井上成美 [Shigeyoshi Inoue] [被リンク数: 78]

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井上 成美(いのうえ しげよし、1889年明治22年)12月9日 - 1975年昭和50年)12月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将宮城県仙台市出身。

略歴

旧制宮城県第二中学校より海軍兵学校第37期入校。入校時成績順位は180名中第8位、卒業時成績順位は179名中第2位。
義兄に陸軍大将阿部信行(後の内閣総理大臣)がいる。
イタリア 海軍駐在武官、軍務局第1課長、横須賀鎮守府参謀長を歴任。そこで横須賀鎮守府司令長官米内光政を補佐、二・二六事件の際は陸戦隊海軍省の警備につかせるなどの水際立った対応をとった。
その後、軍務局長として米内光政海軍大臣山本五十六海軍次官と共に日独伊三国軍事同盟条約締結に反対し、一度は流産させることに成功したが、この頃、海軍関係の新聞記者からは米内・山本・井上ラインのことを「海軍左派3羽烏」と称された。
支那方面艦隊 参謀長航空本部長を経て太平洋戦争開戦時は第4艦隊司令長官。
海軍兵学校校長を経て米内海軍大臣の海軍次官として中央に復帰。海軍省教育局長の高木惣吉海軍少将に終戦工作の研究を指示、米内を援け早期和平に向けて尽力する。敗戦の年5月に大将昇進。次官を退く。塚原二四三とともに大日本帝国海軍最後の海軍大将であった。
敗戦後、横須賀市長井に隠棲し責任を感じるとして公の場には出ず、子供たちに英語を教えたりなどしていた。井上が英語教育をしていた住まい(ソレイユの丘付近)は、その一部分が保存され、小さいながら記念館として一般に無料開放されている。

