来歴・人物
神港学園高校時代は捕手として
甲子園に出場した。
1992年、
ドラフト6位で阪神に入団。
山田勝彦、
木戸克彦、
関川浩一の存在で出場機会に恵まれず2軍暮らしが続き、さらに
矢野輝弘(前中日)や
吉本亮(前広島)らの入団で捕手層が充実してきたため、内野手(主に三塁手)に転向すると打撃が安定して、たびたび公式戦に出場するようになった。しかし、
野村監督が息子
カツノリを起用し始めたり、ライバルであった
濱中治(後に塩谷が所属していたオリックスに移籍)をはじめ強打の若手野手が台頭してきたりしたことにより出番が少なくなる。
このため
2002年、
斉藤秀光(現・
横浜)との交換トレードでオリックスに移籍した。
2003年、自身初の規定打席到達。打率.307の成績を残しオールスターゲーム出場も果たす。しかしその後は出場機会が減少し、
2005年オフに戦力外通告を受け、韓国の
SKワイバーンズに移籍。
入来智らに続いて3人目、特に野手としては初の「日本人選手」(韓国名での登録名でない選手)となった。2006年はシーズン序盤は活躍したものの5月初旬に左手甲に死球を受けて骨折し戦線離脱、復帰に時間がかかるために戦力にならないと6月中旬にはウェーバーにかけられたが、結局その後帰国した。
背番号
通算成績
- (日本) 496試合 1445打数381安打 打率.264 29本塁打 145打点
- (韓国) 23試合 91打数27安打 打率.297 3本塁打 19打点
- (日韓) 519試合 1536打数408安打 打率.266 32本塁打 164打点
エピソード
-
1996年、10月9日のシーズン最終戦となる中日戦の1回に金森隆浩から満塁本塁打を放つ。実は同じイニングに新庄剛志も同じく金森隆浩から満塁本塁打を放っており、1イニングに2満塁本塁打というのは当時プロ野球史上初のことであった。この本塁打は、塩谷自身にとってプロ初本塁打だった。
- 塩谷は13年間日本のプロ野球選手であったが、彼の在籍中その所属球団は1度もAクラス(3位以上)になったことがなく、1995年から2004年の10年間で、7年連続(阪神1998年~2001年、オリックス2002年~2004年)を含む9度の最下位を経験した。その間オリックス移籍時には入団会見で古巣の阪神及び阪神ファンに対して「放出して惜しかったと思わせたい」「見返したい」などと発言していた。しかし、現実はその年阪神は最下位から脱出して翌々年に優勝。一方のオリックスは2001年までは前身の阪急時代を含めても1963年の1度しか最下位を経験した事はなかったが、塩谷が入団した年に39年ぶりの最下位に陥り、翌年以降も球団史上初の3年連続最下位となった。こうした経験について、本人も「一回でも良いからAクラスに入りたい」と吐露したことがサンケイスポーツでも報じられた。
- 2006年は韓国のSKワイバーンズに在籍した。塩谷自身は6月中に負傷のため退団しているが、SKは主力選手の相次ぐ負傷や不調によりシーズン6位(8球団中)に終わっている。
- 1992年の阪神入団時に、「契約金で母の墓を建てる」と発言した。
- 阪神時代の応援歌のメロディーは、後に鳥谷敬の打席時にも2004年まで使用されていた。ちなみに2004年までは塩谷がオリックスで同じ応援歌を使用していた為、同じ年に別々の2球団で同じ応援歌が使われるという珍事が起こった。
関連項目
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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