ベトナム戦争 [Vietnam War] [被リンク数: 798]

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ベトナム戦争(ベトナムせんそう 1959年 - 1975年)は、インドシナ戦争後に、ベトナムの南北統一をめぐって戦われた戦争である。

眼目

ベトナム戦争は、宣戦布告なき戦争であるためベトナム紛争とも呼ばれる。第二次インドシナ戦争ともいう。
共産主義勢力の拡大阻止を名目として、北ベトナムと対峙する南ベトナムを支援するアメリカ合衆国が、韓国など同盟国も動員して大規模な軍事介入を行ったが、目的を達せずに撤退した。
形式的には南北ベトナム間の戦争だが、実質的にはソビエト連邦中華人民共和国に代表される共産主義陣営とアメリカに代表される資本主義陣営の対立(冷戦)を背景とした「代理戦争」だった。また、ベトナムの南北統一運動に対する抑圧的戦争であった面も指摘されているが、この時期の統一運動はマルクス主義の被民族抑圧解放路線と密接な関連を持っていたため、二つの要素を明確に区分することは難しいという意見もある。
ベトナム戦争当時、日本などのマスコミは、ベトナム戦争では、南ベトナム在地勢力である南ベトナム解放民族戦線が中心となって、南ベトナム政府やアメリカ合衆国などと戦っているかのように報じたが、以下に記述するように、南ベトナム政府やアメリカ合衆国と戦った共産主義勢力の主体は北ベトナムソビエト連邦中華人民共和国であり、南ベトナム解放民族戦線はその下部組織ともいえる存在であった。
アメリカの他に大韓民国オーストラリアニュージーランドフィリピンタイが南ベトナムを支援して派兵している他、スペインは医師を含む兵士13名を派遣し、パラグアイニカラグアがアメリカを支援するための派兵を申し出ている。また、北朝鮮が北ベトナム側で飛行大隊を派遣し、ハノイの防空を支援した。

ベトナム戦争年表(1960年-1975年)

開戦の背景

冷戦構造と独立運動

1945年8月に第二次世界大戦が終結すると、 アジア中南米アフリカにある多くの植民地で、宗主国の弱体化を背景にした軍事行動を伴う激しい独立運動が発生し、独立運動家と既得権の維持を目論む欧米列強の宗主国との間で紛争が頻発した。
独立運動は共産主義勢力によって指導、支援されている場合が多く、アメリカに対抗する共産主義体制のボス的存在であるヨシフ・スターリンに率いられるソビエト連邦は、当然、各地の共産主義勢力を支援したが、米ソともに核兵器を保有していることから直接戦うことは避け “冷たい戦争” と呼ばれる冷戦構造が成立した。
その対立は朝鮮戦争キューバ危機ベルリン封鎖に見られるように代理戦争の形をとって表面化した。自由主義の盟主を自認するアメリカは、中華人民共和国東ヨーロッパでの共産主義政権の成立を“ドミノ倒し”に例え、一国の共産化が周辺国へのさらなる共産化を招くというドミノ理論を唱え、アジアや中南米諸国の反共産主義勢力を支援して各地の紛争に深く介入するようになった。

国家分裂

1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴い、1940年8月より宗主国であるフランスヴィシー政権)の主権擁護を条件に仏領インドシナに進駐(仏印進駐)していた日本軍が撤退すると、コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンハノイに首都を置いてベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させ(ベトナム八月革命)共産主義を基礎にした国家建設を目指した。
しかし、インドシナ一帯の植民地統治復活を目論む旧宗主国のフランスは独立を認めず、インドシナ一帯に再進駐すると、ベトナム民主共和国からコーチシナを分離する目的で、1946年3月にインドシナ南部に傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させ、グエン・バン・ティンを首班に置いた。

第一次インドシナ戦争

フランス軍は同年12月19日にベトナム民主共和国へ武力攻撃を開始し、第一次インドシナ戦争が勃発した。またフランスは、1948年にベトナム臨時中央政府を発足させ、1949年6月にはベトナム国をサイゴン市(現ホーチミン市)に成立させて首班に旧阮朝皇帝バオ・ダイを据え、ベトナム人民の支持を得ようとしたが失敗した。なお、バオ・ダイはベトナム国の成立以前、ホー・チ・ミンによりベトナム民主共和国政府の「最高顧問」に任命されたが、その後意見の対立から亡命していた。
その後フランスは、同じインドシナのラオスを同年7月に、カンボジアを11月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつ、ベトナム国の正当性を強調しようとした。しかし、翌1950年1月にソ連と成立直後の中華人民共和国がベトナム民主共和国を正統政権と認証し、武器援助を開始した。アメリカはこれに対抗し、フランスとインドシナ三国に軍事援助を開始した。

ディエンビエンフーの戦い

その後もアメリカの支援を受けたフランス軍は、ソ連や中華人民共和国からの軍事支援を受けたホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国軍と各地で鋭く対立を続け、アンリ・ナヴァール(Henri Navarre)将軍指揮下の精鋭外人部隊など、クリスチャン・ド・カストリ(Christian de Castries)大佐を司令官とする1万6000人の兵力を投入し、ベトナム民主共和国軍との戦闘を続けたが、ヴォー・グエン・ザップ将軍指揮下のベトナム民主共和国軍による組織的な反撃を受け、劣勢に立たされていった。1954年5月にはディエンビエンフーの戦いで惨敗、事実上壊滅状態に陥り、ベトナムをはじめとするインドシナ一帯からの撤退を余儀なくされた。

南北分離独立

その後フランスはベトナム民主共和国とスイスにおいて和平交渉を開始し、同年7月には関係国の間で和平協定である「ジュネーヴ協定」が成立した。これにより第一次インドシナ戦争の終結と、並びにベトナム民主共和国の独立が承認されることになったが、ジョージ・ケナンらが提唱する、冷戦下における共産主義の東南アジア台頭(ドミノ理論)を恐れ、第一次インドシナ戦争中を通じて同盟関係にあるフランスを積極的に支援し続けたアメリカは、それに対抗して北緯17度でベトナムを南北に分割させ、南にはフランスの傀儡政権だった「ベトナム国」を存続させた。

ベトナム戦争の推移

アメリカによる支援

を訪れたゴ・ディン・ジエム大統領を迎えるドワイト・D・アイゼンハワー大統領]] フランスのインドシナ撤退以降、アイゼンハワー政権下のアメリカは「ドミノ理論」を根拠に、反共産主義的な姿勢を堅持した南ベトナムの歴代政権をフランスに代わり軍事、経済両面で支え続けた。
1955年に南ベトナムで実施された大統領選挙で、元CIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワード・ランズデールが支援した反共産主義者ゴ・ディン・ジエム首相が大統領に当選し、アメリカの全面的な支援を受けたベトナム共和国(通称南ベトナム)が成立した。しかし、ゴ大統領一族による独裁化と圧制が南ベトナム国民を苦しめることとなり、ゴ大統領は国民の信頼を次第に失いつつあった。

南ベトナム解放民族戦線

1960年に北のベトナム民主共和国に指導された南ベトナム解放民族戦線(ベトコン=越共、正しい略称は「NLF」で「National Liberation Front」の略)が結成され、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ活動を本格化させた。
南ベトナム解放戦線は実質的にベトナム労働党が主導していたが、その後南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や自由主義者などの、共産主義者とは縁遠い一般国民も多数参加していくことになる。なお南ベトナム解放戦線は、北ベトナム軍を経由して中華人民共和国やソビエト連邦などの共産主義国から多くの武器や資金、技術援助を受けていた。

ケネディによる派兵増強

1960年1月にアイゼンハワーを継いでアメリカの大統領に就任したジョン・F・ケネディは、就任直後に、東南アジアにおける「ドミノ理論」の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置するとともに、統合参謀本部に対してベトナムについての提言を求めた。また、副大統領リンドン・ジョンソンをベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。
特別委員会、統合参謀本部はともに、ソ連や中華人民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていた南ベトナムへのアメリカ正規軍による援助を提言し、ジョンソン副大統領はベトナム視察の報告書の中で南ベトナムゴ・ディン・ジエム大統領を「東洋のウィンストン・チャーチル」ともちあげ全面的な支援を訴えた。また、同じく南ベトナムを訪問したロバート・マクナマラ国務長官も、「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と表明した。
これを受けてケネディは、「共産主義の浸透を止めるため」として、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」の派遣を増強することを自らの意思で決定した。その数はアイゼンハワー政権下の1960年には685人であったものを、1963年初頭には、ジュネーヴ協定に違反する規模である15,000人に増加させ、併せて武装ヘリコプターや戦闘車両、重火器などの装備も送るなど、その規模、内容ともに実質的には正規軍と変わらないものであった。
しかし、ケネディやマクナマラの思惑に反して、アブバクの戦いで南ベトナム軍と「軍事顧問団」が南ベトナム解放民族戦線に敗北するなど、一向に事態は好転しなかった。