人物像

  • 旧制中学時代の成績表が残っているが、そこには数学音楽、そして細工(工作)の成績がずば抜けており、意外にも英語は「兵学校三号生徒の時は教官に名指しで英語下手を指摘され」、「おかげで成績は入校時の9番から16番に落ちた」くらいの成績だったようである。英語はその後、クラス一の英語達者な人に英語学習法を聞いて実行したりして逆に得意科目にしている。井上の音楽好きは母親譲りでギターピアノが得意だったと言う。戦後に隠遁生活を送った時も、病弱な娘のために介護用ベッドを自分で作り、またパン焼き器トースターまで自分で作っている。
  • 兵学校校長時代に独自で編み出した、生徒や教官の数学的思考を養うための「数学パズル」も残っており、海軍次官になった後も暇さえあればそれを楽しんでいた。終戦後に「サン・パズル」という名前でアメリカに販売しようとしたこともある。
  • 数学と語学の教育については自分の経験に基づいた理論を持ち、語学に関しては「語学は若いうちにやる方が有利」「流暢さより正確にものを伝えることに重点を置け。ずっと勉強していればいつか流暢にはなる」「勉強する語学でしゃべる夢を見ればしめたもの」「現地で語学をやるからには会話をマスターすべし。読み書きは日本にいても出来る」「音楽の素養がある人は語学の上達も早い傾向あり」等、海外駐在時代に書いた『駐在任務遂行経過並ニ所感』という提出物にまとめられている。駐在前に駐在経験者の堀悌吉を訪問しているが、「スパイまがいの活動はするな。もっと次元の高いことをやれ。その国の歴史を知り、世情に通じることだ。その国の人々が何をどう考えているか、それを勉強してこい」とアドバイスされ、実際に実行している。
  • 早くから軍政面で頭角を現したが、その一方で実戦では珊瑚海海戦での消極的と評価された指揮により、司令長官職を事実上解任されるなど、能力を発揮できなかった。井上本人も「本当にいくさが下手でした」と述懐したことがあった。ただし井上の「いくさ下手」の評価を決定付けた、前述の珊瑚海海戦での消極的といわれる行動は、原忠一海軍少将が独断で行ったもので、直ちに井上の評価に結びつけるのは間違いであるとの指摘もある。また艦隊勤務がからきし駄目だった訳でもなく、軍務局を離れ練習戦艦比叡の艦長を務めた際は、長く艦隊を離れていたにも関わらず、見事な操艦指揮を見せ周囲を驚かせている。
  • 自ら「ラジカル・リベラル」と称する、剛直で理論家肌の性格と切れすぎる頭脳(渾名は「三角定規」「剃刀」)が災いし、相手が面目を失うまで手厳しく批判するなど矯激な行動が見られ、部内に敵が多かった。
しかし、人物が冷たいということではなく、艦長不在中に勝手に艦長室のベッドで熟睡してしまった従兵を気遣い自分はベッドの端で就寝し(艦長の井上の方が兵に気を遣って寝ていた)、従兵が気づいて直立不動で謝罪しても(普通は謝罪では済まない)、まあいいから朝の総員起こしまで寝ておけ、と不問に付したり、支那方面艦隊参謀長時代は練習場所に困っていた軍楽隊に練習場所を確保してあげたり、兵学校校長時代には校内の雑用係だった当時15~6歳の「ボーイ」に、「勉学に励むには一番良い年齢なのに雑用ばかりではもったいない」と希望者のみ無料で基礎的な数学と英語を隔日2時間ほど教育するよう指導し、成績優秀者にはポケットマネーでコンサイスの英英辞典をプレゼントしたりと、「三角定規ではあるものの杓子定規ではない」暖かい面もある。この教育を受けた「ボーイ」の中には、戦後大学に入り大学講師になった者もいるという。横山一郎も「井上さんは部下の意見を実によく聞いてくれた。部下の意見を聞かないワンマンとは違う。井上さんのことをとやかく言う人がいるが私は好きだね」と評している。また、練習戦艦比叡の飛行長だった今川福雄は井上の人柄や考え方に共鳴し、井上の諒解を取って子供に「成雄」「美子」と名付けている。
しかし、『井上成美』を書き実際に会ったことがある阿川弘之は、半藤一利との共著『日本海軍、錨揚ゲ!』の中で、「井上さんと酒は飲みたくない」「同僚・友人としては山本さん(山本五十六)、部下としては米内さん(米内光政)のような上司がいいが、井上さんだったら部下はたまったものじゃない」「(米内や山本と比べて)井上さんは人間として面白味がない」と語っている。しかし、阿川の意図は「女性関係など人間的にどこかスキがあり、そういうエピソードが豊富な米内や山本と比べて、井上は全くスキがなく非の打ち所がない紳士なところが面白くないということ」ということで、井上の人間性を否定した意味ではない。また、「そのマイナスを重ね合わせたらプラスに転化するのではないかとの思いで『井上成美』を書いた」とも述べている。
  • 当時の海軍軍人としては珍しく、女性に対しては禁欲的だった事で知られている。たまに待合茶屋などに行っても、芸妓と遊ぶ事は無く、布団に入っては英書を読んでいたという。しかし芸妓たちからは比較的好感を持たれていたようであり、支那方面艦隊参謀長時代には、上海での宴席で琴を芸妓と一緒に演奏し、その腕前に皆が舌を巻いたという。支那方面艦隊勤務時代や海軍大学校教官時代など、部下や学生として四度井上に直接接した山本善雄は、「面白味がない、人間的に冷たいと言う人がいるがそれは違うと思う。公務の時には表に出ない内面の優しさや温かさを、女が敏感に受け取っている。だからあれだけ芸者たちに慕われるんだ」と述べている。
  • 軍務局第一課長時代には、軍令部による『軍令部令及び省部互渉規定改正案』に激しく抵抗して名を知られ、一時は遺書を同期に出すほどに覚悟を固めていたらしい。井上は海軍省が持っている権限を軍令部に移すことで、戦争への道が容易になると考え、軍務局長だった寺島健中将と猛烈に反対し続け、寺島が折れた後も、なかなか首を縦に振らなかった。最後は「海軍を辞めます」と言い放ち、家へと引きこもってしまった。この時、娘に「お父さんは海軍を辞めることにしたから」と言ったところ、「お父様はケンカが早いからね」と苦笑されている。なお、当時軍令部の南雲忠一が交渉相手(艦隊派)であり、南雲からは「殺すぞ」と直接的に脅迫されたこともあったが、井上は「さあ、やるならやれ。そんな脅しで屈するようでこの職が務まるか」と引き出しから遺書を出して南雲に見せ、南雲もその気迫に押され何も言えなかったという。この『軍令部令及び省部互渉規定改正案』は伏見宮軍令部長が昭和天皇に裁可を求めた際に、井上と同じ反対理由で、再考するよう一度突き返されており、その事を兵学校同期で当時海軍省副官だった岩村清一が井上に伝えると、鼻で笑ったそうである。
その後一課長を追われ、井上が横須賀鎮守府附として待命予備役編入の辞令を待つ、なかば左遷状態の時に、当時練習戦艦であった比叡艦長の辞令を得ている。井上の職を賭したその態度を、対立していたはずの伏見宮が「男としてまた軍人として、まさにああでなければならない。自己の主張、信念に忠実な点は見上げたものである。次は良いポストに就けてやるとよい」と称賛したことによるものであった。この比叡艦長の時に、観測機として配属されていた航空機に着目したことは、後の「新軍備計画論」の執筆へと繋がる。
  • 横須賀鎮守府参謀長時代のエピソードとしては、横須賀陸海軍の親睦会で憲兵隊長と飲んでいた時、憲兵隊長の「貴公、貴公」と言う傲慢な態度に「少佐が少将に向かって貴公とは無礼な。君のような礼をわきまえない人間とは酒は飲まん」と席を立ち、別部屋でお茶漬けを食べていたのだが、その憲兵隊長と付き添いの海軍軍人数人がケンカをしている報告を聞き、「憲兵隊長が袋叩きにされています」という事を聞くと、「ほっとけ」と言い、後日憲兵隊長が謝罪に訪れた際、「後で謝るなら最初からするな」と強烈なパンチを食らわせている。また、ある艦艇の艦長が乗員に上陸禁止令を出し自分は水交社で食事をしていたところに参謀長の井上が現れ、「貴鑑には上陸禁止令が出ていたはずだが」と質問した。艦長が平然とそれを認めたところ、「それは艦長命令で出したのか」と再質問。「はい、艦長命令で出しました」と答えたところで「自分が出した命令を自分で破ってどうする。すぐに戻れ」と激怒。艦長はその剣幕に慌てて戻ったところ、艦長室の前には大量の糞尿が置かれていたという。
  • 後年「日本の大多数の者が、日独伊同盟に加盟するのは集団防衛で、プラスであると思ったんだけれども、集団防衛という形だけはあっても、日本にドイツからどれだけの援助があるのか。何もできない。そういうことをすると、強い国と仲良くしていかなけりゃならんというのに、アメリカとも悪くなるし、イギリスとも悪くなるという意味もあって、ドイツから何等の恩恵をこうむらない。得をするのはドイツだけです」と述べていた通り、三国同盟に徹底的に反対し、ファシズム体制下のドイツイタリアには厳しい見方をしていた。井上はドイツ、イタリア駐在の経歴を持つが、両国の人間性をあまり信用せず、アドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』についても「日本人を差別している」とし、部下に読むことを禁じている。「でも、そんなこと書いてないぞ。」との声に、井上の副官は「閣下は原書を読んでおられるのだ。お前等が読んでいる和訳本には載っていない。」と答えたという。
  • 昭和16年12月8日に、カロリン諸島の中心であるトラック島において、第四艦隊旗艦「鹿島」艦上にて、「トラトラトラ」を傍受した際、通信参謀である飯田秀雄中佐が電報を届けた。このとき飯田は「おめでとうございます」と言ったのだが、井上からは「何がめでたいだバカヤロー」と物凄い剣幕で怒鳴られたという。飯田はその時何故自分が怒鳴られたのかわからなかったが、本土に帰還して焼け野原の東京を見てはじめて井上の「バカヤロー」の意味を理解したという。
  • 第二次世界大戦が始まってヨーロッパに住んでいた日本人が続々引き返してきた頃、神戸出身の海軍士官が新聞社のインタビューで「ドイツは負けますよ」と発言しそれが記事になった。陸軍がその記事に激怒して海軍省に殴りこみ、その士官も「えらいことになったな。僕が直接説明しよう」と行こうとしたら、「貴様はここで座っていろ。今井上さんが相手してるから」と同僚がウインクをして30分後、陸軍側がトボトボと引き返して行く様子を見て、「ははん、井上さんにめった斬りにされたな」と思わず笑ったという。
  • 戦後海軍省が廃止され、第二復員省になった後、自宅があった三浦半島の名物だというミカンを手土産に復員省を訪れ、「田舎にはこんなものしかないが、みんなで食べてくれたまえ」と旧部下に心遣いを見せている。当時貴重な果物だったミカンを机に山が出来たくらい持参したといい、当時復員局員だった中山定義は「元の大将中将で、復員局を訪れてかつての部下を労ってくれたのはそれまで一人もいなかった」と述べている。
  • 戦後は、長井の別荘に隠棲しており、近所の子供達や、軍人時代に懇意にしていた横須賀の料亭の芸者や仲居達に英語を教えていたが、特に謝礼を取る訳でもなく、無収入であった為生活は困窮を極めたが、後に兵学校時代の生徒達の尽力により困窮を脱している。
  • 軍人恩給の給付が一時凍結されていた際、井上家の経済的な窮状を察した関係者が旧海軍省次官の経歴で文官恩給の給付を受けられるよう取り計ろうとするのを、「自分は軍人である」と拒否したという。
  • 後年、海上自衛隊の練習艦隊壮行会に嶋田繁太郎(開戦にGOサインを出した東條内閣時の海軍大臣)が出席して挨拶したと聞くと「不見転めが、恥を知れ」と周囲が青ざめるほどに激怒したという。
  • 家庭的には妻に先立たれ娘も病気で失い、困窮により孫を娘婿方の家に養子に出す等、私生活は決して恵まれない寂しい家庭環境だったという(晩年に再婚している)。

