親会社を持たない市民球団として結成されたという、ほかの球団と比較して特異の歴史を有する(
マツダはカープと関連してはいるが会社としての球団への経営参加はしていない)。現在は松田家による
同族経営となっている。
球団の歴史
壊滅の広島からプロ野球を 第一次低迷期
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1949年シーズンオフのリーグ拡張方針を受け、原爆投下による壊滅的被害からの復興を目指しプロ球団を設立。同年12月15日にセントラル・リーグに加盟。広島市を流れる太田川は鯉の産地、しかも原爆で焼け落ちた広島城は“鯉城”とも呼ばれていたため、球団名を広島カープとした。翌1950年3月10日に福岡平和台球場で行われたセ・リーグ開幕戦の選手入場時に掲げられたプラカードには何故か「広島カープス」と書かれていた。
- 本拠地球場は広島総合球場。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく、監督の石本秀一自ら選手集めに奔走。投手に長谷川良平、内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章らが中心となったが寄せ集めのチームは著しく低迷。
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1951年に深刻な球団経営状態から解散案、あるいは当時下関市にチームがあった大洋ホエールズとの合併案が持ち上がった。その時、球団の資金難を救うべく広島市民が酒樽に募金を募った「樽募金」で球団存続に必要な当時のお金で400万円を集めた。球団も四方八方手を尽くし解散を回避。この一件は、2001年5月1日放送のNHK「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。なお、この年は7球団による20回総当りの120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日があったため順位決定後の試合はすべて打ち切られた。とくに広島は最下位決定のあと、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化しなかった。
- 翌1952年シーズン開幕前には、当時7球団だったセ・リーグの日程が組みにくいという理由のため、同年シーズン勝率3割を切った球団は解散という取り決めがされた。設立より2年連続最下位だった広島が解散の最有力候補だったが、長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ勝率.316で解散を免れた(松竹ロビンスが最下位・勝率.288)。この年限りで石本は退任。代わりに赤嶺昌志一派の選手が集団で入団した。小鶴誠、金山次郎の入団だけで大パレードを敢行、続いて獲得に成功した日系二世選手・銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)、光吉勉入団の際には更に盛大な大パレードを行い、10万人の歓迎で、市中紙吹雪が舞った。「人出は天皇ご巡幸の時よりも多かった」ともいわれた。
- 1952年から1953年は球団の経営状態が極端に悪化し、ユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけしかなかった。しかもそのユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
- 1953年のオールスターゲームのファン投票で、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手がトップ当選。当時の野球ファンを驚かせ、集団投票事件などと批判を浴びた。オールスターの「組織票」の最初のケースがこの年の広島カープと推測される。
- 1953年 - 1960年まで白石が監督を務める。チーム成績は低迷するが、1960年にBクラスながら球団創設以来初の勝率5割とシーズン勝ち越しを果たした。その後、1961年から1962年まで準生え抜きの門前眞佐人が監督を務めたが、勝率5割を割り辞任。この間1957年7月より、広島市民球場に本拠地を移転した。白石は1963年 - 1965年シーズン途中まで2度目の監督を務めた。
- 1965年7月から長谷川監督が務めた後、1968年、東洋工業(現・マツダ)が筆頭株主となり球団名を現在の広島東洋カープに改称。同年、根本陸夫監督のもと3位となり、球団創設19年目にして初のAクラス入りを果たした。根本時代は成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄、山本浩二、水谷実雄ら、のちの「赤ヘル軍団」の台頭を促した。しかし根本退任後の1972年以降は3年連続の最下位に終わる。
チームカラーを赤に 赤ヘル黄金時代
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1973年、別当薫が監督就任すると、チームのイメージを一新すべくユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字、胸番号、背番号に赤の縁取り、袖、腰、ストッキングに赤色のラインが入り、チームカラーとなる「赤」が取り入れられた。
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1975年、球団初の外国人監督として、前年より一軍打撃コーチを務めていたジョー・ルーツが監督に就任。燃える闘志を表す意味をこめて帽子、ヘルメットの色が赤になった。ルーツはシーズン途中で退団したが、後任監督の古葉竹識のもと球団初優勝。平和大通りで行われた優勝パレードはファン約30万人を集め、空前の盛り上がりを見せた。これは現在5月の連休に行われているひろしまフラワーフェスティバルの発端となっている。以降、カープは球団史上に残る黄金時代に突入する。
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1977年、胸文字、胸番号、背番号、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり"カープ=赤”が定着する。
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1978年、日本プロ野球史上初のシーズン本塁打200発を記録。山本浩二、衣笠祥雄をはじめジム・ライトルとヘンリー・ギャレットの両外人、水谷実雄や高橋慶彦らがアーチを描き赤ヘル打線が炸裂した。
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1979年・1980年には'''日本シリーズ2連覇を成し遂げた。
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1984年は山本浩二、衣笠に加え山根和夫、北別府学、大野豊ら投手が活躍し3度目の日本一。古葉は1985年限りで勇退。
