ハンファ・イーグルス [Hanhwa Eagles] [被リンク数: 50]

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ハンファ・イーグルス大韓民国のプロ野球チーム。縁故地(ホームタウン)は大田広域市。本拠地は同市内の大田ハンバッ運動場野球場。現在の監督は金寅植
  • 加盟:1985年(当時はピングレ・イーグルス、94年に現チーム名)
  • 永久欠番35-張鍾熏(チャン・ジョンフン)

歴史

草創期(1985-1987)

韓国プロ野球草創期、大田(テジョン)市(当時は忠清南道管轄)を本拠地として申し出る球団がなかったため、本来ソウルを本拠地として希望していたOBベアーズが、1984年のシーズンが終わるまで大田をホームとする新球団を創設する条件で、3年間大田に本拠地を構えていた。その間、KBOは忠清南道天安市出身の金升淵会長が総帥でいる韓国火薬グループに大田を本拠地とする新球団創設を打診。韓国火薬グループがこれを受諾して、1984年シーズンオフ、新球団を創設。球団の名前につける企業名は、一般人に怖い印象を与える親会社の韓国火薬の代わりに、ファンにもっと親密に近づけるように、グループ傘下の食品会社である「ビングレ(韓国語でスマイルの意味)」に決定。ニックネームは一般公募を通じて一番の得票を記録した「イーグルス」とし、新球団「ビングレ・イーグルス」の船出になった。
KBOと既存の6球団はビングレのリーグ参加を容易にするため、保有選手を供出することに加え、1984年と1985年のドラフトで、それぞれ10枚の特別指名権を与えた。これでビングレ・イーグルスは当時ロサンゼルス・オリンピック野球代表出身を含む、当時のドラフトの目玉になっていた大学出身の新人の多くを入団させて、チームを形を作ることまでは難なく進んでいた。そして、ビングレ・イーグルスは、新球団のリーグ参加による衝撃を緩和するため、1年間の準備期間を経て、1986年シーズンからリーグ戦に参入させることにした。
しかし、各チームの保有枠から外れた選手や新人主体のチームは当時最下位の代名詞であった青宝ピントゥスと最下位争い。結局、球団元年の1986年は最下位、1987年は青宝を抜いて7チーム中6位で2年を過ごした。

飛躍と挫折(1988-1992)

