国家社会主義ドイツ労働者党(こっかしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう、独:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)とは、一般に
ナチ党、
ナチス党として知られる
ドイツの
政党。
1920年に結成され、
アドルフ・ヒトラーが指導者として率い、
1933年に
政権を奪取したが、
1945年のドイツ敗戦にともない消滅した。
名称
正式党名の訳語は国民社会主義ドイツ労働者党、民族社会主義ドイツ労働者党とも訳される。マルクス経済学の研究者岩田弘は、後者の呼称がナチスの主張に即しているとの意見を発表している。各国語では下記の通り翻訳されている。
- 英語:National-Socialist German Workers Party
- 仏語:Parti national-socialiste des travailleurs allemands
- 中国語:民族社會主義德意志工人黨、國家社會主義德意志勞工黨
通称の
ナチ(
独: Nazi)とは、当時の対抗勢力がナチ党員に付けた蔑称であり、自分たちでナチスという名称を使用する事は無い。
映画などでナチス党員が「我々ナチスは・・・」と言ってるのは誤りであり、自称では
Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiを縮めて
NSDAPとか
NSと呼んでいた。
ドイツ社会民主党員は同じように Sozialisten を短縮してゾチ (Sozi) と蔑称されていた。
ナチス (Nazis) は複数形である。ナチスの呼称は日本で戦前から使用されている(後述の「文献」参照)。現在は英米でも Nazi Germany のようにドイツ語の Nazi がそのまま使用されている。ドイツでは現在は、Nazi よりも
National
sozialismus の略号である
NS を接頭語に例えば、NS-Deutschland のように造語される。
歴史
結成、ヒトラーの入党
1918年初頭に「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会」(Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden) がドイツの
ブレーメンで結成される。錠前師であり自称詩人であった
アントン・ドレクスラーは同党の支部を1918年3月7日に
バイエルン州の
ミュンヘンで結成した。
1919年1月5日にドレクスラーは ゴットフリート・フェーダー(Gottfried Feder)、
ディートリヒ・エッカート、
カール・ハラーらと共に同支部を「ドイツ労働者党」(DAP)に改名する。
軍の情報関係の仕事をしていた
アドルフ・ヒトラーは1919年9月12日の集会に参加し、数日後に入党した。彼はたちまち党に不可欠な巧みな演説者となった。ヒトラーは自分が七番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は555番であり(番号は501番から始まる。)、実際は党幹部中の七番目の幹部であった。ヒトラーはドレクスラーと共に党綱領の整備に取り組み、反ブルジョワ・反ユダヤ・
国粋主義などを訴える
25カ条綱領を作成した。綱領は反資本主義・社会主義色が濃かった。
またヒトラーは党章の募集を発案して、歯科医フリードリヒ・クローンが、
義勇軍「エアハルト旅団」(de)(「
コンスル」の前身)が使用していた
鉤十字を下地にデザインしたものに修正を加えたものが党章・党旗として制定された。同じ頃、週刊紙『ミュンヒェナー・ベオバハター』を買い取り、党機関紙『
フェルキッシャー・ベオバハター』を創刊している。ヒトラーが著書「
わが闘争」で「私は
ボルシェヴィズムから最も多く学んだ。」と公言している様にナチ党は左翼の影響が多く見られる。最近の地域史研究では、ナチ党は
プロパガンダや組織を左翼勢力から取り入れていたことがわかっている
http://www.kcg.ac.jp/acm/a5072.html。例えば、有名な党歌『