仏教徒弾圧

1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対して抑圧的な政策を推し進めたゴ・ディン・ジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。1963年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上でサイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師の姿がテレビを通じて全世界に流され、大きな衝撃を与えるとともに、国内の仏教徒の動向にも大きな影響を与えた。
これに対してゴ・ディン・ジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ」とテレビで語り、この発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。南ベトナムではその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してゴ・ディン・ジェム政権に対する抗議行動も盛んになった。
この様な状況に対してケネディは、1963年9月3日にテレビのインタビューに対し、「サイゴン政府(ジエム大統領)が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的にはこれは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争―ベトナム人対共産主義者の戦い―で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ。我々は彼らを支援し続ける用意はある。しかし南ベトナム国民がこの努力を支持しなければこの戦争には勝てない。私の見るところ過去2ヶ月の間にサイゴン政府は民衆から遊離してしまっている」と答えた。
しかしこの頃、当初はジエム大統領を支援したことでジエム大統領からの信任が高かったものの、ジエム大統領の独裁的な指向と、それに対する南ベトナム国民の反発の拡大を指摘していたCIAのサイゴン主席駐在員であるエドワード・ランズデールを南ベトナム大使に任命し、ジエム大統領の「方向修正」を行うことが国務省よりケネディ大統領とマクナマラ国防長官に提案されたものの、ランズデールが「ホワイトハウス内で無名の人物である」ことを理由にこれを拒否したとマクナマラ国防長官が証言している。

南ベトナム政権とクーデター

大統領とウィリアム・ウェストモーランド将軍、南ベトナムのグエン・バン・チュー国家元首とグエン・カオ・キ首相(1966年10月)]] その後、ケネディ大統領の命令によりヘンリー・キャボット・ロッジ駐南ベトナム特命全権大使がジエム大統領に対して会見を求めたものの拒否されるなど、ジエム大統領に対するアメリカのコントロールが利かなくなっていたことを受け、ケネディ大統領はロバート・マクナマラ国防長官と事態解決のための討議を進めたが、決定的な解決案は見つからなかった。この様な状況下で、南ベトナム軍内の反ジエム勢力と、「軍事顧問団」と近い南ベトナム軍内の親米勢力(この2つの勢力は事実上同一であった)によって反ジエムクーデターが計画され、その状況はホワイトハウスにも報告されるようになった。
同年11月にはクーデターが発生し、ジェム大統領と実弟のヌー秘密警察長官は反乱部隊により政権の座から引きずり下ろされ、逃げ込んだカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で頭部を撃たれて殺された。これを受けてヌーの妻であるマダム・ヌーらの政府首脳陣は国外へ逃亡した。後にマクナマラ国防長官はこのクーデターに対して「ケネディ大統領はジエム大統領に対するクーデターの計画があることを知りながら、あえて止めなかった」と、ケネディ大統領が事実上黙認したことを証言している。なお、クーデターの発生の報告を受けたケネディ大統領は、「アメリカは無関係だ」との声明を出すように指示を出した。
このクーデターの後、アメリカ軍と関係が深い南ベトナム軍の軍事顧問で将軍でもあったズオン・バン・ミンを首班とした軍事政権が成立する。親米的なズオン・バン・ミンの軍事政権はアメリカ政府に歓迎されたものの、南ベトナム解放民族戦線との戦闘には注力しなかったことから南ベトナム軍内部の離反を招くこととなり、1964年1月30日にはグエン・カーン将軍を中心とした勢力が再びクーデターを起こし、ズオン・バン・ミンが隣国のタイ王国へと追放された。アメリカはグエン・カーン将軍を全面的に支援したもののその後国民の支持を失い、南ベトナムは、その後も1965年にグエン・カオ・キが首相に、グエン・バン・チュー国家元首に就任(1967年9月の選挙で正式に大統領に就任)し実権を握るまでの約2年間の間に13回ものクーデターが発生するという異常事態になる。
なお、追放されたズオン・バン・ミンは1968年に帰国するが、グエン・バン・チュー政権を支持せず、北ベトナム政府及び南ベトナム解放民族戦線に対しては強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。なお、ズオン・バン・ミンはその穏健派としての姿勢を買われ、最後の停戦交渉を行うことを目的に、ベトナム戦争終結前日の1975年4月29日に、1965年から10年間に渡り国家元首を経て大統領を務めたグエン・バン・チューにかわり再び大統領に就任するものの、4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった。
この様に、南ベトナムの政府高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる地位獲得競争とその阻止に力を注ぎ、また自軍の精鋭部隊の多くをクーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その多くが次のクーデターの際に実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また士気も上がらないという状態になっており、この様な体たらくは、ベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続き、南ベトナム解放戦線と北ベトナムを利する結果となった。

ケネディによる撤収計画

この様な混沌とした状況下において、これまでのように「軍事顧問団」の増強を行っても状況を打破することができないと考えたケネディ大統領とマクナマラ国防長官は、これまでのような派遣増強方針から一転して、「軍事顧問団」の段階的撤退の可能性を検討し、10月31日には「1963年の末までに軍事顧問団を1,000人引き上げる予定」であることを発表した。
そして11月の反ジエムクーデターの後には、マクナマラ国防長官が年内の1,000人の顧問団の引き上げを再確認するとともに、1965年までの軍事顧問団の完全撤退を発表したが、この撤退計画は11月22日のケネディ大統領暗殺のため棚上げされることとなった。なお、ケネディ政権は、「軍事顧問団」の撤収こそ発表したものの、「軍事顧問団」撤収後の具体的なベトナム政策については発表していなかった。
なお、2003年に公開されたマクナマラ国防長官の自伝的ドキュメンタリー映画「The Fog of War」では、マクナマラ国防長官とジョンソン大統領の電話の録音記録が紹介され、「ジョンソン大統領がケネディのベトナム撤退に強く反対であったこと」の証拠を提示している(なおこの映画は、ケネディ政権とその後のジョンソン政権下でベトナム政策の直接的な責任者であったマクナマラ国防長官の自己弁護の要素が強いことに注意が必要である)。

トンキン湾事件

で撮影した北ベトナム海軍の魚雷艇]] ケネディの暗殺に伴い、ケネディ政権の副大統領であったジョンソンが大統領に就任し、マクナマラ国防長官やラスク国務長官などのベトナム政策に責任を持つ閣僚も留任する。その後ジョンソン政権は、ケネディが推し進めた軍事介入政策をそのまま転換することなく戦争介入の体制が整って行く。その後アメリカ軍は、1964年8月2日8月4日トンキン湾で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍駆逐艦マドックス」への魚雷攻撃事件(トンキン湾事件)への報復を口実に、翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。
この軍事行動はアメリカ国民からの指示を受け、8月7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決され、民主党と共和党の議員の多くがこれを支持しジョンソン大統領への戦時大権を承認、本格的介入への道が開かれた。なお、1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、この事件は、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカが仕組んだ自作自演であったことを暴露した。また、1995年にはマクナマラも同様の内容を告白している。

ジョンソンの再選

この様にベトナムでのアメリカの軍事活動が拡大していく状況下において、同年11月3日にアメリカ大統領選挙が行われた。ジョンソンは対立候補である共和党のバリー・ゴールドウォーターを、「1930年代に創られた社会福祉プログラム(例えば社会保障)の廃止を望んでいる右派議員だ」とうまく色づけもした上に、「ゴールドウォーターならばこの国をソビエト連邦との核戦争に突入させるかもしれないと」主張した。
ジョンソンはこれらの要素をうまく働かせて、50州のうち44州とコロンビア特別区を制し、一般投票が初めてアメリカ全体に広げられた1824年以降最大の得票率を獲得し破り、改めてアメリカ国民からの信任を得た形となった。ジョンソンは自らが圧勝しただけでなく多くの共和党議員も落選させ、議会で保守派連合に打ち勝つ多数派与党を確保させた。なお、マクナマラ国防長官やディーン・ラスク国務長官などのベトナム政策に関わる主な閣僚は留任することとなった。