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1986年から阿南準郎が監督となる。阿南は「山本浩二監督」実現までの繋ぎと言われたが、ガッツ溢れる采配と手腕で、就任1年目にリーグ優勝。
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1989年に山本監督誕生。1991年、投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。翌1992年もシーズン成績を勝ち越し、この年リーグ優勝したヤクルトとは僅か3ゲーム差であったものの、ヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差とセ・リーグ全体が例年に見ぬ大混戦となり、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずに4位となり、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。1993年は佐々岡や北別府ら投手陣が崩壊し、最下位に転落。山本監督は責任を取り辞任。
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1994年、三村敏之が監督に就任。1996年シーズン中盤は2位に最大7ゲーム差を付けるなど首位を独走していたが、最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、3位に。この年以降、現在に至るまでチームは深刻な投手不足に悩まされるようになる。三村は1998年限りで退任。この年、投打の主力選手だった大野豊、正田耕三の引退も重なった。
第二次低迷期の到来 ブラウン政権へ
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1999年からは達川晃豊が監督に就任。伝統の猛練習でチームの底上げを図るも、1999年、2000年共5位に終わり、わずか2年で辞任。また、引退直後から就任していた大野豊投手コーチと正田耕三守備走塁コーチ、6年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチは1年限りで辞任した。
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2001年シーズンより再び山本浩二が監督として指揮を執るも、1度もAクラスを経験しないまま2005年終了後に成績不振の責任を取り辞任。
- 2005年
- 9月頃よりライブドア社長の堀江貴文(当時)によるカープ球団買収報道が流れ始め、同10月中旬にライブドアが本格的に球団買収調査を開始したと報道された。
- この年、日本プロ野球で初の6年連続シーズン3桁失策を犯す。
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2006年
- ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティー・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を計った。
- キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹に決定。ユニフォームにはキャプテンマークとして「C」の文字を入れた。
- 開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続とした。
- エース・黒田博樹以外の先発投手が期待に応えられないなどで借金を増やし、5位に終わる。
- 2007年
- キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田となった。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割をキープしていたが、交流戦で最下位に沈んだことで優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わった。しかし、長年阪神に負け越していたが、14勝9敗1引き分けと阪神に勝ち越し、長年の雪辱を果たした。
- 課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、クローザー永川勝浩がたびたび炎上し安定感を欠いた。リーグワーストのチーム防御率4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。
- シーズンオフに新井と黒田がFA宣言し退団した。チームの投打の大黒柱を失った球団は思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかっている。新井の人的補償選手として赤松真人を獲得し、他にも新人や新外国人選手を含め14人もの新入団選手を獲得した。
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2008年
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交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録した。
- 若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった。しかし、シーズン失策数は相変わらず3桁近くでリーグ最下位が定位置のままであり、課題を多く残したシーズンに何ら変わりはなかった。
- 延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。
チーム成績・記録
- リーグ優勝 6回
- (1975年、1979年、1980年、1984年、1986年、1991年)
- 日本一 3回
- Aクラス 20回
- (1968年、1975年 - 1976年、1978年 - 1981年、1983年 - 1991年、1994年 - 1997年)
- Bクラス 38回
- (1950年 - 1967年、1969年 - 1974年、1977年、1982年、1992年 - 1993年、1998年 - 2008年)※1
- 最多勝 75勝(1984年)
- 最多敗 96敗(1950年)
- 最多引分 18分(1978年)
- 最高勝率 .625(1984年)
- 最低勝率 .299(1950年)
- 連続Aクラス入り最長記録 9年(1983年 - 1991年)
- 連続Bクラス最長記録 18年(1950年 - 1967年、南海ホークス・福岡ダイエーホークス〔1978年 - 1997年〕の20年に次ぐ史上2位)
その他の記録
- 最小ゲーム差 3.0ゲーム(1992年)
- 最大ゲーム差 59.0ゲーム(1950年)
- 最多本塁打 205本(1978年)
