生涯
即位
徳治3年(
1308年)に
持明院統の
花園天皇の即位にともない
皇太子に立てられ、
文保2年
2月26日(
1318年3月29日)に花園の譲位を受けて31歳という壮齢にて
践祚、
3月29日(
4月30日)に
即位。即位後3年間は父の後宇多法皇が
院政を行った。後宇多の遺言状に基づき、はじめから後醍醐は兄
後二条天皇の遺児である
皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、後醍醐が自己の子孫に皇位を世襲させることが否定された(ただし、後醍醐の子孫が
世襲親王家を立てることは認められており、邦良親王系統の皇位継承者が幼少の時の中継ぎや断絶時の後醍醐系からの皇位継承については考慮されていたとする見方がある)。後醍醐の
治天の君就任も想定されておらず、後醍醐は不満を募らせた。それが後宇多の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。
元亨元年(
1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。前年に邦良親王に男子(
康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時期が熟したこの時期に後醍醐が実質上の治天の君となったことが大きな謎とされ、後宇多法皇の仏道修行説、後宇多法皇の圧力による退位を警戒した後醍醐天皇による圧迫説、持明院統側からの皇位委譲要求をかわすための大覚寺統側による政治的延命工作説などが存在する。
倒幕
正中元年(
1324年)、後醍醐の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、
六波羅探題が後醍醐の側近
日野資朝らを処分する
正中の変が起こる。この変では、幕府は天皇にはなんの処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、
醍醐寺の
文観や
法勝寺の
円観などの僧を近習に近づけ、
元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、
興福寺や
延暦寺など南都の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である
西園寺家所生の親王は邦良系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良を支持する者が大多数であり、
持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したから、後醍醐は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良が病死したあと、持明院統の嫡子量仁が幕府の指名で皇太子に立てられ、退位の圧力はいっそう強まった。
元弘元年(
1331年)、再度の倒幕計画が側近
吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、
三種の神器を持って挙兵した。はじめ
比叡山に拠ろうとして失敗し、
笠置山(現
京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを
元弘の変と呼ぶ。
流罪、そして復帰
建武の新政
帰京した後醍醐は、自らの退位と光厳の即位と在位を否定し、いわゆる
建武の新政を開始する。また、持明院統のみならず大覚寺統の
嫡流である邦良の遺児たちをも皇位継承からはずし、本来傍流であったはずの自分の皇子
恒良親王を皇太子に立て、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。
建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする
大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家達の多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な
二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威を全く失墜した。
足利尊氏の離反
建武2年(
1335年)、
中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた
足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に
鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は
箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や
北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。尊氏は