北爆開始

戦闘爆撃機、中央はB-66軽爆撃機]] 中華人民共和国やソビエト連邦から多くの最新式の武器の供給や軍事顧問団の派遣を受け、軍事力の増強を続けていた北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線の標的は、南ベトナム軍の顧問をしているアメリカ軍へも向き、1965年2月7日にブレイクのアメリカ軍基地を爆破し、多数のアメリカ軍将校殺害に成功した。ジョンソン大統領は即日、報復として解放戦線勢力圏と同時に、トンキン湾事件報復を口実として首都・ハノイ市などの北ベトナム中枢への爆撃(北爆)を命令した。いわゆる「フレイミング・ダート作戦」で、3月からは本格的な北爆である「ローリング・サンダー作戦」が開始された。
当初は北ベトナムの発電所やダム、市街地に近い軍需工場や兵器・物資集積所、港湾施設、飛行場、空軍基地に対する攻撃が禁止されていたなど極めて限定的なものであった。これは当時の北ベトナムを支援するソ連軍事顧問団の存在がこれらの各施設内および周辺に確認されており、万一誤爆した場合は米ソ直接対決や世論の猛反発を受けるのが必至とされていた。これは北ベトナムにとって極めて有利な状況に働いた。北ベトナムはハイフォン、ホンゲイ等の重要港湾施設に必ず外国船を入港させておき、アメリカ軍によるあらゆる攻撃を防ぐ事に成功した。更には飛行場への攻撃禁止は北ベトナム空軍に聖域を与えた。ソ連から貸与されたミコヤンMiG-17MiG-19、ミコヤンMiG-21といったソ連製迎撃戦闘機は発着陸で全く妨害を受けなかったので、アメリカ軍機を相手に存分に暴れても損害は最小限に抑えられた。
これに対して、アメリカ海軍航空隊の最新鋭機であるマクドネルF-4F-105戦闘爆撃機の被撃墜が続出したことから(さらに4月29日には、中華人民共和国の領空を侵犯したアメリカ海軍第96戦闘飛行隊のF-4Bが、中国人民解放軍空軍の戦闘機に撃墜されている)、精密誘導兵器を殆ど運用していなかった当時の海軍航空隊や空軍の現場部隊からは「貴重なパイロットを大勢殺しておきながら何ら効果をあげられていないではないか」と苦情が相次ぎ、アメリカ国防総省も乏しい戦果の割に被害続出というコストパフォーマンスの悪さを認め、1967年4月末に殆どの制限が撤廃された。
これは直ちに効果をあげた。北ベトナムは空軍基地や飛行場が爆撃を受けて迎撃戦闘機が不足するほどであった。アメリカ空軍は新鋭のF-111戦闘爆撃機の他、当時、死の鳥と言われたB-52戦略爆撃機(“ビッグベリー”改造を受けたD型が主力)を投入、ベトナム全土が爆撃と空襲にさらされることとなる。これに対してベトナム民主共和国は、ソビエト連邦や東欧諸国、中華人民共和国の軍事支援を受けて、直接アメリカ軍と戦火を交えるようになった。
なお、グアム島や当時アメリカの統治下であった沖縄本島のアメリカ軍基地から北爆に向かうB-52爆撃機の進路や機数は、グアムや沖縄沖で操業していたソ連や中華人民共和国のレーダーを満載した偽装漁船から逐次北ベトナム軍の司令部に報告されていた。その影響もあり、北ベトナム軍のミコヤンMiG-19やミコヤンMiG-21などの戦闘機や対空砲火、地対空ミサイルによるB-52爆撃機の撃墜数はかなりの数にのぼったが、強力な電波妨害装置と100発を超える爆弾搭載能力を持つアメリカ軍のB-52爆撃機による度重なる爆撃で、ハノイをはじめとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、電気や水道などのインフラは大きな被害を受け、終戦後も長きにわたり市民生活に大きな影響を残した。
また、これらの爆撃に対してホー・チ・ミンをはじめとする北ベトナム指導部は、影響下にあった西側諸国のマスコミ市民団体を通じ、「アメリカ軍による虐殺行為」だと訴え続け、後の西側諸国における大規模な反戦活動への土台を整えた。

地上軍の投入と戦線拡大

ジョンソン大統領は大権を行使し、1965年3月8日海兵隊ダナンに上陸させた。そしてダナンに大規模な空軍基地を建設した。ケネディ時代に南ベトナム軍を強化する目的で、アメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させており、その数は1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、その後1964年末には計23,300名となったが、ジョンソンはさらに1965年7月28日陸軍の派遣も発表し、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍・海兵隊)は1965年末までに「第3海兵師団」「第175空挺師団」「第1騎兵師団」「第1歩兵師団」計184,300名に膨れ上がった。地上部隊を派遣したのは南ベトナムだけで北ベトナムには中華人民共和国の全面介入をおそれて派遣しなかった。
一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、ホーチミン・ルートを使ってカンボジア国境から侵入、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。彼らは10月19日にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く(だからこそ陣地としたのだが)、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのがベルエアクラフトUH-1ヘリコプターだった。これは上空からの部隊展開(ヘリボーン)を可能にしたことで、この戦争の主力兵器として大量生産されることになる。
を撒くアメリカ軍機]] 11月14日、アメリカ軍はカンボジア国境から東11Kmの地点にあるイア・ドランを中心とした数カ所に、初めてUH-1を使って陸戦部隊を展開させた(イア・ドラン渓谷の戦い)。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが始めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3,561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。
アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入することとなる。村や森に紛れた北ベトナム兵を探し出し、殲滅する「サーチ・アンド・デストロイ」作戦は農村部の無差別攻撃や、アメリカ軍による村民への暴力行動を引き起こすこととなった。その後アメリカは、北から南への補給路(ホーチミン・ルート)を断つため隣国ラオスカンボジアにも攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュといった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。アメリカ空軍はこれらの地域を数千回空爆した他、ジャングルに隠れる北ベトナム兵士をあぶり出す為に枯れ葉剤をまき散らした。ラオスではこのとき投下されたクラスター爆弾が現在も大量に埋まっており、住民に被害を与えている。

南ベトナム解放民族戦線によるテロの増加

1964年1月のクーデター以来、南ベトナム政府によるサイゴン周辺に対する支配力はきわめて不安定であった。アプバクの戦いで政府軍を下し、勢いに乗った南ベトナム民族解放戦線は、この権力の隙を狙ってサイゴン市内を中心に後方撹乱を目的にした無差別テロ攻撃を繰り返し加え、サイゴンはじめ都市部の治安は一挙に悪化した。
そのターゲットもアメリカ軍や南ベトナム軍、南ベトナム政府の関連施設だけでなく、南ベトナム政府軍兵士やアメリカ人が出入りする(当然南ベトナム人の民間人も出入りする)映画館レストランホテルディスコにまで広がり、その結果、各種テロによる南ベトナム市民の死者が1965年の前半だけで1000人以上にも及ぶなど、南ベトナムの市民生活にも悪影響を及ぼすようになっていった。
これらの南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵の多くは通常時は南ベトナムの一般市民として生活しているものも多く、中には、戦争終結まで妻や夫、親にまで自分が南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵であることを隠し通しているものも多数いた。また、南ベトナム解放民族戦線の指導部の中には、南ベトナム電力公社の副総裁や南ベトナム航空の上級幹部、南ベトナム軍の情報部将校などの南ベトナム政府軍や政府関連組織の重要人物も多く含まれていた。

韓国軍の参戦

大韓民国朴正熙政権はアメリカの要請により、1964年に最初の海軍部隊を派遣した。アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった技術者・軍人・建設者・用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(60年代後半の五年間で17億ドル)などによって韓国は高度成長を果たした。
1965年10月には陸戦部隊である猛虎師団1万数千を派兵して本格的に参戦、国内の最精鋭部隊を投入して、1973年3月23日に完全撤収するまでに最大約5万人、のべ35万人以上の兵力をベトナムに投入した。
韓国軍は北ベトナム兵などを約4万人(公式記録)殺害、ベトコンとの戦闘での損害比は36:1(アメリカ軍は12:1)であり、北ベトナム軍司令官が、韓国軍との戦闘は避けるように通達した程であった。また、アメリカの新聞にも「Demon-Hunter」と紹介されるなどした。韓国軍の犠牲者も戦死約5千、負傷約2万に上った。オーストラリアニュージーランドタイ王国を含むSEATO(東南アジア条約機構)もアメリカの要請によりベトナム派兵したが、韓国軍はSEATO派兵総数の約4倍の規模で、アメリカ以外の国としては、最大の兵力を投入した。これは、米韓の協定により、派兵規模に応じた補助金と対米移民枠を得られたこと、軍事統制権をアメリカが持っており自身に権利が無かったこと、北朝鮮や中華人民共和国などの軍事的脅威を身近に感じていたため、共産主義勢力の伸張に対して強い危機感を持っていたことが理由である。
この派兵の際、各地で韓国軍による戦争犯罪があったとされ、アメリカ軍、南北ベトナム軍と同様に、韓国軍兵士によるベトナム人住民虐殺や婦女レイプが起こった、また韓国人とベトナム人女性との間に多数の韓越混血児が生まれたことが確認されている。