井上と二・二六事件

昭和10年、横須賀鎮守府参謀長に任命される。鎮守府長官は後にコンビを組む米内光政であり、米内・井上ラインはここが始まりである。
しかし、海軍部内でも「なんとなくもたもたしていて、すっきりしない」「相変わらず陰気で、少しも改まってこない」(『思い出の記』)空気で、井上は「五・一五事件で海軍に先にやられた陸軍が暴発する恐れがある」と考え、陸軍の暴走に備えて特別陸戦隊一個大隊を編成、警備艦「那珂」艦長に昼夜風雪の如何に関わらず芝浦に急航できるよう研究すべし、と命令した。井上は新聞記者とも懇意で仲が良く、新聞記者も慕って情報を流したりしていたが、昭和11年2月20日頃に警視庁の前で陸軍将校・常盤稔少尉とその部下たちが夜間演習を行ったとの情報が記者から入り、「そろそろだな」と予測した。そして2月26日の朝6時頃に新聞記者より副官経由で二・二六事件の速報が入る。
「幕僚全員出動!私もすぐ行く」と副官に言った井上はすぐに鎮守府に急行、かねてより「この時」に対しての準備は出来ていたのですべて手はず通りに行い、混乱はなかった。午前9時頃に長官の米内から「俺もそろそろ行っていいか」という連絡があり、井上は当時を振り返り「大提督らしい態度だった」と述懐している。警備艦の派遣は軍令部より待ったがかかり遅れてしまったが、この時に備えて編成されていた特別陸戦隊は26日午後には海軍省に到着、陸軍が決起部隊をどう判断するか煮え切らない態度を取っていた頃、真っ先に反乱軍と規定して米内も井上が作成した訓示に一言の訂正も加えずに許可している。

兵機一系化問題

海軍には、兵科将校と機関将校との身分の格差があり、機関科将校は大将になれないどころか艦長にもなれず、また艦船の指揮権もなかった。海軍内では「癌」とまでいわれた問題で、幾人もこの問題に取り組んだが答えは出ず、永野修身が海軍大臣の時も豊田副武軍務局長に解決策を求めても「現状維持」と永野が納得できる回答ではなかった。永野は中央に戻ってきたばかりの井上を呼び、「君がこの問題を検討したまえ。他の人間が出した回答は白紙にしてもよい。期間は1年、くれぐれも極秘裏でな」と兵機一系化問題の解決を任せた。
1年後、井上は「一系化すべし」と結論し、永野から大臣を継いだ米内光政に提出する。その後、井上は軍務局長に就任する。
実際に海軍兵学校と海軍機関学校が合併し、兵機一系化が実現するのは1944年(昭和19年)のことである。

重慶爆撃

海軍航空隊による重慶爆撃1939年5月から始まっていたが、翌1940年に行われた、史上初の意図的・組織的かつ長期間継続された戦略爆撃である「百一号作戦」を立案したのが、支那方面艦隊参謀長となった井上成美であった。井上は、百一号作戦が「日露戦争における日本海海戦にも匹敵する」として重慶爆撃を推進した。

海軍兵学校長時代

井上自身は兵学校長の職が気に入っており、このまま予備役に編入されてもよいと考えていたらしい。「校長なら何年でもやっていたい」と周囲に語っており、後に海軍次官になってからも事ある毎に「江田島に帰してくれ。やはり私は中央より江田島が合う」と言っている。陸軍士官学校が英語教育を廃止し入試科目からも外すと、海軍兵学校もこれにならうべきだという声が強くなった。「入試科目に英語があると有望な人材を陸軍に取られてしまうのではないか」という意見に対し、「何処の国の海軍に、自国語しか話せない海軍士官がいるか」としたうえで、「いやしくも世界を相手にする海軍士官が、事実上の世界語である英語を知らぬで良いということはあり得ない。外国語のひとつも習得しようという意気のない者は、海軍には必要ない」と却下、排斥運動に関しても、「これらの運動に従事する人物の主張するところ、概ね浅学非才にして島国根性を脱せず」と断じ、兵学校の英語教育は従来通り行った。海兵校内では従来通り外来語の使用も容認している。この様に、英語教育を推進した事に関して、後年井上は、鈴木貫太郎が兵学校を訪れた際に、井上と同様に敗戦を見越した上で、「いいか、兵学校の教育の成果が現れるのは、20年後だぞ、井上君」と言われ、敗戦後に生徒が日本の復興に役立つ人材として活躍して欲しい、と思っての事だったと述懐しており、生徒達から相当感謝されている。また、英語教育の具体的な有り方も詳しく述べており、「英語は英語として理解し、無理に和訳させることは良くない」「英語の単語を無理に日本語に置き換えるのは百害あって一利なし」としている。
海兵の講堂には従来、歴代の海軍大将の額を掲げてあったが、井上は「歴代の大将の写真が汚れる」「兵学校の教育は出世主義ではない」と言う名目ですべて降ろさせている。ただ、実際は井上の「大将といっても、一等大将もあれば、三等大将もある。この中には国賊と呼ぶべき者もいる」と言う意向によるものであった。また、教官に実戦での武勇伝を話すことを一切禁止、生徒には陸士生徒との私的交流を禁止した。
また、兵学校の卒業式は軍楽隊の『蛍の光』の演奏と共に卒業生、在校生共に「帽振れ」を行うことが定番だったが、それも「『蛍の光』は敵国の曲なので中止してはどうか」という意見が教官や生徒などからあった。しかし、井上は「名曲は名曲である。名曲に敵も味方もあるか」と一蹴している。こうした措置から、「校長は横暴である」と若手士官を中心に批判もあった。しかし、井上はそういう批判や反対意見を排除し、ジェントルマンとしての生徒教育に尽力を尽くし、戦後も当時の生徒や教官が多数訪れ「校長」と最後まで呼ばれていた。また、井上の方策に反抗していた元教官が戦後井上のもとを訪ね、「私がすべて間違っておりました」と謝罪し、井上も「あれは嬉しかった」と述べている。
兵学校の教育について、防衛大学校初代校長槇智雄が訪ねた際にこう語っている。
「私は、『ジェントルマンを作るつもりで教育しました』とお答えしました。つまり、兵隊を作るんじゃないということです。丁稚教育じゃないということです。それではそのジェントルマン教育とは何かということになれば、いろいろ言えるでしょうが、一例を言ってみればイギリスのパブリック・スクールオックスフォード大学ケンブリッジ大学における紳士教育のやり方ですね。これは、それとは別の話ですが、第一次世界大戦の折、イギリスの上流階級の人々が本当に勇敢に戦いましたね。日ごろ国から優遇され、特権を受けているのだから、今こそ働かねばというわけで、これは軍人だけじゃないですね。エリート教育を受けた大半の人達がそうでしたね。私は、一次大戦後に欧州で数年生活してみて、そのことを実感として感じました。『ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える』ということです。ジェントルマンが持っているデューティーとかレスポンシビリティ、つまり義務感や責任感…戦いにおいて重要なのはこれですね。
その上、士官として一つ大切なものは教養です。艦の操縦や大砲の射撃が上手だということも大切ですが、せんじつめれば、そういう仕事は下士官のする役割です。そういう下士官を指導するためには教養が大切で、広い教養があるかないか、それが専門的な技術を持つ下士官と違った所だと私は思っておりました。ですから、海軍兵学校は軍人の学校ではありますが、私は高等普通学を重視しました。そして文官の先生を努めて優遇し、大事にしたつもりです」

