ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく)、通称
ポーランド、
ポルスカ、
ポローニア、
ポローニュ、
レヒアは、
中欧の国。
冷戦時代はソ連の影響下におかれたために政治的に東欧に含められてきたが、国内の民主化とソ連の崩壊を経て、その地理的文化的位置づけから
中欧または
中東欧として再び分類されるようになっている。首都は
ワルシャワ。
国名
正式名称はポーランド語で、
Rzeczpospolita Polska(
ポーランド語: ジェチュポスポリタ・ポルスカ)。通称、
Polska。略称は、
RP。
公式の英語表記は、Republic of Poland。通称、Poland。
日本語の表記は、ポーランド共和国。通称、ポーランド(波蘭)、略語は波。
ポーランドの国名につく「ポルスカ(Polska)」は野原を意味する「ポーレ (pole)」 が
語源と言われている。最初にポーランドを建国した
部族は「レフ/レック族(Lechici)」といい、また同時に「ポラン族(Polanie)」とも称した(「レフ/レック」Lechは古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、LechはPoleと同じく「野原」を原義とするともいわれる)。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。
すなわちポルスカ(Polska)はこの「ポラン族(Polanie)の国」というのが元来の意味となる。
「
共和国」に相当する
Rzeczpospolita(ジェチュポスポリタ)は、「公共のもの」を意味する
ラテン語の
res publica(レス・プブリカ)の
翻訳借用である。
res(レス)には「物」や「財産」という意味があり、
ポーランド語では
rzecz(ジェチュ)がこれにあたる。
publica(プブリカ)は「公共の」という意味で、ポーランド語では
pospolita(ポスポリタ)にあたる。
さらに、ポーランド人は自国のことをポルスカ(Polska)と呼ぶほかにレヒア(Lechia)とも呼ぶ。ポラン族の別称である「レフ人/レック人(Lechici)」の国という意味である。
国民
2002年の国勢調査によると、人口は約3698万人で、そのうち約97%が
ポーランド人である。かつては
多民族国家であったが、
第二次世界大戦当時の
ポツダム会談の結果、領土全体が地理的に西側へ移動し、現在のようなほぼ
単一民族国家となった。その他の少数派としては、ウクライナ人、リトアニア人、ベラルーシ人(主に東部に在住)、ドイツ人(主に旧ドイツ領の西部に在住)、ユダヤ人がいる。少数民族のなかではドイツ人が圧倒的に多く、国会の下院(セイム)において最高2議席の民族優先枠が設けられている(ただし前回の総選挙では獲得投票が少なかったため、現在は1議席のみ確保)。
言語
冷戦時代に東側に組み込まれたため、現在でも多くの40代以上のポーランド人はロシア語を解すが、若い世代においては英語が圧倒的な人気を獲得している。英語は小学校1年からの履修科目となっている。また、第二外国語としてドイツ語やフランス語を学ぶ学生も多い。ロシア語の履修者数も最近徐々に回復してきた。
近年は
日本語ブームであり国立大学の日本学科(
ワルシャワ大学、
クラクフ大学、
ポズナニ大学)の入学および卒業は非常に狭き門となっている。そのほか、
グダニスク大学など国内の多くの国立・私立の大学に日本語の講座があり選択科目として履修できる。
宗教
ポーランド人の苗字
ポーランド人の
苗字は非常に多く、総数40万以上にのぼり、世界的にもユニークといわれる。ポーランドの人口は3800万人程度であるから、同じ苗字を持つ人の数は平均すると100人を下回ることになる。NowakやKowalski(女性はKowalska)といった苗字を持つ人が最も多いとされるが、それでも絶対数は非常に少なく、これらの苗字を持つ人に出会うことは稀である。
また、
アメリカ合衆国など
英語圏の国家に
移住すると、しばしば苗字をそのまま英語に翻訳したものを登録して使うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名など)。その結果、現地の社会に
同化していく。
- Nowak (ノヴァク; 203,506人; 英語の"Newman")
- Kowalski (コヴァルスキ; 139,719人; 英語の"Smith")
- Wiśniewski (ヴィシニェフスキ; 109,855人; 英語の"Cherry")
- Wójcik (ヴイチク; 99,509人; 原義は「戦士」)
- Kowalczyk (コヴァルチュィク; 97,796人, 原義は「"Smith"の息子」)
- Kamiński (カミニスキ; 94,499人; 英語の"Stone")
- Lewandowski (レヴァンドフスキ; 92,449人; 英語の"Levantine")
- Zieliński (ジェリニスキ; 91,043人; 英語の"Green")
- Szymański (シュィマニスキ; 89,091人; 英語の"Simon")
- Woźniak (ヴォシニャク; 88,039人; 英語の"Cart")
- Dąbrowski (ドンブロフスキ; 86,132人; 英語の"Oak ")
- Kozłowski (コズウォフスキ; 75,962人; 原義は「雄ヤギ」)
- Jankowski (ヤンコフスキ; 68,514人; 英語の"John")
- Mazur (マズル; 66,773人; 原義は「マズーリ地方」)
- Wojciechowski (ヴォイチェホフスキ; 66,361人; 原義は聖アダルベルトの本名Wojciech)
- Kwiatkowski (クフャトコフスキ; 66,017人; 英語の"Flower")
- Krawczyk (クラフチュィク; 64,048人; 原義は「"Taylor"の息子」)
- Kaczmarek (カチュマレク; 61,816人; 英語の"Inn")