- 最少本塁打 29本(1952年)
- 最高打率 .284(1978年)
- 最低打率 .213(1956年)
- 最高防御率 2.62(1959年)
- 最低防御率 5.20(1950年)
歴代本拠地
2009年4月より本拠地を
新広島市民球場(MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島=JR
広島駅東部に広がる
貨物ヤード跡に建設される新球場)へ移転することが決定した。
チーム特徴
- ニックネームの「カープ」は「鯉」の英語Carpに由来。名付け親は政治家の谷川昇(公職追放指定を受けたため球団経営には参画せず)。このニックネームになった経緯は以下の通り。
- 広島市を流れる太田川が鯉の産地であること
- 広島城が鯉城と呼ばれていること、鯉は滝を登る出世魚であること、また当時、太平洋戦争での広島市への原子爆弾投下の後に生まれたチームであることから滝を登る鯉の姿に広島の復興の想いを込めようとしたこと
- 谷川の発言「文献によると、鯉は諸魚の長となす。形既に愛す可く又神変乃至飛越をよくす、とある。また己斐(こい)〔広島市西区の地名〕は鯉から転化したものであり、恋にも通ずる」から
- 加盟当初は「カープス」だったが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改め正式名称とした。他のニックネーム候補にはレインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などがあった。このうち「グリーンズ」は1954年に結成された2軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用された。また、アトムズは原子爆弾からの連想で、原子爆弾に広島を象徴させる事が提案されたのは核兵器廃絶運動の拡大前という時代背景があった。これはその後1966年から1973年にサンケイ→ヤクルトが、フジテレビジョンのアニメ鉄腕アトムに由来する名称として採用していた。
- 資金難もあって監督はチームの生え抜き、すなわち他球団への在籍経験がない選手が昇格することが多いが、球団の黎明期には白石勝巳、門前眞佐人といった準生え抜きが監督をつとめることもあった。広島初の生え抜き監督は球団創設16年目に中途就任した長谷川良平で、当時35歳だった。
- 他球団が外国人選手を採用しても、平山智らのような日系人のほかは、外国人選手を長らく採用しなかったが、1972年にメジャー・アメリカンリーグでMVPに輝いたことのあるソイロ・ベルサイエスが日系以外の外国人選手として初めて入団した。その後も、リッチー・シェーン、ゲイル・ホプキンス、ジム・ライトル、マイク・デュプリー、ルイス・ロペス、ネイサン・ミンチー、アンディ・シーツ、コルビー・ルイスといった外国人選手が顕著な活躍を残している。しかしカープ在籍中に活躍したにも関わらずシーズンオフに年俸などの待遇で契約交渉が纏まらず、外国人選手が他球団に移籍する事例が後を絶たない。近年ではネイサン・ミンチー(2001年に千葉ロッテに移籍)やアンディ・シーツ(2005年に阪神に移籍)が代表例である。また、戦力外になった選手の移籍後の活躍も近年目立ち、トム・デイビー(2006年にオリックスに移籍)グレッグ・ラロッカ(2006年にヤクルトに移籍→現・オリックス)などの例が見られる。
- 球団マスコットは「スラィリー」。詳細はその項を参照。また、1975年6月より「カープ坊や」がマスコットとして存在している。スラィリー登場後も球団の応援グッズなどに描かれ続けている。
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1963年春から、宮崎県日南市で春・秋キャンプを行っているが、1966年日南市が読売ジャイアンツからキャンプのオファーを受けたこともあり、ジャイアンツキャンプ誘致を検討されたことがあった。しかし地元協力者などの請願により白紙撤回され、現在に至るまで40年以上、日南市は広島カープのキャンプ地として知られる。(日南市天福球場の項も参照)
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1984年に挙げた75勝がチームのシーズン最多勝記録で、セントラル・リーグに所属する球団では唯一のシーズン80勝未到達球団である。
- 球団創設から1967年までの18年連続Bクラスはセ・リーグワースト記録である。また、1996年に福岡ダイエーホークスに抜かれるまではプロ野球ワースト記録だった。
- 元々資金が豊富ではないこともあってフリーエージェント (FA) 制度やドラフト希望枠での選手の獲得の活用に消極的(あるいは否定的)である。現在まで他球団のFA宣言選手の獲得も行っておらず、2005年までは所属選手のFA宣言をしての残留(一般的には再契約金が発生する)も認めていなかったが、2006年以降はFA宣言選手の残留も認め、希望枠選手の獲得も行っている。FAに関しては2006年に資格を取得した黒田博樹に対して球団として初めて宣言後の残留交渉を行うこととしていたが、結果的にその年は黒田は宣言せず、複数年契約(後述)を結んだ。2007年は阪神にFAで移籍した新井貴浩の人的補償として赤松真人を獲得した。希望枠選手の獲得は2006年の社会人・大学生ドラフトでの宮崎充登がある。
- 合宿所は1軍と2軍それぞれに設けている。以前は広島市内の三篠寮1ヶ所だけだったが施設の老朽化が進んだことから、1984年以後佐伯郡大野町(現廿日市市)にある「大野屋内練習所」(カーサ・デ・カルピオ〔Casa di CARPIO〕、イタリア語で「カープの館」の意味)の敷地内に2軍の合宿所を建設。三篠寮は1軍選手専用となった。
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8月6日の広島原爆忌当日に主催試合がある場合は広島市民球場は使用せず、倉敷、福山等で試合を行う。これは球場を保有している広島市が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためである。広島市民球場最終年となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、実現しなかった。
- 他の球団に比べ地方球場での主催試合が多い。上記の倉敷、福山以外にも、尾道、米子、松山坊っちゃん等の各球場で主催ゲームが実施される。なお2005年の松山での試合は、ヤクルトと阪神のそれぞれ主催で2連戦ずつ組まれた。
- 1980年代後半から1990年代前半は、地方開催主催ゲームでもとりわけ東北地方への遠征が多く、5月から7月あたりは週末ともなればよく東北(福島、宮城、岩手)でデーゲームを開催していた。2軍のフランチャイズを東北にということまで検討された時もあった。
