概要
1792年に開始された
フランス革命戦争から断続的に戦争状態が続いていたため、一連の戦争を合わせて
大フランス戦争(だいふらんすせんそう, Great French War)とも呼ぶ。ドイツでは
対仏大同盟戦争(たいふつだいどうめいせんそう, Koalitionskriege)、1813年以降のドイツ解放の戦いを
解放戦争とも呼ぶ。
大同盟戦争以来100年以上にわたって続いた英仏間の対立関係を
第二次百年戦争とみる見方もある。
フランス革命戦争とナポレオン戦争との間をどこで区切るかについて定説はない。1803年5月の
アミアンの和約の破棄を境界とする見方が多いが、他にも1796年3月のナポレオンによる
第一次イタリア遠征の開始を境界とする見方、1799年11月の
ブリュメールのクーデターを境界とする見方などがある。本項目では1796年3月以降の戦役について述べる。
参戦国
全てのヨーロッパの国家が多かれ少なかれナポレオン戦争に関与した。ナポレオン戦争では何度も宣戦布告と講和が繰り返されたため、フランスとイギリスとが一貫して対立関係にあったことを除き、参戦国は途中で入れ替わりがある。フランス側の同盟国から対仏大同盟側へ、あるいはその逆へ立場を変えた国もある。
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フランス帝国、デンマーク王国、ワルシャワ公国
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スペイン王国、ライン同盟諸邦(バイエルン王国、ザクセン王国など)、ナポリ王国、オランダ(バタヴィア共和国、ホラント王国)、スイス(ヘルヴェティア共和国)
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イギリス、オーストリア帝国(ハプスブルク君主国)、ロシア帝国、プロイセン王国、スウェーデン王国、ポルトガル王国、オスマン帝国、サルデーニャ王国、教皇領
軍事的側面
動員・編成
ナポレオン戦争以前のヨーロッパの
絶対主義諸国は、
傭兵を主体とした軍隊を有していた。フランス革命を経たフランス軍は、革命の成果たる共和国を防衛しようという意識に燃えた一般国民からなる
国民軍へと変質していった。フランスは18世紀末の時点でヨーロッパではロシアに次ぐ大きさの人口ブロックであったため、
徴兵制度の実施において有利であった。だがナポレオン戦争の過程でドイツをはじめとする各国にも
国家主義の運動が高まり、戦争後期には各国軍とも国民軍の性格を強めた。
国民軍となったことで軍隊の規模は拡大した。直前の
七年戦争において、20万人を超える軍隊を有した国はわずかであった。一方、フランス革命戦争中の最大時におけるフランス軍の人員数は150万人に達し、ナポレオン戦争期間中のフランスの総動員兵力は300万人と推定される。こうした動員制度を整備したのは
ラザール・カルノーであった。さらに、
産業革命の初期段階にあったことで、兵器の大量生産が巨大な軍隊の装備を可能にした。戦争期間中、イギリスは最大の武器生産国となり、同盟諸国への武器供与を実施した。フランスは第2位の武器生産国であった。
国民軍の兵士たちは強い愛国心を持ち、また団結力を有していた。彼らは逃亡のおそれが低いため、
散兵戦術のような兵士の自律的判断に依存する戦術を用いることができた。巨大化した軍隊には
師団と呼ばれる1万人程度の独立行動可能な作戦単位の編成が導入され、大部隊の柔軟な運用が可能となった。こうした軍制改革でもフランスは他のヨーロッパ諸国に先行した。
軍事技術
歩兵の主力兵器は
フリントロック式前装銃であった。
ライフルも使用されていたが、当時は装填に時間がかかり、弾丸を生産する工業技術も低かったため一般的ではなく、後方支援に多少使用される程度だった。歩兵部隊は精密な狙いを定めずに敵に向けて弾幕射撃を行った。
