ホンダFC (サッカー) [Honda F.C.] [被リンク数: 89]

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Honda FCホンダエフシー)は、静岡県浜松市中区に本拠を置く社会人サッカークラブである。
正式名称は本田技研工業株式会社フットボールクラブで、「Honda FC」は略称及び呼称である。なお、略称及び呼称自体の表記について、大半のメディアからチームを紹介される際は「Honda」の部分をカタカナにした「ホンダFC」表記であり、国内サッカーファンの間でも「ホンダFC」表記がほぼ浸透している様子である。

概要

ホームタウンは静岡県浜松市。ホームスタジアムは同市北区にあるホンダ都田サッカー場で、小さいながらもクラブ自身が所有する自前のスタジアムである。育成システムも日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)のクラブに引けを取らない物を所有している。
過去に2度Jリーグクラブ化の構想があったが、いずれも実現していない。1999年の日本フットボールリーグ (JFL) への参入以来、優勝2回・2位5回とアマチュアクラブとして上位での安定した成績を残しており、このためしばしば「Jへの門番」と目されることがある。また、現在において、日本国内におけるサッカー関連のメディアからは、リーグ内における実績・実力から「JFLの雄」とも示されている。
なお、マスコットキャラクターが存在している。名前は「パッサーロPassaro)」で、ポルトガル語で「」または「小鳥」を指す。チームのシンボルマークでもあるツバメモチーフとしたキャラクターとなっている。http://www.honda-fc.gr.jp/profile/profile.htm

歴史

本田技研工業 時代 (1971年-2001年)

  • Jリーグ開幕前まで
母体は社会人の本田技研工業(以下:本田技研)サッカー部で、1971年結成。1972年に静岡県リーグ、1973年には東海社会人リーグ1975年には日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格。1981年には同1部に昇格し、以降1992年に終了するまでトップカテゴリに定着し、当時の国内サッカーファンの間では「東海の暴れん坊」という異名で呼ばれた。
90年代初頭、国内のトップカテゴリがJSLからJリーグへ移行する際、本拠地である浜松市内に第一種の競技場がなく、行政の協力も期待できなかったことから、誘致要請のあった埼玉県浦和市(現・さいたま市)に本拠地を移転し、浦和ホンダウィンズとしてJリーグへ参加することが検討された。しかし、チーム関係者の間では「浜松を本拠にJリーグへ参戦したい」とする意向が根強く、結論が出ないまま91年にJリーグへの初年度参加見送りを発表した。当時は国内経済の悪化から本田技研本社はカーレースF1からの撤退を表明していたため、サッカー部のプロ化見送りに関しても、F1同様に「本業主義のため」という論理付けがされた。
このため当時のレギュラー選手の大半は、92年までにJリーグ参加チームへ移籍した。中でも鹿島アントラーズへは監督の宮本征勝・ヘッドコーチの関塚隆を筆頭に、黒崎久志長谷川祥之本田泰人内藤就行・入井和久・千葉修らが移籍し、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)へは、石川康北澤豪などが移籍した。奇しくも鹿島・川崎の両チームは、Jリーグ元年である93年にチャンピオンシップを争った。
  • リーグカテゴリー再編~ジャパンフットボールリーグ時代
その後、本田技研はJリーグ創設によるカテゴリ再編により92年からジャパンフットボールリーグ(以下、旧JFL)1部に参加した。しかし、先述の通り、レギュラーの大半を失ったチームは10チーム中9位に低迷し、翌1993年は同2部に降格したが、同年では2部優勝を果たす。翌1994年には、旧JFLが16チームによる1部制に再編され、それを契機に現場サイドでJリーグ参戦へ向けた3年構想がスタートした。これにより、前年にJリーグへ参戦したジュビロ磐田から戦力外通告を受けたバウテルや東川昌典らを補強し、翌1995年には柏レイソルから戦力外通告された呂比須ワグナーらを補強した。
さらに、その翌年の1996年には日本サッカー界に精通したエスピノーザ氏をヘッドコーチとして招聘し、ヴィッセル神戸鳥栖フューチャーズコンサドーレ札幌などのJリーグ参加構想チームと、東京ガスフットボールクラブを加えた熾烈な上位争いを制し、見事優勝を飾った。
これを受け、翌97年には自社所有の都田サッカー場に50億円を投じ、自前のスタジアムを建設することで懸案だったスタジアム問題を解決する見込みを立て、浜松F.CとしてJリーグ準会員チームとなった。この時、本田技研本社は浜松F.Cの株式約6割を引き受けて筆頭株主となったほか、ダイドードリンコなど著名な企業が大口スポンサーとして名を連ねた。
しかし当時は史上最悪の製造不況および通貨危機前夜の時期であったため、産業都市である地元・浜松市内では地元紙などの影響から本田技研のJリーグ参戦に対し否定的な見方が支配的であった。故に浜松F.Cの経営陣は大きく動揺し、最終的に「時期が悪い」との判断に達したことから一連の構想を白紙撤回した。その後、本田技研本社の方針もあり、プロ契約選手を減らし、選手全員が本田技研の社員として社業にも従事する、いわゆる「完全なアマチュアチーム」へと、徐々に移行し始めた。
  • リーグカテゴリー再編~日本フットボールリーグ時代
1999年、旧JFLに所属するチームの多くは新たに創設されたJリーグ2部に参戦したが、プロ化を断念して「完全なアマチュアチーム」へ移行し始めてから間もない本田技研は同2部には参加せず、新たに再編されたJFL、日本フットボールリーグに所属した。最初の2年間はチームの動揺が尾を引いて横浜FCの連覇に屈したが、横浜FCがJリーグ加盟で抜けた2001年度のリーグでは優勝した。同年、本田技研本社は、2002年以降から選手とのプロ契約を行わなず、社員選手だけでチームを存続させることを決定し、「完全なアマチュアチーム」への移行が完了した形となった。