- 1995年から2005年まで、広島市民球場でのナイターのレギュラーの試合開始時間は18時20分だった。これは広島市の日照時間が日本一長いための措置。1994年以前は18時試合開始としたこともあったが、特に日没が遅い夏場に球場の外野・レフト側から西日が差し込み、試合運営、特に外野手の守備の面で支障をきたすという理由から18時20分にしたという経緯がある。しかし、対戦カードの集客力と遠方のファンの観戦に柔軟に対応する、さらには球場周辺の滞在時間増加を見込む等の方針見直しに伴い、2006年よりナイター全試合を18時試合開始に変更している。一部試合(土曜・日曜・祝日など)は薄暮試合という処置を取り、午後3時から試合を行う。
- 1990年代中盤以降は投手力の著しい低下に伴い、ルーキー投手も主力として投げることが多いが、これらの投手が1年目は活躍するものの、1年目の酷使がたたって早期に引退に追い込まれるケースが目立つ。逆指名入団の山内泰幸、澤崎俊和は新人王、小林幹英はセ・リーグ特別表彰を受賞したが、2年目以降は故障などで尻すぼみになり、3人とも10年以内で引退している。なお、3人とも現在は広島の一軍あるいは二軍投手コーチを務める。高卒では苫米地鉄人が1年目から開幕1軍入りするなど活躍したが、その後は伸び悩んで結局7年で引退した。
- 2008年現在、新規球団の楽天を除く11球団の中で、最もリーグ優勝・日本一から遠ざかっているチームとなっている。加えて1998年以降、チームが11年連続でBクラスのため、主力選手のほとんどが優勝はおろか、Aクラス入りの経験すらしていない。21世紀になってから一度もAクラスになっていないのは、セ・リーグ球団では広島のみであり、2008年現在優勝経験のある生え抜きの現役選手は緒方孝市、前田智徳の2名だけである。
- 打線は機動力や小技を発揮出来る選手の育成が進まず、本塁打に頼る野球になり、阪神甲子園球場やナゴヤドーム等の広い球場では点が取れず、広島の“鬼門”とも呼ばれている。逆に本塁打の出やすい神宮球場ではヤクルトとの好相性もあってか勝つことが多い。
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交流戦を苦手としている。交流戦導入後、2005年(11勝24敗1分)、2006年(16勝20敗)、2007年(5勝18敗1分)と3シーズン連続で負け越していた。負け越しの数も多く、これもシーズンの足を引っ張る要素の一つとなっている。そのため交流戦も阪神戦や中日戦と同様に広島の“鬼門”と呼ばれることが多い。しかし、2008年は13勝11敗とし、初めて勝ち越した。
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2007年から公式ファンクラブが結成された。12球団で最後の結成。
ユニフォーム
変遷
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1950年 - 1952年 創設期はシールズやヤンキースを参考にしたユニフォームがあったが、球団の資金難などから1年で廃止された。その後ビジター用のグレーは1952年まで使用。
- 1952年 - 1953年 大下回春堂から資金援助を受けるため、フマキラーのロゴが登場。創設期からユニフォームは紺色をチームカラーとしていた。
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1954年 - 1957年 フィリピン遠征を機にユニフォームが一新。ビジター用は南十字星がベース。
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1958年 - 1962年 レッドソックスを参考にしたユニフォームが登場。この時初めてユニフォームに「赤」が取り入れられる。1960年にはビジター用がモデルチェンジされ、ドジャース型となり、この時初めて、現在使用されている筆記体ロゴの原型が登場する。(スペルはHirosima)。また、胸番号も登場。
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1963年 - 1972年 白石勝巳監督就任時より、やや緑のかかった紺色一色になり、首、袖、ベルトループに紺色のラインが入る。帽子のマークは「HIROSHIMA」のHマークになる(Hマークは現在の球団旗にも使われている)。
- ビジター用はグレー地で、胸ロゴは花文字書体のHIROSHIMA。胸番号は無く、左袖に番号が付く。
- 1968年より、根本陸夫監督就任に伴い、袖、ベルトループのラインが太くなり、ビジター用の番号が袖から右胸につく。この年から「広島東洋カープ」と名称変更したことにより、ビジター用の右袖に東洋工業(現:マツダ)の「TOYO」の文字が入る。
- 1971年より、袖、首、パンツ、ベルトループの紺ラインをオレンジで挟むラインとなり、胸ロゴ、背番号、胸番号がオレンジの縁取り、帽子のHマークがオレンジになる。また、ビジターの胸番号がホーム同様左側に統一される。
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1973年 - 1974年 別当薫監督就任に伴い、ニット素材の特徴を生かした丸首のベルトレスのユニフォームとなり、プルオーバーとなる。背番号、胸ロゴ、胸番号が赤の縁取り、袖と首周りに紺と赤のツートンライン、ストッキングに赤の2本ラインが入り、帽子のマークがHから、シンシナティ・レッズ、中央大学と同じ形状のC(赤に白の縁取り)に変わる。
- ビジター用は、ブルーグレー地になり、1960年 - 1963年にかけて使用されていた「Hiroshima」の筆記体ロゴが復活する。
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1975年 - 1976年 ジョー・ルーツ監督就任に伴い、帽子の色が赤になり、Cマークが紺に白の縁取りとなる。さらに首周りがVネックとなる。
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1977年 - 1988年 背番号、胸ロゴ、胸文字、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり、カープ=赤が完全に定着する。袖、腰ラインの紺と赤とが逆転し、首ラインの紺部分のラインが細くなる。スパイクが白地に赤のラインとなる。
- ビジター用は、ブルーグレーから鮮やかなスカイブルー地になり、胸ロゴ、背番号、胸番号が光る素材のものになる。スパイクもスカイブルー地に赤のラインとなる。
- 1978年より、背番号の上に選手名が入る、
- 1988年のみ、ベルトレスからベルト式になる。
- このデザインは12年の長きに渡り使用され、1979年、1980年、1984年の3度の日本一(1986年はリーグ優勝)を果たした。ちなみにビジターユニフォームは広島刑務所に寄贈され、受刑者がソフトボール大会で着用していた。現に中畑清が日テレの特番「刑務所24時」の取材で広島刑務所を慰問中に緊急企画で中畑が巨人時代のユニフォームでソフトボールに出場し対戦し、刑務官や受刑者から拍手喝采を浴びた。