海軍次官と終戦工作

米内が現役復帰し小磯国昭内閣の海軍大臣に副総理格として就任、海軍次官に井上を起用する際に、再三の要求にもかかわらず井上は当初「江田島の村長で軍人生活を終わりにしたい。私に次官など不向きなことはあなたがいちばんわかってるでしょう」と固辞していた。しかし、米内の「すでに伊勢神宮に井上が次官になると報告した」「政治の話の時には君は上を向いていろ」という言葉で説得され次官に就任した。当然ながら、次官が政治の話の時に上を向いているわけには行かず、後年この時のことを「貫禄負けでした」と語っている。井上の次官就任は概ね好意的に見られ、海軍省勤務だったある士官は、「海軍内には先が見えない暗さがあったが、海軍という灯台に米内・井上という大きな光が灯されて非常に明るくなった」「前次官の時には未決書類が山のように積まれて事務処理が非常に滞っていたが、井上さんが次官になったら定時(午後5時)までに山のような未決書類がすべて綺麗になくなっていた」と述懐している。
次官となった井上は、兵学校長時代には見ることのできなかった戦局に関する資料を見て、予想以上に状況が悪化していることを知り、米内の了解を取って高木惣吉少将に、月2,000円の機密費を与え、秘密裏に終戦工作の研究を始めさせたり、「敗戦は亡国とは違う。古来いくさに勝って国が滅亡した例は少なくない。逆に戦いに破れて興隆した国がたくさんある。無謀の戦争にこのうえ本土決戦の如き無謀を重ねるなら、日本は本当に亡国になってしまう」として早期終戦を強硬に主張した。
また小磯内閣が総辞職する際には、米内が留任を望んでおらず、小磯と米内がともに大命を受けた内閣成立時の経緯があるにもかかわらず、井上が中心となって部内を米内留任でまとめている。
昭和20年のはじめ、海軍記者との記者会見の際に新名丈夫が「海軍はこの戦争をどうするつもりですか」と聞いたところ、井上は「和平です」とはっきり答え、記者も井上の気持ちと身の上の安全を考えて一人も記事にしていない。
更に、昭和20年より陸軍から「陸海軍統合」の話が出てきた時も、「本土決戦の片棒を担がせようという陸軍の意思は明白」「陸軍を止めるものは海軍しかない」と、昭和天皇の発言をでっち上げてまで強引に迫ってくる陸軍を追い返している。昭和天皇も、「朕が(陸海軍統合を)望んでいると陸軍は言ってるが、全然そんなことないから」と鈴木貫太郎に述べている。この「陸軍による海軍の吸収合併」を食い止めた出来事は井上の隠れた功績である。
終戦間際に行われた、米内海相による大将進級については様々な憶測があり、井上があまりに性急に終戦処理を進めようとする結果、周囲と致命的な軋轢を生むことを恐れた米内らによる更迭とも、健康状態が優れなかった米内が次期大臣候補として井上を昇進させ、軍事参議官の閑職に置いておいたともいわれている。大将に進級した際は「負ケ戦 大将ダケハ 矢張リ出来」と皮肉った川柳を詠んで米内に披露し、「後世までの笑いものですよ」と語ったといわれているが、同じく大将進級の話があった小沢治三郎が結局断り抜いた事に対比し、その真意を疑う意見もある。しかし井上の大将進級については、昭和天皇の裁可があった後に米内より井上に知らされており、次官就任時と同じように、井上が反対できない状態に米内が持ち込んだとも考えられる。しかし、米内も井上もこれについては何も語らずに亡くなってしまったので、今でも謎のままである。
この件については、『井上成美 反骨の海軍大将』(加野厚志 著)では井上更迭説を取り、『最後の海軍大将・井上成美』(宮野澄 著)や『静かなる楯 ― 米内光政』(高田万亀子 著)では井上温存説を取り、『井上成美』(井上成美記念刊行会 編)では両方の説を紹介しながら「米内の真意も、井上の真意も、今となっては知るよしもない」として謎としている。高木惣吉や大井篤などはこの井上人事に関して「米内さんの大失策」と批判し、半藤一利も著書の中で、後任次官に多田武雄を選んだ事も含めて「あの時の米内さんはどうかしていたとしか思えない」と同様に批判している。しかし、当時海軍大臣秘書官の麻生孝雄は「大将次官で何が悪い。次官まで辞めることはないのではないか」と井上を批判している。ただ、麻生は「『終戦』という見方は一致していた。しかしそのやり方に意見の食い違いがあった可能性はある」としている。事実、「大臣手ぬるい!早く!1日延ばせば何千何万と人が死んでいく」と米内に詰め寄る井上の姿が目撃され、「天皇制の維持」が優先の米内に対して、「国や国民のためには、陛下には最悪の場合腹を切っていただく」という井上の意見が対立したという説もある。
軍事参議官就任後は将官保養所に1か月ほど「休養」の名目で滞在しているが通常なら長くても1週間くらいの滞在であり、将官保養所に1か月も、それも副官を理屈をつけて強引に東京に帰してまで滞在することはほとんど前例がなく、当時熱海で終戦工作に奔走していた高木惣吉の報告を待っていたとの説もある。それについて阿川弘之が後年に高木に質問したところ、高木は肯定も否定もしていない。高木が提出した終戦工作報告を「もう僕は責任を取れないから、これは見ないことにしておくよ」と突き返したというが、東京の水交社で引き続き打ち合わせは行っており、人目を忍んで二人で話し合う姿の目撃談も多数ある。また米内とは喧嘩別れしたという説もあるが、最高血圧が260に達した米内はいつ倒れてもおかしくない身であり、「米内倒れる」の報があれば真っ先に駆けつけられるように常に水交社で待機していたともされ、終戦まで長井の自宅には帰らなかった。しかしながら、米内が死去した際は「娘の看病で多忙につき」と葬儀にも参列していない。それについて後年「他に世話する人がいないので家で手を合わせてご冥福をお祈りしていました」と親しい人に語り、亡くなる前兵学校の教え子に米内の墓参代理をお願いしている。また、東久邇宮内閣の時米内続投を推したのは井上である。幣原内閣が成立した時、当時まだあった海軍大臣のポストに米内が自分の後任として推薦したのは、井上ではなく豊田副武であった。
上述の様に、強硬なまでに早期終戦を主張した理由として、井上は晩年に答えたインタビューの中で、「アメリカ、イギリスとの軍備の比率は低いほうがいい、戦いをすれば負けるから、なんとか外交でしのでいかなきゃいかん、…軍人としてそれを自分に言いきかせるということは悲しい…そして、悔しい…悔しいけれど…そういう国なんだから。自分よりも技術が進み、富もあり、人口もたくさんある、土地も広い、という国がある、ということは仕方がない。もがいたって、これを脱ける訳にいかない。そういう世界の状況なれば、その中で、無理をしない範囲で立派な国になっていく方がいいんではないか」と考えていた事を理由として挙げている。
終戦が決まり、米内が軍事参議官を集めて経緯の説明をした席では、悲嘆にくれる同僚をよそに一人すがすがしい表情をしていたという。

