた(関ヶ原の戦い)。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であった。これに対して午後0時、家康は不利な戦況を打開すべく、鉄砲隊長の布施孫兵衛に命じて、松尾山の小早川秀秋に対して鉄砲を撃ちかけさせた。これを機に秀秋は西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、小早川軍は西軍の大谷吉継隊に襲いかかった。これに対して大谷隊も奮戦したが、さらに脇坂安治朽木元綱赤座直保小川祐忠らの寝返りもあって西軍は総崩れとなり、東軍が形勢逆転した。戦いの最終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘軍が本陣目前にまで猛攻して来るという非常に恐ろしい経験もしたが、関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の勝利に終わった。
家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領のうち、自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」とお咎めなしで領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣家の直轄地)は西軍の大名領もろとも失われた。その結果として豊臣氏を摂津河内和泉65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。

征夷大将軍

関ヶ原の戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行なった。「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため、家康は、神龍院梵舜に命じて徳川家の系図を源氏の源義家に通じるように整備させた。
なお、近年の研究(笠谷和比古、煎本増夫ら)によると、家康が本姓源氏だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年(1588年)であるという。後陽成天皇聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。他に天正19年(1591年)、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康は既に源氏の公称を許されていた」と述べている。なお、家康は松平姓から(勅許を得て)徳川姓に改姓した際には本姓は藤原氏と公称していた。また実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がないので将軍になれるのは清和源氏でなければならないというのは江戸期に作られた俗説とする説がある。
慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣した。そしてここで六種八通の宣旨が下し、家康を征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命した。征夷大将軍への任官に伴い、源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、足利義満から始まった慣例である。
3月21日、家康は二条城で正式な将軍宣下を受け、3月25日には参内して将軍拝賀の礼を述べた。ただし、朝廷から正式な将軍宣下が行われたのは3月27日であり、この日をもって正式に江戸幕府が開かれたと見てよい。
家康は秀吉の死から4年半で、豊臣氏の五大老から武家の棟梁としての地位を手に入れ、名実ともに豊臣家を上回る地位を確立した。幕府開府に当たって武家諸法度禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。朝廷を掌握すれば豊臣家が大義名分の上で形勢挽回する道はなく、天下統一の後においても、朝廷を支配下に入れることは、その後の謀叛の予防やあらゆる政治的な優位を確立する上で重要であった。

大御所政治

慶長10年(1605年)4月16日、家康は将軍職を辞するとともに朝廷に三男・徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川家が世襲していくこと」を天下に示した。同時に家康は、秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿が激怒して拒絶する。結局、家康が六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで、事は収まった。このことで、豊臣家の権威は大きく傷ついた。
慶長12年(1607年)に駿府城に移って、江戸の将軍・秀忠に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとりつつ、幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。ただし、二元政治といっても、実際は家康・秀忠の対立も多く、また徳川家臣による権力闘争も少なくなかった。慶長17年(1612年)の岡本大八事件、慶長18年(1613年)の大久保長安事件などが、それを如実に示している。
慶長16年(1611年)、二条城にて豊臣秀頼と会見したいと要望した。主筋を自任する豊臣家はこれを拒絶する方向でいたが、将軍秀忠は秀頼の岳父である関係で、あくまで「岳父への挨拶」という名目で上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に「家康が日本の主君である事」を示したとするのが一般的な見解であるが、秀頼の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感させられたとする見解もある。

