スチュワートはいつもタモ・シャンターの帽子とニッカーズの半ズボンをまとい、誰からも見分けがつく風貌とスタイルの持ち主だった。母国アメリカに対する愛国心が強かったことでも知られ、ゴルフウェアに
米国国旗をあしらうことも多かった。
4歳から
ゴルフを始め、「ミズーリ州アマチュア選手権」で優勝経験のある父親から手ほどきを受ける。
1979年にプロ入りしたが、この時はアメリカ
PGAツアーの「クオリファイイング・スクール」(シード権獲得への出場資格試験のこと、通称 Q-School)を通過できなかった。そのため2年間「アジアン・ツアー」を回り、そこで2勝を挙げる。その期間中にトレーシー夫人と結婚。
1982年からPGAツアーに参戦を開始し、同年の「クワッド・シティ・クラシック」でツアー初優勝。7年後の
1989年に、
全米プロゴルフ選手権で
メジャー大会初優勝を達成。
1991年に
全米オープンでも初優勝を果たし、メジャー大会2冠王となった。この時はスコット・シンプソン(
アメリカ)との
プレーオフを制している。その後数年間の低迷期が訪れた。
1998年の
全米オープンで、スチュワートは優勝まであと1歩に迫りながらも、最後の土壇場でリー・ジャンセン(
アメリカ)に逆転負けを喫してしまう。この時の敗北を、当時の新聞は“painful”(苦痛、つらいの意)とスチュワートの名前「ペイン」を引っ掛けて“Payne-ful finish”と報道した。その1年後、「パインハースト・リゾート・ゴルフクラブ」(コースNo.2、パー設定70)で開かれた
1999年の
全米オープンにて、スチュワートは最終日の18番ホールで難しいパーパットを沈め、同じ最終組で回った
フィル・ミケルソンを1打差で振り切り、1 アンダーパー(-1, 計279ストローク)で8年ぶり2度目の優勝を飾った。ミケルソンと1打差の3位タイには
タイガー・ウッズと
ビジェイ・シンが入る、全米オープン史上稀に見る激戦を制しての優勝だった。9月には
1993年以来3回ぶりの
ライダーカップ米国代表で出場し、米国チームの盛り上げ役をつとめる。賞金ランキング5位の位置につけ、当年度のPGAツアー賞金ランキング上位30名のみが出場資格を得られる最終戦「
PGAツアー選手権」の会場に向かう途中で、スチュワートは飛行機事故に遭う。
1999年
10月25日、スチュワートは
フロリダ州オーランドから2時間の予定で
PGAツアー選手権の会場がある
テキサス州ダラスに向かっていたが、彼を乗せた「リアジェット35型」ジェット機が
サウスダコタ州アバディーンにて、上空45,000
フィート(約13,700
メートル)から墜落した。この事故でスチュワートを含む4人の乗客と、2人のパイロットの合計6名全員が落命した。スチュワート事故死の報道を聞いて、PGAツアー選手権の会場も悲しみに包まれた。競技の第2日目が中断され、出場選手たちのほとんどがスチュワートの追悼式に列席した。第3日目と第4日目を27ホールずつ消化する競技日程に変更され、世界ランキング1位の
タイガー・ウッズが大会初優勝を果たした。
2000年の
全米オープンの会場となった「ペブルビーチ・ゴルフリンクス」でも、大会開幕に先立ち、前年優勝者のスチュワートを偲ぶ式典が行われた。
メジャー大会優勝
外部リンク
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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