九州へ落ち延びるが、翌年に九州で体制を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐に尊氏との和睦を進言するが後醍醐はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は
湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。
南北朝時代
足利軍が入京すると後醍醐は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から
光明天皇を新天皇に擁立し、
建武式目を制定して幕府を開設する。後醍醐は幽閉されていた
花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、
吉野(現
奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(
北朝)と吉野朝廷(
南朝)が並立する
南北朝時代が始まる。後醍醐は、
尊良親王や
恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、
懐良親王を征西将軍に任じて
九州へ、
宗良親王を東国へ、
義良親王を
陸奥国へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、
延元4年 /
暦応2年(
1339年)
8月15日、吉野へ戻っていた義良親王(
後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して死去した。享年52(満50歳)。
系譜
系図
論評
同時代では、早くも天皇側近の
北畠親房が『
神皇正統記』において保守的公家観から新政策への批判を加えている。
近世においては後醍醐天皇を不徳の君であるとする評価が定着し、
徳川光圀によって編纂が開始された『
大日本史』においては南朝を正統とする立場から後醍醐天皇を不徳とする認識が見られ、
新井白石は『
読史余論』において、王朝政治における累代の天皇の失徳が武家政権成立の過程であるとする歴史観の中で、後醍醐天皇をその末尾に位置付けている。
頼山陽の『
日本外史』では後醍醐天皇批判の一方で即位直後の親政に関しては肯定的評価をしている。
側近
諡号・追号・異名
後醍醐天皇は、
延喜の治と称され天皇親政の時代とされた
醍醐天皇の治世を理想としていた。天皇の
諡号や
追号は通常死後におくられるものであるが、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。これを
遺諡といい、
白河天皇以後しばしば見られる。また、醍醐天皇は
宇多天皇の皇子であり、後醍醐天皇は自己を父・後宇多天皇の正統な後継者として位置づける意味で命名したとする説もある。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。
崩御後、北朝では崇徳院・安徳院・顕徳院・順徳院などとのように徳の字を入れて
院号を奉る案もあったが、生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」とした。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。
。
后妃・皇子女
- 皇后(中宮):藤原禧子(1303-1333) - 西園寺実兼女
- 皇女
- 懽子内親王(1315-1361) - 光厳天皇妃
- 皇后(中宮):珣子内親王(1311-1337) - 後伏見天皇女
- 女御:藤原栄子 - 二条道平女
- 宮人:遊義門院の一条局 - 藤原実俊女
- 宮人:阿野廉子(1301-1359) - 阿野公廉女
- 宮人:源親子(?-?)-源師親女
- 宮人:藤原為子 - 二条為世女
- 尊良親王(1311-1337)
- 宗良親王(1312-1385)
- 瓊子内親王(1316?-1339)
- 欣子内親王
- 宮人:勾当内侍 - 源経資女
- 宮人:遊義門院の左衛門督局 - 御子左為忠女
- 宮人:民部卿三位 - 日野経光女?
- 宮人:権中納言局
- 宮人:平基時女
- 宮人:民部卿局
- 宮人:山階実子
- 宮人:洞院公敏女
- 宮人:坊門局
- 宮人:権大納言三位局 - 二条為道女
- 宮人:大納言典侍 - 北畠師重女
- 宮人:勾当内侍 - 世尊寺経朝女
- 生母不詳
皇子の名の読み
後醍醐の皇子の名には通字として「良」が用いられている。その読みは古くから「なが」「よし」の両様に読まれてきた。
江戸時代後期から、明治・大正・昭和の戦前期にかけての時期には「なが」の読みが一般的であった。「なが」説の根拠は、
一条兼良が著したと伝える『諱訓抄』の写本で「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられる。
明治維新後の南朝忠臣顕彰の風潮に乗って、南朝関係者を祭神とする神社(
建武中興十五社)が次々と建立され、
明治2年(
1869年)には護良を祀る
鎌倉宮、明治5年(
1872年)に宗良を祀る
井伊谷宮、明治17年(
1884年)に懐良を祀る
八代宮、明治23年(
1890年)に尊良を祀る(明治25年(
