生涯
ナポレオンの婚約者
デジレは1777年、
マルセイユの裕福な商家であったクラリー家の末娘として生を受ける。
1792年、ボナパルト家がマルセイユにやってくると、ナポレオンの兄
ジョゼフ・ボナパルトとデジレの姉
マリー・ジュリーの間で縁談がまとまった。デジレとナポレオンはこの時知り合ったと見られる。以来デジレはナポレオンの婚約者として振舞ったものの、ジョゼフとマリーの結婚ではクラリー家の持ち出しがかなり多かったらしく(ボナパルト家は
コルシカ島を着の身着のまま追い出されたような形で、当時無一文に近かった)、これ以上ボナパルト家にくれてやるものは無いと、デジレの父親の反対は大きかったらしい。
デジレとナポレオンはマルセイユとパリの間で恋文を交換するが、ナポレオンからの返事は次第に途絶えがちとなり、翌
1796年、デジレに対し何の報告も無いままナポレオンはジョゼフィーヌと結婚。デジレにとっては婚約を反故にされた形となった。
ベルナドットとの結婚
その後、出会いは明らかではないが
1798年、デジレはフランス
陸軍の
将軍でナポレオンのライバル、ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(後のスウェーデン王カール14世ヨハン)と結婚する。この結婚により、ベルナドットはクラリー家を通してボナパルト家の間接的な姻戚となったわけである。この背景には、ナポレオンの兄弟たちが、有能で民衆の人気もあったベルナドットをなんとか味方に引き入れようと、密かに2人が惹かれあうように演出したのではないかという話もあり、実際に翌
1799年、ナポレオンが
ブリュメールのクーデタを起こして政権を奪取した際には、ベルナドットは中立の立場を取ってクーデタを静観している。ともあれ、2人は同じ1799年に一男オスカル(後の
オスカル1世)を儲けている。
しかし、姻戚関係になったからといって、ベルナドットのナポレオンに対するライバル意識は消えたわけではなく、また
ジャコバン派であるがゆえに、彼はナポレオンの権力志向に対してあからさまな嫌悪感を抱き続けていた。それでもナポレオンにとっては、終生デジレに対して婚約を反故にしたという負い目が消えなかったらしく、ベルナドットが
1800年、第二次
イタリア遠征時の
マレンゴの戦いの前後に新政権を狙った際も(パリに届いたこの戦いの第一報は、ナポレオンが
オーストリア軍に負けたというものであった)、事を穏便に済ました。その後、
フランス第一帝政下ではこれといった軍事的功績もないまま、ベルナドットを陸軍
元帥の1人に推挙し、ポンテ・コルヴォ大公に封じている。
イエナ・アウエルシュタットの戦いの際にベルナドットが決定的な大失態を犯し、
軍法会議にかけられそうになった際も、デジレの取り成しによってナポレオンは執行寸前の命令文書を破り捨てている。ナポレオンは、イエナの戦いの頃からベルナドットの背信が始まったと述懐しているが、これは失態と言うよりも戦術的に不可抗力であったから、軍法会議は、ナポレオンの一方的な策略であったと現在では捉えられている。ベルナドットを不審視するナポレオンは、イエナ・アウエルシュタット後のプロイセン追撃戦における
ブリュッヒャー将軍の捕縛に関しても戦功とは見なしていなかった。
一方デジレにとっては、元婚約者のナポレオンが
第一統領、終身統領、
皇帝と出世し、ジョゼフィーヌがフランス皇后となるにつけ、心中穏やかではなかったし、ナポレオンの兄ジョゼフと結婚したデジレの実姉マリーは
ナポリ王妃、
スペイン王妃になったわけであるから、大変なコンプレックスを抱えていた事は想像に難くない。ちなみにこの時期のデジレの称号は、
1806年に与えられた
ポンテコルヴォ大公妃である。
スウェーデン王妃
1809年、夫ベルナドットがスウェーデン王位継承候補者となったことは、デジレ、そしてフランスの運命を大きく転換する出来事であった。ナポレオンの玉座の前に進み出て「スウェーデンの要請を受け入れる旨許可してほしい」と願い出たベルナドット夫妻に対し、ナポレオンは「デジレには悪いことをした」という贖罪の気持ちも込めて、ベルナドットがスウェーデン王位継承者となることを許可する。ベルナドットは
1810年に王太子、
摂政となってスウェーデンでの執政を開始した。デジレが息子オスカルとともにパリから
ストックホルムに移ったのは
1811年のことである。しかしデジレは、フランスとは気候風土も文化も異なるスウェーデンになじめず、またこの時期のスウェーデンの冬が異常に寒かったこともあってか、半年ほど住んだ後に夫と息子を置いて単身パリへ戻った。
1812年、
ロシアがフランスに対して反旗を翻すと、ベルナドットが摂政を務めるスウェーデンもこれに呼応。これがナポレオンの帝国を崩壊させるきっかけとなり、ナポレオンの縁者としてヨーロッパ各地の王位、大公位に就いていた者は、ベルナドット家を除いて全てその地位を失った。因みに1812年、ベルナドットは
フィンランドにおいて、
ロシア皇帝アレクサンドル1世と会談を行っている。この時ベルナドットはアレクサンドルに気に入られ、皇帝の妹との縁談が持ち上がった。しかしベルナドットはやんわりと縁談を断ったので、デジレとの関係は保たれた。
1818年、ベルナドットはスウェーデンとノルウェー(
1814年に獲得)の国王カール14世ヨハンとして即位した。
1823年に王太子オスカルが皇后
ジョゼフィーヌの
同名の孫娘と結婚したのを機に、デジレは再びストックホルムに移り住んだ。デジレはスウェーデン国民から大歓迎を受け、その後も国母として敬愛された。夫カール14世は
1844年に死去したが、王位を継承した息子オスカル1世も
1859年、デジレに先立って死去し、すでに
摂政を務めていた孫の
カール15世が即位した。翌
1860年、デジレは83歳で死去した。デジレの最後の言葉は、「ナポレオン」であったとも言われている。カール14世ヨハンとデジレの子孫の血統は、現在でもスウェーデン王室(
ベルナドッテ家)として続いている。
デジレが亡くなった後、彼女の枕の下から、かつてナポレオンに宛てて書き送った恋文の下書きが何枚も発見されたという。この事から解るように、デジレは生涯ナポレオンを敬愛し続け、一方でスウェーデン王妃という華やかな地位を敬遠し続けたという。
デジレは温和ではあったが、父親の反対を押し切ってまでナポレオンと結婚するほどの意志の強さはなく、もしナポレオンがデジレと結婚していたら、彼は小成に甘んじていただろうという説がある。
デジレ・クラリーを取り上げた作品
- 映画
- 漫画
関連項目
てしれ