概説
年譜
- 1937年 - 出生
- 1963年 - 衆議院議員選挙初当選
- 1979年 - 大平内閣に総理府総務長官・沖縄開発庁長官として初入閣
- 1986年 - 衆院予算委員長に就任
- 1987年 - 竹下内閣で官房長官に就任
- 1991年 - 自民党幹事長に就任
- 1994年 - 自民党副総裁に就任
- 1997年 - 橋本内閣で外務大臣に就任
- 1998年 - 自民党第18代総裁に就任し、第84代内閣総理大臣に就任
- 2000年 - 脳梗塞のため永眠
来歴(出生 - 自民党議員)
出生-早稲田大学時代
学習院に編入したものの周りは名家の子息ばかりだった事から地方出身の小渕にとっては決して居心地の良い環境ではなかったらしく、クラスメートからはからかいの対象となり、「群馬」という渾名を付けられていたという。
父・光平が
衆議院議員在職中に
脳梗塞で亡くなると、政治家になるためのスキル獲得のため、サークル活動に積極的に取り組んだ。
雄弁会、富木流合気道(日本合気道協会)の
合気道部(小渕は合気道四段)、
詩吟サークルの稲吟会、
書道会、観光学会(
堤義明主宰)、アジア友の会、沖縄東京学生文化協会など、数多くのサークルに所属した。加えて、選挙対策として吾妻青年政治研究会会長・群馬早稲田会会長等を歴任した。
政治家へ
しかし、同一選挙区には
福田赳夫、
中曽根康弘、社会党書記長に登りつめた
山口鶴男などがおり、小渕は、自らを「
ビルの谷間のラーメン屋」「米ソ両大国の谷間に咲く
ユリの
花」と喩えていたが、その後も議席を維持した(連続12回当選)。
自民党内では佐藤派→田中派→竹下派→小渕派と一貫して保守本流を歩き、
渡部恒三・
小沢一郎・
橋本龍太郎らとともにいわゆる「
竹下派七奉行」に列せられた。また、
竹下登に一貫して師事し、竹下直系として力を握った。
1970年(昭和45年)1月20日に郵政政務次官(第3次
佐藤栄作内閣)に就任。就任時、「郵政省で政務次官をやるからには現場の職務を深く理解したい」と考え、郵政外務職員に混じって自ら郵便配達を行い、当時の郵政省職員、
郵便局局員を驚かせ、また、支持を得ていった。こうしたパフォーマンスは現在では珍しくないが、当時としては異例で大いに話題をよんだ。
1972年(昭和47年)、自民党総裁選で
田中角栄と福田赳夫が対決した際、同郷の福田ではなく同じ派閥の田中に投票した。そのため、福田首相を熱望していた群馬県民の怒りを買い、その年の暮れに行われた第33回総選挙で苦戦を強いられたが全国最低得票で辛くも当選した。
1972年7月12日に建設政務次官(第1次
田中角栄内閣)に就任し、
1973年(昭和48年)11月25日には総理府総務副長官(第2次田中改造内閣)に就任した。このように、小渕は3回も政務次官に就任しているが、政務次官就任は通常2回が限度とされており、非常に異例であるといえる。
この間、木曜クラブ常任委員会議長として竹下総裁実現に奔走。
1987年(昭和62年)11月6日に発足した
竹下登内閣で
内閣官房長官に就任し、内閣総理大臣臨時代理を務めた。また、官房副長官を務めた
小沢一郎とのコンビは、竹下によって「小・小コンビ」(スモールコンビ)と呼ばれた。
「平成おじさん」から首相へ
官房長官時代に
昭和天皇が
崩御。
元号変更にあたり、記者会見で「
新しい元号は「平成」であります」と平成を公表した。新元号の発表は、国民的な注目を集めていたこともあり、小渕は「
平成おじさん」として広く知られるようになった。小渕が「平成」と書かれた額を掲げるシーンは、いまだに時代を象徴する映像として多く利用されている(
平成の項も参照)。
昭和天皇崩御にともない官房長官として
大喪の礼などの重要課題を取り仕切った。
しかし、官房長官に就任してすぐの閣僚名簿の発表時に