- Piotrowski (ピョトロフスキ; 61,380人; 英語の"Peter")
- Bagiński (バギニスキ; 60,492人; 英語の"Master")
歴史
ポーランド王国成立以前
に到達した
ゴート人]]
ポーランド人の基幹部族となったレフ族/ポラン族(Lechici/Polanie)については、
古代ローマ時代の歴史家
タキトゥスの本『
ゲルマニア』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「ルギイ族(Lugii)」との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化(Przeworsk culture)」と呼ばれる、周辺の
ゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、プシェヴォルスク文化は、当時
ゴート族のものと推定される
ヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった「ザルビンツィ文化(Zarubintsy culture)」と似通っていることが
考古学調査で判明している。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、もとは一つであり、
ヴィスワ川河口付近からゴート族が入りこみ間に割って入って川を遡上しながら南下していったためこの文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。
4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、ゲルマン民族のブルグント族(Burgunden)の隣、ヴィスワ川が大きく屈曲して作った
平野の、当時は深い
森や入り組んだ
湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由から
フン族の侵入を免れ、
ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて
中欧に定住した他の
スラヴ諸部族と混交して拡大していったものが中世にレフ族(Lechici)あるいはポラン族(Polanie)としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイ(Lugii)はレフ/レック(Lech)の
ラテン語における転訛となる。なお、他の
スラヴ語、たとえば
ロシア語では今でも「ルーク(Lug)」と「ポーレ(Pole)」はどちらも「野原」を原義とする言葉である。
ロシア人を含む
東スラヴ人はもともとポーランド人をリャキ(Lyakhi)と呼んでいた(現在はパリャキPalyakhiと呼ぶ)。
リトアニア人はポーランド人をレンカイ(Lenkai)、
ハンガリー人はポーランド人をレンジェレク(Lengyelek)と呼ぶ。
6世紀までには現在のポーランドの地に
スラヴ民族が定住し、一種の
環濠集落を多数建設した。遅くとも
8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が
異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。
8世紀、それまでレフ族/ポラン族(Lech/Polanie)とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、後に「ポピェリド朝(Popielidzi)」と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド(Popielid)が没し、「車大工のピャスト(Piast Kołodziej)」と呼ばれた人物(一説にはポピェリドの
宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「
ピャスト朝」を創始した。
王国の黎明期
966年、
ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長
ミェシュコが近隣のヴィスワ諸部族(Wisłanie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗して
ミェシュコ1世公となり、国家は
ポーランド公国として
西欧キリスト教世界に認知された。
992年にミェシュコ1世の息子
ボレスワフ1世が後を次ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼は
オットー3世や
ハインリヒ2世の
神聖ローマ帝国、
クヌーズ1世の
デンマークと積極的に外交した。
1000年、オットー3世はポーランド公国の首都
ポズナニ近郊の
グニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに
大司教座を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも
神聖ローマ皇帝の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南の
ボヘミアへ軍を進めて
1004年に自らボヘミア公となり、
1018年に東へ軍を進めて
キエフ・ルーシを攻略した同年こんどは西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシニェ)の講和(Peace of Bautzen)により
マイセン(ポーランド語でミシュニア)と
ラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果
中欧に広大な新領土を確保した。その間、
1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ1世の
イングランド遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、