大坂の陣

最晩年を迎えていた家康にとって、豊臣家は最大の脅威であり続けた。一大名の位置に転落したとはいえ、豊臣家はなお特別の地位を保持して徳川の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名はほとんど豊臣恩顧の大名であった。また、家康将軍宣下時には、秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時には秀頼は秀忠(内大臣)を上回る右大臣に昇進している。
さらに徳川家も内部に問題を抱えていた。将軍・秀忠と松平忠輝は仲が悪かったし、将軍家でも秀忠の子である徳川家光徳川忠長のどちらが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタン信者の動向も不気味であった。もしこれらが豊臣家と手を結んで打倒家康で立ち上がれば、幕府は一瞬にして崩壊してしまう可能性があった。家康はこの時期、主筋である豊臣家を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問している。
家康は、当初、徳川家と豊臣家の共存を模索しているようにも見せかけていた。諸寺仏閣の統制を豊臣家に任せようとしていた兆候もある。また、(秀吉の遺言を受け)孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。しかし、豊臣家の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣家は、徳川家との決戦に備え、多くの浪人を雇い入れていたが、その多くは関ヶ原の敗残兵であり家康に恨みを持つ者たちであり、打倒徳川の心情であった。
そのような中、慶長16年(1611年)に加藤清正堀尾吉晴浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣秀頼は孤立を深めていった(あまりにも豊臣系の大名の死が相次いだため、徳川による毒殺説もある)。
そして慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけとして、家康は豊臣家を完全に屈服させることを決意し、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始した。

方広寺鐘銘事件

豊臣家は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、8月3日に大仏殿の開眼供養を行なうことにした。ところが家康は、方広寺の梵鐘の銘文に不吉な語があると言いがかりをつけた。その銘文は「国家安康」、「君臣豊楽。子孫殷昌」、「右僕射源朝臣」というものであった。家康は、「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽。子孫殷昌」を豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したのである。これは完全な言いがかりであり、「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である。
さらに家康は8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた。その結果、五山の僧侶たちは家康の影響力を恐れて、「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。
これに対して豊臣方は家老の片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し、家康を翻意させるため弁明を試みようとした。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、片桐且元を大坂へ返した。片桐且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣方は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に片桐且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は、豊臣家が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に豊臣方に宣戦布告したのである。
この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。しかし、清韓自身は家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文であると弁明しており、上記のとおり、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視している。
そのため、家康側が全面的にこじつけたものではなく、豊臣側の軽率な行為をいいがかりにしたという性格の方が強い。

大坂冬の陣

慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂攻めの途についた。そして家康は20万からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが、力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うにとどめた。
11月19日、蜂須賀至鎮らの攻撃で、木津川口の戦いが行なわれ、徳川軍が勝利した。同日、向井忠勝ら徳川水軍の攻撃によって、豊臣水軍は敗れた。11月26日には佐竹義宣らに命じて今福・鴫野の砦を落とさせた(今福の戦い鴫野の戦い)が、木村重成らの猛反撃を受けて辛勝するにとどまった。11月29日、家康は池田忠雄らに命じて博労淵砦の奪取を行わせた(博労淵の戦い)。ところが守将の薄田兼相が遊女屋に泊り込んで留守にしていたため、あっけなく奪取した。このように徳川軍は局地戦で勝利を重ねた。ただし、12月4日に行なわれた真田丸攻めでは、徳川軍は真田信繁(幸村)の前に大敗を喫した。
とはいえ、家康はこの程度の敗戦を気にすることもなく、12月9日に新たな作戦を始動した。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲石火矢大筒)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとしたのである。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は、12月19日、家康に和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。
和議の条件は、大坂城の惣堀埋め立てと二の丸、三の丸の破壊である。12月23日から2日で惣堀を埋め立てた後、12月25日には腹心の本多正純に命じて大坂城二の丸、三の丸の櫓を全て破却させ、土塁と石垣を崩し、さらに内堀も埋め立て慶長20年(1615年)1月中旬までに、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。