堀内俊夫環境庁長官の名前を呼び忘れるなど、発言の訂正が多く「訂正長官」と揶揄されることもあった。
1991年(平成3年)4月、当時自民党幹事長だった
小沢一郎が
東京都知事選挙に際し、
NHK論説主幹だった
磯村尚徳を強引に担ぎ出したものの、自民党都連は小沢に反発し現職の
鈴木俊一を推すという分裂選挙を引き起こし、結局鈴木が完勝。小沢が引責辞任したため
自由民主党幹事長に就任。このとき、金丸は小渕幹事長就任の経緯について「ファースト・インプレッションだ」と語った。
1992年(平成4年)10月、竹下派(
経世会)会長の
金丸信が
東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれると、金丸の後継をめぐって
小沢一郎と反小沢派の対立が激化。小沢派が推す
羽田孜と、反小沢派が推す小渕との間で後継会長の座が争われた。
激しい権力闘争の末、最後は竹下の後ろ盾を得ていた小渕が、半ば強引に後継の
派閥領袖と決まった。しかし小沢、羽田らは反発して
改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし経世会(小渕派)は分裂。
1993年(平成5年)、羽田らは自民党を離党して
新生党を結成した。
その後、
1994年(平成6年)に
自民党副総裁に就任したものの、党務に従事したため、重要閣僚のポストには無縁で埋もれかけた。
1995年(平成7年)、自由民主党群馬県支部連合会の会長選挙に際し、衆院選での小選挙区の候補者選考をめぐって小渕に不満を持っていた中曽根康弘が小渕の県連会長続投に異議を唱え、それに同調した
福田康夫らにより小渕は自民党群馬県連会長の座を退任に追い込まれた(後任は
尾身幸次元経済企画庁長官)。群馬県では「小渕の政治生命もこれで終わり」という声がもっぱらであった。
1996年(平成8年)
1月、
村山富市首相の辞任に伴い、小渕派の
橋本龍太郎が内閣総理大臣に就任。小渕派会長の小渕は政権への意欲を示したものの、
野中広務らの説得により、現実的判断をとって橋本支援に転換。橋本の対抗馬であった
河野洋平とソリの合わなかった
加藤紘一に党幹事長のポストを渡すなどの工作を行った。
また、同年10月の
第2次橋本内閣の発足に当たって、小渕の
衆議院議長就任の話がもちあがる。小渕自身、一時は意欲を示したが、弱冠59歳でいわゆる「上がりポスト」である議長に就けば、将来の首相の芽がなくなると地元の支持者たちが猛反対し、側近の
額賀福志郎や
青木幹雄、
綿貫民輔らや秘書の
古川俊隆らも反対であったため、就任を固辞した。小渕の名前が消えた後、議長には竹下に近い
伊藤宗一郎が就任した。
突然の発病と死
首相在任中の2000年(平成12年)4月2日に
脳梗塞を発症した。実はこの前日、連立与党を組んでいた自由党との連立が決裂しており、4月2日午後、政権運営がより困難になったと思われるこの緊急事態について記者から質問されると小渕はしばし答弁できず無言状態となっていた。言葉を出すのに10秒前後の不自然な間が生じていた。これは一過性の脳梗塞の症状と考えられており、梗塞から回復したときに言葉を出すことができたとされる。
元々小渕には心臓病の持病があり、それに加えて首相の激務が脳梗塞を引き起こしたと考えられている。執務終了後、公邸に戻ってもおびただしい書類、書籍、新聞の切り抜きに目を通し、徹夜でビデオの録画を見るのが普通で、一般国民にまでかける数々のブッチホンも激務に拍車をかけた。
小渕は意識の判然としないまま、当日夜、
順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院したとされる。そして、執務不能のため内閣官房長官の
青木幹雄を
首相臨時代理に指名したとされる。しかし、青木の首相臨時代理就任に関しては脳梗塞で既に意識を完全に失っていたかもしれない小渕本人に果たして指名を行うことが出来たか否かが野党・