1892年)に恒良を合祀)
金崎宮の4つの神社が創建されたが、これらの神社では、すべて祭神名を「なが」と読むことで統一している。また、
大正4年(
1915年)に宮内庁書陵部が職員のための内部資料として編纂した『陵墓要覧』でも、たとえば「護良親王墓」に「もりながしんのうはか」との読み仮名を振っている。
一方、大正時代の頃から歴史学者らの研究で「良」を「よし」と読む説が発表されていた。大正9年(
1920年)には
八代国治、
昭和14年(
1939年)には
平田俊春が、史料的根拠を示して「よし」と読むべきことを指摘している。その後「よし」説の根拠として挙げられている史料には、八代と平田が指摘したものも含めて、次のようなものがある
。
- 『諱訓抄』の写本は多く残されているが、「モリナカ」の読みを載せるものは天和元年(1681年)に写されたものが最古であり「モリナカ」の読み仮名が一条兼良の生きた室町時代まで遡れるものかどうか疑問が残る。
-
応安4年(1371年)に書写された「帝系図」(国立歴史民俗博物館所蔵)では「後村上院」の名を「義儀」と記してある。これは本来「儀義」であって「のりよし」と読んだものと推測される。
-
応永15年(1408年)に書写された「人王百代具名記」(茨城県那珂市の常福寺所蔵)では「後村上院」の名を「儀良」と記して「良」の字に「ヨシ」と振り仮名をしている。
- 後醍醐と政権を争った光厳天皇の曾孫後崇光院自筆の『増鏡』の写本(尊経閣文庫所蔵)では「世良」に「ヨヨシ」「尊良」に「タカヨシ」と振り仮名をしている。
-
永正年間(1510年前後)に書写された『増鏡』の写本(学習院大学付属図書館所蔵)では「尊良」の名を平仮名で「たかよし」と書いている。
- 江戸時代初期に書写された『保暦間記』の一写本(内閣文庫所蔵)では「成良」の名を片仮名で「ナリヨシ」と書いている。
-
寛永初年(1625年前後)に書写された『神皇正統記』の写本(青蓮院本。天理図書館所蔵)では「護良」に「モリヨシ」と振り仮名をしている。
以上の論拠から、戦後の歴史学界においては、「よし」と読んでいたとの説が大勢となっている。各種書籍における記載もこれを反映したものが多い。
- 代表的な歴史百科事典である『国史大辞典』(吉川弘文館)において、たとえば護良親王の項目では、「もりよししんのう」で記事を立てて解説を記し、「もりながしんのう」の項には「⇒もりよししんのう」と記載している。
- 2008年度現在、高等学校の日本史B(高校の日本史の授業には、近現代史のみを扱うAと、古代から現代までの通史を扱うBとがある)の教科書で、文部科学省の検定に合格しているものは11種ある。後醍醐の皇子で、そのすべてに登場しているのは護良と懐良の2人であるが、11種とも「もりよし」「かねよし」の表記がなされている。そのうち、11種のうち6種は「もりなが」「かねなが」の読みも括弧書きなどにより併記されている。系図などに記されるほかの皇子たちの名の扱いも同様である。
なお、これらの歴史学の研究成果は、信仰の次元において「良」を「なが」と読むこととはおのずと次元の異なる問題であることは言うまでもない。
在位中の元号
著作
陵墓・霊廟
陵墓は
奈良県吉野郡吉野町吉野山にある
如意輪寺内の円墳の
塔尾陵(とうのおのみささぎ)である。通常
天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐の願いを表したものだという。軍記物語『
太平記』では、後醍醐は「
玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。
さらに、後醍醐天皇が
紫衣を許して
官寺とした
總持寺(
神奈川県横浜市鶴見区)には、後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。この御霊殿は、後醍醐天皇の600年遠忌を記念して、
昭和12年(
1937年)に建立された。
参考文献
脚注以外の参考文献
-
平泉澄『建武中興の本義』(至文堂、1934年9月 / 日本学協会、1983年5月)
- 建武義会編『後醍醐天皇奉賛論文集』(至文堂、1939年9月)
- 平泉澄『明治の源流』(時事通信社、1970年6月)
-
村松剛『帝王後醍醐 「中世」の光と影』(中公文庫、1981年) ISBN 4-12-200828-X
-
網野善彦『異形の王権』(平凡社ライブラリー、1993年) ISBN 4-582-76010-4
-
森茂暁『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王』(中公新書、2000年) ISBN 4-12-101521-5
- 佐藤和彦・樋口州男 編『後醍醐天皇のすべて』(新人物往来社、2004年) ISBN 4-404-03212-9
- 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 4-642-02863-3
登場作品
-
光厳天皇の杖が生み出した『世界』に出現。光厳天皇に対する恨みから活火山のように炎を撒き散らす生霊となり、光厳天皇の代役となった一休を追い回す。
関連項目
外部リンク
<
こたいこ