旗を高く掲げよ』は共産主義者のヴィリ・ブレーデルの詩の焼き直しであることが今日において判明している。しかし、原則に拘らない一連の手法により、ナチ党は泡沫政党から大衆政党へと急成長を遂げていくことになる。集会で入場料を取り、会場で寄付金を集めるというヒトラーのアイディアは成功し、国防軍や富裕層からの資金援助も受け入れ、党の財政を潤した。
党の設立初期にヒトラーは改名を主張したが、ルドルフ・ユング (Rudolph Jung) が
オーストリアの Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei の命名パターンに従うことを要求した。「
ドイツ労働者党」は1920年2月24日に
ミュンヘンのビアホールで開かれた党大会に2000人を集め、綱領を発表し、党名を最終的に "Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei" にした。
ヒトラーは
エルンスト・レーム大尉やディートリヒ・エッカートらの支持もあって党内で勢力を拡大し、1921年7月29日に開かれた幹部会議では指導権を認められて党首となる。また同年8月、レームの設立した党内組織の「体育スポーツ局」(Sportabteilung)は10月には「
突撃隊」と改称し、左翼勢力との市街戦の主力となっていく。
ミュンヘン一揆
1923年1月に
ヴェルサイユ条約の賠償金の支払い遅延を理由にフランス軍がドイツの工業地帯
ルール地方を占領した。ナチスは右翼と共にフランス占領軍に対するテロを展開し、シュラゲター(Albert Leo Schlageter)がフランス軍により虐殺され、それをナチスが喧伝し、市民の間で英雄視される。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、更に勢力を拡大する。9月には国粋主義的な政党が連合して「ドイツ闘争連盟」が組織され、ヒトラーも指導者の一人になった。
このころナチ党は党員数3万5千人で、
バイエルン州では有数の政党になっていた。もともとバイエルン州は伝統的に反ベルリンの空気があったが、不穏な空気は
1923年9月の
フリードリヒ・エーベルト大統領による
非常事態宣言によって表面化し、国粋主義的政党は反ベルリン・反ワイマール共和国を唱えて11月9日、市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000~3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。この「
ミュンヘン一揆」はバイエルン州政府によって鎮圧され、首謀者ヒトラーを初め、党員らは投獄され、投獄を免れた党員も国外逃亡を余儀なくされる。ナチスも危険政党として非合法化され、一時解散することになるが、反ワイマール共和国の気運の高まりは衰えることはなく、いくつかのダミー団体が活動を続けた。
党内左派の中心人物の
グレゴール・シュトラッサーは党首ヒトラーより先に出獄し、主にドイツ北部と西部において元党員を組織した。後にナチ党のプロパガンダを担当する
ヨーゼフ・ゲッベルスはこの頃に彼の秘書として党活動を始めている。当時のゲッベルスは「日和見主義者のヒトラー氏の除名」を提案するなど自他共に認める左派であった。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには
統制経済が必要と訴え、合法的な政権交代を求めて既存勢力(産業界・軍部・貴族階級)との融和を図り、準国営化を唱えたヒトラーとの間に溝を深めてゆく。
党勢の拡大
1923年から24年にかけて急激に、天文学的な
インフレになり、多くの国民が失業するなど、
政権が混乱していた中、 1925年にヒトラーが監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国、ナチ党が再結成される。再結成後のナチ党は選挙運動に徹する。同年、突撃隊の下部組織として、ヒトラー警護のために「
親衛隊」が結成される。1929年、突撃隊上級大佐の
ハインリヒ・ヒムラーが第4代の
親衛隊全国指導者に選ばれる。