大坂夏の陣

豊臣方は慌てて埋め立てられた堀を掘り返そうとした。ところが、家康は、それを「豊臣家が戦準備を進めている」という大義名分にし、大坂城内の浪人の追放と豊臣家の移封を要求。更に徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、またも近畿方面に大軍を送り込み、豊臣方に要求が拒否されるや侵攻を開始した。
これに対して豊臣方は、大坂城からの出撃策をとった。しかし兵力で圧倒的に不利な豊臣方は、塙直之後藤基次木村重成薄田兼相ら勇将を相次いで失ってしまう。徳川方の大軍ゆえの油断や連携の拙さ、真田信繁毛利勝永らの奮闘もあって、一時は家康本陣の馬印が倒れ、家康自身も自害を覚悟するという危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川方により信繁・勝永らも戦死し、遂に大坂城は落城した。5月8日、豊臣秀頼淀殿、そしてその側近らは自害し、ここに豊臣氏は滅亡した。
その後大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川家によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟が閉鎖・放置されている。明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも秀吉や信長が祀られるようになっている。

最期

元和元年(1615年)、家康は禁中並公家諸法度を制定して、幕府の朝廷に対する統制と将軍家と天皇家の君臣の別を明らかにした。また、諸大名統制のために武家諸法度一国一城令が制定された。こうして、徳川家による日本全域の支配を実現し、徳川家265年の天下を安泰なものとした。
元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣の位を贈られた。4月17日巳の刻午前10時ごろ)に駿府城において死去した。享年75。
死因は、天ぷらによる食中毒説がある。鯛の天麩羅死亡説は、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日で(いずれも旧暦)、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。諸症状から見て胃癌梅毒と考えられている。尚、家康が問題の天麩羅を食べたのは田中城(現静岡県藤枝市田中)であった。辞世の句として「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」(『東照宮御実記』にこの二首が伝わる)を詠んだ。
なお、江戸城内においては天ぷらを料理することは禁止されていた。これは徳川家康の死因が天ぷらによる食中毒であるためという説明がなされる場合もあるが、実際には、大奥の侍女のひとりが天ぷらを料理していて、火事を出しかけたために禁止されたというのが事実である。

年表

※天正15年8月8日付の従二位権大納言昇叙転任の宣旨では 豊臣家康の名義でなされた可能性がある。 同日付で息子徳川秀忠も侍従に任官しているが、これは豊臣秀忠名義となっている。 「秀忠公任官位記宣旨宣命下書留」(宮内庁書陵部蔵本)。 同様に、同年12月28日付の左近衛大将左馬寮御監両官職兼帯の宣旨、 慶長元年5月8日付の正二位内大臣の昇叙転任の宣旨についても 豊臣家康の名義と考えられる。 現在、日光東照宮所蔵の徳川家康の任官叙位の宣旨は、徳川家康の任官叙位の宣旨が遺失したため(徳川実記正保2年5月8日条)、正保2年(1645年)、将軍徳川家光の要請により、朝廷に対して再発行の手続きによる文書として伝わっており、再発行の段階で豊臣から源に変更した可能性がある。

祭祀

奥社 墓所]] 家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬された。神号は側近の天海崇伝の間で、権現明神の何れとするかが争われたが天海が勝ち、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現とされ、元和3年(1617年)2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られる。東照社は正保2年(1645年)11月3日に宮号宣下があり、東照宮となり、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として東照神君権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。
現在も日光東照宮の奥社を墓所とし、他の霊廟としては松平家菩提寺である愛知県岡崎市の大樹寺高野山にある徳川家霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。

評価

その戦上手は海道一の弓取と称され、新井白石の『藩翰譜』など江戸時代には家康は「神君家康公」と呼ばれ、公然と彼を批判対象とした評論を発表すれば処罰の対象となった。逆に明治から終戦までは(朝廷を抑圧した)「奸臣」として、賞賛することは慮られるようになった。戦後になって比較的自由な家康批評が行われるようになった。

