カエサルの配下として
カエサル死後
同年
3月15日、
カッシウス、
ブルートゥスらによってカエサルが殺害されると、執政官であった
マルクス・アントニウスらは、カエサルの行った政治の継続を認めるよう暗殺者たちと交渉を行った。軍隊を率いていたレピドゥスはローマのポメリウムの中に入ることはできなかったが、その軍団の存在が共和派への大きな圧力となった。その後、カエサルの死によって空席となった
最高神祇官に就任した。
暗殺加担者の逃亡あるいは処罰によってひとまず事態が収拾されると、カエサルによって後継者と指名された
オクタウィアヌスと、後継者の座を狙うアントニウスの間の緊張が高まった。オクタウィアヌスは
共和派と連合し、アントニウスを攻撃した。レピドゥスはアントニウスと同じく
民衆派であったが、
ガリアの地にあり、アントニウスを直接援助はしていない。ヒルティウスとパンサの両執政官とオクタウィアヌスの連合軍に敗れ、ガリアに逃れたアントニウスを、レピドゥスは迎え、連合して共和派に対峙した。
ここで、実際は共和政よりも寡頭制を望んでいたオクタウィアヌスは、両者と結び、
紀元前43年に
ボローニャにてレピドゥス、アントニウス、オクタウィアヌスの三者による同盟、第二回三頭政治が成立した。三人は国家再建三人委員会を組織し、共和派の粛清を開始した。この粛清により、
キケロが殺害されるなどイタリア国内の共和派は一掃され、ギリシアのブルートゥス、カッシウスらを残すのみとなった。
この後行なわれたブルートゥスらとカエサル派が戦った
ピリッピの戦いにレピドゥスは参加せず、決定的な勝利の当事者となった2人から政治的に引き離されていった。
その後アントニウスとオクタウィアヌスの諍いの後、
紀元前40年にブリンディシ協定が結ばれ、ローマの勢力範囲を三分することになり、レピドゥスは
アフリカの統治を任された。
紀元前36年、
シチリア島で、最後の反カエサル派でポンペイウスの次男
セクストゥス・ポンペイウスとオクタウィアヌスとの戦いののち、レピドゥスはオクタウィアヌスの打倒を図って失敗した。汚職と反乱の疑いをかけられ、終身職である最高神祇官を除く役職を全て剥奪され、ローマから離れた田舎で死ぬまで隠棲した。
紀元前13年に死去した。最高神祇官の職はアウグストゥスが受け継ぎ、のちに
ローマ皇帝の属性の一つとなった。
アウグストゥスは自身の『業績録』の中で、最高神祇官職を奪うこともできたのに死まで待ったことを自身の美徳の一つに数えた。レピドゥスは、共和政末期の動乱の主要人物の中で、自然死を迎えた数少ない人物であった。
れひとうす まるくす
----------------------------------------------
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
ご利用上の注意