経歴
1975年に
日本競輪学校を卒業。第35期生としてデビューすると18連勝(当時の記録)し、トップクラスに昇りつめた。しかし『宮城王国』『群馬王国』『三強時代』と続く東日本優位時代であり、
1976年高松宮杯から参戦した
特別競輪では苦戦が続き、さらに
1977年世界チャンピオンの金看板を背負ってからは競輪選手の枠を超えたメディアでの活躍に〔倒しがいのある選手〕として対中野包囲網が自然に形成され、2対7の競走は当たり前で決勝進出もままならない状態に陥り、ベテラン記者もこんな事はかつてなかったと述懐した。その象徴が宮杯での岩崎誠一の過度の牽制であり、
競輪祭での
吉井秀仁の放言(決勝戦終了後、中野に対し、「ザマーミロ、あー気持ちいい」と言った)だった。それもこれも中野の稀有のスター性のなせる技で、中野を中心に輪界は盛り上がっていった。
1978年には競輪祭で特別競輪初優勝を飾る。そして
1980年に、日本のプロスポーツ選手として初めて年間賞金獲得額1億円突破を達成し話題となった。中野の強さは驚異的であり、2人から4人で連携して戦う「
ライン」と呼ばれる現在主流の戦法が生まれたきっかけは、あまりにも強い中野への対抗策に他ならない(
フラワーライン・
滝澤正光・
山口国男の項を参照)。なお、競技で使った
トラックレーサーはナガサワサイクルの特製専用車。
1976年に初めて
世界自転車選手権に参戦し、翌
1977年には世界自転車選手権プロスプリント(当時の名称はプロスクラッチ)種目で初優勝を成し遂げた。それ以降は毎年この種目で優勝し続け、
1986年までに10連覇を達成して、競輪を国内だけでなく世界的にも認知させることに大きく貢献した。
欧州では自転車競技者は尊敬を集める存在で、その上で世界選手権10連覇ともなればその尊敬の度合は並々ならぬものである。実際、中野は欧州においては現在でも日本人が想像する以上のビッグネームで、むしろ伝説的な存在である。認知度も高く尊敬を集めており、特に
フランスでは「
ムッシュ」の敬称をつけて呼ばれている。テロなどの保安面の問題に航空業界がまだおおらかであった時代には、欧州で旅客機に搭乗した時に、機長から直々に特別に
コックピットに招待されたというエピソードもある(現在では保安やセキュリティシステムの面で問題となる為、この様な事は行われない)。
しかしこの当時、1970年から1980年代のスプリント(スクラッチ)種目は、
ソ連・東欧諸国の国家から報酬を受けて生活する
アマチュア選手(いわゆる「ステートアマ」)が圧倒的な強さを誇っていた時代であり、出場者が
プロフェッショナルに限られ、ステートアマとの対戦がないプロスプリント種目にはそれほどの価値はないとして疑問を呈されることがある(詳しくは
ルッツ・ヘスリッヒの項を参照)。ただ中野は競輪主催団体の方針による後援が受けられたからとはいえ、世界規模のスポーツ大会において日本人が毎年出場していた例そのものが少なかった頃の活躍だっただけに、現在海外で活躍し続ける日本人スポーツ選手の先駆者となった面もあり、かつ10連覇という記録自体が至難であるとも考えられている。
国内でも常にトップクラスで活躍し続け、1983年競輪祭で滝澤正光を捲って優勝したのを最後に、異例の長きに渡った競輪競走第一人者の座は降りたが、
1988年には通算賞金獲得額10億円を突破。しかし、
1992年に特別競輪の中で最後まで優勝できなかった高松宮杯競輪(現在の
高松宮記念杯競輪)の決勝戦2着を最後に引退した。獲得賞金総額は13億2764万677円。
引退後
引退後は、競輪関係を中心に各方面で活躍中。中でも、現役時代から出演していた
アートネイチャーの
CMはあまりにも有名で、CM出演後も「カツラを公表した有名人」として知られるようになった。その関係から、一時は自転車の
ロードレースチーム「チームアートネイチャー」の監督も務めていた。しかしアートネイチャーとの契約が切れたことに加え年齢が高くなってきたこと、さらに
2005年に自毛植毛手術を受けたこともあり、現在はカツラは使用していない。
また、
阪神・淡路大震災の直後、
関西では通常番組の多くが休止される中で
公共広告機構のCMが大量に流され、その中で中野と
増田明美が共演した「浩一・明美のあき缶拾いジョギング」のCMが注目された。このCMの中で中野が発する「もぉー……!!」「ニッポン全国、ポイ捨て、禁止ィィー!!」という台詞部分は、当時の関西でちょっとした流行語となった。またCMソングは夫人のNAOMIが歌っていた。