チュー大統領就任

戦争の拡大により混沌とする状況下にあった中、1967年9月3日に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年6月19日に発生した軍事クーデター後に南ベトナムの「国家元首」に就任し、実質的な大統領の座にあったグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て正式に南ベトナムの大統領に就任した。
なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して「不正選挙である」と反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思を示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。以後、強烈な反共産主義者であるチュー大統領の下、南北の対立は激しさを増してゆく。チューは1971年に再選され、1975年4月のサイゴン陥落直前まで南ベトナム大統領を務めた。

反戦運動

南ベトナムにおける反戦運動

戦争の現場である南ベトナムでは、南ベトナム解放民族戦線の後援(つまり北ベトナム政府の後援)を受けた市民を中心に反戦運動が行われていた。反対に戦争支援を訴える運動も、南ベトナム政府とアメリカの大掛かりな支援のもと数多く行われていたといわれている。

アメリカ国内における反戦運動

で公民権運動の指導者であるマーティン・ルーサー・キング・ジュニアと会談するリンドン・・ジョンソン大統領]] 戦地から遠く離れているものの、多くの軍人を戦地に送り、かつテレビ中継により多くの国民が戦闘を目の当たりにしていた「戦争当事国」のアメリカでは反戦運動が高揚していた。
また、1963年奴隷解放100周年を迎え、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアを中心にした黒人アフリカ系アメリカ人)による人種差別撤廃闘争、いわゆる公民権運動が活発化していたこともあり、これらの公民権運動が転じて反戦運動に同化するケースも多くみられた。そのような中で、大学自治を求める白人の学生運動が公民権運動と結びつき、アメリカの若者を既存体制や文化から反発させる風潮が次々に作られた。ベトナム反戦運動はこれらの若者の心を捉え、ヒッピーやフラワーピープルなどと共にブームとして一層盛り上がることとなる。
1967年には最大で50万人を超えるアメリカ兵がベトナムに投入されたが(そのほか、大韓民国オーストラリアフィリピンなどの同盟国軍将兵約5万人)、ソ連や中華人民共和国による軍事支援をバックに、地の利を生かしたゲリラ戦を展開する北ベトナム軍(および南ベトナム解放民族戦線)と対峙するアメリカ軍(および南ベトナム軍)にとって戦況の好転は全く見られなかった。その上にアメリカ政府は、莫大な戦費調達と戦場における士気の低下、国内外の組織的、非組織的な反戦運動と、テレビや新聞雑誌などの各種メディアによる反戦的な報道に苦しむことになった。1967年4月にはニューヨークで大規模な反戦デモ行進があり、10月21日に首都のワシントンで最大規模の反戦大会が催された。さらに翌年1月にはテト攻勢(後述)によって反戦運動は大きく盛り上がった。
また、アメリカでは作家評論家などの文化人や、俳優女優歌手などの芸能人による反戦運動も盛んに行われた。その様な中で、1972年に「アメリカ兵のための反戦運動」と称して北ベトナムを訪れたアメリカ人女優のジェーン・フォンダは、飛来したアメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットをかぶり高射砲を打つポーズをとった。この時の写真は世界中に配信され、後にフォンダは「祖国への裏切り行為で判断の誤りだった」と釈明したものの、この後長年に渡りベトナムに派兵されたアメリカ軍兵士や帰還兵、その家族を中心に「裏切り者」、「ハノイ・ジェーン」などと呼ばれ大きな批判を浴びた。
また、1970年のビートルズ解散後のジョン・レノン(とその妻のオノ・ヨーコ)も、ビートルズの解散後に活動拠点を置いていた(後に永住権を獲得)アメリカにおいて反戦活動を行った。その主張は強硬かつ思慮が浅く一方的なものであり、しかしそれゆえに若者への影響力が強かったため、アメリカ政府から国外退去を命じられるほどであった。

西側諸国における反戦運動

なお同時期には、日本フランスイタリアイギリスなどの戦争当事国ではない西側諸国でも、左翼学生を中心とした反政府、反体制運動と絡めた形で大規模な反戦運動が行われており、一種の流行となっていた。これらの国々で行われた運動には、アメリカと同じく、この様な流行につきものである作家や芸能人の参加も多く見られた。
なお、これらの西側諸国で行われた共産党や共産主義シンパの左翼政党、左翼団体など北ベトナムに同情的な勢力による多くの組織的な反戦運動に対して、ソ連が資金的、物理的援助を行っていたことが、戦後ソ連や反戦運動の当事者の話によって明らかとなっている。

テト攻勢

旧正月(テト)休戦を打診したものの拒否された北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。しかしすぐに体勢を立て直した南ベトナム政府軍とアメリカ軍の反撃を受け、南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、2月1日にジョンソン大統領はテト攻勢の失敗を宣言し間もなく戦闘は終結した。テト攻勢で南ベトナム解放民族戦線が事実上壊滅したことにより、その後のベトナム戦争は、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。
テト攻勢は軍事的には大きな失敗であったが、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵により南ベトナムの首都・サイゴンにあるアメリカ軍の放送局が占拠され爆破された他、わずか20人の南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵が、「要塞」とも称されたサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土で生中継されるなど、北側勢力の政治的効果は高かった。
また、テト攻勢の最中に、南ベトナムのグエン・カオ・キ副大統領の側近であるグエン・ゴク・ロアン警察庁長官が、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校、グエン・バン・レムを路上で射殺する瞬間の映像がテレビで全世界に流された。以前レムはロアンの関係者家族を皆殺しにしていたとはいえ、まだ裁判すら受けていないレム容疑者を、南ベトナムの政府高官自らが報道陣のカメラを前にして射殺する様子は、世界中に大きな衝撃を与え、ベトナム戦争に対する各国の世論に大きな影響を与えた。この瞬間を撮影したアメリカ人報道カメラマンのエディー・アダムスは、その後ピュリッツァー賞の報道写真部門賞を受賞した。

フエ事件

thumb テト攻勢時に一時的に南ベトナム解放民族戦線の支配下に置かれた南ベトナム安南の古都フエでは、1月30日から翌月中旬にかけて、南ベトナム解放民族戦線兵士による大規模な市民への虐殺事件「フエ事件」が発生した。この事件はテト攻勢の実施に合わせて半ば計画的に行われたものであり、事前に虐殺相手の優先リストまで用意されていたと言われている。犠牲者は南ベトナム政府の役人や警察官だけでなく、学生キリスト教神父、外国人医師などの一般市民にまで及び、その数は2000人以上であると言われている。
テト攻勢の失敗が報じられる中、フエでは述べ25日間にわたってアメリカ軍と解放戦線の攻防戦が続けられていた(なお当時の新聞表記は「ユエ」である)。なおこの事件は、南ベトナム解放民族戦線の組織的な犯行ではないとの説もある(詳細はノート「3.7ベトコンによるテロの増加 3.13フエ事件 について」の項を参照)。

ソンミ村虐殺事件

一方で、アメリカ軍は解放戦線の非公然戦闘員(ゲリラ)を無力化するため、サイゴン周辺などの南ベトナム国内を主として度々村落の焼き討ちと、南ベトナム解放民族戦線兵士「容疑者」への虐殺を繰り返した。