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1989年 - 1995年 山本浩二監督就任に伴い、ユニフォームを一新。シンシナティ・レッズを意識したデザインになる。左胸にCマークとCARPのロゴ、胸番号は右腹部。袖には赤の2本ライン、左袖に「HIROSHIMA」のロゴが入る。球団創設時から定着していた紺色が消え、赤のみになる。帽子のCマークが白一色になり、シンシナティ・レッズと全く同じデザインとなる。
- ビジター用はグレー。ホーム、ビジター共スパイクも白地に赤ラインとなる。プルオーバーから現在のボタン式(但し、第3ボタンまでがボタン脱着式で、あとは飾りボタン)に変更される。なお1994年のホーム用のみ、同年開催されたアジア大会広島大会をPRするマークが入った。
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1996年 - 2001年 大リーグで主流となった前立てラインが登場する、袖のラインが消え、ホーム用に「CARP」、ビジター用「HIROSHIMA」(1963年 - 1972年使用)のロゴが復活する。1999年のみ、球団創設50周年のマークが入る。
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2002年 - 2008年 球団創設期に使われていた縦縞を復活。ロゴを桜文字からホーム用は筆記体デザインに、ビジター用はブロック体に変更。またビジター用では、左投げの選手には右袖に、右投げの選手には左袖にカープのロゴ(炎のボールマーク)が入る。
- 2005年からホーム用のみ、スポンサー・マツダの広告が入るようになった。同年からスパイクの色が赤地に白ラインとなる。
- 2006年ブラウン監督の発案により、投手および野手キャプテン選手の右袖に黄色の「C」が入る。
- 2007年開幕よりビジター用ユニフォームに70 - 80年代に使われた「HIROSHIMA」の筆記体書体を復活させた。また炎のボールマークからキャッチフレーズのALL-INのロゴに変わってそれが入る。
- 2008年9月23日より25日の3日間(対巨人戦)、1977年 - 1988年の復刻モデルユニフォームを着用。
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2009年 - 本拠地の新広島市民球場移転に伴い、ユニフォームを一新。ピンストライプが取れ、1988年まで使われた紺色が復活。ホーム用は胸には筆記体の赤いロゴに紺の縁取り、袖に赤と紺の細いライン、左袖に「Hiroshima」の赤い筆記体ロゴに紺の縁取り、色は上下ともに白。ビジター用は上着が赤地に紺の前立てライン、胸には「Hiroshima」のホーム左袖と同じ白いロゴに紺の縁取り、袖に紺の細いライン、左袖に「Carp」の白いロゴに紺の縁取り。ズボンは白。
スポンサー
歴代監督
※1 ここから広島東洋カープ<
※2 1972年は6月30日まで指揮、残り試合は森永勝也が代行<
※3 1975年は4月30日まで指揮、
5月3日までは
野崎泰一が代行<
※4 1999年から2000年の登録名は達川晃豊<
永久預かり(準永久欠番)
カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。
キーワード
経営事情
カープは当初、広島県、広島市、
呉市、
中国新聞、
日本専売公社(広島市に主力工場があった)、
広島電鉄、
東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは
大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り
1960年代まで続いた。
また、
1965年には
近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、カープの
松田恒次オーナーがそれを拒んでいる。それについては
当該項の記事を参照されたい。
1960年代後半、東洋工業は創業家の松田家と共同で運営会社を全面買収したが、これには出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは
1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダが
フォード・モーター傘下に入った
1980年代以降も変わっていない。ただし現在もマツダは株を保有し、運営会社はマツダグループに名を連ねている。このように、実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム運営に多大な貢献があったことを称え、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。
FA残留拒否
1993年に日本プロ野球でも
FA制度が導入されたが、広島は
横浜や
ダイエーと共に一貫してFA権の行使は認めても行使後の残留(FA残留)は一切認めてこなかった。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、故・松田耕平前オーナーの『球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。さらに、年俸の高騰を招くため他球団のFA選手の獲得も行っていない。
浅井樹(当時選手会長)や
金本知憲(現
阪神)などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められなかった。
そんな中、
2006年にFA権を取得したエースの
黒田博樹投手がFA宣言を示唆する発言をした(他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要である)。球団にとって彼の流出は死活問題となるので、今回ばかりはFA残留を認めざるを得ない状況になった。しかしこの年の黒田はFA権を行使せずに残留した。また翌2007年に
新井貴浩内野手がFA宣言した際も、球団はFA残留を認める方向だったが、結局阪神に移籍した。現在も広島にFA残留した選手はいない。
8人の侍
1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年
3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。
3月13日、
NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記された
バットを手に県庁、
市役所、広島電鉄、
商工会議所、中国新聞へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。
疑惑のホームラン
1953年
4月1日、尾道西高校(現・
尾道商高)の校庭で開かれた
大洋松竹ロビンス戦で、広島・
白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・