北海帝国の建設を援助した。
1020年には
クラクフのヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。
ポーランドが王国と認知されてまもなくボレスワフ1世が没したため、最初の
戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。
1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。
長い分裂時代
[[Image:TestamentKrzywoustego.png|thumb|right|200px|ボレスワフ2世が4人の息子と后に分割相続させたポーランド:
]]
ボレスワフ2世は王国の領土を7つに分割してそのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させ、そのうちの長男ヴワディスワフ1世ヘルマンにはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。
1079年に大公位についたヴワディスワフ1世ヘルマンは国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で
内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。
1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ帝国皇帝
フリードリッヒ1世)からの援助を得る見返りに当時の神聖ローマ皇帝
ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地の
ピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにしたうえシロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から
破門され、神聖ローマ帝国へ亡命して後にフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(
庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。
以後もクラクフ大公の位は継続したがその権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま各地の
領邦にどんどん分裂していった。
1226年、時のマゾフシェ公コンラートは北方の
バルト海沿岸に住む
プルシ(プルーセン)人の来襲に悩まされたあげく、
ドイツ騎士団にプルシへの
十字軍遠征を許可した。ドイツ騎士団は神聖ローマ皇帝の勅書を得て北方に向かい、以後50年の間バルト海沿岸地方で活動し、キリスト教の洗礼を受けないプルシ人は皆殺しにした。ドイツ騎士団はローマ教皇からの勅許を得たと主張してこの地に定住した。さらにドイツから入植者を呼び寄せてこの地を開拓させた。
1241年にはモンゴルの
バトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、サンドミェシュや
クラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていた
ヘンリク2世はポーランド人とドイツ人から編成された軍を率いて
レグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(ポーランド名レグニツァの戦い、ドイツ名
ワールシュタットの戦い)。装備・物量で劣っていたヨーロッパの軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世も戦死した。まもなくモンゴル軍は
アジアへ引き返したが、それまでにクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後はモンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。侯たちはドイツや西欧から開拓民を呼び寄せた。この地域における本格的な東方殖民の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなく、それまでドイツ人が故郷で慣れ親しんでいたマグデブルク法という
都市法が適用された。これは当時の領主たちが西方からの植民者に与えた
インセンティブであった。農村などその他の地域ではポーランド人の伝統法が使われた。以後は特にシロンスク地方を中心としたポーランド西南部にドイツ系住民が増え、原住民のポーランド人と混住していく。
ポーランド北部におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、
19世紀から
20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。
1295年、
プシェミスウ2世が全ポーランドの君主としてポーランド国王に即位、ポーランド王国はほぼ2世紀ぶりに名目的統一を果たしたが、この王は翌年何者かに暗殺されてしまった。この後同じくピャスト家のヴワディスワフが王権を求めて運動した。彼は農民、騎士、聖職者から支持されたが、ピャスト家の人物が王になると君主の権力が強化されて自分たちの自由が失われると恐れたクラクフの貴族たちによって
プシェミスル朝のボヘミア王
ヴァーツラフ2世がポーランド王に推挙されてしまい、ローマ教皇
ボニファティウス8世の勅許が降りてヴァツワフ2世として即位した。ヴワディスワフは王位を巡ってこの新しい国王と争うのを避け、かわりにこの雌伏の期間に農民や騎士を率いて自らの軍を作り、ポーランドのほかの地域を武力で支配下に置く活動をした。将来のポーランドの真の統一へ向けての準備であった。ヴァツワフ2世の息子で
1305年にポーランド王位を継いだヴァツワフ3世(ボヘミア王
ヴァーツラフ3世)が翌年の
1306年に何者かによって暗殺されると、ヴワディスワフがクラクフ大公に即位し、