2年間の最下位争いの後、ビングレは初代監督の裵聖瑞(ペ・ソンソ)との契約の終了に合わせて、OBベアーズと三星ライオンズでそれぞれチームを優勝に導いた金永徳(キム・ヨンドク)を優勝請負人として監督に招いた。金永徳が監督を務めた1988年シーズンからチームは、その前とは違う戦いぶりを披露。シーズン序盤から上位争いに食い込み、当時全盛期を謳歌していた首位のヘテ・タイガーズに0.5ゲーム差の2位で前期リーグを終了、世間を驚かせた。後期リーグは3位で終了して、プレイオフで後期リーグ2位の三星ライオンズと対決。そこまで2年連続韓国シリーズに進出して、ポスト・シーズンの経験の豊富な三星の優位との予想を覆し、3連勝で三星を一蹴。また波乱を起こしながら、公式戦参入3年目で韓国シリーズ進出を決めた。ヘテ・タイガースとの韓国シリーズでは3連敗で一気に王手をかけられたが、それから第4,5戦をものにして、シリーズを第6戦まで持ち込んだ。結局第6戦に敗れて、2勝4敗で敗退した。
翌年のシーズンは1シーズン体制に制度が変更。リーグ戦の1位チームに韓国シリーズ直行の権利が与えられる制度の下で、ビングレは当時「ダイナマイト打線」と呼ばれた豪快な打線をバックにシーズン序盤から首位を快走。2位のヘテに5.5ゲーム差をつけて首位でリーグ戦を終了。2年連続で韓国シリーズ進出に成功した。そして、プレイオフを勝ち越してシリーズにあがったヘテとのリターンマッチになったシリーズの第1戦で李康敦(イ・ガンドン)がヘテのエース、宣銅烈から1回裏先頭打者ホームランを打ったのを合図に打線の爆発で宣銅烈を打ち崩し、シリーズの緒戦をものにした。そこまでの韓国シリーズで緒戦を勝ったチームは全部優勝したが、4点を先行した第2戦の2回表に当時2年目のショート、張鍾熏(チャン・ジョンフン)が決定的エラーを犯して逆転負けを喫し、そのまま4連敗。また、準優勝に甘んじた。
1990年は、シーズン中盤まで首位を走るも、2年間の準優勝の後遺症で故障者が続出。9月以降失速して3位でリーグ戦を終了。準プレイオフで4位の三星ライオンズに2連敗で敗退した。
故障者の復帰と年間ホームランと打点の新記録を樹立して韓国を代表する巨砲として成長を遂げた張鍾熏を中心とした打線の活躍で1991年は2位で公式戦を終了してプレイオフに直行。ここで、ロッテを下して勝ち上がった三星を3勝1敗で退けて、韓国シリーズに進出。しかし、3度目の挑戦となった今度の相手もまたヘテ・タイガースであった。ヘテはこの年、首位を独走して韓国シリーズに進出。第2戦まで2連敗。本拠地の大田に場を移して開かれた第3戦で先発の宋津宇(ソン・ジヌ)が8回2死まで一人の走者も許さない投球を演出しながら、1対0でリード。この試合はレギュラーシーズンでもなかった完全試合への期待で全国の野球ファンの視線を固定させた。しかし8回の3人目の打者が打った平凡なファウルフライを当時のライト守備についていた李中和(イ・ジュンワ)が落球すると、結局、その打者に四球を許し完全試合にならず、宋津宇が打たれ出して、その試合も1対4で逆転負けを喫した。翌日の第4戦も宣銅烈の前に手も出せないまま完敗して3度目の挑戦は1勝もあげられないまま終わった。
1991年も準優勝に終わったものの、翌年の1992年は最多勝と最優秀救援を席巻した宋津宇と韓国プロ野球史上初の年間40本塁打を記録した張鍾熏を軸にシーズン始めから首位を独走し、史上初の年間80勝を挙げながら、9月初旬に早くも韓国シリーズ進出を確定。また、この年は宣銅烈がデビュー以来始めて負傷で戦線を離脱するなど2勝止まりだったのも加えて、公式戦2位ヘテが、準プレイオフを勝ち抜いてきた同3位のロッテ・ジャイアンツに最終戦の第5戦までもつれ込む接戦の末、敗退する結末でロッテがシリーズの相手になった。しかし、公式戦で7勝止まりだったロッテの投手、朴東煕(パク・ドンヒ)がレギュラーシーズンとは見違えるほどの好投を披露して、ビングレ打線を封じ、このシリーズは、誰ロッテの4勝1敗の優勝で幕を下ろした。

沈滞期(1993-1998)

1993年シーズンは故障者続出であったが、特に2年連続でホームランと打点の年間記録を更新した張鍾熏の負傷と不振は致命的であった。そして、新戦力の方でも前年のドラフトで大卒、高卒でそれぞれ目玉になっていた具臺晟盧長震(ノ・ジャンジン)を取りながら、具臺晟は故障、盧長震(ノ・ジャンジン)はプロの厳しいトレーニングについていけず、チームを離脱した。 結局、チームも5年ぶりBクラスへ転落して、金永徳監督がこのシーズンオフ限りで、韓国シリーズでの4度の失敗とこの年の不振の責任を取って、契約切れをもって退団した。
翌年の1994年は親会社の韓国火薬グループの総帥一家の相続を巡る争いで、それまでチームの冠会社だったビングレが系列から分離。しかし、プロ野球チームの保有はそのまま親会社の韓国火薬グループが続けることになった。そして、ビングレ側の分離を持って韓国火薬グループもハンファ・グループに名称を変更。それにしたがって、チーム名も「ハンファ・イーグルス」に変わって、ユニフォームやロゴも一新した。そして、金永徳監督の時にヘッド・コーチを務めて、またロッテ・ジャイアンツを2度の優勝に導いた姜秉澈(カン・ビョンチョル)を後任監督として招いた。この年は、序盤の不振を克服して、ペナント・レースのヘテと同率3位で終了。準プレイオフでは対戦成績で勝ち越したヘテの方に開幕権を譲ったが2連勝で通過。4度の韓国シリーズの中で3度の失敗のリベンジを少しながら果たした。しかし、プレイオフでは太平洋ドルフィンズに3連敗となった。
1995年からは、1990年前後を支えた選手たちに衰えが見え始めたにも、1992年入団の鄭珉哲と1993年入団の具臺晟を除くと、それを補う新戦力はなかなか登場せず、世代交代に苦労してチーム戦力は下降の一路をたどるようになった。1996年は、16勝24セーブで5冠(MVP、最多勝、最優勝防御率、勝率、最優秀救援)のタイトルを取った具臺晟の大車輪の活躍で公式戦3位で準プレイオフに進出したが、4位の現代ユニコーンズに敗退した。そして、1997、1998年は2年連続7位に止まり、1998年オールスターゲームの休みの期間中、姜秉澈監督を解任するに球団史上初のシーズン途中監督交代という事態に至った。