ジョンソン退陣

ロバート・マクナマラとともに会議に臨むジョンソン大統領]] 結果的にベトナムにおけるアメリカ軍による戦闘の拡大を招いてしまったアメリカのジョンソン大統領は、アメリカ国内外のマスコミから連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになった。この頃ジョンソンはニューハンプシャー州の予備選でユージーン・マッカーシーに対して辛勝したが、ジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明し、同時に世論調査では最低の支持率を記録した。
これらの影響を受けて、1968年3月31日にジョンソン大統領は、テレビ放送によって北爆の部分的中止と、この年に行われる民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由としてベトナム戦争に対する反戦運動などによるアメリカ国内の世論分裂の拡大を挙げた。
この後も反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていたが、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、4月4日白人のジェームス・アール・レイに遊説先のテネシー州メンフィス市内のホテルで暗殺される。さらに、ジョン・F・ケネディ前大統領の弟で、ケネディ政権とジョンソン政権の司法長官を務めていたロバート・ケネディ司法長官は、公民権運動団体などを中心とした支持を受けて大統領選に出馬し優位に選挙戦を進めたものの、カリフォルニア州ロサンゼルス市内のホテルで遊説中の6月5日に、パレスチナ系アメリカ人のサーハン・べシャラ・サーハンに暗殺された。
8月には、民主党の大統領候補を指名するための党大会が行われていたシカゴ市内で学生を中心に反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、リチャード・J ・デイリー市長の指示により、市警官隊がデモ隊に対して暴力的かつ徹底的な弾圧を行い多数が逮捕された。この様に国内情勢が混沌とする中、政権末期のジョンソンは10月に北爆を全面停止させる。

ニクソン登場と和平交渉開始

この様な混乱により、同年に行われた大統領選挙で民主党は共和党選出で、ベトナムからのアメリカ軍の早期削減を公約に掲げたリチャード・ニクソンに敗北し、1969年1月20日にニクソンが大統領に就任した。
ニクソン大統領は、地上戦が泥沼化(ゲリラ戦化)しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようと、このとき54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。なお、就任以前から段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、就任直後よりヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始させた。
この年7月にはアポロ11号が月面に降り立ち、世界の目は泥沼のベトナムから宇宙へと移り、10月には再び反戦デモが発生したが、それはローソクに火を灯しながら行進をおこなう、静かなものに変わりつつあった。ニクソン政権は戦争に入ってから長く無風状態であったソ連と直接交渉に入り、11月からは米ソ戦略兵器削減交渉の予備会談が行われ、1970年4月からは本会談に入った。冷戦は緊張緩和(デタント)の時代に入る。

「サイレント・マジョリティ」

一方でニクソンは、ブームと化した反戦運動に反感をもつ、「沈黙した多数派層(サイレント・マジョリティ)」に対して行動を呼びかけた。反戦運動は比較的裕福な大学生や都市部のホワイトカラーや、アフリカ系アメリカ人などのマイノリティを中心とした民主党の支持者を中心としたリベラル層やインテリによるものであったが、ニクソンの支持母体はアメリカにおけるマジョリティである、保守的な思想を持つブルーカラーを中心とした共和党支持者の白人保守派層が中心であった。
アメリカからベトナムに派遣される下級兵士の多くは、彼らそのものや彼らの子供であり、徴兵猶予などで派兵を免れることのできる現役大学生や徴兵されることのないホワイトカラーのインテリ層、既存の概念を否定しつつ徴兵を逃れようとする反体制的なヒッピーに反感を持っていた。彼らはニクソンの呼びかけに応えて声を上げ、各地で反戦団体とぶつかり合った。こうした白人保守派層の巻き返しもあり、理想主義的なインテリ層や現役大学生を離れ、単にブームに乗っただけのヒッピーなどを中心とするものに変質していた反戦運動は次第に弱まっていった。
また副産物として、ベトナムで共に戦った黒人と白人の若者がそれまで完全に分け隔てられていた人種間の融和の促進剤となっていった(ベトナム戦争は、アメリカ史上初の黒人と白人が同じ戦場で同等の立場で戦う戦争でもあった)。この点についてキング牧師は生前「皮肉な結果である」と述べていた。

ホー・チ・ミン死去

フランスの植民地時代から、ベトナムの独立と南北ベトナム統一の指導者として活発に活動していた北ベトナムの最高指導者であるホー・チ・ミンは、1951年のベトナム労働党主席への就任後は、第一次インドシナ戦争の指導や日常的な党務、政務は総書記(第一書記)及び政府首脳陣、軍部指導者などに任せ、国内外の重要な政治問題に関わる政策指針の策定や、党と国家の顔としての対外的な呼びかけに精力を集中し、事実上北ベトナムの精神的指導者となっていた。
戦争指導や政務の第一線の地位からは退いたものの、ベトナム戦争の勃発後も、ソ連や中華人民共和国などの共産圏を中心とした友好国からの軍事的支援や、西側諸国の左派勢力や左派メディアを通じて反戦・反米運動への支援を得るために、北ベトナムを訪れたイタリア共産党エンリコ・ベルリンゲル党首や、中華人民共和国の周恩来首相と会談するなど、内外において積極的に活動して、対外的にも北ベトナムを代表する地位を占めていたが、1969年の9月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院にて79歳の生涯を閉じた。南北ベトナム統一を説いていた精神的指導者の死は、北ベトナム国民をより強く団結させる結果になった。
中ソ対立の影響により激化していたベトナム労働党内の「中華人民共和国派」と「ソ連派」の路線対立は、ホー・チ・ミンの死去により「ソ連派」の優勢が確定した。以後北ベトナムは、テト攻勢を境とした自軍の戦闘スタイルの変化やアメリカ軍による北爆の強化へ対応するため、ソ連への依存を強めていった。
ホー・チ・ミンは生前、中華人民共和国に対して個人的に親近感を抱いていたといわれ 、中ソ対立による国際共産主義運動の分裂を深刻に憂慮していた。

カンボジア侵攻

]] 隣国のカンボジアでは、1970年3月に、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線と近い関係にあり「容共的元首」であるとしてアメリカが嫌っていたノロドム・シアヌーク国王の外遊中に、アメリカの援助を受けたロン・ノル国防大臣と、シハヌークの従兄弟のシソワット・シリク・マタク殿下(副首相)率いる反乱軍がクーデターを決行し成功させた。反乱軍はその後ただちにシアヌーク国王一派を追放し、シアヌークの国家元首からの解任と王制廃止、共和制施行を議決し、ロン・ノルを首班とする親米政権の樹立と「クメール共和国」への改名を宣言した。
4月26日には、ロン・ノルの黙認の元、南ベトナム軍とアメリカ軍が、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナムへの物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シアヌーク・ルート」の遮断を目的として、カンボジア領内に侵攻した。この侵攻は、アメリカ軍の兵力削減と同時に、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することで、泥沼状態の戦況から脱し、アメリカ側に有利な条件下で北ベトナム側を講和に導くための目論見でもあった。
カンボジアに侵攻した南ベトナムとアメリカの連合軍は、圧倒的な兵力を背景にカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ、同年6月中には早々とカンボジア領内から撤退した。しかし同年末には両ルートとカンボジア領内の北ベトナムの拠点は早速と復旧し、結果的に目的は成功しなかった。また、アメリカ・南ベトナム両軍のカンボジア侵攻前後、アメリカの支援を受けたロン・ノル率いるカンボジア政府軍と、中華人民共和国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者であるポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦が始まった。
なお、クーデターによってカンボジアを追放されたシハヌークは中華人民共和国の首都である北京に留まり、そこで中国共産党政府の庇護の下、亡命政権の「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、親米政権であるロン・ノル政権の打倒を訴えた。シハヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた中華人民共和国の毛沢東周恩来、かねてより懇意だった北朝鮮の独裁者の金日成らの説得によりクメール・ルージュらと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。