マスメディアに「疑惑」として追及された。
「疑惑」の張本人であり小渕首相の臨時代理でもある青木自身が「
脳死ではないのか?」との記者からの異議申し立てを却下したため、また、担当医師たちが曖昧な説明ないし指名は不可能だったと思わせる説明しかしなかったため疑惑は残り、後任の
森喜朗総裁誕生の舞台裏と併せて「
五人組による密室談合政治」と批判される原因となった。
昏睡状態は続き、倒れてから約1か月半を経た同年5月14日午後4時7分に死去。62歳だった。なお奇しくも父と同じ病気で倒れ同じ病院で亡くなっている。また内閣総理大臣の在職中の病気退任は1980年(昭和55年)6月に急逝した
大平正芳以来のことであった。
5月15日、その前日(死亡当日)の日付で
大勲位菊花大綬章が贈られた。5月30日、衆議院本会議で村山元首相が
追悼演説を行った。衆院での首相経験者への追悼演説は
野党第一党党首が行うのが通例であり、本来なら
民主党代表の
鳩山由紀夫の予定であった。しかし、遺族側がこれを拒否し、例外的に首相経験者で野党
社会民主党衆院議員(前党首)の村山による追悼演説となった。
これは当時、鳩山は小渕のドコモ株疑惑を強烈に追及していたためである。野中広務は後日、国会で、小渕への哀悼の意を表明した鳩山を「前首相の死の一因があなたにあったことを考えると、あまりにもしらじらしい発言」と痛烈に批判した。遺族は鳩山に強烈な悪感情を抱いていたという。ただし鳩山は野党党首としての責務を果たしていただけであり、怨恨によるものでなかった。
6月8日、
日本武道館において内閣・自民党合同葬が執り行われ、それに合わせた弔問外交も行われた。
2か月後の
衆議院選挙には次女の
小渕優子が後継として群馬5区から出馬した。この選挙は小渕前首相の弔い合戦であるかのような様相を呈し、小渕優子は次点の
山口鶴男(元
日本社会党書記長・元
総務庁長官)に13万票以上の大差をつけて当選した(以後、小渕優子は3期連続当選)。
2006年5月、七回忌を前に「小渕元首相を偲ぶ会」が開催され、
森喜朗・橋本龍太郎・青木幹雄・
小寺弘之らが参加した。
小渕内閣の実績
クリントンを招いた晩餐会で(1998年11月19日、東京)]]
に併せて行われた日米首脳会談後の記者会見(1999年6月18日)]]
に参加したG8首脳らとともに(左から2人目)(1999年6月19日)]]
1998年の参議院選挙で自民党が追加公認を含め45議席と大敗すると橋本内閣は総辞職に追い込まれ、小渕が自民党総裁選に出馬した。当初、橋本からの政権禅譲が期待されたが、
梶山静六と
小泉純一郎が総裁選に出馬し激しい選挙戦を展開。三候補について
田中眞紀子からは「梶山は士官学校卒業だから『
軍人』、小泉は変な人だから『変人』、そして小渕は『
凡人』などと評された。
ニューヨーク・タイムズには「冷めたピザ」ほどの魅力しかないと形容された(後に、記者団にピザを配った事がある)。
亀井静香らが同派閥出身の小泉ではなく梶山に票を流すなどの工作もあり(後に亀井らは
清和会を離脱)、梶山と小泉を破り党総裁に就任した。
7月30日、国会で首班指名を受け第84代内閣総理大臣に就任。しかし、与野党が逆転している
参議院では民主党代表の
菅直人が首班指名され、
日本国憲法第67条の衆議院の優越規定により辛くも小渕が指名されるなど、当初の政権基盤は不安定だった。加えて、マスコミからの小渕批判も強く、新聞誌上に「無視された国民の声」などという見出しが並び、就任早々から「一刻も早く退陣を」と書きたてた新聞もあった。
総理大臣当時、目指すべき国家像として「富国有徳」を打ち出す。この概念は
石川嘉延により引き継がれ、2005年現在、
静岡県のスローガンの一つとなっている。
同年10月、
