概要
「東洋の真珠」と呼ばれることもある。フィリピンが
スペイン人によって
植民地化された
16世紀末よりフィリピンの首府であり、独立後も一貫して首都でありつづけている(一時期
ケソンに首都が置かれたこともあるが、マニラと隣接し、またマニラ
首都圏の一市となったため、ここでは区別しない)。
2007年現在での
人口は、1,660,714人。都市の発展に伴ってマニラは本来のマニラの区域から拡大し、
メトロ・マニラ (
Metro Manila) とも呼ばれる
マニラ首都圏 (
National Capital Region, NCR) へと広がっている。「マニラ」という名称はタガログ語で「ニラッド(植物の名称)のはえるところ」という意味の「マイニラ」に由来している。
地区
市域はパシグ川北岸の8地区、南岸の8地区に分けられる。北岸のビノンド地区は
チャイナタウン、
トンドは東洋最大の
スラムとして知られる。南岸にあるマニラ旧城の
イントラムロス地区や、マニラ湾に沿ったベイウォークなど、観光名所はほとんどが南岸に集中している。
歴史
レガスピの到来
16世紀のスペイン人到来以前から、パシグ川の流域にあって、マニラ湾に臨む交通の要衝にあった現代のマニラ地域には、マレー人の集落が存在しており、中国人などがさかんに来航して交易をおこなっていた。東洋におけるスペインの拠点を築くべく初代総督としてフィリピンへやってきた
ミゲル・ロペス・デ・レガスピらはマニラの地理的な重要性に着目し、ここを占領して拠点化しようと考えた。レガスピは1570年に先遣隊を派遣してマニラを占領しようとしたがうまくいかなかったため、1571年に自ら赴いてマニラを占領した。レガスピは占領した5月19日が聖ポテンシアナという聖人の祝い日であったことから、ポテンシアナをフィリピンの守護聖人とした。
レガスピが築いた最初のマニラ市は、サン・アントニオ、サン・カルロス、サン・ガブリエル、サン・ルイスの四つの地域からなり、政庁と大聖堂および中央広場、アウグスティノ会の修道院や軍事施設、宿舎などがつくられた。(イントラムロス)
中国人たちはスペイン人の占拠によって交易に支障をきたしたため、その排除を狙った。初期のマニラは中国南岸部の海賊の領袖であったと考えられるリム・アホンなる人物の襲来を受け、火事などによっても破壊されることが多かった。
16世紀の終わりにこの地をおとずれた
イエズス会員アントニオ・セデーニョは建築学の知識があったため、その指揮によってマニラの再建と要塞化がすすめられ、「イントラムロス」と呼ばれるマニラの城壁内地域が整備された。イントラムロスの内部には一般の建築物と共にマニラ大聖堂、サント・ドミンゴ教会など多くの壮麗な教会が建設されたが、多くは第二次大戦中に破壊された。唯一建設当時の姿を残しているサン・アウグスチン教会は
フィリピンのバロック様式教会群として
世界遺産に登録されている。
中国人たちは依然としてアジア経済を握っていたため、マニラにおいても大きな影響力を持ち、イントラムロスの外に中国人街を築いて暮らしながら、スペイン人たちと取引をおこなっていた。スペイン人と中国人は時に敵対しながらも、共存するという関係を続けていった。こうしてマニラはフィリピン人、スペイン人、中国人の混合する街という独自の性格を形成していくことになる。
スペイン時代からアメリカ時代へ
1762年には一時的にマニラがイギリス軍によって占領されたが、
1764年には協定が結ばれてふたたびスペインの管轄化に入った。このころにはイントラムロスは完成しており、強固な要塞、東洋の拠点都市となっていた。交易が盛んになり、マニラを多くの人が訪れるようになると、マニラはいっそう発展し、イントラムロスの外の区域も発達していった。
スペインが強国の地位を滑り落ちた後もフィリピンとマニラはスペインの支配下にあり続けたが、19世紀になるとフィリピン人の知識人の間で独立運動が盛んになった。
ホセ・リサールの啓蒙運動や
カティプナンの軍事行動によりフィリピンは独立への道を進むかに見えたが、
1898年の
米西戦争によってマニラのスペイン艦隊がアメリカ艦隊にあっさりと撃破されると、フィリピン人たちの願いも空しく、戦後のパリ条約によってフィリピンはアメリカ領となった。一部の闘士たちはなおも抵抗したが、フィリピンが完全にアメリカ領となることを避けられなかった。
アメリカ占領下のマニラでは、東洋経営の拠点としての整備がおこなわれ、イントラムロスの旧市街を保存しながら、市内を近代化するという手法でインフラなどの整備がすすめられた。有名なマニラ・ホテルもアメリカ統治時代に建設された。