初優勝(1999)

1998年シーズン途中、姜秉澈監督を解任してヘッド・コーチであった李煕洙(イ・ヒス)を監督代行として昇格させたが、7位でシーズンを終了。しかし、1998年シーズンオフ、後任の候補を探すも適任の人物が見つからず、そのまま李煕洙を正式監督として座らせ1999年シーズンを始めた。もともとプロでの監督経歴が1度もなかった李煕洙監督が2年連続7位のチームを受け継いで、監督代行の間、何も見せなかったこともあって、2リーグ制に制度の変更が行われた1999シーズンだったが、展望はよい方ではなかった。 しかし、この年は2年間不振に陥った宋津宇の復活とともに、鄭珉哲、李相睦(イ・サンモク)の先発3本柱が立ち直って、8球団の中で一番安定した投手ローテーションを確立。その後を抑えの具臺晟が締めるパターンで、先発3人は揃って14勝以上、具臺晟は8勝26セーブ。それに1998年から始まった外国人選手の導入でこの年獲得したデービスとローマイヤーは、それぞれ3割30ホームランとシーズン45ホームランの活躍を見せ、主砲の張鍾熏も28ホームランで復活。これらの活躍で夏場からはLGツインズとマジックリーグ2位の座を置いてし烈な争いを繰り広げた。そして、9月中旬、現代ユニコーンズとの3連戦で3連勝した事から快進撃が始まり、LGを退いてマジック・リーグ2位の資格でプレイオフに進出。プレイオフでもドリーム・リーグ1位でリーグ全体でも1位の成績を収めた斗山ベアーズを4連勝で7年ぶり韓国シリーズ進出を確定した。ロッテとの韓国シリーズでは先発3本柱の安定した投球で4勝1敗で優勝した。

初優勝以降から現在まで(2000-現在)

2000年シーズンは、前年韓国シリーズを制覇し、チャンピオンになったにも、それが李煕洙監督の能力というより、すべてがよい方向に進んだ結果というのが多くの見方だった。結局、優勝の動力だった先発3本柱の方は、鄭珉哲は1999年シーズンオフに読売ジャイアンツに移籍、李相睦は故障でリタイアして、宋津宇一人だけ先発ローテーションを守るなか、外国人のデービスとローマイヤーも怠慢な態度を見せ始め、前年優勝した勢いは完全に消滅。チームは7位に逆戻り、結局、もともと多くを期待されなかった李煕洙監督は優勝した翌年を限りに退団。
2000年シーズンオフは自律野球を標榜し、投手分業制のシステムでLGツインズを優勝に導いた李廣煥(イ・グァンファン)監督を招いた。李廣煥監督は赴任初年度にチームを準プレイオフに導くも公式戦では勝率5割を切り負け越した。斗山ベアーズとの準プレイオフでも敗退。2002年は6位、監督が球団OBの柳承安(ユ・スンアン)に変わった2003年は5位、2004年は7位と成績は低迷した。
金寅植監督が就任した2005年は開幕前の低評価を覆し、公式戦4位で準プレーオフに進出し、3位のSKワイバーンズを破りプレーオフに進出したものの斗山に3連敗した。2006年は高卒ルーキー柳賢振(リュ・ヒョンジン)の活躍が話題を呼び、公式戦3位で準プレーオフ、プレーオフを勝ち抜き、前回の1999年以降、7年ぶりに韓国シリーズへ進出した。しかし、韓国シリーズでは三星ライオンズに1勝4敗1引分で敗退した。2007年も上位争いに食い込み公式戦3位で3年連続でポスト・シーズン進出に成功。準プレーオフで4位の三星ライオンズに勝って、3年連続でプレーオフに進出に成功したが、今度は2位の斗山ベアーズに3連敗で敗れ、韓国シリーズ優勝はまたお預けとなった。2008年はオリンピック休み以降、調子を落とし4位争いからも脱落。公式戦5位に終わり、4年ぶりにポストシーズン進出に失敗した。