「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる。」と主張していたゲッベルスの行ったプロパガンダ活動の多くは政敵の
共産党を模倣したものであり、
戸別訪問、党専属の楽団、膨大な量のビラ・ポスターの配布や、対立する政治家に対する猛烈な
ネガティブ・キャンペーン、ラジオを利用した
政見放送、航空機を利用した遊説旅行、「
ドイツ社会民主党」防衛隊を真似した旗を掲げ厳格な統制に従う突撃隊の街頭行進、町の壁を埋め尽くすポスター等強烈なビジュアルインパクトを与える内容であった。
1927年には首都
ベルリンで新聞『
デア・アングリフ』紙を発刊した。新聞は他の新聞や他の政党を大きな活字で口汚く罵るもので、攻撃された新聞が反論の記事を書けば書くほど、ナチスの宣伝になってしまう効果もあったため、わざと讒言で他紙を「釣る」ことすらあった。また、時にはテロに訴えることもあった。
1930年2月23日、党員
ホルスト・ヴェッセルが共産党員ヘラーに暗殺されるが、ゲッベルスはヴェッセルを殉教者に祭り上げ、盛大な葬儀を行って共産党に対する憎悪を煽り立てた。
ナチス党内閣成立、一党独裁へ
を発表するヒトラー。]]
巧みな選挙戦術で1932年、二回の選挙でナチ党は第一党の座についたが、全584議席中196議席に過ぎず、単独過半数にも及ばなかったのであって、決してヒトラーに全面的な国民の支持があったのではなかった。同年11月の選挙ではナチ党は34議席を失っており、共産党は11議席を増やしている。首都
ベルリンは元々「赤いベルリン」と呼ばれていた共産主義の牙城だっただけに、共産党が第一党となっている。このため、
シュライヒャー首相はナチ党の組織局長シュトラッサーの入閣を餌にナチ党の切り崩しを図る。ヒトラーの政権獲得は一時危ぶまれたが、
パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は側近らの説得を受けてヒトラーを首相に任命し、
1933年1月30日に
ヒトラーを首班としたナチス党内閣が発足した。
1933年2月に
国会議事堂放火事件が起こり、これを共産党の陰謀と見なして緊急大統領令を布告、共産党幹部を逮捕した。当時の法律では国会議員の逮捕は禁じられていたが、緊急大統領令がこれを許した。さらにヒトラーは、1933年3月23日に
全権委任法を国会承認させて、
立法権を国会からヒトラー政権に委譲させた。これはどんな法律も議会の審議を経ないで制定できることを意味する。このようにしてヒトラーは、
ヴァイマル憲法によって成立した
基本的人権や労働者の権利のほとんどを停止、合法的な独裁体制を確立した。
1934年6月30日、第二革命を主張する「突撃隊」長レームや左派など党内のヒトラー反対派を一斉に粛清(
長いナイフの夜事件)、代わって国防軍や資本家との連携を一層深めた。また、この頃から反
ユダヤ的行動が盛んに行われ、1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊がドイツ全土の
ユダヤ人住宅・商店・
シナゴーグなどを襲撃・放火した(
水晶の夜)。
州政府にもナチ党幹部が国代理官(Reichsstatthalter)として舞い降り、民主主義的な地方自治を停止させた。事実上党が国家を征服し支配した形となる。
党の単位である
大管区、管区、支部、
細胞、班 はそのまま国民支配の行政単位になった。最小単位の班の構成は40~50 所帯である。
鉤十字の党旗を国旗とし、党歌『
ホルスト・ヴェッセルの歌』は全国で歌われた。党の組織は生活の大部分に浸透し、
労働組合に代わる「ドイツ労働戦線」や、下部組織の「
歓喜力行団」などによって、労働・教育・余暇など私生活の隅々まで
ナチズムによって支配されていた。党組織は
第二次世界大戦では防空や治安維持なども担当し、大戦末期には本土防衛のために老人・子供から成る非正規軍の「
国民突撃隊」の母体にもなっている。
1945年5月にドイツが
連合軍に降伏するとナチ党は事実上解散、同年9月10日には党の存在自体が法律によって禁止され、「
ニュルンベルク裁判」により「犯罪的な組織」と認定された。ドイツ国内では刑法第86条でナチズムのプロパガンダ及びそれに類する行為が禁じられている。
組織
指導部
党組織は、