その後、競輪がオリンピック自転車競技の「
ケイリン」として正式種目に採用された2000年の
シドニーオリンピックでは、競技の解説も務めるかたわら、決勝レースの先導誘導員も務めていた。
2006年春の
紫綬褒章を、
競輪選手として初めて受章。競輪選手としての現役時代の活躍とともに、世界選手権プロスプリント10連覇が高く評価された。本人は「現役時代に一生懸命取り組んできたことが評価されて光栄に思います。今回の受賞は自分だけの
名誉ではなく、業界の後押しもあってのこと。これからも熱い思いで
ファンに愛される競輪のお手伝いができれば」と喜びを語った。
なお引退後久しい現在もJKA特別顧問という競輪関係者の立場にあり、規則上、予想行為や
車券の購入はできない。実際、TV中継やスポーツ新聞などでその日のレースに関する評論を行う時は、選手の調子や展開、技術論、選手心理などについて語るのみにとどめており、直接的な車券の買い目予想を行う事はない。
現在、現役時の本拠地であった
久留米競輪場では彼の功績を称え、記念競輪を「中野カップレース」と名づけて開催している。
競輪での主な獲得タイトルと記録
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1976年
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競輪祭(新人王)(小倉競輪場)
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1977年
- ・賞金王(66,139,600円)
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1978年
- 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
- ・賞金王(82,385,200円)
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1979年
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オールスター競輪(岸和田競輪場)
- ・賞金王(92,186,200円)
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1980年
- オールスター競輪(いわき平競輪場)
- 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
- ・賞金王(111,410,600円。日本プロスポーツ選手史上初の年間獲得賞金1億円突破)
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1981年
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日本選手権競輪(千葉競輪場
- 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
- ・賞金王(107,685,711円)
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1983年
- 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
- ・賞金王(109,093,600円。史上最多の6回目の座に就く)
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1985年
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KEIRINグランプリ(立川競輪場。初代優勝者)
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1987年
- 競輪祭競輪王戦(小倉競輪場。同大会最多優勝記録(5回)達成)
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1988年