砲兵は、それまでは歩兵の掩護のもとに機動性の低い部隊であったが、フランス軍では機動性を高めた独立した部隊として編成された。ナポレオンは
砲弾のサイズを標準化し、砲兵部隊間での融通を容易にした。
兵站は、いまだ
鉄道が未発達であったため、各国軍とも現地調達によるしかなかった。フランス軍は人口密度の高い中部ヨーロッパでは円滑な調達により高い機動性を発揮したが、人口希薄なロシアや
イベリア半島では機動力が鈍った。遠距離間の通信には
腕木通信が導入され、戦争期間を通して使用された。また、
熱気球による空中偵察が、1794年6月26日のフルリュスの戦いにおいて初めて実用化された。
ナポレオンの戦術
ナポレオンは巧みな戦略的機動によって有利な状況を作り出すことを得意とした。「最良の兵隊とは戦う兵隊よりもむしろ歩く兵隊である」というナポレオンの言葉や、「皇帝は我々の足で勝利を稼いだ」という
大陸軍の兵士たちの言葉にこの思想が現れている。カスティリオーネの戦いでは分散して進撃する2倍のオーストリア軍に対して機先を制して機動し、各個に撃破した。
ウルムの戦いでは敵主力の側面から背後を大回りに機動し、オーストリア軍主力を包囲して降伏に追い込んだ。
会戦においては、ナポレオンは自軍の一部をもって敵主力の攻撃をひきつけ、その間に主力をもって敵の弱点を衝く作戦を得意とした。
アウステルリッツの戦いや
フリートラントの戦いはこの成功例と言える。
経過
第一次イタリア遠征(第一次対仏大同盟)
1796年3月、イタリア方面軍の司令官に任命された
ナポレオン・ボナパルトは攻勢に出る。まず、これまで最前線でフランス軍と対峙してきた
サルデーニャ王国をわずか1か月で降伏させ、オーストリア軍の拠点
マントヴァを包囲した。オーストリア軍はマントヴァ解放を目指して反撃に出るが、ナポレオンの前にカスティリオーネの戦い(8月5日)、
アルコレの戦い(11月15日-17日)、リヴォリの戦い(1797年1月14日)で敗北する。2月2日にマントヴァは開城。オーストリアは停戦を申し入れ、4月18日にレオーベンの和約が成立した。
エジプト遠征(エジプト・シリア戦役)
フランス軍は、強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては打撃を与えられなかった。そこでナポレオンはイギリスと
インドとの連携を絶つため、
オスマン帝国領
エジプトへの遠征を総裁政府に進言した。1798年5月19日、ナポレオンの率いる
エジプト遠征軍は
トゥーロン港を出発。途中
マルタ島を占領し、7月2日にエジプトの
アブキール湾に上陸した。7月21日には
ピラミッドの戦いで現地軍に勝利。次いで
カイロに入城した。しかし8月1日の
ナイルの海戦において、
ネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊は大敗し、ナポレオンはエジプトに孤立してしまう。
帝政の成立(第二次対仏大同盟)
)]]
1798年1月より、スウェーデンの調停のもと、フランス革命戦争の終結を目指した
ラシュタット会議が開かれるも、オーストリアは会議を引き延ばし、対仏大同盟の再建という時間稼ぎに成功する。1798年12月、イギリス、オーストリア、ロシアなどによって
第二次対仏大同盟が結成され、1799年にはオーストリアが北イタリアを奪回する。再びフランスは危機に陥り、国民の間では総裁政府を糾弾する声が高くなっていった。
この状況の中、ナポレオンは少数の部下と共にエジプトを脱出してフランスに戻り、11月9日、
ブリュメール18日のクーデターを起こして独裁権を握った。1800年、ナポレオンは反撃のため
アルプス山脈を越えて北イタリアに進出。6月14日の
マレンゴの戦いでは、フランス軍はオーストリア軍の急襲を受け窮地に追い込まれるが逆襲に成功する。
モローが率いるライン方面軍も、ホーエンリンデンの戦い(12月3日)でオーストリア軍を撃破した。
