生涯
1399年、マヌエル2世は西欧から支援を取り付けようと、
イタリア諸
都市国家や
フランス王国、
神聖ローマ帝国、
イングランド王国を歴訪する。マヌエルは各地で歓迎を受けるが、具体的な援助を得られず結果としては失敗に終わってしまった。その間にオスマン軍の圧迫は強まるばかりであり、1402年になると皇帝不在の首都ではオスマン軍に街を明け渡そうかという議論まで行われていた。
の東ローマ帝国]]
そこへ意外なところから援軍が現れた。
ティムールが
小アジアへ侵攻し、迎え撃ったバヤズィトは
1402年7月の
アンカラの戦いで敗れて捕虜になったのである。その報を滞在先の
パリで受けたマヌエルは帝都に帰ると、オスマン帝国の
スルタン位争奪戦に介入し、自らが推した
メフメト1世をスルタンにすることに成功。このためメフメト1世との間には友好関係が保たれ、オスマン帝国からの圧迫に小休止がもたらされた。
しかし、
1421年にメフメト1世が死去して
ムラト2世が後を継ぐと、宮廷内では長男ヨハネスを中心とした対オスマン強硬派が台頭してきた。このため、マヌエルはヨハネスを共同皇帝にして実権を譲り、事実上引退した。ヨハネスは東ローマ帝国内に拘留されていた、
バヤズィト1世の息子と称するムスタファを対立スルタンとして擁立したが、翌
1422年にムスタファは
ムラト2世によって打ち破られて処刑された。ムラト2世は余勢を駆ってコンスタンティノポリスまで攻め寄せ、帝都はオスマンの大軍に包囲された。このため、引退していたマヌエルが復帰し、オスマン軍を外交で霍乱。オスマン軍を撤退させることに成功し、講和条約を結ぶことになった。しかし条約では東ローマ帝国はオスマン帝国スルタンに臣下の礼をとることを誓約させられた。もはや、東ローマ帝国には、オスマン帝国の顔色を窺いながら細々と生きるしか道は残されていなかったのである。
1425年7月、マヌエルは
修道士マタイオスとして74歳で死去した。マヌエルは勝気な息子ヨハネス8世の行く末を心配し、「今の帝国に必要なのは皇帝ではなく、管理人なのだ」と大臣のゲオルギオス・スフランツェスに語っているほどだったが、最期にはヨハネスに「今後は、お前の好きなようにしなさい」と遺している。マヌエルは、もはや帝国の滅亡は避けられないものであると感じていたのかもしれない。実際、マヌエルの死から僅か28年後の1453年、帝国は最期の時を迎えるのである。
また、マヌエルは帝衣や皇冠をまとわず、喪服のような白衣を好んで身につけていたと言われ、廷臣からは悲しそうな瞳をした
君主として記憶された。政治面で治績を残す機会には恵まれなかったが、したたかで粘り強い交渉者であり、「よりよい時代に生まれていたなら、さぞかし名君であったろう」と評されている。
家族
1392年2月10日に
セルビア君主コンスタンティン・ドラガシュの娘イェレナ・ドラガシュ(ヘレネ・パレオロギナ)と結婚。以下の8児が生まれた。
夭折した第2子コンスタンティノスと第6子ミカエルは通例では省略される。
ヘレネとの間には2人の娘も生まれたが、共に
1406年の
ペストで早世し、名前も知られていない。この他、ヘレネとの結婚前に娘ザビアを非嫡出子として得ている。
- ザビア・パレオロギナ(イザベラ)(Zabia-Isabella Palaiologina, Ζαμπία Παλαιολογίνα, 生没年不詳)
マヌエル2世の語録
2006年9月12日、
ローマ教皇ベネディクト16世が、訪問先の母国ドイツのレーゲンスブルク大学で講演した際、「
ムハンマドが新たに何をもたらしたのかを教えてほしい。自らの説く信仰を剣で布教しろという命令など、邪悪で残酷なものしかない」などとこの皇帝の言葉を引用し、イスラム教徒の強い反発を招いた。
参考文献
- 井上浩一著『生き残った帝国ビザンティン』(講談社現代新書)
- 井上浩一・粟生沢猛夫著『世界の歴史 第11巻 ビザンツとスラヴ』(中央公論社)
- 井上浩一著『ビザンツ皇妃列伝』(筑摩書房)
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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