概要
加盟国、赤=同条約加盟国以外の
東側諸国、朱色=共産主義国家以外のソ連よりの諸国、青紺色=
NATO加盟国、青=同加盟国以外の
西側諸国、空色=
アメリカ合衆国の影響下にある国、緑=ヨーロッパ諸国の
植民地、灰色=
非同盟諸国、
永世中立国)]]
冷戦での両陣営の対立の境界である
ヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を中心とした共産主義の陣営(
共産圏)は、東欧に集まっていたことから
東側、対するアメリカ合衆国を中心とした資本主義陣営は
西側と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく
宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。また、対立構造の中で西欧は統合が進み、
欧州共同体、
欧州連合の結成へ向かった。
主に欧州における対立構造であるが、欧州以外にも、
アジア、
中東、
南米などで、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているが為に経済的、人的な情報の交流が少なく、当時の英国首相
ウィンストン・チャーチルは「
鉄のカーテンがおろされている」と表現した。
このどちらにも属さない後進国(
開発途上国)は、「
第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営拡大の思惑のなか翻弄されたといわれる。しかしこうした両陣営の思惑を逆手に取り両者を天秤にかけることで多額の援助を引き出す援助外交も活発に行なわれた。またこの二つの対立構造を「大国の
覇権主義」と否定した国々は、
インドなどを中心に
非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。
ヤルタ会談から始まって
マルタ会談で終わったため
ヤルタからマルタへということも言われる。
冷戦の展開
起源(1945年-)
東欧諸国のうち、
ドイツと同盟関係にあった
ルーマニア、
ブルガリア、
ハンガリー、
スロバキアには
ソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは
共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束された
ポーランドでも、
ロンドンの
亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月の
チェコスロバキア政変であった。またその前年の10月には
コミンフォルムが結成され、社会主義にいたる多様な道が否定され、
ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。他方、
ユーゴスラビアと
アルバニアにおける共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中の
パルチザン闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、
1948年のユーゴ・ソ連論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、
自主管理社会主義や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。
ポーランド問題
ヤルタ会談の焦点のひとつがポーランド問題であった。米英にとって、第二次世界大戦に参戦した直接的理由がナチスの
ポーランド侵攻であり、ソ連にとって
安全保障の観点から自国に友好的な政権がポーランドに樹立されることが望まれていた。いみじくも
スターリンがミロヴァン・ジラスに述べたように、ポーランド問題とは、領土問題であると同時に政権問題という位相を含んでいた点で、第二次世界大戦の性格を如実に表象していた。
またポーランドがソ連軍によって解放されたことで、戦後のポーランド政治に対して、ソ連の影響力が大きくなる要因となった(敵国を解放した国家が
占領において主導権を握るという「イタリア方式」がここでも作用していた)。ヤルタ会談で、米英はスターリンにポーランドでの自由選挙の実施を求め、同意を取り付けたが、スターリンが語ったとされるように、英米にとって「名誉の問題」である一方で、ソ連にとってポーランド問題とは「安全保障上の死活的問題」であったため、スターリンは強硬な姿勢をとった。
ルーズヴェルトの死後大統領に就任したトルーマンは、こうしたヤルタでの取り決めをソ連が反故にしていることを知り、国連創設会議のため訪米中のソ連の外相
ヴャチェスラフ・モロトフに対し抗議した。その後、アメリカとソ連は、対立するようになる。(選挙が決まるまでの過程は、
ヤルタ会談の「ポーランド問題」を参照のこと)
ベルリン問題
ドイツの
首都ベルリンは、その国土同様に4国分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に
島のように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における
通貨改革への対抗措置として、
1948年に
西ベルリンへつながる
鉄道と
道路を封鎖した(
ベルリン封鎖)。これに対抗する為、西側連合国は物資の空輸を行なって、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。
冷戦のグローバル化(1949年-)
この様に冷戦が進む中、
1950年代前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務める