江戸幕府の支配に関して

家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は極めて完成度の高いものである。江戸幕府は京都大坂など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含んだ全国総石高の約4分の1に相当する約700万石 (= 1,262,730 m³ = 1石 = 180.39 リットル。うち約300万石は旗本知行地。)を独占管理し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他大名家の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社朝廷、そして天皇家までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名家が改易(取り潰し)の憂き目にあっている。これは朝廷や天皇家でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。
幕府に従順な大名家に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を与えることを許さなかった。このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させ、全国の諸大名・朝廷・天皇家を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが家康の築いた江戸幕府であった。
このように徳川将軍家のみを絶対とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」と厳しい批判が多い。しかし、これほどまでの強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国の時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上に及ぶ日本史上類を見ない長期安定政権となったことは否定できない事実である。そのため、この江戸幕府の礎を築き上げた家康の手腕は江戸幕府の功罪は別として今なお高く評価されている。また、この統治基盤が有ったからこそ、明治新政府へ移行が速やかに進められたとも言われる。
後の鎖国政策につながるような閉鎖的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もある。なお、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたもので、彼に対する非難としては的を外している、と主張する者もいる。
徳川将軍家を絶対主君とする、全国の諸大名をはじめ寺社勢力、朝廷そして天皇家までも実質支配下に置き、さらには外交面でも閉鎖的な徹底した中央集権的封建支配体制を築き上げたことは日本の近代化を遅れさせる一因となったと非難している声がある。また、これに関連して「生かさず殺さず」の姿勢で百姓を支配しようとした事やキリシタンに対する厳しい弾圧への批判も多い。
家康は信長以上に朝廷をないがしろにしたと言われ、実際彼は朝廷を事実上支配下においていた。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに諸大名の官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に否定している。また、天皇家および公家衆全体での石高を小大名並みの石高(一説には2~3万石)とし経済的に困窮させた。大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。さらに関ヶ原の後、家康が親豊臣的であった後陽成天皇に譲位を要求した。そして天皇がこれに応じて弟の八条宮智仁親王に皇位を譲ろうとすると、家康はかつて親王が秀吉の猶子になったことがあるとして反対し、慶長16年(1611年)には後陽成天皇を廃して、皇位を政仁親王(後水尾天皇)に譲らせている。家康は信長でさえ行なわなかった天皇の廃立を行ない、さらに後水尾天皇を自らの主導で即位させたのをいいことに、家康存命中から秀忠の5女・和子を入内させ、外祖父として天皇家まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇の死去があったためである)。

一族・譜代の取り扱いに関して

家康は息子である秀康、忠輝や創業時の功臣に冷たく当たったなどと言われるが、功臣や秀康に対し、所領の面では十分報いており、本多忠勝に対しては、その子忠政と孫忠刻に自分の孫娘(信康の娘熊姫と千姫)を嫁がせ、秀康の息子忠直には、勝姫(秀忠の娘)を嫁がせるなど、一定の配慮は示している。忠輝に対しても、改易前には御三家並の所領が与えられていた(越後・高田55万石)。大久保長安事件(あるいは本多正信との政争)で改易された大久保氏も忠隣の孫、忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代である忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている(ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方も出来るのも否めない)。更には、人材の環流は組織の活性化に必須である。これらの事から一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈するべきである。
次男・結城秀康や六男・松平忠輝らを、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で、常に遠ざけていた(領地を与えたのは自分の息子であるという形式上の対応に過ぎず、秀康も忠輝も家康に終生疎まれたという)。また、長男・信康切腹に関しても、家康自らの粛清説も近年唱えられている。さらに徳川四天王である本多忠勝や榊原康政を関ヶ原後に中枢から隔離し、この2人に匹敵するほどの武功派であった大久保忠隣を大久保長安事件で改易・失脚させるなど、息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だった。
大久保長安事件のとき、すでに長安は死去して埋葬されていたが、家康は長安の半ば腐敗した遺体を掘り起こして斬首し、さらにその首を安倍川の川原で晒し首にしており、この事から「家臣に冷酷で残虐である」と否定的評価をされることがある。
とはいえ、家康はかつて敵対していた今川・武田・北条の家臣も多く取り立て、彼らの戦法や政策の中で使えると判断したものはどんどん取り入れている。『故老諸談』には家康が本多康重に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」と記されている。

