経歴
医学を拒否して文学へ
巌谷家は
近江水口藩の藩医の家柄で、父の
一六(いちろく)は明治政府の高級官僚でのち
貴族院議員、
書家として著名であった。少年期より文学に興味をもち、裕福な家庭に育った。
獨逸学協会学校(現:
獨協中学・高等学校)へ入学するも、医者への道を歩ませられることを嫌い、周囲の反対の中で文学を志して進学を放棄し、
1887年(明治20年)文学結社の
硯友社に入る。
尾崎紅葉らと交わって、機関誌「
我楽多文庫(がらくたぶんこ)」に「五月鯉(さつきごい)」などの小説を発表したが、少年少女のセンチメンタルな恋愛を描く作品が多かった。
児童文学者へ転進
1891年(明治24年)、博文館の「少年文学叢書」第1編として出版した児童文学の処女作『こがね丸』が圧倒的好評を得て、近代日本児童文学史をひらく画期的作品となり、以後博文館と組んで児童文学に専心し、種々の児童向けの雑誌や叢書を刊行した。転進前の小説の多くは清純な魅力とともに感傷的な一面もあり、小説としては未熟ともいえた。その点でこの転進は文学的にも大きな成功であった。
お伽噺を開拓
作品の多くは彼自身が編集する博文館発行の雑誌「少年世界」(
1895年創刊)に掲載された。以後同社の「幼年世界」、「少女世界」、「幼年画報」などの主筆となって作品を執筆、さらに「日本昔話」(
1894年~
1896年)、「日本お伽噺」(
1896年~
1898年)、「世界お伽噺」(
1899年~
1908年)など、大部のシリーズを刊行した。今日有名な『
桃太郎』や『
花咲爺』などの
民話や英雄譚の多くは彼の手によって再生され、幼い読者の手に届いたもので、児童文学の開拓者というにふさわしい業績といえる。
口演童話、児童劇を開拓
内外の昔話や名作をお伽噺として平易に書き改める仕事のほか、童話の口演や戯曲化も試み、全国を行脚してその普及に努めた。後進の指導にも熱心で、創作家のみならず、童話口演の分野でも新人を育てており、近代児童文学の生みの親である。自伝『我が五十年』(
1920年)、息子で
文芸評論家の
巌谷大四による『波の跫音(あしおと)―巌谷小波伝』(
1974年)がある。
親族
関連項目
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武内桂舟 「こがね丸」、「少年世界」掲載の作品の挿絵画家
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久留島武彦 小波に認められて作家となり、後に口演童話の普及に協力した。
- 岸辺福雄 小波に賛同して口演童話の理論を確立して、今日の読み聞かせ教育に至る基礎を築いた。
外部リンク
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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