ヴワディスワフ1世としてポーランド統一に向けてさらに軍事行動を進めた。彼は
1318年までにポーランド全土を自らの支配下に置いた。強力なポーランド君主が現れることを脅威と感じていたローマ教皇
ヨハネス22世はヴワディスワフ1世への戴冠を渋ったが、しかしついには折れて国王即位の勅許を出した。
1320年、ヴワディスワフ1世はポーランド王位に即位し、ポーランド再統一を完成させた。
黄金時代
14世紀には西欧の
ペスト大流行で、ペストを流行させた犯人だという
デマで特に
ドイツで迫害された
ユダヤ人が、ポーランド王国の宗教的・民族的寛容さから、多数、移住してきた。以後、ポーランド王国は世界で最もユダヤ系住民の多い国家となった。当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮した
カジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。
1364年、カジミェシュ3世は
クラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。
1414年から開催された
コンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われた。会議では当時
異教徒の国であった
リトアニアとキリスト教徒の国である
ポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から
絶滅されるべきである。」と主張した。ポーランド
全権で
クラクフ大学校長であった
パヴェウ・ヴウォトコヴィツ(Paweł Włodkowic)画期的な主張をした。内容を簡単に要約すると、「リトアニア人のような
異教徒であってもわれわれキリスト教徒と全く同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(
国家主権)、平和に暮らす権利(
生存権)、自らの財産に対する権利(
財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(
自衛権)はまったく正当である。」というもので、これはまさに現代思想の
基本的人権および
国際法の理念の世界で初めての提唱であった。
1430年にリトアニア大公の
ヴィタウタス(ポーランド語名ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。
1569年、ポーランドはリトアニアを併合(
ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする
物的同君連合の「
ポーランド=リトアニア連合王国」となり、欧州最強最大の国家として君臨した。以後ポーランド=リトアニア連合王国は単に「ポーランド」とだけ呼ばれることも多くなった。
1572年、ヤギェウォ朝の唯一の男子であった時の国王ジグムント2世が男子を残さずに没し、ヤギェウォ家の「男系」の血筋は途絶えた。以後ポーランド=リトアニア連合王国は全ての
シュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙によって国王を決定する「
選挙王政」を採る
貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に
選挙権が付与されていた。
アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国では後のアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。
対外戦争の時代
1592年、ポーランド=リトアニア連合王国は
スウェーデン王国と
同君連合となった。時の国王
ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家の血をひくポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。当初は当時の
首都であった
クラクフに居を構えた。
1596年には
ワルシャワに
遷都した。以後現在までワルシャワがポーランドの首都となる。スウェーデンでは叔父で
摂政を務めていた
カールの反乱がおき、ジグムント3世はスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗し、
1599年にスウェーデン王位を剥奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。
ポーランド分割
18世紀後半にはポーランド=リトアニア連合王国の国土が他国に分割占領(
ポーランド分割)された。
1772年に第一次ポーランド分割が行われた後、
スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。
1791年、王は
ヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「
5月3日憲法」)。この憲法によって
王権の
世襲制とともに、
世界初の立憲君主制が成立し、ポーランド=リトアニア連合王国は単一国家の「
ポーランド王国」となった。
1793年、議会によりワルシャワに
国家教育委員会(Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。これは貴族から平民まですべてのポーランド人を対象にしたものであり、
人類史上初の教育省とされている。立憲君主制、すなわち
民主主義に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力は
エカチェリーナ2世と結託した。
ロシア帝国軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド=ロシア戦争)。ポーランド軍は王の甥
ユーゼフ・ポニャトフスキと元
アメリカ軍将軍で
アメリカ独立戦争の英雄