家康と同時代の人々

家康は、自分に屈辱的な大敗を経験させた武田信玄を素直に尊敬し、武田家の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ。 また源頼朝も尊敬し、頼朝の言動が記録された「吾妻鏡」を愛読していた。その反面、信長のように身分を無視した能力主義をとることはなく、秀吉のように金や領地を餌にして釣った人間を重用することもなかった。その為か、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけでそばを固めることが出来、豊臣政権の不備もあって天下人となった。偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するというものもある。
家康の仇名として「狸親父」というものがある。江戸時代の歌舞伎作品において、家康を暗喩する悪玉の名前として用いられたものである。明治以降は公然と家康の渾名として用いられるようになった。これは、家康が謀略に長けていたことを表すものであるが、同時に卑劣な人物であったという印象も与えるものであり、近年の家康に対する評価を大変低くさせている一因となっている。
家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが、これは逆に家康が小心な人物だったのではないかとされている。事実、短気で神経質な一面も持ち、家康は関ヶ原の序盤戦で東軍が不利だったとき、門奈長三郎という小姓の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。古記録にも、「公(徳川家康)、おほいに気をいらだちたまひ、左の御指の爪を食ひ切る。血しぶき噛みたまふように見えさせたまふ」とある。
家康は度々、情を排する冷徹な現実主義者で重臣であろうと容赦なく切り捨てるというイメージが先行している。しかし若い頃は三方ヶ原の戦い夏目吉信が囮になって討ち死にするまで頑として討ち死にする覚悟で戦い、最晩年に真田幸村に斬り込まれた際も腹を切ろうとした。また、吉信の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、本多忠勝の決死の嘆願で真田昌幸を助命するなど感情に流されるケースも少なくない(自身もその性格を理解していたのか、信康を処刑する間も一度も会おうとしなかった)。特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く三方ヶ原の戦いで三河武士が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、吉信、鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から『犬のように忠実』と言われたことから、家康自身の人望は非常に厚かったといえる。無論、有能な人材も重視し、三河譜代だけでなく今川・武田・北条の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、更には英国人ウィリアム・アダムス(武士として知行を与えたのは家康のみ)と地位・身分・国籍を問わず登用し、幕府の基礎を作り上げていった。

家康と宗教

戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗本願寺は第十一世門主顕如の死後、顕如の長男教如と三男准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺真宗大谷派)を設立、のちにこれに対して准如が西本願寺浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。今までは、若き日に三河一向一揆に苦しめられた事のある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如をそそのかして本願寺を分裂させたものとされてきたが、近年になって真宗大谷派が「教如は家康にそそのかされて東本願寺を設立したのではなく、元々独立志向があった」とする見解を史学研究の結果として正式に表明しており、本願寺の東西分裂が通説のような家康の策謀によるものであったかどうかはっきりしない状況だが、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。そしてこの本願寺の東西分裂によって東西本願寺はお互いに対立関係に陥り、結果戦国時代に諸大名を脅かしたような強大な武装宗教勢力ではなくなってしまった。かつて織田信長は本願寺と交戦しその後和睦したが、実質的には長年猛威を振るってきた本願寺の権威を失墜させるなどの弱体化に成功し、豊臣秀吉は逆にこれを懐柔しようとしたが、家康の場合はその関与の度合いは不明とは言え、結果的に本願寺を内部分裂させて、彼らの自滅を誘う形でその勢力を更に弱めており、この事も家康の老獪さを表す事象として批判的に捉えられることがある。
ただし、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には昨日まで家康の家来だった者も見受けられた。中には、本多正信夏目吉信などもいた。だが家康は彼らを怨まず、逆に家来として再び召抱えている。彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康の晩年までブレーンとして活躍し、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。