戦後の生活

戦争が終わると、亡き妻のために建てた横須賀市長井の別宅に夫を亡くした娘と孫と一緒に隠棲していたが、隠棲と同時に近所の子供に英語を教えるようになり、井上もそれが楽しみになっていった。自然発生的に出来た「英語塾」は名前もなく、近所の子供たちも「英語に行く」「ミスター井上のとこに行く」と言っていただけだが、井上は彼らのために自作のテキストを作り、元生徒たちは現在でも大切に持っているという。井上に教えられた生徒数は定かではないが、120~130名ほどだと言われている。
生徒たちの英語教育には、兵学校校長の際に貫いた語学学習法をそのまま取り入れ、授業ではすべて英語で行い、遅刻の言い訳も隣の人に消しゴムを借りるのも英語で言わないといけない厳しいものであったが、「もう2年半くらい子供たちを教えているが、次第に上達してゆくのが楽しみです。(中略)昔から海軍の教育は自由討論に主眼を置き陸軍のように押し付けはしなかった。私は子供の教育にはこれが一番良いと思っています。(中略)それから英語教育には歌を教えるのが一番いい」と東京タイムズの記者に語っている。また、兵学校校長時代の元教官が訪ねてきた時も、「兵学校の校長と言っても、上に海軍大臣がいて色々言ってくることがあったが、ここでは自分が思うとおりの教育をやっているよ」と語っている。
「井上塾」では、英語だけでなく靴の脱ぎ方からテーブルマナー、レディーファーストの精神まで授業のうちに入っており、数学やフランス語、「上手くなればミスター井上のギターが弾ける」と音楽を学んだ人たちもいて、「英語も心も磨いて欲しい」と自分の生徒を託した地元の中学教師も「井上先生の感化で荒んでいた生徒の心が清らかになり、行っている生徒と行ってない生徒の違いが英語だけでなく言葉遣いから礼儀まで、その差がはっきりとわかりました」と述べており、教え子達も「英語以上に教えて頂いたのは、人間としての生き方でした」と口を揃えて述懐している。
また、英語は海軍時代にお世話になった横須賀の料亭「小松」の従業員にも週2回出張で教えたが、戦後初めて「小松」を訪ねた際、「申し訳ありません。この度の戦争では大変なご迷惑をおかけし、日本海軍を代表してお詫び申し上げます」と頭を下げた。その後は「小松」の新しい客となったアメリカ軍に対する接客の英語を中心に教え、テキストも自分で作ったガリ版刷りのものであった。謝礼は一切受け取らなかったが、授業の後に出した夕食は喜んで摂ったという。 昭和26年、『東京タイムズ』に『ギターを弾く老提督』という記事が載り、それを見た部下や教え子たちが訪問するようになるが、服は破れた部分を継ぎ足して家には特に何もなく、栄養失調で顔が青黒くなり痩せこけた姿に、これがかつて人並み外れて端正で服装に厳しかった人の姿かと愕然としたと言う。
昭和28年、窮乏生活の無理が祟り胃潰瘍で吐血して病院に運ばれるが、「小松」を通してかつての教え子や部下たちに報告され、彼らの尽力によって一命を取り留める。その際にずっと横に付き添っていた女性と後年再婚し、「英語塾」も閉鎖されるが、兵学校時代や「英語塾」の教え子や部下、クラスの人の訪問に喜び、「英語塾」の子供と一部の限られた人間以外は頑なに訪問を断っていた性格も温和になり、公の舞台には亡くなるまで出て来なかったものの、海軍時代から親しい人達には昔話や当時の心中を語っている。
また、あまりに貧乏を極めた生活に見ていられなくなった兵学校時代の教え子たちが提案した資金援助も最初は丁寧に辞退していたが、教え子の一人の深田秀明元中尉の「子供が立派に成長して小遣いを持って訪ねてきたのに、それを受け取らない親父がどこにいますか」という一言に心を動かされ、好意を受け取るようになった。深田は後に井上の喜寿の祝いを自分の会社のビルで行い、井上の希望で料理も酒もない質素なお祝いであったが、深田はイタリア駐在時代に井上が作った自身のブロンズ像を託されている。
毎年8月15日には一日絶食し、軍帽を被り一人端座して遠い海を眺めることを常としていた。
昭和50年12月15日午後5時過ぎに、老衰で死去。。最期の言葉は「海が…、江田島へ…」だった。亡くなった日も、ふらついた足で庭に出て、長い時間海を眺めていたという。遺言は死後二ヵ月半後に見つかったのだが、生前から葬儀の話を周囲にしていたためその遺言のまま告別式が挙行された。昭和天皇より祭祀料が下賜され、参加者の中には終戦間際に秘密工作を命じた高木惣吉の姿もあった。高木は体調不良で医者から安静を命じられていたが、「井上さんの葬儀にはどんなことがあっても行かなければ気が済まない。そのために死んだって本望だ」と家族の制止を振り切って参列したという。
また、戦前に井上の暗殺を実行しようとし、戦後にすべて間違っていたと悟り北海道に移住した元右翼の男が新聞で井上の死を知り、「井上さんに一言お詫びしたい」と告別式の場にやってきたという話もある。

親類関係

家庭的に恵まれなかった井上だったが、兄妹は多く自身は十一男であり当時としても珍しく、兵学校の面接で家族について聞かれ「十一男です」と答え、「ふざけた答えをするな」と叱られたという。また、陸軍嫌いであったわりには、親類に陸軍軍人が多い。そのため、日独伊三国同盟締結に抵抗していた際、陸軍に縁者がいない米内光政・山本五十六より井上の説得が易いと陸軍は考えていたようで、その縁を頼って様々な陸軍軍人が井上の説得に軍務局長室を訪ねている。