小西得郎監督が異を唱えた。この試合の会場はフェンスがなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。
当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。
福山三菱電機グラウンドや
大竹警察学校グラウンドでの開催もある。
そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、広島の選手のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。
身代わり出頭
詳細は木戸美摸投手負傷事件を参照のこと。
1956年
5月20日に広島総合球場で開催された対巨人戦で、ファンが3連敗に怒り物をグラウンドに投げ込んだが、偶然巨人投手の木戸美摸にビール瓶が直撃し負傷する事件が発生した。偶発的な事件であったが、巨人側が「犯人を出さない以上、二度と広島でゲームはしない」と強硬な態度を示した。その後カープのためとファンの男性2人が何もしていないにもかかわらず「替え玉」として出頭し、事態を収拾した。
線審負傷事件
1966年
6月5日、対阪神戦で山本一義が死球を受けたためファンが騒いだが、一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の負傷。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。
完全試合とノーヒットノーラン献上率が高いチーム
完全試合を合計3度献上しており、これは日本プロ野球最多の数字である。その一方で
外木場義郎が
1968年9月14日に完全試合を達成しているがその相手は2番目のゲームでの達成者、佐々木吉郎がいた大洋である。
ノーヒットノーランに関しても球団創設以来9度も献上しており、この献上回数もまた日本プロ野球チームで最多である。
2004年10月には
阪神の
井川慶にノーヒットノーランを許した直後の
横浜戦でも9回裏2死までノーヒットであと一人で
吉見祐治投手にまでノーヒットノーランを許してしまう事態となり、あわや日本プロ野球初となる1シーズン2度ノーヒットノーランを相手球団の先発投手に許すという不名誉な記録を作るところであったが、そこから
福地寿樹(現
東京ヤクルトスワローズ)が二塁打を放ち、ぎりぎりの所でこの記録から免れた(ちなみに、この試合での広島の安打はこの福地の二塁打1本のみであり、福地自身のシーズン初安打でもあった)。
沖縄出身初のプロ野球選手
1964年入団の
安仁屋宗八投手は当時
アメリカの占領下にあった沖縄の出身で
沖縄高校、琉球煙草を経てカープに入団、
沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する
外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。
1975年に
阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、
1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。
2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえた
サンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「
安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの『安仁屋流』を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。
「カープを優勝させる会」
1966年に
東京都に在住する
広島県人の著名人有志が「
カープを優勝させる会」という団体を発足させた。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家
佐々木久子だった。この発足に
梶山季之、
石本美由起、
新藤兼人、
藤原弘達、
木村功、
杉村春子、
森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある
灰田勝彦や
富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった
大宅壮一や梶山の飲み友達だった
田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は
巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「
西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。しかし発足させたのはいいが2年後(
1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「
カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし
1975年チームが初の
セントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・
後楽園だった。
こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに以前ほどではないが低迷。これではいけないと佐々木は
「再びカープを優勝させる会」を
1978年に発足。するとチームは
1979年に初の日本一、翌
1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。しかし、90年代後半から続いている広島のふがいない成績や戦いぶりに「もう一度この会を復活させよう」という声が上がっている。
変則ダブルヘッダー
鯉の季節
初めてAクラス入りした
1968年、カープは阪神との岡山・姫路での開幕シリーズに連勝。7連敗で一時3位に転落したものの
6月12日には首位に返り咲き、
7月6日まで守った。この年は
ピンキーとキラーズのデビュー曲「恋の季節」がヒットしたこともあり、曲のタイトルとカープ(=鯉)を引っ掛けた「鯉の季節」という言葉が新聞紙上を飾った。最近でも「鯉の季節」という言葉自体は使われるが、「鯉のぼりの時期までのカープは勢いがあるが、それを過ぎれば転落していく」という、からかい半分またはファン自らが自嘲的な意味で使うことが多い。
江夏の21球
日本シリーズMVPの自動車
カープは過去に1979、80、84年の3回、
日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手には
トヨタ自動車から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業である
マツダからの自動車が贈呈された。
広島カープが敗れた1975、86、91年のMVP選手には通常と同じくトヨタ車がプレゼントされている。
停電事故
1982年7月8日に開かれた阪神戦と2004年9月15日の巨人戦の
