五十嵐篤好(いがらし あつよし、
寛政2年(
1790年) -
万延元年(
1860年))は
江戸時代後期の
越中国砺波郡内島村(現
富山県高岡市東五位)の十村肝煎(庄屋にあたる村役人)、
国学者。号は臥牛斎・雉岡。十村としては五十嵐小豊次と名乗り、国学者としては篤好と称していた。
本居大平・
富士谷御杖らに師事。『天朝墨談』『歌学訓』『伊勢物語披雲』などの著作がある。
和算や測量にも通じ、「新器測量法」を著した。万延元年(1860年)、71歳で没した。
五十嵐家の初代は
越後国蒲原郡伊賀良志神社の神主と伝えられている。五十嵐家の屋敷跡は現在高岡市立東五位小学校となっている。その近くには凶作に備えた「備荒倉」があったと伝えられ、その跡地に石碑が現存している。農政にも多くの功績を残した。十村となった篤好は、測量に13年、掘削工事に7年かけた大工事「舟倉野用水」(富山県
富山市大沢野)にたずさわり、文化13年(1816)に完成させるが、讒言(ざんげん)にあい投獄され、一時、島流しの刑にあった。
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2008-11-28 16:15:24)
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