遺言

小生の葬儀は密葬のこと
雑件
葬儀場は歓明寺
埋葬は東京多磨霊園の本家墓地に埋葬のこと
花輪、供物、香典等は一切お辞退のこと
付言
お通夜その他の段取りは一般世間の習慣に依ること

年譜

: 墓所は東京都府中市多磨霊園所在。

新軍備計画論

総論 < 一、海軍軍備計画ハ根本的ニ改定ヲ要ス< 軍令部説明軍備計画ヲ見ルニ、其ノ考へ方ハ、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、其ノ他ノ各艦種及航空兵力ニ就キ、対米比率ノ或ル一定水準ノ保持ヲ目的ト為シ居ルヤニ見エ、口ニハ質ヲ以テ量ノ不足ヲ補フト云フモ、其ノ行キ方ハ単ニ個艦能力ノ優ヲ求メ、之ニ依リ勝テ相ニ考へ居ル迄ナリ。而カモ其ノ口ニ云フ質ノ考へ方モ、其ノ内容ヲ突キ詰ムルトキハ、結局、大砲口径ノ大、登載数ノ大、等ヲ覗ハントスルモノニシテ、矢張量的競争ニ過ギズ、海軍々備全体トシテノ質的ノ考へ方、甚少キガ如ク感ゼラル。殊ニ潜水艦勢力ノ対米比率迄モ気ニシ居ル如キ物ノ考へ方ヲ見ルニ至ッテハ、何処ニ自主的ナル軍備計画アリヤヲ疑ハザルヲ得ズ。素々潜水艦ハ、決シテ相手國ノ潜水艦ト相戦フヲ本質トスル艦タネニ非ズ。想定敵國ト潜水艦保有量ノ比較ハ、軍備條約ニ於ケル両國ノ建艦ノ権利ヲ比較シタル軍備條約時代ノ、単ナル政治的ノ思想ニシテ、其ノ間少シモ兵術的ノ表現シ居ラザル素人ノ考へ方ナリ。< 軍令部当局ハ、各艦種ニ就キ、何レモ此ノ思想ニテ軍備計画ヲ立案シ居ルモノノ如ク、成ル程、此ノ思想ハ軍備計画上、一応一ツノ考へ方ニ相違ナク、財力豊富ニシテ、想定敵國ヨリモ優勢海軍ヲ保持シ得ル英・米ノ如キ國情ニ於テ一応首肯シ得ルモ、ソノ思想ハ、海軍々備ノ相対性ヲ極メテ狭ク考へ、各艦種毎ニ優勢ヲ保持スレバ海防ハ安全ナリ、トノ考ニ出発ス。< 帝國ハ其ノ國力ニ於テ、英・米ト飽ク迄建造競争ヲ行ハントスレバ、遂ニ彼ニ屈服スルノ外ナキハ、乍残念明瞭ナル事実ナレバ致方ナシ。曩ニ軍縮條約ヲ破棄セル際ノ帝國ノ決心ハ、彼ト量的ノ建艦競争ヲ行ハントセシニ非ズ。軍備ノ自主性ヲ求メントシタルニ外ナラズ。即チ、帝國海軍ハ軍備條約破棄ヲ契機トシテ軍備充実ノ自由ヲ獲得シ、自主的ニ帝國々情、地理的情勢ニ適応セル、特徴アル軍備ヲ充実シ、ソノ特徴ニ因ッテ帝國國防ノ安固ヲ求メントセシ次第ナリ。< 然ルニ爾来参年ヲ経過セル今日、軍令部当局ノ立案セル将来軍備計画ヲ見ルニ、其ノ間何等新味ナク、何等ノ特徴ナク、旧態依然タルモノアリテ、最近ノ米國ノ大建艦計画ノ報ニ周章、只只量的ニ彼ニ追及セムコトヲ考へ居ルニ過ギズ。< 斯クシテ帝國ハ、対米比率ニ於テ軍備條約時代、條約ノ存在・恩恵ニ依リテ保障(結果ヨリ見レバ此ノ通ナリ)セラレタル約七割ノ軍備ガ、無條約時代ニ至ッテ漸次却ッテ其ノ比率ガ低下セントシ、其比率ノ低下ヲ防ガントシテ四苦八苦ナリト云フガ現状ナルニ非ズヤ。其ノ間、何レニ軍備ノ自主性アリ、何レニ海軍々備ノ特徴アリヤ。軍縮條約破棄ノ際、海軍ガ多大ノ希望ヲ懸ケ、國民ニ迄声明セシ自主的軍備ハ、何処カニ置キ忘レラレタルノ観アリ。殊ニ航空機、潜水艦ノ異常ノ発達ハ、戦争ノ方式ニ大ナル変革ヲ来シツツアリ。又一方、支那問題、東亜共栄圏ノ問題等、帝國ノ地位、東亜ノ情勢ニモ大ナル変化アル今日、吾人ハ徒ラニ米ニ対スル量的競争ノミヲ目途トスルコトヲ止メ、一旦日米開戦ノ暁、日米戦争ハ如何ナル形態ヲ採ルヤ、吾ハ如何ナル作戦を実施スベキヤ、帝國ヲ不敗ノ地位ニ置キ方策如何等ヲ、根本的ニ考察シ、独自ノ見解ニ立チ、新ナル 着想ノ下ニ、新軍備計画ヲ樹立スルノ要、切ナリト謂フベシ。< 吾人ハ何モ、帝國ハ英・米ニ比シ劣勢ニ甘ンズルヲ要スルガ故ニ、軍備ノ自主性ヲ論ジ、特徴軍備ヲ主張スルモノニ非ズ。例令帝國ガ英・米ニ対シ、量的ニ優位ヲ保チ得ルトスルモ、軍備ノ自主性ハ常ニ緊要ニシテ、彼ニ対シ充分ナル優勢ヲ保持シ得ルト仮定スルモ、今後艦隊決戦本位ノ建艦ハ、之ヲ止メ、新形態ノ軍備ニ邁進スルノ要アルコト勿論ナリ。
二、日米戦争ノ形態 < 帝國ガ米國ト交戦スル場合、ソノ戦争ノ形態ヲ考察スルニ、帝國ハ米國ニ敗レザル事ハ軍備ノ形態次第ニ依リ可能ニシテ、又是非共然アルベキモ、又一方、日本ガ米國ヲ破リ、彼ヲ屈服スルコトハ不可能ナリ。其理由ハ極メテ明白簡単ニシテ、< (一)米國ノ本土ハ極メテ広大ナルヲ以テ、其國土全土ヲ攻略スルコトハ不可能ナリ。< (二)米國ノ首都攻略モ(一)ト同一理由ニヨリ不可能ナリ。< (三)日本ハ米ノ作戦軍ヲ殲滅スルコトハ不可能ナリ。< (四)米國ハ物資豊富ニシテ、其ノ國外依存ノ程度少キヲ以テ、封鎖ニヨル苦痛僅少ニシテ、彼ノ死命ヲ制スルニ足ラズ。< (五)米國ノ海岸線ノ長大、帝國ヨリノ遠大距離ニ在ル事、及び太平・大西洋ニ海岸線ヲ有スル為、日本軍ニヨル海上封鎖ハ不可能ニ近シ。< (六)北米大陸ノ中央ヲ占メ、陸境ヲ有スル地理的関係ヨリ、米本國ノ完全封鎖ハ不可能ナリ。< 米國ノ対日作戦ハ、日本ガ米本國ヨリ遠大距離ニ占位シ在ルノ一事アル為、米ノ吾ニ対スル作戦ガ、吾ノ米本國ニ対スル作戦ノ困難ナルト同様ノ共通点アルモ、他ノ情況ハ、日ノ米ニ対スルト大イニ趣ヲ異ニシ、< (一)日本国全土ノ占領モ可能ナリ。< (二)首都ノ占領モ可能。< (三)作戦軍ノ殲滅モ可能ナリ。又、< (四)海上封鎖ニヨル海上交通制圧ニヨル物資窮乏ニ導キ得ル可能性大。< (五)海上封鎖モ技術的ニ不可能ニ非ズ。< 右ニ述ブル如ク、日本ハ対米戦争ノ場合、米ニ対シ、有ラユル弱点ヲ有スルヲ以テ、吾ニ於テ、万一此ノ弱点ヲ守ルノ方策ニ欠クル処アルニ於イテハ、彼、吾ノ弱点ヲ突クノ公算多ク、帝國々防ノ安泰ヲ期シ難シ。