タデウシュ・コシチューシュコ(アメリカ名タディーアス・コシューシコ)が指揮を取った。戦局は一見ロシア軍優位に見えたが、実はポーランド側の戦術どおりに進んでいた。しかし抵抗勢力側に寝返った顧問から「勝利の望みは薄いので早期講和を」との助言を受けたスタニスワフ2世は抵抗勢力側と妥協して戦争を中止してしまった。この直後の
1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793-94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(「
コシチューシュコ蜂起」)。
1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。ポーランドの大貴族(「
マグナート」と呼ばれる)の広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域は
ロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。
つかの間の再興
独立運動の時代
ポーランド立憲王国における憲法はロシアによって無視された。
フランスや
ベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入ようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、
1830年、ロシア帝国からの独立を目指して「十一月蜂起」が起こったが、翌年鎮圧された。ポーランド出身の作曲家
ショパンは国外にて蜂起発生の報を聞き、
革命のエチュードを書いた。
1871年からは、
プロイセン王国内の旧
ポーランド王国領であるポーゼン公国では、
ビスマルクの
文化闘争により、
ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争は
ドイツ人であるかどうかを問わずプロイセン王国内のすべてのカトリック教徒を相手にしたものであるが、ポーランド人の圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は
1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。ポーランド人抑圧政策は
ヴィルヘルム2世がビスマルクを解任した後も続けられ、
ドイツ帝国が
第一次世界大戦で敗北した
1918年に終了した。しかしこの抑圧に対するポーランド人の抵抗は頑強で、ポーランド人はドイツによる抑圧に対してはポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。
独立と第二共和国
1920年には
ソヴィエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソヴィエトへ侵攻。緒戦にはウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、トハチェスキー率いる赤軍が反撃。逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかしこれに驚いた欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ポーランド軍は
赤軍を押し返すことに成功。翌年、停戦。
1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、
1926年に
クーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、
開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民の
カリスマであったピウスツキが
1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点を
ナチス・ドイツと
ソヴィエト連邦につけ込まれるようになった。
第二次世界大戦
戦後
1945年、
第二次世界大戦が終結するとポーランドは復活したが、英・米・ソの
ヤルタ会談に基づいて国境が定められ、領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド東部を自国に併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これは
スターリンが、
992年に
ボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果である。事実、新しい国境線はボレスワフ1世時代のポーランド公国の国境線の位置に非常に近いものとなった。さらに軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失うこととなった。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である一方、この地域の大半は
14世紀まで
ポーランド王国領であり、その後も最終的にプロイセン王国に併合されるまでポーランドの影響が及ぶ地域もあったため、ポーランドの視点では数百年ぶりの領土回復となった。
この地域には100万人のポーランド人(原住民)とともに300万人のドイツ人が住んでいたが、
赤軍の進攻を恐れて多くのドイツ人が西へ逃避してしまっていた。残ったドイツ人の多くも強制移住によりポーランド国外へ退去されられた(
ドイツ人追放)。
共産主義政権により
民族を問わずポーランドに居住する住民すべてを対象に財産の
国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。ただしソビエト連邦におけるような農業集団化はおこなわれなかった。
一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域ではポーランド系住民が国境変更にともない、120万人が退去してポーランドに移住してきた。
民主化から現在
2005年、