北爆再開

]] ]] 講和条件を有利にする為、カンボジア領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況は好転せず、ニクソンは1972年5月8日に北爆を再開することを決定した(ラインバッカーI作戦)。この作戦は、圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」(英表記;Ho Chi Minh Trail)を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府が和平交渉に応じることを狙った作戦でもあった。
アメリカ空軍は第二次世界大戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。本作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えた。特に12月18日に開始されたラインバッカーII作戦ではボーイングB-52戦略爆撃機150機による700ソーティーにも及ぶ夜間絨毯爆撃でハノイやハイフォンを焼け野原にした。更に超音速爆撃機のジェネラル・ダイナミクスF-111や開発に成功したばかりのレーザー誘導爆弾ペーブウェイ、TV誘導爆弾AGM-62 ウォールアイといったハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋やタンホア鉄橋といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。北ベトナムの都市に対して2週間で20,000トンの爆弾が投下された。
海上でもハイフォン港等の重要港湾施設に対する大規模な機雷封鎖作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国をはじめとする東側諸国から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。港内にいた中立国船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助の殆どがストップした。中には勇敢にも強行突破を図った北ベトナム艦船もいたが、その殆どは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦や南ベトナム海軍船艇の攻撃を受け、敢え無く撃沈、阻止されていった。
対日戦並の本格的な戦略爆撃や機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収め、北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被った。北ベトナム軍は弾薬や燃料が払底し、継戦不能な事態に陥った。この空爆の結果、北ベトナム軍では小規模だった海軍と空軍がほぼ全滅し、絶え間ない北爆とアメリカ陸空軍による物量作戦の結果、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった北ベトナム軍は国家崩壊の一歩手前に追い込まれるまで急激に戦況が悪化した。
アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民のみならず南ベトナム国民にも大量の死傷者を出し、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦気分を植え付けた。北ベトナム軍にとって幸いなことに再度の北爆は国際世論の反発を受け短期間で中止されたが、アメリカ政府の目論見通り、この空爆は北ベトナム政府をパリ会談に出席し、停戦に持ち込まざるを得ない立場に追いこむことに成功した。

パリ協定

上記のように、就任以前から段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、1969年1月の大統領就任直後よりヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始させたが、1972年の北爆の再開などにより交渉は難航を重ねた。
この年4月、ニクソン大統領は北ベトナムの隣国である中華人民共和国を電撃訪問する。共産圏の大国である中華人民共和国を訪問したことは、当時ソ連と対立していた中華人民共和国に近づくことでソ連をけん制するのみならず、中華人民共和国が、国境を接する北ベトナムや、同じく隣国のカンボジアのポル・ポトを軍事的に支援し深い関係を持っている事が関連していると考えられた。
秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日、 北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。そして4日後の1月27日に、チャン・バン・ラム南ベトナム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャー国務長官、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者の間でパリ協定が交わされた。この「和平協定」調印へ向けての功績を称え、レ特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官にはノーベル平和賞が贈られたが、レ特別顧問は受賞を辞退した。

アメリカ軍の全面撤退

パリ協定の調印により、北ベトナムとアメリカの間に、「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」、「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍捕虜の解放」、「北緯17度線は南北間の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立し、1月29日にニクソン大統領は「ベトナム戦争の終戦」を宣言した。
その後、パリ協定に基づきアメリカ軍はベトナム全土から一斉に撤退を開始し、併せてハノイの有名な捕虜収容所「ハノイ・ヒルトン(正式名称:ホアロー捕虜収容所)」などの北ベトナムの捕虜収容所からのアメリカ軍人捕虜の解放が次々に行われた。なおアメリカ軍は、パリ協定の調印を前にすでに撤退の準備を進めていたこともあり、「終戦宣言」からわずか2カ月後の3月29日には撤退が完了した。
なお、この協定の締結までにアメリカ軍による北爆が停止されると、北ベトナム軍は補給路を確保しその体勢を立て直したが、アメリカ軍の再介入を恐れ、しばらく南ベトナム軍側に対し大規模な攻勢は行わなかった。しかしこの協定が締結されアメリカ軍が全面撤退した結果、前線における南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦力の格差は決定的に広がることとなる。

アメリカ軍撤退後の戦況

に駐留する南ベトナム軍兵士]] 大統領(左)とソ連のレオニード・ブレジネフ書記長]] ベトナムからのアメリカ軍正規軍の全面撤退により、その後のベトナム戦争は実質的に南北ベトナム軍の正規軍同士が直接対決する形になった(しかし、ケネディ政権時代から南ベトナムに派遣されていたアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し南ベトナムに残留していた上、軍事物資の供給も行われていた。なお、この様な状況は北ベトナムとソビエトの間でも同様であった)が、アメリカ軍が撤退した分増えるはずのアメリカからの南ベトナム軍への軍事援助や南ベトナム軍の兵士の数は増えるどころか減り続け、それに合わせるように南ベトナム軍の死傷者の数も増大して行った。
また、1974年1月には勢いを増した北ベトナム軍が隣国のカンボジアの首都であるプノンペンに迫る。9月以降はソ連や中華人民共和国からの軍事援助を受け、力をつけた北ベトナム軍の部隊が南ベトナム北部を占領し、その後もじりじり南下してくるなど、その勢いは増すことはあっても減ることはなかった。なお、この渦中に、中華人民共和国の人民解放軍が南ベトナム軍を攻撃し(西砂海戦)、南ベトナム領で当時石油などの地下資源があると推測されていた西沙諸島に進駐した。その後のベトナム戦争の終結と南北ベトナムの統一を経た現在に至るまで、人民解放軍による不法占拠(実効支配)状態が続いており、ともに領有権を主張する中越間の紛争案件となっている。
同月、アメリカ軍のベトナム全面撤退の立役者であるニクソン大統領はウォーターゲート事件の責任をとって辞任、後を継いだジェラルド・R・フォード大統領は、混迷を続ける内政の立て直しと中間選挙に集中しなければならず、これらに集中するためもあり、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソビエト連邦とはデタントを推し進めたニクソン政権同様積極的な宥和政策を採った。
その上に、ニクソン政権が残したウォーターゲート事件や、ケネディ政権が推し進めたアポロ計画による月面探査による膨大な出費、オイルショック後の景気停滞やベトナム戦争に対する膨大な戦費と不況の関係などの国内問題に国民の関心が移ったアメリカは、同年8月に議会が最後の南ベトナム政府への金融援助を決定したものの、その額は以前と比べ物にならないほど低かった。

北ベトナム軍の全面攻撃

この様な状況を受けて、北ベトナム政府はアメリカの再介入はないと判断し、1975年3月10日パリ協定に違反して南ベトナム軍に対し全面攻撃を開始した(ホー・チ・ミン作戦)。
この攻勢に対して、アメリカ政府からの大規模な軍事援助が途絶え弱体化していた南ベトナム軍は満足な抵抗ができなかった。その後3月末に古都フエと、南ベトナム最大の空軍基地があり貿易港として知られるダナンが、南ベトナム軍同士の同士討ちや、港や空港に避難民が押し寄せるなどの混乱のもと陥落すると、南ベトナム政府軍は一斉に敗走を始める。4月10日には中部の主要都市であるバンメトートが陥落した。この様な状況を受けてグエン・バン・チュー大統領はアメリカに対して軍事支援を要請したものの、完全に南ベトナム政府を見捨てたアメリカ議会は、軍の派遣も軍事援助も拒否した。
4月中旬には南ベトナム政府軍が「首都であるサイゴンの防御に集中するため」として、これまで持ちこたえていた戦線も含め主な戦線から撤退を開始したが、結果的にこの戦略は裏目に出た。サイゴン防御のために撤退した南ベトナム政府軍は、アメリカからの軍事援助も途絶え装備も疲弊していた上に士気も落ちており、敵の急な撤退に進撃の勢いを増した北ベトナム軍を抑えることは出来ず総崩れになり、まもなく北ベトナム軍はサイゴンに迫った

土壇場での混乱

大統領(右)と北ベトナム軍のチャン・ヴァン・トゥアン将軍(左)]] 4月21日には、グエン・バン・チュー大統領がテレビを通じて会見を行い、これらの事態の責任を取り辞任することを発表した。後任には、南ベトナム政府の長老の1人で、1960年代に大統領や首相を務めた経験を持つチャン・バン・フォン副大統領が就任した。
穏健派として知られるフォン大統領による土壇場での停戦交渉が期待されたものの、パリ協定発効以降、協定内容に則りタンソンニャット空軍基地に駐留していた北ベトナム政府代表団は、穏健派であるもののチュー元大統領の影響が強いフォン大統領との和平交渉を4月23日に正式に拒否し、存在意義を失ったフォン大統領は4月29日に、就任後わずか8日で辞任した。後任として同日には同じく穏健派のズオン・バン・ミン将軍が就任したが、ミン新大統領による土壇場での和平交渉は北ベトナム政府代表団によって同じく拒絶された。
首都であるサイゴン陥落による混乱を恐れた富裕層は、4月中旬以降次々と民間航空便で国外への脱出を図っていたが、この頃になると、サイゴン北部のタンソンニャット空軍基地にも攻撃が及んできたために、同空港を発着するベトナム航空パンアメリカン航空シンガポール航空などの民間航空機の運行は4月26日を持って全面的に停止した。また、一般市民も南ベトナム政権の崩壊を予測し、南ベトナムの通貨であるピアストルダイヤモンドアメリカドルに交換したため、ピアストルの価値が暴落した。

