公孫氏(こうそんし)とは、
三国時代の中国において栄えた
氏族。2世紀後半、後漢の地方官だった
公孫度が
黄巾の乱の混乱に乗じて
遼東地方に半独立政権を樹立した。
民族・
風習とも、まったくの
漢民族であるが、その領土は朝鮮半島中西部の
帯方郡を境に南は
韓と接し、東北は
高句麗、 西北は
烏丸・
鮮卑、西南は
漢・
魏の
幽州と接するなど、異国・異民族との関わりが深かった。公孫氏の勢力圏である遼東以北の地はいわば中華圏の北端にあり、
漢・
魏など時の中華王朝からは絶域とみなされ、それが公孫氏の勢力圏を半独立的な地方政権としての地位を確立する上で大きな意味を持った。
歴史
公孫氏は
高句麗や
後漢と争いながら、朝鮮半島の北端である
楽浪郡や
山東半島まで勢力を伸張した。
204年には、公孫度の嫡子である
公孫康が楽浪郡の南に
帯方郡を設置し、
韓を勢力下に置くほどまでに至る。父の代に半独立を果たした公孫氏ではあったが、衰退期にあったとはいえ中国の統一王朝であった後漢の存在は無視できず、公孫康は後漢に服属し、左将軍の
官位を授けられている。
公孫康の後継にはその弟である公孫恭が即位したが、228年に先代で兄の公孫康の子・
公孫淵が謀叛し、叔父から位を奪いとった。 当時、時代は後漢が半ば崩壊し魏・呉・蜀の三国に分立し互いに覇を競っていたが、公孫淵は三国一強盛にして自領とも密接につながる魏に臣従を装いながら、一方では
呉と同盟工作を行うなど密かに独立を謀っていた。
236年、魏の皇帝
曹叡から上洛を求められた際、公孫淵はついに魏に反旗を翻して、燕王を称した。翌年には年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立。近隣部族に玉璽を与えるなどして魏を刺激し、いよいよ争乱は決定的となった。
公孫淵は一度は魏の幽州刺史の軍勢を退けたものの、
238年、太尉
司馬懿の討伐を受けて国都襄平に包囲され、一族ともども滅ぼされた(
遼隧の戦い)。なお、公孫恭は魏への忠義を貫いたとして処刑されなかったが、子がおらず公孫恭の死により滅亡した。
なお、『
魏志倭人伝』において、黄巾の乱の前後に起きたとされる
倭国大乱から公孫氏滅亡後の
卑弥呼による魏への遣使まで
倭に関する記事が途絶えている一因には、公孫氏が倭の勢力が中国本土へ朝貢する道を遮っていた、あるいは倭からの朝貢は公孫氏が受けていたからではないのかとする説もある。
系譜
*
----------------------------------------------
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
ご利用上の注意