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全日本選抜競輪(青森競輪場)
- オールスター競輪(岸和田競輪場)
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1989年
- 全日本選抜競輪(前橋競輪場)
- 年間賞金王6回
- 通算出走回数1236回中1着666回
- 優勝回数 158
KEIRINグランプリ出場実績
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1985年……優勝
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1986年……3着
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1987年……2着
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1988年……5着
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1989年……中止
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1990年……2着
世界自転車選手権
連覇への足跡
1976年、
イタリア・
レッチェ大会のプロ・スクラッチ(現在は
スプリント、以下スプリントと表記)種目に初参加。3位決定戦で
菅田順和に敗れ4位(このときの3位決定戦において、1本目は先に中野が先取していたが、雨天のため2本目が中止となった。翌日に再度行われた同決定戦において、前日の成績はノーカウントとされたばかりか、結局菅田にストレート負けを喫した)。
1977年、
ベネズエラ・サンクリストバル大会、プロ・スプリント準決勝で同種目2連覇中の
ジョン・ニコルソン(豪州)を撃破。その余勢をかって決勝で対戦した
菅田順和を2日間にわたる戦い(1本目、中野が先取したあと雨天のため中止となり、2本目は翌日開催。このときは前年と異なり、前日の成績が反映された。)で破り、1893年より開始された同大会史上初の
日本人選手優勝者となった。
1980年、
フランス・
ブザンソン大会において、アマチュア時代、
メキシコ・
ミュンヘンの両
五輪大会においてスプリント連覇、
世界自転車選手権スプリントも7回優勝を果たした、「スプリントの神様」と称された
ダニエル・モレロン(
フランス)がプロ入りを果たしたことから対決が実現。準決勝において対戦し、中野はストレートでモレロンを撃破。決勝でも
尾崎雅彦を破り、同種目4連覇を果たす。この大会でモレロンを破ったことに対して敬意を表し、以後フランスでは「ムッシュ・ナカノ」と呼ばれるようになった。
1981年、
チェコスロバキア・
ブルノ大会において、この年にプロ入りを果たしたばかりの
ゴードン・シングルトン(
カナダ)と決勝で対決。このときは中野がストレートでシングルトンを下し同種目5連覇を果たしたが、シングルトンの予想以上のパワーは中野にとって脅威で、翌年の大死闘の伏線となる。また、この優勝が評価されて中野は競輪選手としては史上2人目の
日本プロスポーツ大賞を受賞した。
死闘の末の6連覇達成
1982年、
イギリス・
レスター大会。先に行われたケイリンを制覇していたシングルトンは準決勝で亀川修一を圧倒するなど、予選道中完璧な内容で決勝進出。一方中野はこの年、競輪で落車が相次いだことから不調が伝えられたが、準決勝のヤーベ・カール戦で先に一本先取され、プロスプリント種目における連取記録は25でストップしてしまった。何とか2、3本目を取って決勝へと駒を進めたものの、決勝戦までの過程の内容は、断然シングルトンのほうが上回っていた。また、
イギリス連邦の選手ということもあって、満場のスタンドはほとんど全てシングルトンを応援していたことから、決勝前にはシングルトン有利の下馬評が伝えられた。
一本目、逃げるシングルトンを中野は射程圏内に入れ、左右後方を振り返るほどの余裕をもってゴール前で完全にかわしに入ったが、かわし際にシングルトンと接触して双方転倒し、互いにゴールできなかったことからノーカウントの判定となった。ところで、中野が追い抜こうとした際、シングルトンが右ひじを出してきて進路を妨害されたとして日本選手団側は抗議に出たが却下された。そしてこのシングルトンの行為が二本目の伏線に繋がる。さらに中野だけは意識が朦朧としたままの状態がしばらく続いたという。