サイゴン撤退作戦

に脱出した南ベトナム人]] ヘリコプター]] この時すでに南ベトナム軍の前線は各方面で完全に崩壊し、それとともに北ベトナム軍によるサイゴン市内の軍施設などの重要拠点への砲撃や、北ベトナム空軍機による爆撃などが続いた為に、サイゴン市内の一部は混乱状態に陥った。その後まもなく四方からサイゴン市内へ向けて進軍した北ベトナム軍の地上部隊により、南ベトナム軍のタンソンニャット空軍基地も完全に包囲された。北ベトナム軍による攻撃を受けて同空港の滑走路が破損したために、南ベトナム機の発着は完全に途絶し、北ベトナム軍と交戦中の南ベトナム地上軍への援護も不可能になった。
サイゴン陥落は避けられない状況となり、アメリカ軍はアメリカ軍関係者と在留アメリカ民間人、アメリカと関係の深かった南ベトナム政府上層部のサイゴンからの撤退作戦であるフリクエント・ウィンド作戦を発令した。
作戦開始後、市内のアメリカ政府やアメリカ軍、南ベトナム軍の関連施設からアメリカ軍関係者とグエン・バン・チュー元大統領やグエン・カオ・キ元首相をはじめとする南ベトナム政府上層部やその家族、在留アメリカ人らが、サイゴンの沖合いに待機する数隻のアメリカ海軍空母や大型艦艇に向けてアメリカ軍のヘリコプターや軍用機、小船などで必死の脱出を続け、空母の甲板では、立て続けに飛来するヘリコプターを着艦するたびに海中投棄し、次に飛来するヘリコプターや軍用機の着艦場所を確保した。
しかし、在留日本人は、アメリカ人の撤退を行うことだけでアメリカ軍が手一杯なことや、日本が直接参戦していないことなどから、たとえ日本人がベトナムに残っても北ベトナム政府や市民などから迫害を受ける可能性が低いことなどを理由にアメリカ軍のヘリコプターに乗ることを拒否された。また、、自衛隊の海外派遣が禁じられていたために欧米諸国のように政府専用機や軍用機による救出活動が行われなかったことや、労働組合の反対で日本航空の救援機も運航されなかったために、混乱下のサイゴンに取り残された。
なおこの際に、かつてはアメリカ軍とともにベトナム戦争に参戦していた韓国人は、「アメリカ人や南ベトナム人の退去活動で手一杯であること」を理由にアメリカ軍機による撤退への同行が拒否され、その結果駐南ベトナム韓国大使以下の在留韓国人の殆どが、反韓感情が根強く残るサイゴンに取り残されることとなった。

サイゴン陥落

4月30日の早朝には、グエン・バン・チュー元大統領ら南ベトナム政府の要人や軍の上層部、アメリカのグレアム・アンダーソン・マーチン駐南ベトナム特命全権大使や大使館員、アメリカ人報道関係者など南ベトナムに住んでいたアメリカ人の多くも、サイゴン市内の各所からアメリカ軍のヘリコプターで海上に待機するアメリカ海軍の空母に向けて脱出した。
しかし撤退計画がサイゴン市内の混乱を受けて遅延したこともあり、北ベトナム軍はアメリカ政府と赤十字社の要請を受け、サイゴンに在留するアメリカ軍人および民間人が完全に撤退するまでサイゴン市内に突入しなかった。
同日午前には、前日に就任したばかりのズオン・バン・ミン大統領が戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。その後残留南ベトナム軍と北ベトナム軍の間に小規模な衝突があったものの、午前11時30分に北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し、ミン大統領らサイゴンに残った南ベトナム政府の閣僚は北ベトナム軍に拘束され、サイゴンは陥落。南ベトナムは崩壊した。

南北ベトナム統一

陥落後、1969年南ベトナム解放民族戦線(NLF、ベトコン)、民族民主平和勢力連合、人民革命党によって結成されていた南ベトナム共和国臨時革命政府が南ベトナム全土を掌握した。しかし、臨時政府は、北ベトナムのベトナム労働党の指示に基づいて秘密党員が樹立したものであり、主要閣僚職はいずれも南ベトナム解放民族戦線内の労働党員に占められていた傀儡政権であった。
南ベトナム解放民族戦線には仏教徒や自由主義者なども多数参加していたが、ベトナム統一後、それらの影響は徹底的に排除された。なお、亡命せずに国にとどまった南ベトナム軍の将校には当局への出頭が命ぜられ、再教育キャンプに送られたが、その多くが以降消息不明となる。
南ベトナム共和国臨時政府は正式な政府に発展すること無く、1976年7月1日、南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立(北ベトナムによる南ベトナムの吸収)が宣言され、「南ベトナム共和国」はサイゴン市陥落から1年余りで消滅した。
統一後はピアストルとドンの通貨の統合や行政官僚組織の再編成、企業の国営化が進められた。また、その後サイゴン市は北ベトナムの指導者の名前を取った「ホー・チ・ミン市」と改名された。

損失

ベトナム

を撒き散らすアメリカ軍のヘリコプター(1969年)]] 1960年代前半よりベトナム人自らの意思を無視した形で始められ、その後10年以上続けられた戦争によって、南北ベトナム両国は100万を超える戦死者と数千万の負傷者を出した。このことは、掲げる政治理念や経済体制に関わらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊(と北ベトナム軍の軍事活動やテロ)により国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。
また、共産主義政権による武力統一および性急な社会主義経済の施行は、長年比較的自由であった資本主義経済に慣れ親しんだ多くの南ベトナム国民の混乱や反発を招き、その後多くのベトナム難民を生む理由となった。南北統一以前のサイゴン陥落から、政権への服従を拒むかその容疑がかけられた市民は、人民裁判により容赦なく処刑されるか強制収容所送りになった。解放戦線は正規軍への編入と同時に解散を命じられ、解放戦線の幹部は北の労働党から疎んじられた。僅かに解放戦線議長を務めて統一に多大なる貢献をしたグエン・フートは戦後に実権のない名誉職である国会議長を務めた程度である。
南ベトナムの元司法大臣チュン・ニュー・タン(チュオン・ニュ・タン)は『裏切られたベトナム革命――チュン・ニュー・タンの証言』(友田錫著、中央公論社)、『ベトコン・メモリアール――解放された祖国を追われて』(吉本晋一郎訳、原書房)で、サイゴン陥落から自ら亡命するまでの実態を告白している。『共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇』(ステファヌ・クルトワ他著、恵雅堂出版、ISBN 4874300278)によれば、統一後現在までのベトナムでの死者は100万人に上るという。

アメリカ

アメリカは自らの利益の為に遠いベトナムの地で起こしたこの戦争で戦死者58,000余名(派兵数全体の約10%)と1,700機の航空機、その他にも大量な兵器の損失を出し、その結果膨大な戦費負担は経済を直撃した。しかしながらこの戦争により、ボーイングロッキードマクドネル・ダグラスノースロップグラマンやヒューズ・エアクラフトなどの多くの軍需関連企業は大きな利益を手にし、いくつかの破産寸前だった企業が息を吹き返した。
また、戦争をめぐっての国内世論分裂や事実上の敗北による挫折感は既成の価値観を崩壊させ、アメリカ国内では犯罪の増加や麻薬の増加、教育の崩壊・貧困の増加などがおきた。反戦活動の高まりによる士気の低下や徴兵拒否の増加を受けて、アメリカ軍がベトナムから撤退した1973年には徴兵制が廃止された。他にも、“勝利”を獲得できなかったベトナム帰還兵への非難や中傷が社会問題化した。

日本への影響

ベトナム戦争は当時高度成長期にあった日本にも大きな影響を与えた。ベトナム戦争の期間中、長きにわたって日本の総理大臣を勤めた佐藤栄作1964年1972年)は、日米安保条約のもと、開戦当時はアメリカ軍の統治下にあった沖縄や横須賀などの軍事基地の提供や、補給基地としてアメリカ政府を一貫して支え続け、1970年には安保条約を自動延長させた。その見返り的に、1968年小笠原諸島、1972年に沖縄県のアメリカからの返還を実現した。
左翼の一部はベトナム戦争を「ポスト安保闘争」の中核とみなし、一般市民による平和的な反戦運動やアメリカ軍脱走兵への支援をおこなったほか、自ら行う「反戦」(事実上の反米)運動や、破壊活動をともなう過激な学生運動も盛り上がりを見せた。なお、ベ平連などの反戦団体のいくつかがソ連などの共産圏の政府から金銭、物資面の後援を受けていたことが戦後当事者の証言によって明らかになっている。
また、ベトナム戦争終結後、1980年代後半までの間に、共産主義政権を嫌い、漁船などを用いて国外逃亡を図った難民(ボート・ピープル)が日本にも多く流れ着いた。また、同時期にベトナム国内の華僑の計画的な追放も発生し、後の中越戦争のきっかけの一つなった。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民がいなくなった現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。なお、ボート・ピープルにはベトナム人以外(華僑など)も多数含まれていたことが使用言語から分かっている。