金融国会において金融再生法案は野党・民主党案丸飲みを余儀なくされ、10月16日には参議院で
防衛庁調達実施本部背任事件をめぐって、
額賀福志郎防衛庁長官問責決議が可決され、額賀は辞任に追い込まれた。この時から、当時の
参議院議長の
斎藤十朗と政治手法をめぐって火花を散らしていた。
しかし、その一方で、政権基盤の安定を模索し、野党の
公明党、
自由党に接近。11月に公明党が強引に主張した
地域振興券導入を受け入れ、自由党党首・小沢一郎とは連立政権の協議開始で合意した。
1999年(平成11年)1月、自由党との連立政権発足。この事で政権基盤が安定し、
周辺事態法(日米ガイドライン)、
憲法調査会設置、
国旗・国歌法、
通信傍受法、
住民票コード付加法(国民総背番号制)などの重要法案を次々に成立させた。この様な政治手腕に対して中曽根康弘元総理は文藝春秋誌において「真空総理」と評した。
同年9月、自民党総裁選でYKKの一角・
加藤紘一元防衛庁長官と
山崎拓元防衛庁長官を破り総裁に再任。10月に
公明党が正式に与党参加。続く
内閣改造・
党三役人事では、幹事長・森喜朗を留任させ、総務会長には加藤派が推挙した
小里貞利を拒否、政調会長・
池田行彦を総務会長に起用し、
河野洋平を外相に起用した。また山崎派が推挙した
保岡興治の入閣も拒否し、
深谷隆司を通産相に起用した。これは総裁選後の報復人事と囁かれた。
2000年2月、自由党の要求を受け衆院の
比例代表区定数を20削減する定数削減法を強行採決で成立させた。3月には、
教育改革国民会議の開催を始めた。
同年4月1日、自由党との交渉が決裂し、連立離脱を通告されるが、翌日に脳梗塞で緊急入院。4月4日に正式に内閣総辞職した。在職616日。いわゆる
五人組によって後継に
森喜朗が選出され、森内閣に引き継がれた。
小渕
内閣の特徴として、全体の方針を策定するだけで、各省庁の個別の案件は国務大臣自らの裁量に任せるというのが小渕内閣であった。
また、「日本一の借金王」と自嘲したように、無駄な
公共事業を推し進めた張本人として批判される(
栗本慎一郎は
橋本龍太郎の構造改革を全て無にしたと酷評している)。合計約42兆円の経済対策の内訳は、公共事業が約4割を占めているが、
減税や金融対策などにも充てられた。在任中は、
日本銀行の
ゼロ金利政策やアメリカの好景気もあって、経済は比較的好調で、
ITバブルが発生した。また
公明党の発案で地域経済の活成化と称し
地域振興券を国民に配布したがこの政策は「ばら撒きの極致」と酷評された。
また、労働者派遣法を改正した結果、特殊分野だけだった派遣業種は大幅に拡大した。一方で所得税の最高税率を引き下げ、法人税の基本税率を引き下げた。これらの政策は非正社員増加の一因となった。
周辺事態法、
通信傍受法、
国旗・国歌法など、戦後、処理すべきだった課題を一気に片付け、外交手腕も長けていたことなどから、近年、再評価もされている。また日本でのサミット開催地を沖縄にしたことも小渕の決断能力の高さを表すものとして語られることがある。
政策
外交防衛
行政改革
情報通信
郵政省が所管する
アマチュア無線に造詣が深く、熱心なアマチュア無線家でもあり、議員で構成する「国会アマチュア無線クラブ」の会長も務めていた。1986年8月13日の日本初
アマチュア衛星JAS-1の打ち上げに大きく貢献。また、アマチュア衛星JAS-1b・アマチュア衛星JAS-2の打ち上げにも貢献した。
人物
歴代で初めて
修士号をもった首相であった。また身長は171cmあり、同年代の男性の中では比較的高身長だった。血液型はA型。
トヨタ自動車相談役の奥田碩からは「一見おっとりされているが、人の話をよく聴く方」と評されていた。
趣味嗜好
スポーツ
交友
-
河口湖に別荘を建築した竹下に誘われ、小渕も竹下の横に別荘を建築。しかし、途中で建設会社が倒産し、別荘としては機能しなかった。