ジョセフ・マッカーシー上院議員が、政府や
アメリカ軍内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「
赤狩り」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、
チャールズ・チャップリンのような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。
1950年代にアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とするアジア・太平洋の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていた。
と
ヨシフ・スターリン]]
1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年に朝鮮戦争の休戦が合意され、
1955年にはNATOに対抗する
ワルシャワ条約機構が結成、
オーストリアは
永世中立が宣言されて東西の緩衝帯となり、連合国軍が撤退した。また
ジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが
国交樹立、ソ連は翌年に
日本とも国交を回復し、
1959年にはフルシチョフがアメリカを訪問するなど、冷戦の「
雪どけ」ムードを演出した。
この時期、東側陣営ではソ連の覇権が揺らぎつつあった。スターリンの後継者争いを勝ち抜いた
フルシチョフは、
1956年の第20回ソ連共産党大会で
スターリン批判を行った。この演説の反響は大きく、ソ連の
衛星諸国に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。
ポーランドでは反ソ暴動についで、国民の人気が高かった
ゴムウカが党第一書記に就き、ソ連型社会主義の是正を行った。ポーランドの動きに触発される形で、
ハンガリーでも政権交代が起こり、
ナジ・イムレが政界に復帰したが、国民の改革要求に引きずられる形で、共産党体制の放棄、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立化を宣言するに至り、ソ連軍の介入を招いた(
ハンガリー動乱)。
主な出来事
で撃墜された機体の残骸]]
互いを常に「
仮想敵国」と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大を競い合い、
軍備拡張が続いた。この象徴的な存在が、
核兵器開発と
宇宙開発競争である。両陣営は、目には目を、核には核を、との考え方からそれぞれ
核兵器を大量に所持するようになる。また、
大陸間弾道ミサイルと共通の技術をもつ
ロケットやU-2などの高高度を飛行する
偵察機、
宇宙から敵を監視するための
人工衛星の開発に没頭し、国威発揚のために
有人宇宙飛行と
月探査活動を活発化した。
しかし、ソ連とアメリカの直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。特に
1962年の
キューバ危機によって、米ソの全面核戦争の危機が現実化したため、翌年から緊張緩和の外交活動が開始されるようになったのである。
その一方、
第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの
大国の熱い戦争を肩代わりする、
代理戦争と呼ばれた。また、キューバ危機を契機に「アメリカの裏庭」と呼ばれる
中南米諸国に対する影響力を得ることを企てたソ連の動きに対し、アメリカは
ブラジルや
ボリビア、
ウルグアイなどで
親米軍事独裁政権への肩入れと共産勢力の排除を行い、その結果共産勢力の排除に成功した。しかし、その後冷戦終結までの永きにおいて、これらの中南米諸国では軍事政権による国家の私物化と
汚職、軍事勢力同士による
クーデターが横行し、民衆は貧困にあえぐことになる。
におけるフルシチョフと
ジョン・F・ケネディ大統領]]
1949年以降、分断状況が既成事実化しつつあったドイツ問題が暫定的な形とはいえ、「解決」を見たのが、
1958年から始まったベルリン危機であった。
当時、
東ドイツにおける過酷な社会主義化政策によって、熟練労働者や知識人層における反発が高まり、その多くが西ベルリンを経由して、
西ドイツへと逃亡した。社会主義建設の中核となるべき階層の流出に危機感を募らせた
ウルブリヒトは、ドイツ問題の解決をフルシチョフに訴えるとともに、西側との交渉が挫折した際には、
人口流出を物理的に阻止することを選択肢として提起した。フルシチョフの要求に対し、西側陣営は拒否の姿勢を貫いたため、1961年8月に、西ベルリンを囲む形で鉄条網が、後に壁が築かれた(
ベルリンの壁)。この当時、ベルリン市長を務めていたのが、1969年に
首相として
東方政策を推進した
ヴィリー・ブラントであった。彼の東方政策の背景には、ベルリン危機の経験が反映されていた。
主な出来事
冷戦の変容(1963年-1968年)
キューバ危機によって
核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で
部分的核実験禁止条約、
ホットライン協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約は中国・フランスが反対し、東西共に一枚岩でないことが明白となった。
軍備拡張が進む中、ソ連もアメリカも
財政赤字に苦しみ、消耗していく。アメリカはアメリカ病と呼ばれる
経済不振、
モラルの低下、