欧州連合(EU)に懐疑的で、経済における自国民の利益と社会におけるカトリック的価値を最優先に掲げた
カトリック系保守政党「法と正義」が総選挙で勝利し、極右系小政党「自衛」「ポーランド家族連盟」とともに保守・極右連立政権を発足させたが、その極端な右翼政策と強硬外交はポーランド国民の失望と反発を買い、
2007年9月7日に議会は解散した。
この解散を受けて
2007年10月21日に行われた総選挙では、
欧州連合(EU)の強化に積極的で、カトリック的価値観を尊重しながらも行政・経済・社会・司法の改革を標榜する中道右派政党「市民プラットフォーム」が勝利を収め、もう一つの中道右派政党「ポーランド国民党」とともに、「市民プラットフォーム」の若い党首
ドナルド・トゥスクを
首相とする新政権を発足させた。
西欧への回帰-欧州連合とシェンゲン協定
2007年
12月21日には国境審査が完全に撤廃される
シェンゲン協定に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。
2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これで他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間でのすべての国境審査が撤廃されたことになる。
現在では、
ポーランド人ならば
パスポートなしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。
政治
国家元首
は
大統領(任期5年)であり、直接投票によって選出される。かつては大きな政治権力を託されていたが、
1997年の
憲法改正により政治の実権は
首相に移り、現在は外交の場で象徴的に出席する程度である。下院で可決した法案の
拒否権があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的な役職にすぎない。
行政
は
首相が統率する閣僚会議(
内閣)が担う。大統領は、議会の
下院に当たる
セイム (sejm) の大多数の連合から、首相の提案によって内閣を指名する。首相は強大な政治的権力を有している。現在の首相は
ドナルド・トゥスク。
立法
は
二院制議会(
Zgromadzenie Narodowe)によって行われる。
-
下院(セイム、Sejm) - 、定数460名、比例代表制。議席獲得には全国投票の合計で政党が5%以上、選挙委員会(政党連合)は8%以上の得票が必要。少数民族の大半を占めるドイツ系住民の民族優先枠として、ドイツ民族政党は最高2議席まではこの最低得票率ルールから除外される(ドイツ民族政党は前回の総選挙で獲得票数が少なかったため、現在は1議席のみ確保している)。セイムは日本の衆議院に相当し、上院より優先される。
- 各党の議席数(定数430):
- *市民プラットフォーム(Platforma Obywatelska, PO) - 209
- *法と正義(Prawo i Sprawiedliwość, PiS) - 166
- *左翼と民主(Lewica i Demokraci, LiD) - 53
- *ポーランド国民党(Polskie Stronnictwo Ludowe, PSL) - 31
- *ドイツ民族党(Mniejszość Niemiecka, MN) - 1
-
上院(元老院、Senat) - 定数100名、中選挙区制。
- 各党の議席数(定数100):
- *市民プラットフォーム(Platforma Obywatelska, PO) - 60
- *法と正義(Prawo i Sprawiedliwość, PiS) - 39
- *無所属 - 1
外交
中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、
ヴァイマール三角連合(
Weimar Triangle)、
ヴィシェグラード・グループ(
V4)、環バルト海諸国評議会(
CBSS)、中欧イニシアティヴ(
CEI)、といった地域国際機関にも加盟している。
地方行政区分
1999年に行われた県 (województwo) の大統合によって、ポーランドではそれまであった49県が16県にまでまとめられた。県の下位自治体として郡 (powiat) が合計373、グミナと呼ばれる地方自治体基礎組織 (gmina) が合計2489ある。
(アルファベット順)
地理
]]
の国<全世界のコウノトリの4分の1がポーランド国内で繁殖する]]
にのみ生息する野生の
ヨーロッパバイソン]]
- 西でドイツ、南でチェコとスロヴァキア、東でウクライナ、ベラルーシ、リトアニアと接していて、北東ではロシア(カリーニングラード)とも国境を接している。
- ポーランドは北でバルト海 (Morze Bałtyckie) と接している。
- 南部は山岳地帯で、タトラ山脈にはポーランドで最も高いリシ山(標高2499 m)がある。南部の国境近くにはカルパート山脈(タトラ山脈を含む)やスデート山地(ポーランド語およびチェコ語でスデーティSudety、ベスキド山地を含む)がある。
- 南部を除き国土のほとんどが北ヨーロッパ平野であり、全体が非常にゆるやかな丘陵地帯となっていて独特の景観を有する。平均高度は173 mである。
- ポーランドにある9300もの湖のうち大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。
- ポーランドには湿原が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、釧路湿原の10倍以上の面積がある。これらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。多くの水鳥が生息する。
- 深い森が多く国立公園や県立公園として維持管理されている。東北部からベラルーシにかけて広がる「ビャウォヴィエジャの森」は「ヨーロッパ最後の原生林」とされる、北部ヨーロッパには珍しく全体に広葉樹が生い繁る巨大な森で、ヨーロッパバイソン(ポーランド語で「ジュブル」)やヘラジカ(ポーランド語で「ウォシ」)をはじめとした多数の大型野生動物が生息する。