1935年以降、
ダグラス・マッカーサーがフィリピン軍顧問という肩書きでマニラに在駐し、後に「フィリピン軍元帥」という名誉的な称号を受けている。
第二次世界大戦から現代まで
1941年12月30日アメリカの戦闘部隊は、市と廃止されるすべての軍事施設から退出するよう命令された。マニラは
マニュエル L. ケソン大統領により非武装都市と宣言され、同市を死と破壊から回避させた。ケソン大統領は法令を発布し、大マニラ(Greater Manila)と呼ばれる行政区域を成立させ、マニラから離れた地域を安全地域として安全地域を拡大させた。
大マニラの市長にはケソン大統領の前事務責任者であった ジョージ B. ヴァルガスが選ばれた。
1942年元日夕方、日本特使はヴァルガスに対し、日本軍は既にパラニャーケで野営し、翌日には大マニラに入ることを伝えた。1月2日午前9時から午前10時、日本帝国軍はマニラ市内に行進して入る。
ヴァルガスは、大マニラを新しい当局に委ね、残っているフィリピン人指導者たちを日本当局に紹介する仕事が任された。ヴァルガスと出席したフィリピン人指導者たちは、3つの選択肢から選ぶことを求められた。それは(1)全くの日本の軍政、(2)
米比戦争の後、日本に亡命した
アルテミオ・リカルテ将軍の下、ひとりのフィリピン人に任される独裁的な政府、もしくは(3) フィリピン人によって選んだ委員会による政府、というものだった。ヴァルガスと地元指導者たちは、第3の選択肢を選び、まず大マニラ、後にはフィリピン全土を統治しようとフィリピン委員会(Philippine Executive Commission)を設立した。
1942年、ヴァルガスはフィリピン委員会の議長となり、マニュエル L. ケソン大統領統治の米国自治連邦区としてのフィリピンだった時期に労働長官であったレオン G. ギント卿を大マニラの市長に指名した。ギントは大マニラの解放まで同市の市長職を続けた。
ギントの戦時統治下、カロオカン、ラス・ピニャス、マラボン、マカティ、マンダルヨン、ナボタス、パラニャ-ケ、パサイ、サンファンはマニラの地区とされ、マニラ市はその南側地域の“Bagumbayan”(ニュータウンの意)、サンパロク、キアポ 、サンミゲル、サンタクルス地域の”Bagumpanahon”(新時代)、 トンド地域の”Bagumbuhay”(新生活)、ビノンド及びサン・ニコラス 地域の”Bagong Diwa”(新秩序)などを併合して大マニラとなり、新しく成立したケソン市は破綻し、2つの地区に分けられた。
1944年10月20日アメリカの
ダグラス・マッカーサー将軍はフィリピンに戻るという約束を果たした(「
レイテ島の戦い」参照)。
1945年2月3日から3月3日の
マニラの戦いにおいてイントラムロスにおける決戦終了後、完全に破壊されたマニラ市は正式に解放された。しかし同盟したフィリピン人部隊とアメリカの部隊は
マニラ大虐殺を阻止できる時期には同市に到着していない。
イントラムロスと旧市街は戦後も破壊されたままであったが、
1979年になってようやく国による再建活動が始められ、整備がすすめられて現代に至っている。
1976年には、メトロ・マニラという広域都市圏が確立し、マニラは従来の区域を越えて大きく拡大した。
かつてマニラは東洋で最も美しい都市のひとつといわれていたが、戦後のフィリピンの発展とマルコス時代の停滞にともなって多くの貧民が流入し、多数の
スラムが形成された。また、生活排水などによる環境汚染がすすみ、
マカティ市などの近代的な区域を除いては多くの部分が雑然とした様相を呈すことになり、都市の美化という問題を抱えている。
教育
- フィリピン大学マニラ校
- サント・トマス大学(東洋最古の大学)
- アテネオ・デ・マニラ大学
- デ・ラ・サール大学
観光
- マラカニアン宮殿(大統領官邸)
- ナヨン・ピリピノ(閉鎖中)
- パコ公園
- リサール公園(ルネタ公園)
- SMメガモール(マカティ市)
- SMモール・オブ・アジア(パサイ市)
- イントラムロス(かつての要塞)
- サン・アグスティン教会 - フィリピンのバロック様式教会群としてユネスコの世界遺産に登録されている。
- ベイウォーク(マニラ湾沿い)
交通
空港
鉄道
道路
特産
マニラの名前は特産である
タバコ葉の名前としても使用される。いわゆる「マニラ葉」は幅広い味わいを特徴としている。
マニラ麻など。
姉妹都市・友好都市
関連項目
外部リンク
- 公式
- 観光
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