この後国際平和が1年余り続いた。しかし、フランスによるヨーロッパ市場からのイギリス製品の駆逐や和約違反行為などにより、再び英仏間の対立が強まり、
1803年5月16日、イギリスはアミアンの和約を破棄し
宣戦布告した。戦争の目的は、フランスの旧状回復から、ナポレオンの打倒へと変わっていく。また3月21日にナポレオンに対するクーデター計画に参画したとして、フランス王族の
アンギャン公が処刑された事も欧州諸国の非難を浴び、再戦に拍車をかけた。1804年5月28日、ナポレオンは
帝政の開始を宣言。12月2日に戴冠式を行い、フランス皇帝ナポレオン1世となった。
陸戦と海戦(第三次対仏大同盟)
1805年、ナポレオンは
イギリス上陸を計画し、
ドーバー海峡に面した
ブローニュに18万の兵力を集結させる。これに対してイギリスは、オーストリア・ハプスブルク、ロシアなどを引き込んで
第三次対仏大同盟を結成した。戦いはレイベリヒ率いるオーストリア軍7万の
バイエルンへの侵攻によって開始された。フランス軍は8月下旬にブローニュを進発。9月25日から10月20日に及ぶ
ウルムの戦いにおいてオーストリア軍を包囲し降伏させた。ナポレオンは
ウィーンに入城するが、ロシア皇帝
アレクサンドル1世と
クトゥーゾフの率いるロシア軍がオーストリア軍残存部隊と合流し決戦を挑む。ナポレオンの即位1周年にあたる12月2日、
アウステルリッツの戦いにおいて、ナポレオンは優勢な敵に対し、後に芸術と評される采配を振るい完勝した。
その一方で海戦はフランスの敗北に終わっていた。ヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊は、
ネルソン率いるイギリス艦隊に捕捉され、10月21日、
トラファルガーの海戦で壊滅した。だがこの海戦は、直ちには大陸におけるナポレオンの覇権に影響を与えなかった。12月26日、オーストリアは
プレスブルクの和約を締結してフランスへ屈服する。
ドイツ諸邦の制圧(第四次対仏大同盟)
11月21日、ナポレオンはベルリンにおいて
大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発布する。これは、
産業革命が勃興しつつあったイギリスとヨーロッパ大陸諸国との貿易を禁止して、イギリスを経済的孤立に追い込むことが狙いであった。だが、逆に交易相手を喪失した大陸諸国の方が疲弊するという結果になる。フランス軍はプロイセン国王
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世を追跡して
東プロイセンへと向かい、プロイセンの救援に来たロシア軍と
アイラウの戦い(1807年2月7日-8日)となる。吹雪の中の戦いは両軍ともおびただしい死傷者を出し、決着はつかなかった。その後フランス軍は体勢を立てなおし、
フリートラントの戦い(6月14日)でロシア軍を捕捉し撃滅した。
1807年10月、ナポレオンとロシア皇帝
アレクサンドル1世は
エアフルトで会談し、スウェーデンを大陸封鎖令に参加させるためにロシアが圧力をかけることが確認された。これにより
第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年-1809年)が勃発し、敗れたスウェーデンは
フィンランドをロシアへ割譲するとともに大陸封鎖令に参加した(
パリ条約)。その後、スウェーデン国王
カール13世はナポレオン麾下の
ベルナドットを養子に迎え入れた。ナポレオンは
北欧に信頼できる同盟国を得たかに思われたが、ベルナドットは後に離反し、スウェーデンを対仏大同盟に戻らせた。
泥沼の戦い(半島戦争)
)]]
スペインはフランスと同盟し、トラファルガーの海戦や1807年の
ポルトガル侵攻でも共に戦ってきたが、国内では国王
カルロス4世とその子
フェルナンド7世が対立していた。1808年、ナポレオンは両者を幽閉し、代わって自分の兄の