- 西南部にはヨーロッパ最大の砂漠がある。
- 河川
- ヴィスワ川(Wisła)
- オドラ川/オーデル川(Odra)
- ヴァルタ川(Warta)
- 西ブク川(Bug)
- ナレフ川(Nalew)
- サン川(San)
- ノテチ川(Noteć)
- ピリツァ川(Pilica)
- ヴィェプシュ川(Wieprz)
- ブブル川(Bóbr)
- ウィナ川(Łyna)
- ヌィサ・ウジツカ川/ナイセ川(Nysa Łużycka)
- フクラ川(Wkra)
- ドゥナイェツ川(Dunajec)
- ブルダ川(Brda)
- プロスナ川(Prosna)
- ドゥルフェンツァ川(Drwęca)
- ヴィスウォク川(Wisłok)
- フタ/チャルナ・フタ川(Wda/Czarna Wda)
- ドラヴァ川(Drawa)
- ヌィサ・クウォヅカ川(Nysa Kłodzka)
- ポプラト川(Poprad)
- パスウェンカ川(Pasłęka)
- レガ川(Rega)
- ブズラ川(Bzura)
- ヴィスウォカ川(Wisłoka)
- オブラ川(Obra)
- ビェブジャ川(Biebrza)
- ニーダ川(Nida)
主要都市
(アルファベット順)
地質
ポーランドの地質構造は、
6000万年前に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの
第四氷期によって形成された。このとき
スデート山地と
カルパティア山脈が形作られている。北部ポーランドの
モレーンの景観は主に
砂と
ロームから成る土壌によるものである。
氷河期に形成された南部の河川の谷は
黄土を含んでいる。クラクフ=チェンストホヴァ高原、ピェニヌィ山地、西タトラ山地は石灰岩で構成される。高タトラ山地、ベスキド山地、カルコノシェ山地は
花崗岩と
玄武岩で構成される。クラクフ=チェンストホヴァ高原は地球上で最も古い山地帯の1つである。
気候
バルト海に面した北西部は温帯気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となる。降水量は平均しており、季節による変動が少ない。
経済
ポーランド経済は、その若年人口の多さに支えられて非常に堅調である。近年は、毎年6%前後の成長を見せている。
2004年の
EU加盟当初は、ポーランドはEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つことから、EU内の「工場」としての投資を受けていた。さらに、現在ではその高い教育水準を生かして研究開発施設をポーランドに設けようとする企業も多い。
また、EU加盟時に、ポーランドから多数の労働者がEU諸国に出稼ぎに出かけた。初めは、単純労働者としての雇用が先行したが、その後は
ホワイトカラーとしての雇用も増え、財を成すものも表れた。さらに、現在では本国経済の堅調に支えられて、帰国者が増加している。ポーランド政府も国内産業の発展のため、出稼ぎ労働者のUターンを積極的に勧めている。
税制
法人税は19%である。
所得税は
累進課税方式で、課税所得に応じて19%、30%、40%となっている。
付加価値税は22%を基本税率とした複数税率で、7%(一般の食品、医薬品、建築資材、観光サービス等)、3%(一部の食品)、0%(書籍)もある。
工業
農業
ポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家であり、社会主義時代にも国有化・集団化の動きは無かった。国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。
このような小規模農家はコスト効率が悪い反面、近年のオーガニックブームなどで、付加価値の高い作物を作るのに適しており、高品質の有機栽培作物が他のヨーロッパ諸国に盛んに輸出されている。
特筆すべき生産物としては、世界2位の生産量をほこる
らい麦や、それぞれ高いシェアを持つフランス向け
エスカルゴ、日本向け
馬肉などがある。
鉱業
ポーランドは鉱物資源が豊富であり、
石炭を中心として多種多様の
非鉄金属に恵まれている。
ヨーロッパではロシアに次いで豊富な石炭や、自国の消費量の2/3をまかなう
天然ガスなどを有する。他にも重要な鉱物資源において世界シェアを有している。
文化
食文化
ポーランド料理は、基本的に家庭料理である。しかし、歴史的に多くの民族が集う地域であったため、周辺のさまざまな民族の食習慣を取り入れてポーランド文化に同化しており、伝統料理のバラエティは非常に豊かである。
過去には、ポーランドでは一日に4回の食事をとっていたが、近年は3回の家庭が多い。基本的には昼食を
正餐とし
朝食と
夕食は軽く済ますのが伝統だが、都市部では男女とも外に出て働くことが多いことから、昼食を軽くし夕食を正餐とする場合も多くなっている。
住居
ポーランド国内の都市の中心部は
中世の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角いアパート群が多いことである。これは旧体制時代に建設されたもの。戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こぢんまりして使い勝手はいい。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区の
カトリック教会がある程度人々を結びつけている。
一方、郊外および地方では、伝統建築の、あるいは伝統建築を
モチーフにした美しい一戸建てが多く建てられてきており、古い建物も順次リフォームされ、こちらでは地域の
コミュニティがよく発達している。
教育
詳細はポーランドの教育を参照
<
1999年9月1日より、従来の社会主義時代からの8・4制を改め、6・3・3制に移行した。
音楽
第二次世界大戦後のポーランド音楽の展開は
ポーランド楽派の項目を参照のこと。
著名なポーランド人
以下の人々はそれぞれの分野で日本でもよく知られている。
