来歴・人物
1965年は69試合に登板し20勝(うちリリーフで19勝)、投球回数164回1/3。セーブ制度を当てはめて集計すると22セーブ(41
SP)をあげた計算になり、かつ1試合の平均投球回数は2.38回と現在の
抑え投手とは比較にならない活躍をみせた。400勝を目指す現役晩年の
金田正一の後を受けてロングリリーフすることも多く、登板イニング数が伸びた一因と思われる。
後楽園球場の場内アナウンスを担当していた務台鶴が、宮田が登板する時間帯が午後8時30分前後であることに気づき、「宮田さんは、よく8時半頃に登板するのね」と発言したことがきっかけになり、「
8時半の男」と呼ばれた。
心臓疾患のために1球ごとの間合いを長く取って投げるのが特徴であった。このことは打者のタイミングを外すのに効果的であったが、他球団などからは宮田の投球は
公認野球規則の8.04に該当していると批判が上がった。
1966年以後は1965年の無理がたたり
肩・
肘を相次いで故障。肝機能障害も患い
1969年限りで
引退。引退後はコーチとして卓越した投球理論や育成法が評価され、巨人以外でも
日本ハム、
西武、
中日などの球団でも長く投手コーチを務める。
西武コーチ時代には当時若手であった
工藤公康を指導し、球速を10キロアップさせエースへと成長させた。巨人では入団したてでプロの壁にぶち当たっていた
桑田真澄を立ち直らせたほか、宮田の教え子として巨人・
上原浩治、中日・
川上憲伸の両球団のエースがルーキー時代に指導を受けた。中日では、投球に安定感が無かった
野口茂樹を指導。その後野口は2桁勝利を重ね、中日のエースに成長した.
また、ユニフォームを着ての指導ではないが、広島の長谷川昌幸も低迷時に球団の了承をとり宮田の指導を仰ぎ、翌年二桁勝利を挙げたほどの指導力は流石と言える。
解説者としても、長いコーチ経験から理論が完成されており、初心者からオールド
ファンまで解り易い解説を行っていた。よく
球場へ出向き、自分の教え子達にアドバイスを行う姿も見受けられた。引退後、郷里の群馬県の赤城山麓に練習所を構え、少年野球の指導を行うなど、野球の発展にも力を尽くした。
2006年
7月13日
午後2時11分、
肝不全のため前橋市内の病院で
死去。。「8時半の男」は、宮田本人も大変気に入っていたネーミングであり、求められるサインには必ず「8時半の男」と記していたという。コーチ時代はどの球団でも背番号「
85」をつけていたがこれは宮田の希望で「8」時+半分、つまり5割の「5」=「8時半」の意味を含んでいた。
経歴
群馬県立前橋高等学校 -
日本大学 - 巨人(1962年 - 1969年) - 巨人コーチ(1975年 - 1976年) - 日本ハムコーチ(1977年 - 1982年) - 西武コーチ(1985年 - 1986年) - 巨人コーチ(1987年 - 1996年) - 中日コーチ(1998年) - 巨人コーチ(1999年 - 2001年)
年度別投手成績
出演番組
注釈
関連項目
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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