ジョゼフを王位に就けた。これに反発した民衆は、5月2日に
マドリードで蜂起。やがて反乱はスペイン全土に拡大する。反乱を支援するためイギリスは
ウェルズリー(後のウェリントン公)らの部隊を派遣する。
11月、ナポレオンは自ら20万の大軍を率いてスペインへ侵攻、1809年1月までにイギリス軍を駆逐し、後事を
スルトに託して帰還した。だがその後もスペイン側は
ゲリラ戦とイギリスの支援により根強い抵抗を続けた。この
半島戦争(1808年-1814年)は泥沼の戦争となり、フランスは大軍を貼り付けにした挙句、最終的には敗退する。
帝政の絶頂(第五次対仏大同盟)
5月20日-21日、フランス軍はウィーン近郊でドナウ川を渡河しようとするが、オーストリア軍の妨害によって仮橋がたびたび破壊され、半渡のところで攻撃を受ける。この
アスペルン・エスリンクの戦いは、ナポレオン自身の指揮による初めての敗北となった。その後、フランス軍は
ヴァグラムの戦い(7月5日-6日)でオーストリア軍に勝利。10月14日、オーストリアはフランスと
シェーンブルンの和約を結び、領土割譲と巨額の賠償金を課せられた。
ロシア遠征(1812年ロシア戦役)
大陸封鎖令を出した事で、イギリスの物産を受け取れなくなったヨーロッパ大陸諸国は経済的に困窮した。1810年、ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。ナポレオンはロシア攻撃を決意する。
1812年6月23日、27万のフランス軍を主体とし同盟国の軍隊を含む60万の
大陸軍が国境の
ネマン川を渡った。
ロシア遠征の始まりであった。
ロシア軍の戦略は、退却によってフランス軍をロシア領の奥深く引きずり込み、
焦土戦術によって食料の補給を断つことであった。8月17日には
スモレンスクが陥落するが、町は焼失させられていた。9月7日、モスクワ西方のボロジノで、
クトゥーゾフ率いるロシア軍はフランス軍との決戦を試みる。この
ボロジノの戦いはフランス軍の辛勝に終わり、結局ロシア軍は焦土戦術を強化した。
9月14日、ナポレオンは
モスクワに入城した。市民の大部分は町を脱出した後であった。14日の夜からモスクワの大火が起き、モスクワの町は4日間にわたって燃え続け、4分の3が焼失した。フランス軍は住居も食料も失った。ナポレオンは
アレクサンドル1世との和平交渉を試みるが返事はなく、冬が近づいていた。10月19日、ナポレオンはモスクワからの撤退を決意した。
撤退するフランス軍に対して、ロシア軍の
コサック騎兵や農民の
ゲリラが襲い掛かった。11月に入ると冬将軍が到来し、飢えと寒さで死亡する者が続出した。10月23日にはパリでマレーによるクーデター未遂事件が起きる始末であった。撤退の過程で、大陸軍では37万が死亡し、20万が捕虜となった。12月10日にネマン川を越えて帰還したのはわずか5,000であった。だがこの戦いでロシア軍も40万を失ったのだった。
諸国民の戦い(第六次対仏大同盟)
1813年3月17日、ナポレオンのロシアでの大敗を目にして、プロイセンはフランスへ宣戦した(
解放戦争)。ナポレオンは急ぎ軍隊を再建し、リュッツェンの戦い(5月2日)、バウツェンの戦い(5月20日-21日)でロシア・プロイセン連合軍に対して勝利した。だがそのころ
スペインでもフランス軍は危機を迎えていた。6月21日、ビトリアの戦いで、
ウェリントン公率いるイギリス軍がフランス軍を破った。
ナポレオンへ皇后マリー・ルイーズを嫁がせていたオーストリアは停戦を仲介するが、和平交渉は決裂。
イギリス、
オーストリア、
ロシア、
プロイセン、
スウェーデンによる
第六次対仏大同盟が成立し、8月11日、オーストリアもフランスへ宣戦した。10月16日-19日の
ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)はナポレオン戦争における最大の戦闘となった。19万のフランス軍に対して36万のロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍が包囲攻撃をかけ、フランス軍は多くの死傷者を出して敗走した。
1814年、戦場はフランス国内に移った。東からは連合軍が殺到し、南からはスペインを制圧したイギリス軍が侵入した。ナポレオンは局地的な戦闘でたびたび勝利を収めるが、大局的な劣勢は覆しようもなかった。3月31日に連合軍は
パリに入城。4月6日、ナポレオンは退位し、
エルバ島の小領主として追放された。
百日天下(第七次対仏大同盟)
ナポレオンの退位後、9月1日から
ウィーン会議が開催され、戦後体制について話し合われていたが、各国の利害が絡んで遅々として進展しなかった。フランスでは
ルイ18世が即位して
王政復古がなされたが、その政治は国民の不満を買っていた。こうした状況の隙を突いて、1815年2月26日にナポレオンはエルバ島を脱出し、フランスへ上陸する。国民もこれを歓迎し、ルイ18世は逃亡。3月20日、ナポレオンはパリに入城して再び帝位に就いた。
各国は
第七次対仏大同盟を結成してナポレオンの打倒にかかった。
ベルギー方面に
ウェリントン公率いるイギリス・オランダ連合軍と
ブリュッヒャー率いるプロイセン軍が展開した。ナポレオンはフランス軍主力を率いてベルギーへ向かい、6月15日、リニーの戦いでプロイセン軍に勝利。
グルーシーに別働隊を与えてプロイセン軍を追撃させ、自身はワーテルローでイギリス・オランダ連合軍と対峙した。
6月18日、
ワーテルローの戦いが開始された。
ネイの騎兵による再三の突撃に対してイギリス軍の方陣は持ちこたえた。イギリス軍にとどめをさすべくナポレオンが
老親衛隊の投入を命じた直後、グルーシーの追撃を振り払ったプロイセン軍が戦場へ到着し、フランス軍の側面へ猛攻をかけた。フランス軍は潰走した。
海外での戦闘
アジア・アフリカ
オランダ本国がフランスに併合されたことで、オランダの植民地もフランスの支配下となった。しかしこれらの植民地は、
アミアンの和約の破棄後、
制海権を確保したイギリスによって次々と攻略された。オランダ領
スリランカは1796年、オランダ領
ケープ植民地は1806年、フランス領
セネガルは1809年、フランス領
モーリシャスとオランダ領
モルッカ諸島は1810年、オランダ領
ジャワは1811年に陥落した。ウィーン会議の結果、これらのうちセネガルはフランスに、
モルッカ諸島とジャワはオランダに返還されたが、スリランカ、ケープ植民地、モーリシャスはイギリス領となった。
アメリカ
ナポレオンは1803年に
フランス領ルイジアナを
アメリカ合衆国へ売却し、
北米大陸からは撤退した。中南米のフランス領およびオランダ領もイギリスによって攻略された。フランス領
ハイチは1803年、フランス領
セントルシアと
オランダ領ギアナは1804年、
オランダ領アンティル諸島は1807年、
フランス領ギアナとフランス領
マルティニークは1809年に陥落した。セントルシアはウィーン会議後にイギリス領となった。また、1812年には、
イギリス海軍による
海上封鎖によってアメリカとヨーロッパとの交易が途絶えたことで、米英間の軋轢が高まり
米英戦争が勃発した。最終的にアメリカはイギリス軍を退け、イギリスの海上覇権下からの離脱に成功した。
日本
1808年に
長崎で起きた
フェートン号事件は、ナポレオン戦争の余波が日本にまで及んだものといえる。10月4日(文化5年8月15日)、イギリス船フェートン号が、当時フランスの支配下にあったオランダの船舶の拿捕を目的として長崎に侵入し、オランダ人を人質として薪水や食料の提供を要求した。
長崎奉行の
松平康英はフェートン号を撃退する戦力を有しておらず、この要求を受け入れた。後に松平康英は事件の責任を取って
切腹した。
影響
ヨーロッパ
各国の利害が錯綜して進展の遅れていた