チームの特徴

  • 選手、監督を問わず、チームに所属する期間が他球団と比べて、比較的に長い。現在韓国プロ野球現役最年長の宋津宇(ソン・ジヌ、1989年入団)を始め、鄭珉哲(1992年入団)、具臺晟(1993年入団)など1990年代前半に入団した選手がいまだチームの主軸を勤めている。野手の方でも、19年間働いて引退した張鍾熏のほか、現在も経歴10年以上の生え抜き選手が多数いる。監督の方でも創設して2008年まで24年間歴任した監督の数が7人で、監督の平均寿命も3.4年であり、シーズン途中交代も1998年の姜秉徹監督一人だけである。これは、親会社が攻撃的な投資をする余力が他の球団より少ないこともあるが、目の前の成績よりチームの運営を長い目で見る特性に起因することもあり、またチームに貢献してきたベテラン選手を優遇して1年や2年の不振では見切らないため、その選手たちが復活を遂げて選手生命を延長することの方が大きいと見られる。
  • ビングレ時代はユニフォーム・チェンジが一度も起こされてなかったがハンファ・イーグルスになってからはユニフォームのメジャーおよびマイナーチェンジが頻繁に起こされた。ビングレ時代のユニフォームが8年に渡る長い寿命を持った反面、ハンファになってからは、メジャーとマイナーチェンジを含めて、14年間で5度のユニフォーム・チェンジがなされた。
  • 上述の主力の長い在籍のおかげで、韓国プロ野球創設メンバーの6球団(斗山、LG、起亜、三星、現代、ロッテ)より4年遅れて1軍リーグに参入したにもかかわらず、現在KBO所属球団最多の4人の100勝投手を輩出しており、またその中で二人が150勝を超えて韓国プロ野球史上3人しかない150勝投手を二人保有している。さらにそのうちの一人は史上初の200勝投手、宋津宇である。しかも、その100勝投手4人がみんな他の球団に所属した事のないイーグルス一筋である。

歴代監督

  • 裵聖瑞(ペ・ソンソ)1985-1987
  • 金永徳(キム・ヨンドク)1988-1993
  • 姜秉徹(カン・ビョンチョル)1994-1998.7(1998年シーズン途中成績不振の責任を取って解任)
  • 李煕洙(イ・ヒス)1998.7-2000(1998年は監督代行)
  • 李廣煥(イ・グァンファン)2001-2002
  • 柳承安(ユ・スンアン)2003-2004
  • 金寅植 2005-

主な在籍選手

投手

内野手

主な退団・引退選手

柳承安(ユ・スンアン)
在籍年度1986-1991
韓禧敏(ハン・ヒミン)
在籍年度1986-1992
李相君(イ・サングン)
在籍年度1986-1996、1999-2001
李康敦(イ・ガンドン)
在籍年度1986-1997
姜正吉(カン・ジョンギル)
在籍年度1986-1995
李政勲(イ・ジョンフン)
在籍年度1987-1994
張鍾熏(チャン・ジョンフン)
在籍年度1987-2005。テスト生から入団して、引退する時は韓国プロ野球の個人通算最多本塁打記録を保持した。背番号35はチームの永久欠番となる
姜錫千(カン・ソクチョン)
在籍年度1989-2003
韓容悳(ハン・ヨンドク)
在籍年度1988-2004
盧長震(ノ・ジャンジン)
在籍年度1993-1998
ダン・ローマイヤー(Dan Rohrmeier)
在籍年度1999-2000。1997年シアトル・マリナーズでのメジャー経験あり。1999年、シーズン45本塁打で指名打者部門でゴールデングラブ賞受賞。
ジェイ・デービス(Jay Davis)
在籍年度1999-2002、2004-2006。外国人選手としては史上最長となる7年間韓国で活躍。

所属した日本プロ野球経験者

福士敬章
読売ジャイアンツ南海ホークス広島カープ。韓国名は張明夫(チャン・ミョンブ)。1986年、青宝ピントゥスから移籍も1勝18敗の成績で同年限りで退団、引退。
吉村元富
南海ホークス。韓国名は高元富(コ・ウォンブ)。1989年、首位打者とゴールデングラブ賞を獲得。
宮城弘明
ヤクルトスワローズ。韓国名は金弘明(キム・ホンミョン)。もともと、韓国出身とは血縁関係のない日本人なので、当時のルールでは球団に所属できなかったはずだったが、知人の助けで見分をごまかして入団することができた。
ブライアン・ウォーレン
千葉ロッテマリーンズ
マーク・スミス
ヤクルトスワローズ
エディ・ディアス
広島東洋カープ
ホセ・ヌーニェス
福岡ダイエーホークス
高山智行
阪神タイガース。韓国名は高智行(コ・ジヘン)。
趙成珉(チョ・ソンミン)
読売ジャイアンツ
セドリック・バワーズ
横浜ベイスターズ東北楽天ゴールデンイーグルス。韓国ではセドリックの登録名で登録した。

関連項目

外部リンク

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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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