来歴・人物
1985年、
ドラフト1位でヤクルトに入団。
背番号は
18。2年目の
1987年に初の2桁勝利(14勝)を記録してチームの勝ち頭となる。
3年目の1988年は
関根潤三監督に故障の
高野光に代わり抑えに抜擢され、この年開場した
東京ドームでの開幕戦にてプロ初セーブを記録。18勝全てを救援にて記録し最多勝を獲得する。また規定投球回未満の投手が同タイトルを記録するのは史上初であり、
2005年に
下柳剛が達成するまでは唯一の記録であった。ただ、この勝利の中には、勝ち試合で
登板したものの同点に追いつかれ、その後チームが再び勝ち越した結果ついた勝利が多く、伊東本人はあまり嬉しくはなかったと語っている。
1989年には再度先発に復帰したが、同年自宅の階段で転倒して足を骨折というアクシデントに見舞われる。翌年も故障で0勝に終わり、
1991年はプロ入り後初めてとなる一軍登板無し。
1992年に7勝をあげ復活、
カムバック賞を受賞する。
1993年には5年ぶりとなる2桁勝利(13勝)をあげ、15年ぶりのチームの日本一に貢献した。
野村克也監督勇退の
1998年オフに自身も現役引退。
現役引退と同時にヤクルトの一軍投手コーチに就任。
打者出身の
若松勉監督をよく補佐し、投手起用などは伊東が全面的に責任を持っていた。特にリリーフ投手陣の整備や育成には定評があり、
石井弘寿・
五十嵐亮太といった速球派を一本立ちさせた他、
高津臣吾などベテラン投手の再生にも一役買っている。チームのリリーフ陣を十二球団でも一、二を争う安定感のある存在に育て上げ、
2001年の優勝に大きく貢献した。コーチとしては非常に厳しい指導で知られ、若手投手に対する厳しい姿勢やコメントは有名である(なお、投手コーチ専任中は、一軍から投手生命を絶たれるような怪我が出なかった)。
2006年から
古田敦也が
選手兼任監督となったのに伴ってヘッドコーチへ(
成本年秀と共に、投手コーチ兼任)昇格し、古田を支える立場になった。しかし兼任監督のヘッドコーチというほぼ前例の無い重い立場においては、投手陣の整備や起用に専念出来なくなった事もあって苦戦も見られ、
2007年オフに
古田敦也と共に退団するも、その経験を活かすことを期待し、
2008年1月1日付で球団編成部へ転身となり、今後はフロントからスワローズを支えることとなる。
エピソード
とんねるずの
石橋貴明は、高校時代の野球部の先輩(2年上)にあたる。バラエティ番組で共演した際には、タメ口で石橋にいじられて苦笑いする姿が見られる。
年度別投手成績
- 初登板 1986年4月6日巨人戦(後楽園)2-4 7回1死より登板、1回2/3を2失点で敗戦投手
- 初勝利 1986年5月21日阪神戦(甲子園)5-4 先発し、5回2失点
- 初完投 1986年7月4日中日戦(浜松)10-2 被安打7 奪三振3 四死球2
- 初完封 1987年6月28日中日戦(神宮)2-0 被安打3 奪三振2 四死球3
- 初セーブ 1988年4月8日巨人戦(東京D)4-2 7回より登板、3回無失点
関連項目
※1991年は該当者なし。
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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