ホテル概要
建物は、
大隈講堂(
佐藤功一と共同設計)や建築音響学の権威として知られる
佐藤武夫が設計した。全体の平面構成は、120度の角度で接続する大きな「Y字型」を中心に、さらにその先端にやはり角度120度で同じ奥行きの「Y字型」の枝が接続するという、いわば
フラクタル構造の形をした建築であった。これは全室から景色が見られるよう意図したものであるが、その結果まるで迷路のような内部空間となってしまい、後の火災発生時にも避難を困難にした原因のひとつともなった。
また、内装は日本を代表する工業デザイナー
剣持勇が担当した。このホテルのラウンジチェアが
MOMA(ニューヨーク近代美術館)の永久収蔵品に選定されるなど、剣持勇の担当した内装は評価が高く、同氏の提唱したジャパニーズモダンの様式を体現したホテルであった。
当時は東洋最大の格式を謳い文句に、旅館部とホテル部の設置、日本初のトロピカルレストランやオープンカフェ、ショッピングアーケードを構えるなど画期的なアイディアが盛り込まれ、日本における初めての都市型多機能ホテルとして、いわばモデルケース的な存在であった。だが、同じく1960年代に開業した
ホテルニューオータニや東京
ヒルトンホテル(後の
キャピトル東急ホテル)、
ホテルオークラなどと比較すると、経営ノウハウや設備などの面で見劣りしたことや、莫大な借入金の負担から、経営面では苦戦を強いられた。
地下フロアには高級ナイトクラブ「
ニューラテンクォーター」があり、こちらも豪勢ではあったものの、1960年代後半からすでに流行や時代の波に取り残されていた。
後に、藤山コンツェルンの衰退により、買収王として知られていた
横井英樹がこのホテルを買収した。横井は自ら社長に就任して、合理化を徹底したホテル経営を指揮していたが、
1982年に
ホテルニュージャパン火災を起って営業停止処分を受け廃業した。
火災事件の後、横井に対して多額の貸付を行なっていた
千代田生命保険が、貸付金の担保であったこのホテルを競売により売却することで資金の回収を図ろうとした。しかし、火災等のいわくつきの土地を購入しようという投資家は見当たらず、千代田生命が自己落札し自ら敷地を保有することとなった。その間、都心の一等地でありながら廃墟のまま放置され続けていたが、火災から14年後の
1996年になって、建物は解体された。跡地は千代田生命が再開発事業に着手したものの、千代田生命自体が
2000年10月に経営破綻した。その後、
プルデンシャル生命がこの土地と建設途中のビルを買収し、
森ビルと共同で建設を進め、
プルデンシャルタワーとして2002年12月16日に完成した。
脚注
関連項目
ほてるにゆしやはん
廃 ほてるにゆしやはん
廃 ほてるにゆしやはん
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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