生涯
遠洋航海・砲術学校学生・水雷学校学生を経て明治44年(
1911年)から本格的な勤務に就き、敷島・夕立・阿蘇・佐世保海兵団で経験を深める。
日華事変勃発後の昭和12年(
1937年)
12月1日に、空母部隊である第2航空戦隊司令官に任ぜられたが、半月後には艦載機からなる現地派遣部隊の第2連合航空隊司令官へ移り、最前線での指揮を始めた。更に、昭和13年(
1938年)
12月15日には、陸上攻撃機からなる第1連合航空隊司令官に任ぜられたが、当面の目標であった
南京・
漢口の攻略が完了した一方、相次ぐ爆撃で機体を消耗していたために、塚原が実際に爆撃の指揮を取ることも少なく内地で再編することになった。
昭和14年(
1939年)
10月3日、再編した第1連合航空隊を漢口で出迎えた塚原ら航空隊首脳部は、中国軍の奇襲爆撃を受けた。この爆撃によって塚原は左腕切断の重症を負い、翌年4月まで療養生活を余儀なくされた。療養中の昭和14年(1939年)
11月15日に中将へ昇進し、九死に一生を得た塚原だが、この重症では艦上での勤務は困難と判断されてしまい、以後は基地航空隊の指揮官にとどめられてしまう。塚原ほど航空に精通した指揮官が他にいなかったにも関わらず、塚原を機動部隊指揮官に任ずることができなくなり、塚原と同期ながら航空と全く縁のなかった南雲忠一に真珠湾奇襲部隊を託さざるを得なくなってしまった。
鎮海要港部司令官を勤めながら傷を癒した塚原は、昭和16年(
1941年)
9月10日に
フィリピン・
マレー攻略の上空支援部隊である
第11航空艦隊司令長官に任じられた。
台湾よりフィリピンを直接攻撃できる精鋭部隊を統率する、塚原に最適なポジションであった。開戦と同時に、塚原率いる第11航空艦隊は、フィリピン奇襲爆撃、
マレー沖海戦(実際に部隊を指揮したのは、第11航空艦隊所属でサイゴン(現在の
ホーチミン)に基地司令部を置いた第22航空戦隊の
松永貞市海軍
少将)と大戦果を重ね、攻略部隊の防衛と最前線への攻撃に活躍した。後に、第11航空艦隊は最前線基地
ラバウルに進出し、ソロモン海域を中心に活動の範囲を拡大し、「
ラバウル航空隊」の愛称で親しまれることになる。
昭和17年(
1942年)10月、最前線に立ち放しの塚原は
マラリアに罹患したため、後任を
草鹿任一中将に託し、内地に帰還することになった。現場から引退した塚原は、同年12月1日より
航空本部長となり、航空作戦の最高責任者として現場を支援する立場となった。昭和19年(
1944年)
3月1日には、参謀本部に倣って
軍令部も次長を2人に増員することになり、航空本部長と兼任したうえで塚原が増員に充てられ、長らく次長を務めた
伊藤整一中将とタッグを組んだ。しかし次長の経験は伊藤が圧倒的に長いにもかかわらず、塚原が兵学校の先輩にあたることから少々の混乱を招き、それよりも
東条政権崩壊のために参謀本部・軍令部の次長2人制度そのものが崩壊してしまい、塚原は再び航空本部長の専属に戻った。
昭和19年(1944年)
9月15日、塚原は内戦部隊の頂点にある
横須賀鎮守府司令長官に任じられた。すでに同期の出世頭だった沢本が大将に昇進し、南雲も戦死と引き換えに大将の称号を贈られたこともあり、実直な塚原も内心は大将昇進を望み始めていた。
しかし、当時の海軍次官・
井上成美中将は、井上本人も含めて戦時中の大将昇進を凍結する「大将不要論」を掲げていた。時に怒りも露わに井上を罵り、時に溜息混じりに嘆きつつ、塚原は大将への憧れを周囲に吐露していた。昭和20年(
1945年)
5月1日、昇進を阻む最大の障害だった井上が海軍次官を降りたことによって、
5月15日に井上と同時に大将に昇進。「最後の海軍大将」の枕詞がつく井上と同時に昇進したのだから、塚原もまた紛れもなく「最後の海軍大将」である。
しかし、塚原は栄誉の代わりに現役を降りなければならなかった。
米内光政海軍大臣はかねてより、
豊田副武大将を軍令部総長に、
小沢治三郎中将を
連合艦隊司令長官に任命し、統制の取れた状態での終戦工作を望んでいた。末期の連合艦隊司令長官は、支那方面艦隊・海上護衛総隊・鎮守府・警備府をすべて指揮する「海軍総隊」の総司令長官を兼ねていた。しかし、海軍には「後任が先任を指揮することは厳禁」とする慣例が脈々と受け継がれていた。兵学校37期の小沢を総司令長官に任じるには、1年先輩にあたる塚原・横須賀鎮守府司令長官と沢本・呉鎮守府司令長官が大きな障害であった。塚原と沢本は説得を受け入れ、
軍事参議官に身を引いた。
年譜
関連項目