再戦一本目、ダッシュのタイミングが遅れた中野は直線手前で踏むのを諦めたことから、シングルトンが逃げ切る。そしてもう後がなくなった。
二本目、またしても逃げるシングルトンを追う形となった中野は2センターから遅めの捲りを敢行。そしてこの二本目においても中野のかわし際にシングルトンは右ひじを出してきたが、中野はこれにひっかからず、今度はシングルトンだけが転倒した。この時点で中野がタイに持ち込んだ。
この判定にカナダ側が抗議に出るも却下され、そればかりかシングルトンはこの際に右ひじを骨折。三本目の競走続行不可能となり棄権。中野は薄氷を踏む思いで同種目6連覇を達成した。
レース後、
国際自転車競技連合 (UCI) はノーカウントとなった一本目ならびに二本目のシングルトンの中野に対する行為は悪質だとして、シングルトンを事実上の永久追放処分とすることに決した。UCI主管以外の大会には出場ができたが、当然、世界自転車選手権には出場できず、その後シングルトンは現役引退を余儀なくされた。
また、この年の優勝により、中野はジェフ・シェーレン(ベルギー)が1932~1937年に記録した同種目の連覇に並び、翌年に新記録をかけることとなった。
従来記録を毎年更新
1983年、
スイス・
チューリッヒ大会。決勝でヤーベ・カール(フランス)を下し7連覇となり、ついに同種目の連覇記録を更新。
1984年、
スペイン・
バルセロナ大会。
高松宮杯競輪決勝で落車。鎖骨骨折を負い、この年の同大会は病み上がりの状態で出場したが、決勝でオクタビオ・ダザン(イタリア)を下し8連覇。シェーレン、
アントニオ・マスペス(イタリア)と並んでいた同種目最多優勝記録をも更新し、ついに
ギネスブックにその記録が登録される事に。また、
公営競技の選手としては初めて、
昭和天皇主催の秋の
園遊会の招待も受けた。
1985年、
イタリア・バッサノ大会。準決勝でフィリップ・ベルネ(フランス)に先に一本目を取られて苦戦したものの、決勝で松枝義幸をストレートで下して9連覇を達成。
不死鳥のごとく蘇り、ついに10連覇達成
しかしながらこの年(1986年)、中野は
高松宮杯競輪直前の練習中に転倒し
肋骨などを
骨折(折れた骨の中には
肺に突き刺さっているものもあった)する大怪我に見舞われた。一時は全治3ヶ月と診断され、
世界自転車選手権出場自体も危ぶまれた。
しかし驚異の回復力に加え、
リハビリとトレーニングを兼ねるという荒療治を施してほぼ1ヶ月程度で競走可能な状態にまで持ち込み、当時世界自転車選手権の直前に行われていた
全日本選抜競輪への出場を予定していた。だが、またしても直前練習の際に転倒。大事にこそ至らなかったが同じ箇所を痛めてしまい、骨折が完治しないまま中野はコロラドスプリングスの世界選手権に出場することになった。
しかし中野はこの年から採用された、対戦相手を決めるために行われる200メートルフライングタイムトライアルにおいて当時の同種目プロ世界新記録となる記録(10.57秒)をたたき出し、本戦に入っても全てストレートで下して決勝に進出する。決勝では、同じ日本の
俵信之を下した
松井英幸との対戦となったが、中野はストレートで松井を下しついに10連覇達成。また、3位決定戦において俵信之がディーター・ギープケン(西ドイツ)を下したことから、この年の同種目は日本勢のメダル独占となった。
大会終了後、中野はこの10連覇をもってスプリントから撤退すると表明。一部の外国記者から「引退か」と質問をかけられたが、中野は「スプリントにはもう出場しないが、今度はケイリンに出たい」と表明した。
1990年、
前橋の開催において、日本自転車関係者のたっての希望により、中野はケイリンへの出場を果たすも予選で敗退した。
1991年、
ドイツ・
シュトゥットガルト大会にもケイリンで参加したが、決勝5着。そして、これが中野が参加した最後の世界選手権となった。
競走スタイル
途中までは中団に位置し、残り数百
メートルあたりで全力ダッシュをかけて一番前に出て、そのままゴールまで先頭を維持し続ける「捲り」という走りを最も得意とした。スプリントV10はこの走り方により成し遂げた面が大きい(
浩一ダッシュとも言われた)。
高橋健二は