旧時ニ於テハ、戦術的ニ対米決戦ニ敗レザルノ兵力ヲ保有スル事ニ依リ、前述ノ弱点ノ手当ハ完全ニ行ハレ、帝國ノ國防ノ安泰ヲ期シ得タルモ、潜水艦及航空機ノ発達ハ海防上ノ大変革ヲ来シ、旧時代ノ海戦ノ思想ノミ以テハ、何事モ之ヲ律スルヲ得ザルコトニ注意ノ要アリ。今、試ニ、対米戦争ノ場合ノ戦争形態ヲ論述スルニ、概、以下列記ノ通ナリト考ヘラル。勿論、以下ハ、純正ナル兵術思想ヲ基礎トセル経過ノ予察ニ過ギザルヲ以テ、彼レ米ニシテ、突飛ナル作戦ノ挙ニ出ズル場合アラバ、吾人ノ予想ト相違スルコトアルベキハ論ヲ俟タズ。又、戦争ハ相対的ナルノミナラズ、情況ハ千変万化、所謂定形ナシ。故ニ厳格ニ細部ニ亘リ、的確ナル予想ヲ行フ事ハ至難ナルベキモ、全体的ナル荒筋ハ大体ニ於テ当ルモノト見ルベシ。< (一)米國ハ多数ノ潜水艦ヲ日本近海及日本ノ生命交通線ニ活動セシメ、航空機ト協力シ根強ク日本ノ海上交通破壊戦ヲ行ヒ、日本ノ物資封鎖ノ挙ニ出ズルベシ。< 日本ハ國家生存及作戦遂行上ノ必要ニヨリ、米ノ潜水艦及航空機ノ攻撃ニ対抗シ、海上交通線ノ確保ヲ要スベシ。此ノ意味ニ於イテ、海軍ノ海上交通確保戦ハ、日米作戦中重要ナル一作戦ナリ。< 米の潜水艦及航空機ハ、韮島ヲ初メ、西太平洋ノ米國ノ領土ヲ基地トシテ活動スベク、吾ハ之ガ抜本塞源的方策トシテモ、此等在東洋米國領土ノ攻略ヲ必要トシ、且、之等領土ヲ我ニ占有スルトキハ、所在航空基地ヲ逆ニ我ニ利用シ得ベク、之ニヨリ我ガ航空機ノ活動ヲ更ニ積極化シ、且、前進セシメ得ルノ見地ヨリ、在東洋米領土ノ攻略ハ、殆ンド絶対ニ近キ必要性ヲ帯ビ来ルヲ以テ、日本ハ此等領土攻略戦ヲ実施スベシ。< 尚、米ガ対日戦ニ於テ、英其ノ他ノ國ノ領土ヲ作戦ニ利用スル場合ニ於テハ、此等三國領土ニ対スル日本ノ攻略作戦ハ是非共必要トシ、ソノ攻略戦ハ、米ガ作戦ニ利用スル程度ニモヨル事ナルモ、原則トシテハ、帝國領土ニ近キモノヨリ順次ニ足場ヲ固メツツ、歩歩前進的ニ実施セラルベキモノトス。< (二)日本ハ、海上ヨリスル敵ノ攻撃ニ対スル直接帝國領土ノ防衛ノ為ニハ、多数ノ潜水艦及航空機ヲ配ス。彼、又航空機ヲ以テ我ニ対シ、基地攻略ノ手段ニ出ズルベシ。此ノ作戦ハ、韮島・台湾・パラオ間、及南洋方面、季節ニヨリ北海方面ニ於テ行ハルベシ。米ハ時ニ好機ヲ見テ、日本本土ノ空襲ヲ企図スベシ。< コノ意味ニ於テ、吾ハ直接国土防衛ノ方策上、此等米國ノ基地攻略ヲ実施スルノ必要アリ。此ノ要求ハ、第一項ニ論ジタル通商線・交通線確保ノ為ノ米領土攻略ノ要求ト相一致ス。< 此ノ米領土攻略戦ニ於テ、日本ノ作戦有利ニ展開シ、在東洋米領土全部ヲ攻略シ得ルニ於イテハ、米國航空機ノ西太平洋ニ於ケル活動ハ大ナル制限ヲ受ケ、爾後ノ作戦ハ概ネ吾ニ有利ニ推移スルヲ得ベク、航空機ト潜水艦ノ活動ニ依リ、米ノ主力艦ノ如キハ、米艦隊長官ガ非常ニ無智無謀ナラザル限リ、生起ノ公算ナシ。< 然レドモ、米モ亦、吾ガ前進基地ヨリ漸次ニ作戦正面ヲ狭窄スルガ如ク帝國ノ領土攻略戦ヲ実施スベキヲ以テ、台湾方面、南洋方面、及北海方面ノ基地奪取戦ハ、相互的ノ努力トナル事、勿論ナリ。< 側チ、日米相互ノ争フ此ノ領土攻略戦ハ、日米戦争ノ主作戦ニシテ、此ノ成敗ハ帝國国運ノ分岐スル所ナリト言フモ過言ニ非ズ、其ノ重要サハ旧時ノ主力艦隊ノ決戦ニ匹敵ス。 (三)日本ガ韮島ヲ初メ、西太平洋ノ米領土ヲ全部攻略スルコトニ依リ、戦ノ大勢ハ決セラレ、帝國ハ西太平洋ノ事実上ノ王者タリ得ベシ。< 勿論、潜水艦ノ存在スル限リ、制海権ノ意義ハ旧時ノ如ク絶対的ナラザル事ニ注意スルヲ要ス。 (四)日本ハ、其潜水艦兵力ヲ以テ、進ンデ布哇及遠ク米本國ニ多数ノ潜水艦ヲ配シ、彼ノ海上交通破壊戦ヲ行フト共ニ、彼ノ水上兵力ニ対シ、機会アル毎ニ突撃ヲ加フベシ。旧来ノ如ク、敵艦隊出撃、西航ノ時機ヲ捕へ、之ヲ通報スルト共ニ、之ニ接触セントスルガ如キ任務ノ如キハ、其実現ノ機会少キヲ以テ、突撃一点張ノ任務を課スルヲ要ス。 (五)以上ノ情況ニ於テ、日米戦争ハ持久戦ノ性質ヲ帯ビ、吾ニモ新シキ手ナク、彼ニモ新シキ手ナク、平凡ナル経過ヲ辿ルベシ。 (六)結論< 帝國ハ、以上述ブル所ノ情況ヲ考へ、帝國ヲ先ズ不敗ノ地位ニ置キ、持久戦ニ耐へ得ル丈ノ準備ヲ為シ置ク事、最緊要ニシテ、速戦速決ノ如キハ、云フベクシテ行ハレズ。従ッテ、速戦速決ノ目途トスル艦隊決戦兵力ノ整備ノミヲ考フルトキハ、其ノ整備スラ思フニ任セズ、之ニ焦慮シ居ル間ニ、帝國ヲ不敗ノ地位ニ置クノ方策ニ大ナル欠陥ヲ生ズベシ。其ノ情況ニテ開戦トナルニ於テハ、決戦兵力ノ如キハ之ヲ用フルノ機会ナキ中ニ、帝國ノ最弱点ヲ突カレテ屈スルコトトナルノ危険アル事ヲ認識スルヲ要ス。
三、帝國ノ海軍軍備整備ノ要点 < 前章ニ於テ日米戦争ノ形態ヲ明ニセシコトニヨリ、帝國海軍軍備ハ何ヲ目途トスベキヤハ自ラ明白ナリ。勿論、日米戦争ガ必然的ニ前述通ノ形態ノ経過ノミヲ辿ルト断言スルヲ得ズ、時ニ吾人ノ予想セザル形態ニ発展スルコトナシトセザルモ、夫ハ概ネ彼ガ兵術常識ニテ考エラレザル型破リノ戦法ニ出デタル場合ナルベク、其ノ場合ニ於テハ、弱点ニ乗ジ彼ノ兵力減殺ノ機会ヲ得ベク、敢テ意トスルニ足ラザルノミカ、吾ニ幸スルモノト云フベシ。< 故ニ吾人ハ、前述ノ戦争形態ニ適応セル戦備ヲ整フルコトニ依リ、帝國海防安全ノ万事ヲ解決シ得ルモノナリ。< 以下順ヲ追ヒ、帝國海軍々備整備ノ要件ヲ述ブ。< (一)帝國ハ、帝國ノ生存上必要ナル、又戦争遂行上必要ナル、國トシテノ海上補給線ノ確保ニ必要ナル兵力ヲ整備スルヲ要ス。帝國ガ其國家生存上及戦争遂行上、國家トシテ日満支連絡線、並ニ蘭印ヲ含ム西大西洋海面交通線ノ保持ヲ必要トスルヲ以テ、戦時此ノ場合、会敵ヲ予期スル敵兵力ハ、航空機、潜水艦及機動水上部隊ナルベク、吾ハ之ニ対応スル兵力ヲ保持・運用スルヲ要ス。<

