奴隷貿易(どれいぼうえき)は国際間の奴隷取引を指す。
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大西洋奴隷貿易
概要
大航海時代に、主に
ヨーロッパと
アフリカと
アメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、
プランテーション経営に必要な
労働力となった(→
三角貿易)。供給源となった
アフリカが
西欧諸国を中心とした世界
経済システムの外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能したが、地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後
人道的あるいは
産業的見地からの反対を受け、
1807年にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。
歴史
ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易は、1441年にポルトガル人アンタム・ゴンサルベスが、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女(←いわゆる「黒人」ではなくアラブ人であった)をポルトガル皇太子に献上したことに始まる。1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全てベルベル人で黒人ではない。
大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形で
ポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を
西インド諸島に運び、
カリブ海全域で展開しつつあった
砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。
18世紀になると、
イギリスの
リヴァプールや
フランスの
ボルドーから積み出された
銃器その他をアフリカにもたらし、原住民と交換、さらにこうして得た黒人を
西インド諸島に売却し、
砂糖などをヨーロッパに持ち帰る
三角貿易が発展した。約3世紀に及ぶ奴隷貿易で
大西洋をわたったアフリカ原住民は1,500万人以上と一般にはいわれているが、学界では900万人-1100万人という、1969年のフィリップ・D・カーティンの説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった(平均13%、なお奴隷船の船員の死亡率は20-25%である)、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、と言うのが説の根拠である。ただし、カーティンの説には、一次記録が存在しない16、17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎると言う批判もある。
誤解も多いが、映画で見られるような
白人による黒人の奴隷狩りは、極初期を除いて行われていない。奴隷を集めて、
ヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)や
アラブ人商人である。「奴隷狩り」から「奴隷貿易」へのシフトは、1450年代に起こっている。1450年代に入ると、セネガル、ベニンなどのギニア湾岸、コンゴなどの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガルを中心とするヨーロッパの商人に売却するようになった。16世紀には、カリブ海地域のスペイン領向けとして、ポルトガルの独占下で奴隷を売ってもらえないイギリスの「冒険商人」による「奴隷狩り」が散発的に行われたが、その後、奴隷貿易の主導権はオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力と取引して奴隷を集めて、それを船(特許会社の船もあればフリーの投機家もいる)に渡すと言う形式になる。そして時代が下るにつれて、ワイタ、ダホメ、セネガンビアなど西アフリカ地域のアフリカ人王国は、奴隷貿易で潤うようになる。売られた人々は、もともと奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などだったが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われた。「奴隷貿易はアフリカ人が始めたことではない。しかし、アフリカ人もその一翼を担ったことを私たちは忘れてはならない」との言葉が、とある奴隷貿易関係資料を展示している博物館に掲げられているが、アフリカ人が売り込んだのが先か、ポルトガル人が買いに行ったのが先かははっきりしていない。
奴隷貿易に対しては、その開始と同時に
宗教的および人道主義の立場から批判が起こっていたが、特に18世紀後半以降、宗教的/人道主義的意見と、奴隷価格の高騰という
植民地側の事情がかみ合った。
19世紀初頭には、まず(奴隷制度では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、イギリスは
1807年、世界に先駆けて奴隷貿易禁止を打ち出し、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、
ラゴスなど
ポルトガル人の奴隷貿易港湾を制圧した。なお、奴隷貿易廃止と植民地化に伴う現地の労働力の確保と結びつける考えがあるが、これは全く根拠の無い間違いである。少なくともイギリスに関しては、奴隷貿易の中心である
西アフリカ、
東アフリカの沿岸地帯の植民地化を始めたのは
19世紀半ば以降のことである。
その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では
1833年、スウェーデン属領では
1846年、フランス領では
1848年、オランダ領では
1863年に、奴隷制が廃止された。こうした動きの中、
アメリカ合衆国では
南北戦争での連邦軍の勝利によって奴隷制は全廃された。
白人の奴隷
白人の奴隷は特に前近代においては一般的な存在であった。
古代ギリシャの
都市国家では、奴隷は「物言う道具」とされ、人格を認められず酷使された。特に
スパルタにおいては市民の数を奴隷が上回っており、過酷な兵役は彼らを押さえ込むという役割も持っていた。
古代ローマもこれに倣い、奴隷を生産活動に従事させた。ローマが積極的な対外征服に繰り出したのは奴隷を確保するためでもあった。ごくわずかであるが剣士となり
コロッセウムで戦いを演じさせられたものもいる。両文明の衰退後は、市民自らが生産活動を行うようになり、国家規模での奴隷事業はなくなったが、奴隷そのものが消えたわけではなかった。
但し、古代社会における奴隷と近代以降の(特に黒人)奴隷では明確に異なる点も多い。例えば、スパルタの奴隷は移動の自由こそなかったが、一定の租税さえ納めれば経済的に独立した生活を送ることができた。古代ギリシャの奴隷はアテネ市内を移動する自由が認められており、肉体労働だけではなく、家庭教師や貴族の秘書といった知的労働に従事することもあった。更に古代ローマでは、
カラカラ帝による
アントニヌス勅令施行以前までは
ローマ市民権を得ることによって自由人になる(
解放奴隷)道が開かれていた。
娼婦や
剣闘士のような自由契約の(特定の主人に仕えない)奴隷は、個人の努力次第で貴族並みの収入と名声を得ることもあった。
中世においては
バイキングによりスラブ人が、また
アッバース朝以降の
ムスリムによりトルコ人が多く奴隷とされた。それら奴隷とされたトルコ人は生産活動に従事するのではなく、主に
奴隷兵士として重用され国を建てるものも多かった。
『奴隷』の代名詞が黒人(いわゆるブラック・アフリカ諸民)になったのは大西洋奴隷貿易以降の時代のことであって、それまでの『奴隷』の代名詞は主にゲルマン人とスラブ人であった。奴隷を意味する英語の"Slave"はスラブ人から来ている。
日本人奴隷の貿易
古来、日本の戦場では戦利品の一部として男女を連れて行く「人取り」がしばしば行われており、日本人領主からそれを買い取った中国人商人やポルトガル人商人の手によって、東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからずいたと考えられている。
1560年代以降、
イエズス会の宣教師たちはポルトガル商人による奴隷貿易が日本における宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、
1571年に当時の王
セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。
天正10年(
1582年)に
ローマへ派遣された
天正遣欧少年使節の一行が、各地で日本人奴隷を目撃し、自国人と白人両方への憤りを報告書に記したという事実が確認できない情報がある。一方『天正遣欧使節記』(デ・サンデ著/雄松堂書店)には「売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放される」という記録がある。
天正15年(
1587年)
6月18日、九州討伐の途上で
豊臣秀吉は十一か条にわたるキリシタンへの規制を表明したが、その第十一か条に人身売買を禁ずる項目が含まれている(しかし、この表明の中ではキリシタンは「八宗九宗」すなわち体制内の宗教と認めて禁制とされていない。しかし翌
6月19日の定書では一転してキリシタンを禁止している)。6月19日、秀吉は陣中へ当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師
ガスパール・コエリョを呼び、人身売買と宣教師の関わりについて詰問している。
慶長元年(
1596年)には長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスはキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。
やがて日本が鎖国に踏み切り、外国人商人の活動を幕府の監視下で厳密に制限することによって日本人奴隷の海外売買はほぼ消滅した。
注釈
外部リンク
関連項目