犯罪の増加に悩まされ、財政難による軍事拡張の限界と、
ベトナム戦争を契機とする
反戦運動、
黒人の
公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、
マーティン・ルーサー・キング師や
ロバート・ケネディなどの要人の
暗殺が横行して社会不安に陥った。また、1950年代の経済成長と一人勝ちに対し、1960年代には成長が鈍り、
日本や
西ドイツが未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、相対的に弱体化していた。このため世界通貨
ドルの価値が低下し、西側経済は「ドル危機」と呼ばれる状況となった。
ソ連は中央指令型の計画経済の失敗、軍事費の負担から経済が破綻し、
共産圏の箍(たが)が緩み始める。
チェコスロバキアは
プラハの春と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は
制限主権論に基づき
ワルシャワ条約機構軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。
アルバニアはスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、
中華人民共和国はアメリカに近づいてソ連と決別、
北朝鮮は
主体思想を掲げてソ連から離反した。こうして今にいたる共産主義の多極化が起こった。
主な出来事
デタントの時代(1969年-1979年)
1960年代末から緊張緩和、いわゆる
デタントの時代に突入した。米ソ間で戦略兵器制限交渉(
SALT)を開始、
1972年と
1979年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。一方、ソ連を牽制すると同時に、東アジアの平和を樹立することを狙い、
リチャード・ニクソンが
1971年に中華人民共和国を
電撃訪問し、東アジアにおける冷戦の機軸であった米中関係が改善、
1972年には
日本が中華人民共和国と
国交正常化した。また、
1973年に
北ベトナムとアメリカは
和平協定に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退した。その後
1975年4月に
南ベトナムの首都である
サイゴンは北ベトナムの手に落ち、ベトナムは完全に赤化され、アメリカは建国以来初の敗北を味わうことになった。
ヨーロッパでは、
1969年に成立した西ドイツのブラント政権が東方政策を進め、東側との関係改善に乗り出した。また
1972年に、かねてからソ連が提案していたヨーロッパ全体の安全保障を協議する「ヘルシンキ・プロセス」が始まり、
1975年に
欧州安全保障協力会議の成立につながった。しかし核を削減する一方、ソ連は
1977年から
中距離弾道ミサイルを配備した。これに対抗し、アメリカは
1979年12月に中距離核戦力(INF)を西欧に配備すると発表した。また同じ月にソ連が
アフガニスタンに侵攻したため、東西はまたも緊張し、デタントの時代は終焉した。
ところで、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別に、もうひとつの勢力があることに気がつき始めた。それは
イスラム原理主義と呼ばれる勢力であり、二つの
イデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、
1979年イラン革命の際には、
国際法を無視してアメリカ大使館が1年余りにわたり占拠されるなど、米ソに新たなる敵をもたらすこととなった。この際、アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した(
イーグルクロー作戦)。
この
イラン革命によって中東は動揺し、
1981年に
イラン・イラク戦争となって火を噴いた。米ソは
イスラム革命が世界に広がることを恐れ、
イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は8年の長期にわたり、
1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、
21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになるとは誰も予想しなかった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって
1988年に泥沼のアフガンから撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。
主な出来事
終結過程(1985年-1991年)
一方、ソ連国内では
ペレストロイカ路線は行き詰まりつつあった。
バルト三国の独立要求が高まり、
1988年11月に
エストニアが主権宣言、1989年7月にリトアニア共産党がソビエト共産党からの独立を宣言した。
1990年3月から6月にかけてに東欧各国で一斉に
選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、最高会議は独立宣言を採択した。これを受け、
ロシアも6月に主権宣言を出し、連邦からの離脱を表明した。ソ連政府はバルト3国に対して軍事行動を起こし、流血の事態となった。
冷戦の要因のひとつであったドイツ問題は、
ヨーロッパピクニック事件をきっかけにベルリンの壁が崩れたことにより、
統一へ向けた動きが加速化した。1990年3月の選挙で早期統合を目指す諸党派が勝利、ソ連は統一ドイツがNATOに属することに難色を示したが、最終的にNATO帰属を認め、10月に東西ドイツは統一した。また、米ソは1991年7月に