近現代における評価

明治維新後に家康の悪評が高まったのは、明治政府江戸幕府を倒して建てられた政権であり、江戸時代を悪とするのが明治政府にとって都合が良いことであったからと言える。特に太平洋戦争前は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が大日本帝国における、帝国主義的な領土拡大と合致し、「朝鮮征伐」と称されるほど是とされていたため、「秀吉は清君、それに背いた家康は奸君」と歪められた評価をされることが多かった。尚、この時期は家康らの尊敬の対象であった平将門足利尊氏に対しても朝廷に刃向かった逆賊として批判的な評価がなされていた時期である(尊氏に対しては家康もまた批判的に見ていたとする説もある)。
山岡荘八の小説、「徳川家康」では、幼い頃から我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、平和を求める理想主義者として描かれている。この小説によって家康への再評価が始まり、それは現在も続いている。そのため、家康を苦労人・不屈の精神力の持ち主として高く評する者もある。
司馬遼太郎は家康について記した小説「覇王の家」あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」としているが、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」「大航海時代の潮流から日本をとざし(略)世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸もつくった」と功罪比べてみれば罪の方が大きいと批判的のようである。そしてその功罪の原因が「徳川家という極端に自家保存の神経に過敏な性格から出ている」、「かれ自身(家康)の個人的性格から出ているところが濃い」といった記述をとって、司馬は家康について極めて批判的でもあり、また極端に嫌悪していたとする司馬評は決して少なくはない。しかしながら秀吉が陽気な性格によってその奸智を目立たなくしているのに対して、家康は華やかさのない性格によって奸智の面ばかりが世間の印象に残ってしまうと指摘しているように、司馬は家康を一方的に貶めているわけではない。『関ヶ原』や『城塞』で描かれる石田三成や淀殿の観念主義に対して家康の現実主義を対置させることによって、理性的なキャラクターとして家康を描いている。また「自らを一個の機械のように扱う」という家康のキャラクターは花神の主人公・大村益次郎や「翔ぶが如く」の主人公・大久保利通にも通じており、自分を強く律しながらも危機においてしばしばタガが外れるという、人間的なキャラクターとしても描かれている。また、豊臣秀吉には陽気な面が多いながらも、己一個の野心のために親類筋をも無残に処刑したりする残虐な一面を持っていたのに対し、家康がそのような独裁者的残忍さを家臣や領民に見せる事は全く無く、陽気とは言えないまでも、一個人としては愚直なまでに律儀で慎重で生真面目な面があり、江戸時代300年近い世界史上にもあまり類を見ない堅牢な太平の世を持続させる基を築いたその功績は、歴史上に置いて消えることはないとも評価していた。
天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作らなかったとして、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、家臣の使い方が多少優れ、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。武光誠の『凡将家康天下取りの謎』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。

一族縁者

家康は2代将軍・徳川秀忠の父、3代将軍・徳川家光の祖父、4代将軍・徳川家綱徳川綱重(6代将軍・徳川家宣の父)、5代将軍・徳川綱吉、8代将軍・徳川吉宗の曽祖父に当たる。