-
指導者(Führer)
- 全国指導者(Reichsleiter)
- 大管区指導者(Gauleiter)
- 管区指導者(Kreisleiter)
- 地区指導者(Ortsgruppenleiter)
- 細胞指導者(Zellenleiter)
- 街区指導者(Blockleiter)
の階層から成っている。
党首にあたる
指導者(
総統とも訳される)は
アドルフ・ヒトラーであり、党のすべてにわたる独裁権を握っていた。
党指導部(Reichsleitung)は、職能別に党務を分担して指導者ヒトラーを補佐する17〜20人の全国指導者から構成された(1934年時点の党組織図では18名が挙げられている)。全国指導者には、1933年の政権奪取後に国務大臣を兼務する者が多く含まれていた。
-
ルドルフ・ヘス - 指導者代理(副総統や総統代理という訳もある。以下同じ)(Stellvertreter des Führers)。無任所大臣兼務。
-
ヘルマン・ゲーリング - 指導者後継者(総統後継者)。空軍総司令官・航空大臣兼務。
-
マルチン・ボルマン - 党官房長
- F・X・シュヴァルツ -財政全国指導者(党出納長)
-
ロベルト・ライ - 組織全国指導者(党組織局長)。ドイツ労働戦線指導者・無任所大臣兼務。
- Ph・ボウラー - 指導者官房長
- W・ブーフ - 党最高裁判所長
- W・グリム - 党第2最高裁判所長
-
ヨーゼフ・ゲッベルス - 宣伝全国指導者(党宣伝部長)。国民啓蒙宣伝大臣・ベルリン大管区指導者兼務。
- オットー・ディートリヒ - 新聞全国指導者
- マックス・アマン - 出版全国指導者
-
ハンス・フランク - 司法全国指導者。無任所大臣兼務。
-
アルフレート・ローゼンベルク - 対外政策全国指導者(党対外政策局長)。東方占領大臣兼務。
- R・v・エップ - 植民政策全国指導者(党植民政策局長)
-
リヒャルト・ヴァルター・ダレ - 農業政策全国指導者(党農業政策局長)。食糧大臣兼務。
-
ヴィルヘルム・フリック - 国会議員団長。内務大臣兼務、次いでベーメン・メーレン保護領総督兼務。
- K・フィーラー - 書記
-
エルンスト・レーム - 突撃隊幕僚長
- ヴィクトール・ルッツェ - 同上
- ヴィルヘルム・シェップマン - 同上
-
ハインリヒ・ヒムラー - 親衛隊全国指導者(Reichsführer des SS)。内務大臣兼務。
-
バルドゥール・フォン・シーラッハ - 青少年全国指導者(Reichsjugendführer)
- アルトゥール・アックスマン - 同上
- K・ヒールル - 労働全国指導者
大管区はナチ党の地方組織としての最大の単位で、そこには大管区指導者(1935年には33人)が置かれた。ベルリン=ブランデンブルク大管区指導者は宣伝大臣
ゲッベルスであり、彼は全国指導者と大管区指導者を兼任していた唯一の人物であった。また、大管区指導者ベルンハルト・ルストは1934年以降、国の文部大臣でもあった。管区指導者は827人、地区指導者は20,724人、細胞指導者は976人、街区指導者は204,359人を数えた(1935年)。
党員
ナチ党の一般的な党員は主として田舎や都市部の中流階級から構成されていた。7%は上流階級に属し、7%は農民であった。35%は産業労働者であり、51%は中流階級に所属した。最大の単一職業集団は小学校教師であった。党が結成された1920年には党員数は約2000人に過ぎなかったが、1933年の政権奪取時に党員数は250万人まで膨れあがっていた。1945年に党が解散した時、公式党員名簿数は合計850万人に上った。
軍事組織
1935年には国防軍にも警察にも所属しない軍事組織
親衛隊特務部隊が設けられた。ここに志願すれば、義務兵役年限に算入された。1940年には
武装親衛隊と改名されて、陸軍・海軍・空軍と並ぶ第四の軍隊と認知された。ナチ党の政権奪取前の時代は、国防軍は政治的な影響を恐れ国防軍の兵士は非政治的であることを要求したため、国防軍に入隊しようとするナチ党員は離党を要求されることがあった。
その他の組織
パートタイム的に招集される一般党員のほか、下記の組織に入ることも出来た。
- ナチス女性団 NSF
-