第一次戦略兵器削減条約(START)に調印し、ここに名実共に冷戦が終結した。
と
ジョージ・H・W・ブッシュ]]
アメリカは1990年8月のイラク軍による
クウェート侵攻(湾岸危機)を皮切りに
アラビア半島に展開、翌
1991年1月に
イラクとの間で
湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際に1991年1月中旬からイラクの要請を受けていたソ連の和平案が当時の
欧州共同体外相会議で賛成され、翌日にイラクと無条件全面撤退で合意したが、ブッシュ大統領はこれを退けた(数日後、シュワルツコフがソ連案を修正して停戦が決まった)。イラクを下したアメリカは世界の盟主として自信を深め、その後は
パレスチナ問題を中心に
中東への関心と介入を深めていく。湾岸戦争はその後の世界情勢を形成する上で非常に重要だったといえる。
冷戦の終結を受け、反共産主義を徹底することを条件にアメリカの援助を受けた
軍事独裁政権がその殆どを占めた中南米諸国においても、
チリや
アルゼンチン、ブラジルなどの主要国で相次いで民政化が進んだ。また、ソ連の中南米における
橋頭堡として、軍事援助や
バーター貿易などの方法でソ連から多大な援助を受けていたキューバは、冷戦が終結しアメリカとの対決の必然性がなくなったロシアにとって戦略的価値が無くなり、援助はストップし経済危機に陥ることとなった。
冷戦の遺産と新世紀の展開
西欧における冷戦は終結したが、東アジアでは
モンゴルの民主化、
ベトナムとアメリカの国交正常化のほかは、中華人民共和国と
中華民国の対立、
大韓民国と
朝鮮民主主義人民共和国の対立が現在も続いており、また
日本共産党と
朝鮮総連は現在も公安当局(
公安調査庁、
公安警察)に監視されているなどこちらは解決の見通しが立っておらず、今後はこの問題の解決が課題となっている。特に、中華人民共和国は
1989年から軍備増強を強力に推し進めており、近年になって周辺国(日本や台湾や韓国)にとって脅威となっていると言われるようになった。
核開発競争によって生産された高性能
核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。また冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の
科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、
ソ連・
イギリス・
フランスに開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも受け継がれて現在の核五大国が形成されたほか、中華人民共和国やソ連から流れ出た開発法によって(中ソ対立なども要因となっているが)、
インド・
パキスタンの核保有に、またアメリカから供与された技術によって
イスラエルの核保有に及んでいる。
冷戦終結後は経済の建て直しに注力したロシアだったが、
アジア経済危機の影響などで低迷をたどり、いわば「冷戦の敗戦国」として欧米の経済援助に甘んじていた。しかし
2003年頃より
原油価格高騰の恩恵により急速な経済発展を遂げ、それを背景に
プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、
EUやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して牽制の動きを見せる様になった。
2008年8月には
南オセチア紛争によって米ロ間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「
新冷戦」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。
<!-- コメントアウトについてはノートをご覧下さい。
総括
冷戦とは何だったか。最大公約数的な答えは、「
資本主義と
共産主義の争い、そして前者の勝利」であろう。この両者の争いの過程で、お互いの欠陥が暴露し、両者はその欠陥をどう修正するかについて知恵を絞りあった。
資本主義の欠陥とは、貧富差の存在、景気変動・失業、過当競争、独占、人間疎外などであった。西側はその欠陥を修正するために、社会福祉を充実させ、階段式課税、独占禁止法、自己実現などの装置を取り入れ、一定の成功を収めた。
一方東側の欠点は、官僚主義、官僚エリートの出現とその世襲、完全配給による労働意欲の低下、硬直的な経済運営、体制維持のための自由の抑圧=人間疎外と人権の無視、何よりも平等なはずの
共産主義が、実際には貧富の差を生み出してしまったことである。ゆがんだ共産主義体制を修正するには自由競争を導入するしかないことは理解されていたが、共産主義の多くの国が、なぜ経済運営を失敗したかを考えず、共産主義を捨てて自由資本主義に走った。それは改革では無く、
国家と
国民生活そのものを崩壊させることであった。結果的にソ連をはじめとする東側は崩壊してしまった。もっとも興味深い部分は、計画経済の下に限定的に自由競争を導入する手法を採った中華人民共和国が、未曾有の発展を遂げていることである。-->
東西陣営の主な国
資本主義陣営(西側)
- アメリカ大陸
- ヨーロッパ
- アジア・オセアニア
- 中東・アフリカ
共産主義陣営(東側)
非同盟・中立
資本主義陣営→共産主義陣営
共産主義陣営→資本主義陣営
欧州の対立構造
冷戦史研究
論争史
- 伝統学派/正統学派
- 修正主義学派
- ポスト修正主義学派
- コーポラティズム
- 新しい冷戦史
研究者
学術誌
研究プロジェクト
補足
関連項目
*れいせん