逸話

家康公遺訓
「人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし… 怒りは敵とおもへ」で有名な家康公の「御遺訓」は、明治時代に元500石取りの幕臣、池田松之介が徳川光圀の遺訓と言われる「人のいましめ」を元に家康63歳の自筆花押文書との体裁にしたものを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めたものであることを尾張徳川家の徳川義宣が考証した。
また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間の滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。
健康オタク
家康は現在でいう健康オタクであり、当時としては極めて長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。元々凝り性だった家康は食事のつりあい、消化のよさなどを考えて台所に献立を通達していたと言われている。その食事は質素で、戦国武将として戦場にいた頃の食生活を崩さなかった。死因となったともいわれた鯛の天ぷらは、生涯の最初で最後の贅沢であった。また生薬にも精通し、その知識は専門家が舌を巻くほどのもので一説には自分で調合していたとも、孫の家光の大病を治したとも言われるほどである。逆にしばしば水銀など劇薬まがいの薬剤を利用して強過ぎる薬を調合し、常備薬のように服用したため、専門家から諌言されていたとも言われる(なお、当時水銀は梅毒の治療薬に用いられていたため、家康が梅毒であったと推測できる)。ちなみに、精力剤である海狗腎は家康の薬の調合に使用されたという記録が残っている。関ヶ原合戦では、家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させている。また趣味の一つとされる鷹狩りに関して、司馬遼太郎は「運動が健康にいい事を知った日本で初めての人物かも知れない」と『覇王の家』の中で述べている。
新しいもの好き
実は、南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった家康。裏がつるつるで滑りやすかった南蛮渡来のくつの裏に日本のわらじからヒントを得て滑り止めの溝を彫らせ滑りにくくしたという挿話もある。
武術の達人
剣術砲術弓術馬術水術等の武術について一流の域に達していた。剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱新陰流の流れをくむ神影流(『奥平家譜』、直心影流伝書による。なお『急賀斎由緒書』では奥山流)剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に姉川の戦いから7年間師事、文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で秀忠の指南として、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩柳生宗厳と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退)を召抱える、など、生涯かけて学んでいた。ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。水術についても、69歳の時、駿河の川で見事な泳ぎぶりを家臣に披露している。馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流馬術を学んでいる。
また、力も強く、70歳の時に総長47(1.4m)の火縄銃で鳶を撃ち落としている。
多趣味
歴史小説等で鷹狩りと薬づくり以外無趣味とされることが多い家康であるが、実はそれ以外にもたくさん趣味があった。猿楽(現在の名称は)は、若い頃から世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、「風姿花伝」で学び故実にも通じていた。なお、家康は武士的な気概や人情味のある猿楽が好きであったが家臣が茶の湯(現茶道)等に凝るのを好まなかった。また、香(特に伽羅)を好み、海外まで使いを出している。囲碁本因坊算砂に師事、特に浅野長政とはよい碁敵だった。自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、彼は囲碁殿堂として顕彰されている。当時武士の間では普通だった衆道にはあまり興味がなかったが、後に徳川四天王に数えられる小姓井伊万千代(井伊直政)は衆道に無関心だった家康が唯一愛した男性であるといわれる。
家康の身長
家康の身長は推定156~160cmと言われている。晩年は肥満傾向にあり、胴回りは120cmと推測されている。
師・武田信玄
武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。天正10年(1582年)に武田家を滅亡させた後、織田信長に武田残党狩りを命じられた際も、信長の命令を無視し武田の遺臣をかくまった。自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。有名な井伊直政の赤備えも、武田の猛将山県昌景にあやかったものである。それとは反し、幼馴染であり盟友であった織田信長に対しては反応が鈍く、政策に信長を手本にしたようなものは少ない。晩年人質的な存在であった今川時代も含め、昔話を好んで家臣に聞かせた家康だが、信長に関する感想はほとんど語らなかったと言われている。