国交回復

ベトナム戦争の終結から20年を経た1995年8月5日に、ベトナムとアメリカは国交を回復した。その後2000年には両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、フォードジェネラルモーターズコカ・コーラヒルトンといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出した。
その後上記のような大企業を中心とした多くのアメリカ企業がベトナムに工場を建設し、教育水準が高くかつASEANの関税軽減措置が適用されるベトナムを、東南アジアにおける生産基地の1つとしたことや、1990年代以降のベトナム経済の成長に合わせてアメリカからの投資や両国間の貿易額も年々増加するなど、国交回復後の両国の関係は良好に推移している。なお、ベトナムにとって、現在アメリカは隣国の中華人民共和国に次いで第二の貿易相手となっている。
また、現在は両国の航空会社が相互に乗り入れた事や、2000年代以降はベトナム政府がアメリカなどに亡命したベトナム人の帰国を、外貨獲得の観点からほぼ無条件に許したことから人的交流も盛んになっている。

評価

ベトナム戦争は従来の戦争と形態を異にした。生々しい戦闘シーンが連日テレビで報道され、戦争の悲惨さを全世界に伝えた。アメリカ国内では史上例を見ないほど草の根の反戦運動が盛り上がり、遠いインドシナの地で何のために兵士が戦っているのかという批判がアメリカ政府に集中した。かつてベトナムを侵略・支配していたフランスでもシャルル・ド・ゴール大統領は「ベトナム戦争は民族自決の大義と尊厳を世界に問うたものである」と述べている。
ベトナム戦争終結と共に、ラオスではパテト・ラオが、カンボジアではアメリカと中華人民共和国の支援を受けたクメール・ルージュが相次いで政権に就いたことでインドシナ半島は全て共産主義化され、アメリカの恐れたドミノ理論は現実になった。ただし、アメリカがインドシナ半島に軍事介入して10年間持ちこたえたからこそ東南アジア全体の共産化が阻止されたとする見方もある。逆にアメリカのインドシナ介入がカンボジア内戦などの諸問題を複雑にしたという声もある。
この地はその後も安定せず、ベトナムは無差別虐殺を繰り返していたポル・ポトによる独裁の打倒を掲げてカンボジアに侵攻し内戦が再燃、対して中華人民共和国がベトナムに侵攻して中越戦争が起き、不安定な状況が継続した。背景にはインドシナ半島をめぐる中ソの覇権争いがあり、ソビエト連邦や中華人民共和国などの共産主義国が、人道上の理由で北ベトナムを支援したものではないことが誰の目にも明らかになった。
ベトナム戦争終結から32年後の2007年現在では、カンボジアの共産主義政権は崩壊して民主化し、ベトナムとラオスでは依然として共産主義政党による一党独裁統治が継続しているものの、経済的には、社会主義的政策の行き詰まりからドイモイ政策などにより国家による管理統制経済を破棄して、市場経済を導入し、外国の資本投資を受け入れざるを得なくなっている。さらにベトナム、カンボジア、ラオスは東南アジア諸国連合に加盟し、ベトナムはWTOに加盟して、東南アジア諸国が市場経済体制と国際貿易体制に組み込まれざるを得なくなり、経済的な状況に限れば、アメリカが戦争だけでは実現できなかった状況が実現されることになった。
これは、東南アジア諸国連合加盟諸国の目覚しい経済成長が達成されたことや、ソ連を盟主とする共産主義陣営とアメリカを盟主とする資本主義陣営間の冷戦が終結し、ソ連東欧諸国の共産主義体制が崩壊して、共産主義体制の行き詰まりが明白になったことによる必然的な結果である。
この事実は、政治的・経済的な目的の追求・実現の方法・手段として、戦争による方法と戦争以外の方法の組み合わせの利点・欠点を多様な観点から考察し、政治的・経済的な目的の追求・実現の方法・手段として、武力行使以外の方法を含めて適用することの重要性を示す歴史的な教訓になっている。それと同時に、アジアに限れば、一度、共産主義政権が確立された共産主義諸国(ベトナム、ラオス、中華人民共和国など)においては、本来の社会主義と反する市場経済の導入や外国の資本投資の受け入れなどの政策を採用しても、非共産主義の開発独裁政権(インドネシアフィリピン、韓国など)の場合とは異なり、(事実上の)一党独裁体制を放棄して、複数政党を許容する民主主義体制に移行することはなく、共産党上層部が富や権力を独占する体制が続くという教訓を示している。
また、南ベトナム解放民族戦線(及び北ベトナム軍)がベトナム戦争中におこなった数々のテロリズムは批判の槍玉に上がることがある。なお、アメリカは枯れ葉剤などの環境破壊や人的被害に対して、謝罪するコメントは一切出していない。ベトナムも同様に、南ベトナム解放民族戦線(及び北ベトナム軍)がベトナム戦争中に自国民に対して行なった数々のテロリズムに関し、何ら謝罪するコメントを出していない。

報道

ベトナム戦争は第一次インドシナ戦争に引き続き、報道関係者に開かれた戦場であった。北ベトナムと南ベトナム、アメリカの双方がカメラマン新聞記者の従軍を許可し、彼らは直に目にした戦場の様子を社会に伝え、社会に大きな衝撃と影響を与えた。特にアメリカでは泥沼化する戦場の様子や北爆に関連した報道は、テレビ局や新聞社が自主的に規制する風潮が高まった。またアメリカ政府も戦場報道の重要性を認識し、以降、湾岸戦争を初めとしてメディアコントロールに力を注いでいくこととなる。インドシナでの戦場報道は、その後の報道のあり方を様々な面で変えていった。
インドシナ半島で戦死したジャーナリストは、第一次インドシナ戦争から中越戦争までで172名に上る。内、ベトナム人が72名、アメリカ人22名、フランス人19名、日本人15名、以下イギリス西ドイツオランダカナダなどが続く。彼らはラオス内戦カンボジア内戦でも従軍し、各地で命を落とした。

関連作品

開戦された当時から主にアメリカを中心にベトナム戦争を扱った映画が多数製作された。戦争中こそドキュメンタリーや、ジョン・ウェインが製作指揮を取り自ら主演した「グリーンベレー」のようなアメリカ軍の側に立った戦争プロパガンダ的な映画もいくつか製作されたものの、戦争終結後はアメリカ軍の軍規弛緩とそれのもたらした戦争犯罪、反戦ムードのアメリカ国内で白眼視されるベトナム帰還兵の苦悩を描くものが多く製作された。

映画

テレビ

演劇

小説

  • 『シャドー81』
  • 『狩りのとき』

漫画

ゲーム

音楽

  • 『VIETNAM』 SOFT BALLET
  • 『GOODNIGHT SAIGON』 Billy Joel
  • 19』 Paul Hardcastle
  • 『合唱組曲“IN TERRA PAX”』

脚注

参考文献

  • 近藤紘一『サイゴンのいちばん長い日』文藝春秋(ISBN 4167269031)
  • ロバート・マクナマラ『マクナマラ回顧録 ベトナムの悲劇と教訓』共同通信社
  • ロバート・マクナマラ『果てしなき論争 ベトナム戦争の悲劇を繰り返さないために』共同通信社
  • デイビッド・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』朝日新聞社
  • 松岡完『ベトナム戦争 誤算と誤解の戦場』中央公論新社
  • 小倉貞男『ドキュメントヴェトナム戦争全史』岩波書店
  • 遠藤聡『ベトナム戦争を考える』明石書店
  • ジョージ・C・ヘリング『アメリカの最も長い戦争』講談社
  • ベトナム戦争の記録編集委員会『ベトナム戦争全記録』大月書店
  • 古森義久 『ベトナム報道1300日―ある社会の終焉』 講談社
  • 『NAM-狂気の戦争の真実』 同明舎出版(ISBN 4-8104-0826-4)

関連項目

人物

その他

外部リンク

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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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