浩一ダッシュを「一瞬の爆発力。ピストンの走路に中野がダッシュすると、タイヤのスリップ跡が着いた」と評している。
浩一ダッシュの秘密が、競輪学校の教材に残されている。中野の場合、踏み込む時には大きく力が加わっているが、その後は全く力が加わっていない。一流選手でも力が残る人が多いのとは対照的に、中野の切り替えの見事さが際立っている。ペダルは両足で漕ぐが、右足で下向きの力を掛けている時に左足の力も残っていると、ギアを回転させる力を殺してしまうのだ。中野が高速でペダルを踏んでも絶妙なタイミングで切り替えができたのは、実は陸上競技をしていた時の練習の賜物で「踵がお尻にあたるような、足を出す時に早く巻き込むと様なイメージで、陸上練習をやっていたのが、逆に役に立っているのかなと思う。僕の自転車に乗ってる姿を見て、なんか自転車の上で走ってるようだねっていう人もいた」と述懐している。
競輪競争においてダッシュは2通りある。ひとつは、全くスピードに乗っていない状態からの踏み出しで
0発進と呼ばれ、
長塚智広が世界有数の能力を持っている。もうひとつは、ある程度スピードに乗った状態からの急加速であり、
吉岡稔真の
F1ダッシュ(ラジオの題名)が有名である。通常、この2つはあまり同居せず、
長塚智広は並のS1手であり、
吉岡稔真は常に踏み出しで遅れをとっていたが、中野はこの2つのダッシュ力においてどちらも輪界トップであったことが驚異的な成績につながることになった。
なお、ダッシュ力の持続は数百メートルの範囲であり、競輪以外での中・長距離走は苦手であることを現役時代から公言している。
中野の速さのもう一つの秘密は、自転車のフレームにあった。他の選手は通常、結構ハンドルにしがみついて乗るフォームになる。それに対して、中野は全速力で走る時も、腰をサドルに乗せたままペダルを漕ぐ。しかし腰を浮かせて前に行ったほうが、ペダルに力を掛けやすい。そこで、中野の自転車を製作していた長澤義明は、その走り方の特長を最大限に生かそうと考えた。フレームの形を変え、サドルの位置を前に2cmずらした。これなら安定して強い力で漕げる。更に中野のパワーに負けないように、フレームのパイプを肉厚にした。重くはなるが、力が逃げない。安定したペダリングで強い踏み込みができるこのフレームは、中野が世界で勝った後、わずか3年でスタンダードになっていた。
競輪競走1236走中9着は僅か4回である。
音楽作品
- 花が散る前に
- 愛のRhapsody(NAOMIとデュエット、1997年12月10日発売)
著書
出演番組
テレビ
ラジオ
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エピソード
競技に関すること
- 現在、スプリント種目はスタンディング(途中で走行を止めて相手の出方を伺うプレー)についての規制が厳しくなったが、かつてのスプリント種目といえば、スタンディングは戦略上重要なプレーとして認識されていた。ところが、中野はそのスタンディングを嫌い、相手がスタンディングに持ち込もうとすると自ら前に出ていった。これは、中野自身がスタンディングを不得手としていたということもあったが、相手が前に出ようとしないとならば、自分から前に出て行って、最後は力で相手をねじ伏せればいいと考えていたこともあって、スタンディングそのものが必要でないと認識していた。すると、中野に倣って他選手も次第にスタンディングをしなくなった。中野が世界選を制する前までは、スプリントといえば、1回の勝負が決着するまでに30分近くかかることがよくあったが、中野が連覇中の頃は、1回の勝負にかかる時間はわずか5分足らず程度になった。やがて上述の通り、スタンディングプレーそのものに規制が入るようになった。
- 世界選手権10連覇達成については経歴でも述べられている通り、当時の世界選はプロとアマとの間に垣根が設けられていたため、東欧勢不在に起因するところが大きいとして過小評価する自転車関係者は少なくない。そんな中、ツール・ド・フランス5回優勝のベルナール・イノーは、持ちタイムではルッツ・ヘスリッヒのほうが上かもしれないが、1対1の勝負では断然中野のほうが強いと述べた(自転車競技マガジン(発刊時期不詳)のインタービュー記事より)。その理由として、自転車競技は持ちタイムだけで勝てるものではなく、勝負に対する貪欲さが何よりも求められているからだとしている。