一富士二鷹三茄子
初夢で見ると縁起がいいものと言われる 富士山茄子家康の好きなものである。晩年、駿府に隠居城を構えたのは富士山の眺めがいいから。は趣味が鷹狩りである事。茄子家康の無類の大好物で、天下を獲った男の愛する品と言うのが、一富士二鷹三茄子の由来である。詳しくは初夢を参照。
家臣と家康
多くの有能な家臣に恵まれた家康は率直な物言いをする者を好んで重用した。時につかみ合いの喧嘩をし、罵りあった事もあると言う。
家康が尊敬していた人物
家康は、高祖張良韓信太公望文王周公源頼朝足利尊氏、などの人物を尊敬していたと伝えられている。
好学の士
家康の愛読書は、『論語』、『中庸』、『史記』、『漢書』、『六韜』、『三略』、『貞観政要』、『延喜式』、『吾妻鑑』などの書物だと伝えられている。家康はこれらの書物を関ヶ原以前より木版伏見版)で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。また源氏物語の教授を受けたり、三浦按針から幾何学数学を学ぶなど、その興味は幅広かった。
家康の手相
「知能線」と「感情線」が1体となっている手相(=ますかけ線)を持つ人が100人に2~3人ほどいる。家康もマスカケ線だったと伝わる(左手の手相が栃木県・日光山輪王寺宝物殿に保管されている)。因みにマスカケ線の持ち主は、国家を支配する強運の持ち主が多く、現代でもあらゆる分野のトップ達に多く見られる。出典・的中手相術(西谷泰人)創文
秀吉からの問い
「徳川の宝はなにか?」との秀吉の問いに対し、「五百騎の三河武士である」と返答している。
悪筆?
『永茗夜話』には渡辺幸庵の話として「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。ただし、直筆文章とされる書状などを見ると読めないような悪筆ではないため、当時流行の筆捌きでないと言う意味かもしれない。
けち
家康のけちにまつわる逸話は多い。
*手洗いから出て懐紙で手を拭こうとしたら、懐紙が風に飛ばされたので庭まで追っていって取り返した(それを見て笑う家来に対し、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言い返している。)『葉隠覚書』。
*新しい服をあまり買わず、洗濯して使っていたため、洗濯させられる侍女から新しい服を着てほしいと苦情が出たとき、天下のため倹約するのだと逆に説教した。また、侍女から料理の漬物がしょっぱいという苦情が出たので料理人に問いただしたところ、今でも侍女たちはたくさんおかわりしているのに、おいしい漬物を出したら何杯おかわりするかわからないと答えられ、笑ってそのままにした。侍が座敷で相撲をしている時に畳を裏返すように言った『駿河土産』。
*駿府の銭鋳所跡地を掘り返して、銅を3年で運上金千両回収した『渡辺幸庵対話』。
*装飾を施した便器に激怒し、直ちに壊させた『膾餘雑録』。
*代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた『翁草』。
*三河にいた時、夏に家康は麦飯を食べていた。ある時部下が米飯の上に麦をのせ出した所、戦国の時代において百姓にばかり苦労させて(夏は最も食料がなくなる時期)自分だけ飽食できるかと言った『正武将感状記』。
*厩が壊れても、そちらのほうが頑強な馬が育つと言い、そのままにした『明良洪範』。
*家臣が華美な屋敷を作らないよう与える敷地は小さくし、自身の屋敷も質素であった『前橋旧聞覚書』『見聞集』。
*蒲生氏郷は秀吉の後に天下を取れる人物として前田利家をあげ、家康は人に知行を多く与えないので天下人にはなれないといった『老人雑話』。
この結果、家康は莫大な財を次代に残している。ただし『落穂集追加』では家康のは吝嗇でなく倹約と評している。
影武者説
大坂夏の陣の際に家康は真田幸村に討ち取られ、混乱を避け幕府の安定作業を円滑に進めるために影武者が病死するまで家康の座を代行させていたとされる説。一説に異母弟の樵臆恵最もしくは小笠原秀政ではないかといわれる。大阪府堺市の南宗寺には家康の墓とされるものがある。
暗殺説
大坂夏の陣の翌年、家康が暗殺されていたという説。一説には家光の擁立を決めた家康は、崇源院ら忠長擁立派により鷹狩の最中に狙撃されたといわれる。さらに豊臣方の怨恨で暗殺されたという説まである。

脚注

資料

家康研究においての基本資料
同時代の人物による記録
…織田信長についての記事が主だが、同盟者の家康についての情報も多い。
…覚書に類別されるが、率直な物言いと内容で史料価値は高いと言われる。
編纂物(資料的価値が高いとされるもの)

徳川家康が登場する作品

小説

映画

テレビドラマ

NHK大河ドラマ
その他のテレビドラマ

漫画

テレビアニメ

歴史ゲーム

関連項目

外部リンク

いえやす いえやす
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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