-
渡部恒三と親しく、福島県西郷村の渡部所有の土地の隣に6000平方メートルの土地を所有していた。
ブッチホン
村山富市元首相による追悼演説(抜粋)
サミットを無難にこなすためなら、開催地は東京でも大阪、京都でもよかった。むしろ、東京から遠く離れ、今なお生活・産業基盤の整備がおくれている沖縄は避けるべきだという意見も当然あったはずです。ところが、君は毅然として、サミットの開催地を酷暑の沖縄に決断したのであります。
思えば、この沖縄サミットに、君の政治家としての誠実さが象徴的にあらわれています。君は、学生時代から何度も沖縄に足を運び、本土防衛のために二十三万人が犠牲となり、戦後は、アメリカの施政権のもとに、本土から切り離され、苦しい中で本土復帰を訴えた姿を目の当たりにして、沖縄への思いを心に刻みつけたと聞いています。
革新が、日米安保反対、沖縄の本土復帰を訴えて大規模なデモを組織した一九六〇年前後、君は保守の側で沖縄文化協会をつくり、沖縄問題への取り組みを始めていたのであります。
サミット開催に当たって無難を大事にするなら、若いころからの思いに目をつぶることでした。だが、やすきにつくため信念をあいまいにし沖縄の人々の痛みを無視することは、君には到底できない相談でした。だから、困難を承知で、あえて沖縄サミットに踏み切ったのです。その熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります。
七月二十一日から二十三日にかけて沖縄を訪れる先進国の首脳たちは、亜熱帯の美しい海、高い空、濃い緑、それに豊かな文化と人々の優しい人情に目をみはることでしょう。多くのマスコミが沖縄を全世界に報道することで、工業国の印象が強い日本が実は多様な歴史と文化を持った国であることを、改めて認識し直すに違いありません。そして、あの美しい沖縄で苛烈な戦いがあった歴史に思いをはせるとき、世界の平和に重要な責任を有している先進国の首脳たちは、平和のたっとさを改めて心に刻むはずです。
君は、早稲田大学雄弁会に属していたが、決して多弁ではなかった。でも、朴訥な語りは、人々の心にしみ込む独特な説得力があった。もしも君が沖縄サミットを主催していたら、ホスト国の首相にもかかわらず、かなり控え目に沖縄を語ったことでありましょう。だが、君ならそれで十分だった。君の含羞を帯びた語りは、何物にも増して説得力を持ち、君は存在そのものが雄弁だった。そんな君の姿を見ながら、多くの国民は沖縄の痛みを改めて自分の痛みと感じたに違いない。
今となってはかなわぬ夢となってしまいましたが、沖縄に集まる首脳たちの輪の真ん中に、どうしても君にいてほしかった。この沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった。それが、悔やんでも悔やみ切れない思いとなって、私の心に大きなひっかかりとなっているのです。
主な役職
内閣
- 内閣総理大臣
- 外務大臣
- 官房長官
- 総理府総務長官
- 沖縄開発庁長官
- 総理府総務副長官
- 郵政政務次官
- 建設政務次官
自由民主党での主な役職
- 自由民主党総裁 (1998-2000)
- 自由民主党副総裁 (1994)
- 自由民主党幹事長 (1991)
- 自由民主党副幹事長
- 自由民主党国会対策副委員長
- 自由民主党総務
- 自由民主党顧問
- 自由民主党青年部長
- 自由民主党学生部幹事
- 自由民主党政調対外経済協力特別委員会副委員長
- 自由民主党こんにゃく対策議員懇談会代表世話人
- 自由民主党電気通信問題調査会長
- 自由民主党都市公園緑地対策特別委員長
- 自由民主党医療基本問題調査委員長
- 自由民主党群馬県支部連合会会長
- 自由民主党衆議院群馬県第5区支部長
- 自由民主党新聞販売懇話会会長