Image:Nikolaus Kopernikus.jpg|コペルニクス
Image:Marie Curie (Nobel-Chem).png|キュリー夫人
Image:Tadeusz Kościuszko.PNG|コシューシコ
Image:Frederic Chopin photo sepia.jpeg|ショパン
Image:Ignacy Jan Paderewski.jpg|パデレフスキ
Image:Zamenhof.gif|ザメンホフ
Image:Janusz Korczak.PNG|コルチャック先生
Image:Maksymilian kolbe.jpg|コルベ神父
Image:JohannesPaul2-portrait.jpg|ヨハネ・パウロ2世
Image:Krzysztof Kieslowski.jpg|キェシロフスキ監督
Image:PolanskiIFFKV.jpg|ポランスキー監督
Image:Andrzej Wajda 2004.jpg|ワイダ監督
Image:Henryk-Sienkiewicz.jpg|シェンキェヴィチ
Image:Stanislaw Lem by Kubik.JPG|スタニスワフ・レム
Image:Lech Walesa.jpg|レフ・ワレサ
Image:Robert Kubica 2008.jpg|ロバート・クビサ
世界遺産
そのほかに現在、世界遺産の暫定リストに4件が登録されている(そのうち1件は現在登録されている自然遺産の拡張である)。
ポーランドの観光地
それぞれの観光地についてはポーランドの観光地および各県の記事を参照
前述のとおり
世界遺産の数は全部で13件あり(
中東欧地域で最多)、さらに4件が暫定リストに登録されている。また自然環境もよく保存され、国立公園や県立公園が多数あって保護されており、
ユネスコ生物圏保護区が9か所ある。
1989年
12月25日までポーランド全土は
冷戦体制のもとで
東側諸国の重要な軍事拠点となり外国人に門戸が閉ざされていた。冷戦が終わってポーランドに駐留していた
ソ連軍が全面撤退してから約20年たち、現在では国内観光は完全に自由化されている。
また、国内のあらゆる地方に無数に存在する
貴族の
宮殿や
城は近年次々とリフォームされ美しいホテルとして営業しており、これら「
宮殿ホテル」や「
城館ホテル」に宿泊しても
西欧諸国よりはるかに割安に贅沢な旅行ができる。また、農家に滞在して農業体験をしたりゆっくりと一日を過ごしたりする「
アグロツーリズム」も近年は盛んである。
2007年
12月21日には
シェンゲン協定に加盟し、シェンゲン協定加盟国すべてとの往来がパスポートなしで可能となった。加盟国の間では
国境のどこからでも出入りが自由となっている。
ポーランド観光市場は急速に発展しているが、
EUの中では比較的国土面積の広い国であるため、
欧米人の間では有名であってもまだ日本人にはほとんど知られていない観光地が多数ある。
祝祭日・年間行事
日付
日本語表記
現地語表記
備考
1月1日元日Nowy Rok新年。ニューイヤーパーティーなどが盛大に行われる。(休)
1月6日3人の博士の日Trzech Króli三人の博士がイエス・キリストに会いに来たのを記念する日。
1月21日・
1月22日おばあちゃんの日・おじいちゃんの日Dzień Babci・Dzień Dziadka21日がおばあちゃんの日で22日がおじいちゃんの日
移動祝祭日脂の木曜日Tłusty Czwartek脂っこいものを食べる日。
移動祝祭日復活祭Wielkanoc春の満月後の最初の日曜日と翌日の月曜日。
キリストの復活を祝う日。クリスマスと並ぶ大きな祭日。2007年は4月8日と9日。(休)
5月1日メーデーŚwięto Pracy(休)
5月3日「
5月3日憲法」記念日Rocznica Konstytucji 3 maja1791年に制定された憲法を記念する日。 ※ヨーロッパで始めての憲法 (休)
5月26日母の日Dzień Matki
移動祝祭日
聖霊降臨の祝日Zielone Świątki復活祭後の7回目の日曜日。聖霊が
使徒たちの上に下ったことを記念。2007年は5月27日 (休)
6月1日子供の日Dzień Dziecka
移動祝祭日聖体の祝日Boże Ciało聖霊降臨節の10日後の木曜日。
最後の晩餐を記念する。2007年は6月7日(休)
6月23日父の日Dzień Ojca
8月15日聖母被昇天の祝日Wniebowzięcie Najświętszej Marii Panny
チェンストホーヴァ(Częstochowa)にあるヤスナ・グラ寺院(Jasna Góra)へ、ポーランド各地から大規模な巡礼が行われる。(休)
11月1日諸聖人の日Wszystkich Świętych諸
聖人を祭る日。墓地で家族や親類の墓にろうそくを置く。(日本で言うお盆) (休)
11月2日死者の日Zaduszki祖先の霊を供養する日
11月11日独立記念日Narodowe Święto Niepodległości
ロシアと
ドイツ,
オーストリアからの独立を記念する日。(休)
12月6日サンタクロースの日MikołajkiMikołaj(Nicolaus=サンタクロース)の日とされ、子供たちにプレゼントが与えられる。
12月24日キリスト降誕祭前夜(
クリスマス・イヴ)Wigilia Bożego Narodzenia教会で
ミサを行う。基本的に日本のクリスマス・イヴとは違い家族で過ごす。(日本のお正月のような雰囲気)この日は肉を食べてはいけないというならわしがあり、伝統的に鯉を食べる。
12月25日~
12月26日キリスト降誕祭(
クリスマス)Boże Narodzenieクリスマスの日。親戚や家族で集まる。 (休)
12月31日シルヴェスターの夜Sylwester大晦日にあたるが、日本のものとは異なる。家族や親戚、友人でパーティーを催したり、夜中の12時に花火を飛ばしたりする。
※(休)は休日
出典
関連項目
外部リンク
- 政府
- 日本政府
- 観光
- その他
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