清原和博選手の打席後、及び2006年8月2日のヤクルト戦でナイター照明の停電事故を経験している。1982年のケースは
岡山県営球場での事故で、ナイター照明に蛇が絡まったことによるもの、他2つは本拠・広島市民球場による事故で、試合中市内での落雷発生によるもので何れも数十分間試合が中断した。2006年の場合はその後豪雨が降ったためにグラウンドコンディションが悪化し7回表途中で
コールドゲームとなった。
背番号0の男
1983年、
長嶋清幸が
背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペンキャッチャー等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。
究極の右投手攻略法
小早川・長嶋・高・大野は左打者。また正田・山崎・高橋・松林は
スイッチヒッターで右投手が相手だと左打席に入るので、達川以外の8人が左打者というスタメンになった。
試合は初回に正田・山崎が連打で無死2・3塁としたところで高橋の2点タイムリーで先制。4回表に同点に追いつかれたものの、7回裏に9人目の左打者・
西田真二の2塁打を機に決勝点をもぎ取って勝った。この後もカープはしばしばこのオーダーを使い、他球団の右投手を苦しめた。
日本球界初のアカデミー
アメリカ合衆国の
メジャーリーグでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織として
ドミニカ共和国と
ベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏季にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(
マイナーリーグ・その他の項参照)
日本ではそれまで下部組織は国内の2軍だけだったが、チームがメジャーリーグなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々のデメリットを危惧したことを受けて、上記メジャーリーグのアカデミー制度に注目。
1990年に日本球界史上初のアカデミー、
カープアカデミーをドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年に
チェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後も
ペレス、
ソリアーノ、
ペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。
クモ男
1990年
5月12日開催の対巨人7回戦(広島市民球場)6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中に
リュックサック、足に黒色の
地下足袋をはいた男が出現。一塁側ダグアウト付近からバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったといわれるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒を焚き、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた
警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は
東広島市に住む39歳の
農業経営者だった。この日、野球中継は
NHKで19時20分から始まっており、中継開始時刻を計算しての行動だった。当時監督だった山本浩二はこの一件についてマスコミからコメントを求められるや
「バカなことをするわな!!」と吐き捨てた。翌日の新聞では記事に垂れ幕の写真が掲載されたが
読売新聞は垂れ幕の写真を掲載しなかった。ちなみにクモ男は威力業務妨害罪で略式起訴され罰金20万円の刑事処分をうけた。なお、この男は
2001年頃のテレビ番組『
あの人は今!?』で取材を受けた際、「今はメジャーリーグに興味が移った」という旨の発言をしている。
放火事件
1998年
5月27日開催の対横浜戦(広島市民球場)試合終了後、広島が敗戦したことに怒り、広島のファンが右翼席のごみに放火した。火はすぐに消し止められ、けが人はなかった。
2001年の順位
1998年から
2008年まで11年連続Bクラスだが、
2001年は勝率では3位ながら、順位では4位となった。これは
セ・リーグの順位決定方式が従来の「勝率優先」から「勝利数優先」となった為で、広島はシーズンを勝率3位の68勝65敗7分(.511)で終えたが、
横浜の69勝67敗4分(.507)に勝利数で下回り、4位になってしまった。シーズン中は試合消化の早いチームが上位になりやすく、また引き分けの価値が負けに等しくなるなど不評で、翌年からの従来通り「勝率優先」に戻された。
水道管破裂事件
2007年
4月12日開催の対巨人戦(広島市民球場)2回表の巨人の攻撃中、突然3塁ベンチの水道管が破裂し、10分間試合が中断した。巨人の
門倉健投手が最も近くにいたが、少し濡れた程度だったらしい。
スパイダーマン事件
2005年
7月9日開催の対巨人11回戦(広島市民球場)試合終了後、広島が勝利したことに嬉しさのあまりか、広島ファンのスパイダーマンがグラウンド内に乱入したが、すぐにグラウンド外につまみ出された。試合は、広島が9-8で巨人にサヨナラ勝ちした。
社会人野球大会出場
カープ2軍チームは2002年から
社会人野球の公認大会である
JABA広島大会(毎年5月)にエントリーするようになった。これまで社会人野球の試合にプロチームが出場することは規制の問題から実現できなかったが、近年のプロ・アマ交流が盛んになったこと、特に社会人チームとプロ2軍の練習(交流)試合も盛んに行われるようになったことから、日本野球連盟・中国地区連盟は広島大会に限定してカープ2軍チームの出場を許可し、社会人野球公式戦の舞台で社会人チームとの対戦が実現した。
- 戦績一覧
- 2002年 1回戦敗退(2-3 三菱三原硬式野球クラブ)
- 2003年 優勝(決勝戦:4-0 三菱重工広島)これは全国の社会人野球の大会でプロチームの初めての優勝だった
- 2004年 優勝(決勝戦:4-3 三菱自動車水島=現・倉敷オーシャンズ)
- 2005年 準決勝敗退(準決勝:4-6 デュプロ)
- 2006年 予選リーグ敗退(7-0 常石鉄工、1-4 JFE西日本 予選Bグループ2位に終わり、決勝トーナメントに進めず)
- 2007年 予選リーグ敗退(8-1 ツネイシホールディングス野球クラブ、2-3 伯和ビクトリーズ 予選Aグループ2位に終わり、決勝トーナメントに進めず)
- 2008年 優勝(決勝戦:8-1 三菱重工広島)
ベースボールドッグ
ファンサービスの一環として
2005年3月12日に広島市民球場で行われた
ソフトバンクとの
オープン戦で、
審判にボールを渡す役目である
ボールボーイならぬ
ボールドッグを雄の
ゴールデン・レトリバーの