- 自由民主党訪ソ団長(1990年)
派閥内
- 木曜クラブ常任委員会議長
- 経世会事務総長
- 経世会会長
- 平成研究会会長
国会での主な役職
- 衆議院大蔵委員長
- 衆議院予算委員長
- 衆議院安全保障特別委員長
- 衆議院議院運営委員会理事
- 衆議院沖縄問題等に関する特別委員会理事
- 衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会理事
- 衆議院逓信委員会理事
- 憲政記念館運営委員
- 衆議院懲罰委員会委員
- 衆議院議院運営委員会図書館運営小委員会小委員
- 衆議院農林水産委員会委員
- 衆議院外務委員会委員
- 衆議院商工委員会委員
- 衆議院地方行政委員会委員
議員連盟
-
みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会会長
- 郵政事業懇話会会長
- 自動車整備議員連盟会長
- 消防議員連盟会長
- 映画議員連盟会長
- 釣魚議員連盟会長
- 浄化槽対策議員連盟会長
- 情報産業振興議員連盟会長
- 大規模リゾート建設促進議員連盟会長
- 大学設立推進議員連盟世話人
- 日独議員連盟理事長
- 日本・スリランカ友好議員連盟会長
- 日本・ベトナム議員連盟会長
- 日本・モルディヴ友好議員連盟会長
- 日本ブラジル国会議員連盟副会長
- 日本アルゼンチン友好議員連盟会長
- 日本・モザンビーク共和国議員連盟名誉顧問
- 日本会議国会議員懇談会発起人
- 国会アマチュア無線クラブ会長
- 国会フィラテリスト議員クラブ会長
- 国際連合貢献議員研究会会長
首相在任時
- 国土開発幹線自動車道建設審議会会長
- 阪神・淡路復興対策本部長
- 中央省庁等改革推進本部長
- 男女共同参画推進本部長
- 産業構造転換・雇用対策本部長
- 高度情報通信社会推進本部長
- 地球温暖化対策推進本部長
- 障害者施策推進本部長
- 放射能漏れ事故対策本部長
- 食料・農業・農村政策推進本部長
その他の役職
- 日本・ベトナム文化交流協会会長(理事長は杉良太郎)
- 日本釣振興会会長
- グアテマラ大統領就任式特派大使
- 日本国際交流センターロシア・中央アジア対話ミッション団長(1997年)
- パレスチナ選挙監視団団長(1996年)
- 群馬県アマチュアボクシング連盟会長
- 「アジアの未来」講師
賞罰
おもな受賞歴
- クルゼイロ・ド・スル国家勲章(2003年)
- 第18回ベスト・ファーザー イエローリボン賞(1999年)
- 第19回新語・流行語大賞大賞(1999年)
-
群馬県名誉県民(2000年)
栄典
家系
家族・親族
系譜
信平━━光平━━┳光平
┗恵三 ┏剛
┣━━┣暁子
千鶴子┗優子
主な著作・論文
- 「政治と文学」(早稲田大学卒業論文、1962年)
- 「三十九人目の大蔵委員長」(1977年)
- 「石油と砂漠と人間と 小渕恵三対談集」(上毛新聞社)
- 「鈍牛 角を砥ぐ」『諸君』(1998年)
脚注
関連項目
関連人物
関連文献
- 「石油と砂漠と人間とー文化と経済から中東を語る」(小渕恵三対談集)上毛新聞社
- 「小渕恵三の615日。―第84代内閣総理大臣の全公務記録」光進社
- 「小渕恵三 全人像」後藤謙次
- 「自民党の若き獅子たち」大下英治
- 「永田町の”都の西北”」大下英治
- 「凡宰伝」佐野眞一
- 「父のぬくもり」小渕暁子
- 「父が読めなかった手紙」小渕暁子
- 「三人の総理と一人の親友について語ろう」竹村健一
- 「奔流の中の国家」櫻田淳
- 「健児の塔」松本国雄
- 「激録!総理への道―戦後宰相列伝 田中角栄から森喜朗まで」大下栄治
- 「野中広務 差別と権力」魚住昭
- 「政治とは何か 竹下登回顧録」竹下登
- 「永田町大乱」鈴木棟一
- 「クライマーズ・ハイ」横山秀夫
外部リンク