主要著述物

  • 思い出の記 井上成美私稿

GHQ歴史課陳述録

  • 海軍の和平案、陸海軍統合問題、米内海相留任などについて 1950年(昭和25年)

脚注

参考文献

  • 戦史叢書・第79巻』 中国方面海軍作戦(2) 防衛庁防衛研究所戦史部 編・朝雲新聞社
  • 『戦史叢書・第38巻』 中部太平洋方面海軍作戦(1) (防衛庁防衛研究所戦史部 編・朝雲新聞社)
  • 『井上成美』(井上成美記念刊行会 編)
  • 『井上成美』(阿川弘之 著・新潮社) ISBN 4-10-300414-2 C0093
  • 『米内光政』(阿川弘之 著・新潮社) ISBN 4-10-300413-4 C0093
  • 『山本五十六』(阿川弘之 著・新潮社) ISBN 4-10-300415-0 C0093
  • 高松宮日記』(細川護貞・阿川弘之・大井篤豊田隈雄 編・中央公論新社) ISBN 4-12-490040-6 C0320
  • 『海軍の昭和史』(杉本健 著・光人社) ISBN 4-404-01662-X C0021
  • 『高木惣吉日記と情報・上下巻』(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
  • 『海軍少将高木惣吉語録』(藤岡泰周 著・光人社) ISBN 4-7698-0375-3 C0095
  • 『昭和陸海軍の失敗―彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか』(半藤一利秦郁彦平間洋一保阪正康黒野耐・戸高一成・戸部良一福田和也 編・文藝春秋) ISBN 4166606107
  • 『日本海軍、錨揚ゲ!』(阿川弘之・半藤一利 共著・PHP研究所)ISBN 4569664253
  • 『海に帰る』(横山一郎著・原書房
  • 『最後の海軍大将 井上成美』(宮野澄・文藝春秋)
  • 『反戦大将 井上成美』(生出寿 徳間書店)
  • 『一海軍士官の回想』(中山定義 著・毎日新聞社
  • 『日本陸海軍の制度・組織・人事』(日本近代史料研究会 編・東京大学出版会
  • 『海軍兵学校沿革・第2巻』(海軍兵学校 刊)
  • 『海軍兵学校出身者名簿』(小野崎誠 編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)
  • 『あゝ海軍』(大映・1970年) 森雅之演じる海軍兵学校校長のモデル
(批判的な意見を述べた著書)
  • 『戦略爆撃の思想 ゲルニカ―重慶―広島への軌跡』(前田哲男 著・朝日新聞社。新訂版、凱風社)ISBN 9784773630091
  • 『愚将井上成美 日本の敗因を探る』(岡文正 著・サクセス・マルチメディア・インク。)ISBN 4-88588-043-2

関連項目

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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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