突撃隊 Sturmabteilung (SA)
- 民族社会主義航空隊 NSFK
- 民族社会主義自動車隊 NSKK - 当時運転技術は貴重であった。
-
ヒトラーユーゲント Hitlerjugend(HJ) - 14~18歳の青年の「よきナチ党員になる」ための教育組織。
- ナチス学生同盟 NSDStB
-
ドイツ少女団 BDM
海外組織
ドイツ本国だけでなく国外にも類似の組織が設立された。主なものを挙げる。
党のシンボル
党のシンボルである
鉤十字は1920年に採用された。党旗の赤と黒は「血と大地」を表すとされる。
赤・黒・白の組み合わせは旧
ドイツ帝国旗に使用されたもので、現在の国旗に無い白は
プロイセンの旗を表している。ヒトラーは、赤は社会的理念、白は国家主義的理念、ハーケンクロイツ(鉤十字)は古代ヒンズーの印を増幅したものである。これは
アーリア民族の勝利のために戦う使命を表しているとされた。またナチ党は円や背景のないハーケンクロイツも使用した。また、円で囲ったハーケンクロイツの上に
鷲を配した紋章も使われている。
ナチ党は複数の党歌を採用したが、その中で最もよく知られているのが『
旗を高く掲げよ』(ホルスト・ヴェッセル・リート)である。1930年に共産党員により命を落とした突撃隊員ホルスト・ヴェッセルが作詞したもので、当時流行していた歌謡曲(原曲はオペラの曲)がつけられ、党員の間で大流行した。やがては対立政党が揶揄するために替え歌を作るなど、ナチ党の象徴として扱われた。ヒトラーが政権の座に就くと第二の国歌的に扱われた。また、
イギリスファシスト連合や
ファランヘ党等海外のファシスト政党の間でも歌詞を変えて歌われている。
関連施設
党の発祥の地であるミュンヘンには通称褐色館()と呼ばれる本部が置かれた。隣接してミュンヘンの総統官邸も置かれた。党本部は破壊されたが、総統官邸は
ミュンヘン音楽・演劇大学の校舎として残っている。また、党大会が開かれる場所であった
ニュルンベルクのツェッペリン広場には党大会用の施設が建設され、現在も競技場として使用されている。
また、創設当時の党が大会を開き、ミュンヘン一揆の舞台ととなったビアホールビュルガーブロイケラー()は党の聖地視され、毎年ミュンヘン一揆の記念日にはヒトラーが来て演説した。ビュルガーブロイケラーは
1979年まで存在していたが、現在は
案内板が残るのみとなっている。
その他
ナチ党の後継グループに、アメリカにおけるジョージ・リンカーン・ロックウェルが率いた「アメリカ・ナチ党」がある。これは1960年代にその党勢が最高潮に達し、多くの法的機関が党の危険性を警告したが、
言論の自由を重視する世論によって、党の解散を免れその存在の継続が認められた。しかし、ジョージ・ロックウェルの死後その会員の大部分と財源の多くを失った。
なお日本では一時期「ナチス犯罪に時効はない」という報道が行われた事があったが、実際にはドイツ刑法においてナチスとは関わりなく「謀殺罪(計画的殺人)」の時効が無いだけで、それ以外のナチス時代の犯罪は全て時効が成立しており「ナチス犯罪に時効はない」は事実として誤りである。
脚注
文献
- 四宮恭二(1932年から1934年までナチスの政権奪取を身近に観察した留学生)『ナチス』 政経書院、1934年
- 森川覚三 『ナチス独逸の解剖』 コロナ社、1940年
- Milton Mayer 『彼らは自由だと思っていた:元ナチ党員十人の思想と行動』田中浩・金井和子(訳)、未來社、1983年、ISBN 4-624-11068-4
- Alexander Drozdynski 『ヒトラー・ジョーク:ジョークでつづる第三帝国史』 関楠生(訳)、河出書房新社、1980年
- Ian Kershaw 『ヒトラー 権力の本質』 石田勇治(訳)、白水社、1998年
-
加瀬俊一(ヒトラーと会談したことのある外交官) 『ワイマールの落日』 光人社、1998年
- 宮田光雄・柳父圀近編 『ナチ・ドイツの政治思想』 創文社、2002年、ISBN 4-423-71052-8
- 佐野誠 『近代啓蒙批判とナチズムの病理』 創文社、2003年、ISBN 4-423-71057-9
関連項目
外部リンク
*こっかしゃかいしゅぎどいつろうどうしゃとう
*こっかしゃかい