Honda FC 時代 (2002年-)

チーム名を「本田技研工業株式会社フットボールクラブ」(略称及び呼称「Honda FC」)と改名した2002年も優勝し、前身時代も含めて現在のJFLになってから横浜FCに続いてリーグ2連覇を達成した。以後も毎年上位につける実力を有する他、年末の天皇杯では、たびたびJリーグチームを脅かし、時には勝利することもあることもある。
このように、2002年以降から今日に至るまで社員選手だけで構成されておりながら、Jリーグの関係者からも“Jリーグチームにも匹敵する”などと言わしめていることもあり、いつしか「Jへの門番」という新たな異名で呼ばれ、恐れられるようになった。
一方で、所属選手がプロ選手としてJリーグに挑戦する際には快く送り出す方針も維持してきた。その主な例として、2004年には前年のJFL得点王だったFWの古橋達弥をシーズン途中でセレッソ大阪に移籍したことが挙げられる。また、ヴァンフォーレ甲府へは2005年に監督だった安間貴義がコーチとして移籍し、2006年にはMFの宇留野純も同チームへ移籍した。
  • 「静岡県代表」として~第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会
2007年に行われた第87回の天皇杯では、リーグの前期で1位になれずにシード権を獲得できなかったため、天皇杯が現在の形式になってから初めて県代表を決めるための予選に参加し、天皇杯への出場を獲得。その後、大会ではJリーグチームを3つ破って前身時代以来16年振りの準々決勝(ベスト8)進出を果たし、監督も含めて全員がアマチュア登録ということもあって話題となった。

下部組織

小学生を対象にしたスクールと、U-10、U-12、U-15、U-18各カテゴリのチームを持っている。U-18チームは、2004年度・2007年度の日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会清水エスパルスユースを抑えて出場した。
下部組織出身の選手を以下に挙げる。

戦績

エピソード

歴代監督

出身者

ユニフォームサプライヤー

脚注

関連項目

外部リンク

FC
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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