の古都
サマルカンドにあるティムールの銅像。サマルカンドは14世紀中葉からティムール朝の首都だった。]]
ペルシア語による綴りにより忠実に
ティームールとも表記される。また、この名は
中世モンゴル語では Temür、
現代ウズベク語では Temur であり、
テムルと表記することもある。語義は「
鉄」を意味し、この名を持つテュルク系、モンゴル系の人物は少なくなかった。ティムール自身、その覇道の最中、他の「ティムール」という名を持つ男達と何度か戦っている。
生涯
生い立ち
モンゴル部族の一分枝
バルラス部の出自で、
言語的にテュルク化し、
宗教的に
イスラム化したモンゴル貴族の家系に属する。系譜によれば5代前の先祖カラチャル・ノヤンは
チンギス・ハーンの次男
チャガタイに仕えた有力な将軍であったが、ティムールが
シャフリサブズの近郊で生まれたころには零落し、わずか数人の従者を持つに過ぎない小貴族であった。
有力者へ
若い頃のティムールは
チャガタイ・ハン国の東西分裂と混乱に乗じて、従者を率いて家畜の略奪を行う盗賊のようなことをしていたという。しかし徐々に優れた軍事指揮者としての才能をあらわして次第に人望を集め、西チャガタイ・ハン国の有力者へとのし上がっていった。
1360年、東チャガタイ・ハン国のトゥグルク・ティムールが侵攻してくると、ティムールはこれに従属してバルラス部の旧領を与えられた。しかし、すぐに東チャガタイ・ハン国から離反し、カラウナス部のアミール・フサインと結んで勢力を拡大し、本拠地として
サマルカンドを手に入れた。
この間、戦場で片足を負傷し、「跛行のティムール」を意味するTīmūr-i Lang というあだ名で呼ばれたことが欧米で彼の呼び名として知られるタメルラン(またはタメルレーン、Christopher Marloweの芝居では綴りがTamerlane)になったと言われる。
ティムール朝の確立
その後、覇権をめぐってフサインと対立し、
1370年にフサインの本拠地
バルフを攻撃。フサインを殺害して
トランスオクシアナの覇権を確立した。これまでにティムールはバルラス部以外の有力部族を傘下に収めており、チンギス・ハーンの三男
オゴデイの末裔であるソユルガトミシュという王子を
ハンに擁立。さらに同年、フサインの寡婦でチンギス・ハーンの子孫にあたる王女を妃に娶って、「チンギス家の娘婿(キュレゲン)」を称した。
チンギス・ハーンの子孫ではないティムールとその後継者たちは自らハンに即位することはなく、他の遊牧部族の将軍たちと同じ
アミールの称号を名乗るのみであり、名目上はハンであるチンギス家の娘婿にしてハンのもとにあるアミールの最有力者として振舞った。しかし現実には1370年に中央アジアにティムール家の権力が確立し、ティムール家による支配が行われたので、これをティムール朝(ティムール帝国)と呼ぶ。
勢力の拡大
ティムールはチンギス・ハーンの築き上げた世界帝国の夢を理想としていたといわれる。また自己の権威を確立するためには戦勝を続け、戦利品を配下の諸部族に分配する必要もあったため、外征を繰り返した。
1388年、トクタミシュがティムール朝領を攻撃したのをきっかけに3年戦役を終了したティムールは、トクタミシュを破ると再びイランへの遠征を再開し、
1392年から始まる5年戦役でムザッファル朝を滅ぼしてイラン全域を支配下に入れ、
バグダードに入城して
マムルーク朝と対峙した。ティムールはさらに北上して
カフカスを越えトクタミシュを破り、
ヴォルガ川流域に至ってジョチ・ウルスの都
サライを破壊し、
ルーシ諸国まで侵入し、
1396年に帰還した。
1404年末、ティムールは20万の大軍を率い、
明を破り、
元の旧領を奪還することを目指して
中国遠征を開始した。しかし、ティムールは遠征途中にわかに発病し、1405年2月、オトラルで病没した。
評価
ティムールは軍事にかけては天才的で、生涯に交えた戦いではほとんど負けたことがなく、また都市のもつ経済的重要性をよく理解してその保護につとめた。彼が都としたサマルカンドには様々な施設が建設・整備されて繁栄をきわめ、チンギス・ハーンと比較して俗に「チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは建設した」と言われる。しかし、敵が抵抗した場合には、デリーを占領したとき捕虜数万人を処刑した、バグダードを占領したとき徹底した略奪、破壊を加えた、など外征先では冷酷な破壊者でもあった。
ティムール一代で築かれたティムール朝は、その支配もティムールの個性に大きく拠っており、ティムールの生前に確固たる支配体制が築かれることはなかった。そのため、ティムールの死後その帝国は急速に動揺し、分裂してゆく。
禁断の棺
グリ・アミール廟(『アミールの墓』の意)にある彼の黒石の棺の裏には「私がこの墓から出た時、最も大きな災いが起こる」というような言葉が刻印され、棺は開封されることなかった。しかし、
1941年6月19日になって
ソ連の調査により初めて開封され、脚の障害などが確認された。その僅か三日後、
バルバロッサ作戦(ドイツによるソ連への奇襲)が実行され、これがソ連から見た第二次世界大戦の戦端となった。後に畏怖を抱いたソ連によって蓋が鉛で溶接され、これ以後二度と開封されていない。
外部リンク
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