ミッキーが務めた。日本球界初の試み。3回裏と5回裏終了後に登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく
捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある
4月10日の
ヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、
5月21日の楽天戦では背番号111のカープのユニフォーム姿で登場している。その後
カルビー社発行の
ベースボールカード(数枚限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。
9月2日の
巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。
あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったもののミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも
4月4日(
阪神戦)、
4月25日(巨人戦)、
5月16日(
西武戦)に登場した。
始球式
本拠地での開幕試合は広島市長が始球式を行うこともあり、有名人の起用があまり無く、2004年まではほとんどは抽選で選ばれた子供たちなどの一般者が投げることが多かったが、2005年から主にカープファンの有名人、番宣絡みでの有名人起用を増やしてきた。
-
1999年度には球団設立50年として過去のカープOB、当時の現役選手が連日広島市民球場で始球式を行った。
※1 実際の始球式は
秋葉忠利広島市長が行ったためVTRで登場。<
※2 前日が雨天中止のため
長持栄吉と務める。<
※3 前日が雨天中止のため
金城基泰と務める。<
※4 来日した
ゲイル・ホプキンスと務める。<
※5 前日が雨天中止のため
杉本正志と務める。<
※6
8月16日が雨天中止となったため。<
応援の先駆者
広島では、現在のスタイルにつながる数々の応援方法を生み出したことでも知られている。
- トランペット応援・選手別応援歌
- 戦前のプロ野球ではチームをグループ企業全体を上げて応援するスタイルが見られた(大阪タイガースや阪急軍のブラスバンド演奏は数々の文献に出ている)が、戦後は手拍子や野次を中心にした応援が主流だった。しかしカープ応援団が1975年、球場にトランペットを持ち込みコンバットマーチを演奏したことから応援スタイルが徐々に変化していった(トランペット応援の発祥がカープにあるというのは「プロ野球ヤジ講座」〔おかひろみ編・自由国民社〕、「巨人がプロ野球をダメにした」〔海老沢泰久著・講談社〕にも記述されている)。また1978年にはチームの中心選手である山本浩二を特別な形で応援するため、山本が打席に入る際に他の選手と異なる曲を演奏したことが選手別応援歌の始まりとされている。最初の1コーラス目は選手別応援歌を歌い、続く2コーラス目以降はトランペット演奏に合わせて選手名をコールする。
-
ジェット風船
- スクワット応援
- 応援歌に合わせて立ったり座ったりするスタイルは、1990年代に泥酔した観客が始めたものと伝えられている。この応援を1試合続けるとなるとかなりの運動量(ズームイン!!朝!の放送によると、約200キロカロリー)になるため、「カープファンはスクワット応援のための自主トレを行っている」「巨人の選手よりカープファンの方が体力がある」などとジョークのネタにされることもある。
1975年の初優勝時、カープファンはスタンドで
しゃもじを打ち鳴らして応援していた。しゃもじは
広島湾に浮かぶ
宮島の名産品として知られ、「勝ちを召し取る(=飯取る)」、また打ち鳴らした時の「カチカチ(=勝ち勝ち)」という音からゲン担ぎとして使用されていた。現在でも
高校野球において広島県代表が試合をする際に、しゃもじが応援アイテムとして使われることがある。この様子を見ていたスポーツ用品メーカーの社員がプロ野球チームのペットマークが描かれたシールをチームカラーの
メガホンに貼って球場で売ったところ、飛ぶように売れたという。
応援歌
- 『勝て勝てカープ』(歌・塩見大治郎)
- 『それ行けカープ 〜若き鯉たち〜』(歌・塩見大治郎)
- 『燃える赤ヘルぼくらのカープ』(歌・事崎正司=現・加納ひろし)
- 『痛快!赤ヘル音頭』(歌・柏村武昭)
- 『ゴーゴーカープ』(歌・富永一朗)
- 『Red~僕らの広島カープ~』(歌・石田匠)
- 『わしを市民球場に連れてって。』(歌・堂珍嘉邦)
主なキャンプ地
キャッチフレーズ
- 1973年 スピードとスリルある野球
- 1974年 HOTTER BASEBALL!
- 1975年 100%の努力(ルーツ)/ハッスルプレーでスリルあるエキサイトしたゲームを(古葉)
- 1976年 CHALLENGE '76CARP BASEBALL V2 DO ONE'S BEST
- 1977年 LET'S GO TO CHAMPIONSHIP
- 1978年 ALL MEN DASH!
- 1979年 LET'S SPARK!
- 1980年 3S BASEBALL (SUSPENCE SPEED START)
- 1981年 3A BASEBALL (ACTIVE ACTION APPEAL)
- 1982年 BIG JUMP HOT BASEBALL
- 1983年 START FROM ZERO
- 1984年 BLAZING BASEBALL
- 1985年 CHALLENGE TO FRESH BASEBALL
- 1986年 CONSISTENT CONCENTRATION (一貫した集中力)
- 1987年 3C (COMMUNICATION COMBINATION CONCENTRATION)
- 1988年 RETURN TO FUNDAMENTALS (基本に帰れ)
- 1989年 WINNING SMILE
- 1990年 STRIKING AVNEW (新たなる爆発)
- 1991年 WILL TO VICTORY
- 1992年 VALUE OF VICTORY
- 1993年 RED CHARGE
- 1994年 TOTAL BASEBALL
- 1995年 TOTAL BASEBALL II FORWARD EVER
- 1996年 TOTAL BASEBALL III OVER THE TOP
- 1997年 TOTAL BASEBALL R S REALIZAR SUENO (夢の実現)
- 1998年 TENGA CONFIANZA (己を信じて)
- 1999年 YES, WE CAN
- 2000年 START FROM ZERO ZERO
- 2001年 レッドアタック「攻めろ!!」
- 2002年 レッドパワー「燃えろ!!」
- 2003年 ライジングハート「たかぶるハートで」
- 2004年 REBORN TO WIN
- 2005年 WILL TO VICTORY
- 2006年・2007年 ALL-IN
- 2008年 ALL-IN激
- 2009年 ALL-IN烈
カープ応援番組
脚注
関連項目
外部リンク
*ひろしまとうようかふ