ウィーン会議は、ナポレオンがエルバ島を脱出すると各国の妥協が成立し、1815年6月に
ウィーン議定書が合意された。ナポレオンの完全失脚後、主要戦勝国によって
神聖同盟が結ばれ、ヨーロッパは復古主義・
正統主義を原理とする
ウィーン体制下に置かれることとなった。
だがナポレオン戦争の過程で、
民主主義、近代法、特権階級の廃止などのフランス革命思想が、ヨーロッパ各地や
ラテンアメリカなど一部の植民地へ伝播した。
ナポレオン法典を基礎とした諸法典は、旧体制の復活の後も各国に残された。革命思想は
1848年革命の思想的基盤となってゆく。同時に、ナポレオン戦争は
民族主義が広まる契機となった。民族主義はヨーロッパの歴史を大きく変え、その後100年間に、ヨーロッパ諸国は封建領主の領土を単位とした領域から
国民国家へと変貌した。一方で、ナポレオンが意図したヨーロッパ統一国家の構想は瓦解した。ヨーロッパ統一の機運が再び高まるのは
第二次世界大戦後のことになる。
フランス
イギリス
イギリスは
ケープ植民地をはじめとする海外領土を獲得した。さらに、フランス、スペイン、オランダ、デンマークなどの海軍を打倒したことで
イギリス海軍が世界の海における
制海権を確立し、
大陸封鎖令とそれに対抗する海上封鎖というフランスとの経済戦争にも勝利して、植民地貿易における支配力を強め、イギリス産業が興隆した。19世紀におけるイギリスの覇権国としての地位は揺るぎないものとなった。
ドイツ
ドイツではナポレオンの侵略に屈したことで民族主義運動が高まり、
ドイツ連邦が結成され
ドイツ統一運動へと発展していった。その中で
プロイセン王国が
ラインラントをはじめとする領域を獲得し大国として台頭し、ドイツ統一を主導した。
オーストリア帝国も軍制改革を達成してナポレオンの攻撃に耐え抜き、戦後は
北イタリアを獲得して大国としての地位を維持したが、次第にプロイセンとの対立が深まっていった。
ロシア
ロシアはナポレオン戦争においてその強力な陸軍をイタリアやフランスにまで派兵し、戦後は
神聖同盟を提唱して自由主義運動を封じ込め、ヨーロッパの旧体制の中核として国際的地位を高めた。しかし
農奴制を色濃く残す国内経済は西欧諸国と比べて立ち遅れた。ロシアの遅れが明白になるのは
クリミア戦争でのことになる。
主要な戦役・戦闘
主要な条約・協定
参考文献
- David G. Chandler, ''Campaigns of Napoleon: The Mind and Method of History's Greatest Soldier'', 1973, ISBN 0025236601
- デイヴィッド・ジェフリ・チャンドラー著(君塚直隆ほか訳)『ナポレオン戦争――欧州大戦と近代の原点(全五巻)』(信山社、2003年、ISBN 4860750225 ~ ISBN 4860750284)
-
松村劭 『ナポレオン戦争全史』(原書房、2005年、ISBN 4562039531)
- エミール・ブカーリ著(小牧大介訳)『ナポレオンの元帥たち――フランス帝国の群雄伝』(新紀元社、2001年、ISBN 4883178862)
-
ポール・ケネディ著(鈴木主税訳)『大国の興亡――1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上・下〉』(草思社、1993年、ISBN 4794204914/ISBN 4794204922)
- 本池立 『ナポレオン――革命と戦争』(世界書院、1993年、ISBN 4792721113)
- フランソワ・ヴィゴ・ルシヨン著(瀧川好庸訳)『ナポレオン戦線従軍記』(中公文庫、1988年、ISBN 4122015081)
-
清水多吉・石津朋之編『クラウゼヴィッツと「戦争論」』(彩流社、2008年)
ナポレオン戦争を題材とした作品
関連項目
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