- 世界選連覇中の時代に、スプリントで他選手が中野を破った事例(3本勝負において1本目ないし2本目を取ったというケースを除く)として、1978年のグランプリ・ド・パリ決勝における、ルッツ・ヘスリッヒ(1位)、エマヌエル・ラーシュ(2位)があるが、このときは1本勝負の3人マッチとして行われた。なお、同レースの予選では、中野はヘスリッヒ及びラーシュに勝っている。この他、エキシビションマッチではあるが、1979年に西宮競輪場で開催された全日本プロ選手権自転車競技大会(全プロ大会)でアントン・トカシュが、同じく全プロ大会において、1984年に向日町競輪場で中武克雄(当時、島野工業所属)が破ったケースがある(トカシュ、中武のケースは共に、1本勝負)。また、破った選手はいずれもアマチュアの選手であったことから、こうした事例につき、スプリント種目においては当時、アマのほうがプロよりもレベルが高かったという見方をする人もいるが、グランプリ・ド・パリ以外のレースは非公式であり、その見方については疑問視される点も多い。
- 世界選手権の参戦理由を中野は、「(競輪で)勝ち続けてもなにか釈然としない…。競輪選手は競馬の馬のようにしか、思われていない。どんなに厳しい練習を積んで勝ち続けても、人間としての賞賛とは無縁だった。ぼくは選手になってから、職業欄に競輪選手と書いていたが、父の頃は堂々と競輪選手と言えなかった部分もあって、競輪選手と書かなかった。どうすればスポーツ選手として認めてもらえるのか?」と考えていた矢先、競輪選手の社会的地位をあげたいと考えていた競輪界が世界選手権に参戦を決めたので、「自転車競技で世界一になると決心した」という。
タレント性に関すること
-
1983年の年末に、角界の関取衆も交えたスポーツ選手が一同に介して歌で覇を競った番組がテレビ朝日で放送されたが、西城秀樹のギャランドゥを歌唱して見事優勝。歌でも日本プロスポーツ界の頂点を極めたこととなった。また、「依頼されたのならば競走に支障がない限り出演したい」と明言し、現役時代は、競輪におよそ関係のないテレビ・ラジオ番組にどんどん出演した。つまり、現役スポーツ選手兼タレントのパイオニアといってもいい存在でもあった。
- とりわけ王貞治に対するライバル心は凄まじかった。中野が世界選手権で初優勝した同日に、王はホームラン世界記録に並ぶ755本目を打ち、翌日のスポーツ紙の一面は王の記事ばかりで、中野の快挙はほんの小さな扱いだった。翌年の世界選手権で中野は連覇を達成したが、帰国した日の一面は、またしても王の800号が扱われ、世間の注目を集められなかった。その時、中野は「世界選手権で連覇し続けよう。ヨーロッパではそれなりの評価を受けているのだから、それを日本の皆さんに知ってもらおうとだんだん考えるようになった」という。当時日本プロスポーツ界で最も稼いでいたとされる(CM出演料等を除く正味の稼ぎ)、王の年俸が最高でも8000万円ほどだった時代に、「王さんより先に自分が日本で初めて1億円の賞金を稼ぐ選手となる。」と明言し、1980年に見事成就させた。また世界選手権の10連覇になぜ拘ったかというと、それは王が当時在籍していた巨人軍の日本一連覇記録が9だったので、何とかその記録を一つでも上回りたいという一心から生じたことにもよる。また、山下泰裕が記録していた全日本柔道選手権の9連覇についても強く意識していた。
その他
- 人前で涙をほとんど見せたことがなかったが、世界選手権で10連覇したときと、引退記者会見のときにはうれし涙を浮かべた。引退記者会見の際には、「今日が一番うれしい。世界選手権で初めて優勝したときは数名程度にすぎなかったのに、今日、こんなに大勢の記者の人たち(凡そ20~30名ほどいたといわれている)が来てくれるとは思わなかったから。」と述べた。
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北京オリンピック・ケイリン決勝では、実況のアナ氏を遮るような形で、「永井、詰めろ!」、「永井行け!」等と再三再四絶叫。その後、スポーツ新聞等に、「決勝のときの実況中継は二度と見たくない。」と話し、恥ずかしい思いをしたようである。
- 現在、同姓同名の現役競輪選手が存在する(47期生)。しかもホームバンクも同じく久留米競輪場。その選手のニックネームは「にせもん」とのこと。
関連項目
脚注
外部リンク