- 軍事用語としてのゲリラは、本項で詳説。
- 軍事用語から転じて、本来は管理者や所有者等の許可が必要な行為を、無許可のまま(多くは、そのことが違法行為になりうる)で、少人数かつ短時間で行うこと。例:ゲリラ撮影
- 軍事用語から転じて、突然、突発的な現象や神出鬼没な様などを「ゲリラ」「ゲリラ的」と形容することがある。例:ゲリラ豪雨・ゲリラうどん通ごっこ軍団
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ゲリラ(guerrilla)とは、予め
攻撃する敵を定めず、戦線外において小規模な部隊を運用して、臨機に
奇襲・
待ち伏せ・
後方支援破壊等の攪乱や攻撃を行う戦法、またはその戦法が用いられた
戦闘、さらにそうした戦闘を遂行する武装組織を言う。
パルチザン、
遊撃戦とも呼ぶ。
語源と分類
半島戦争でフランスに抗して蜂起したスペイン軍のとった作戦を、ゲリリャ(guerrilla、小戦争)と呼んだのが、ゲリラの
語源である(普通の規模の戦争は“guerra”)。しかし、ゲリラという言葉が生まれるずっと前の古代から、ゲリラ戦は存在していた。
ゲリラの対極におかれる正規軍・正規戦の概念を理念型にすれば、位置と意図を完全に暴露した軍隊が、常に全戦力を集中し、
会戦だけを目標にするといったものになるはずだが、そのような行動は正規軍にとっても合理的なものではない。ゲリラ戦を遂行するものにとっても、特定の根拠地・後方を持たず、戦力を常に分散するといったゲリラ的行動は望んで固執することではない。会戦を回避する機動的な正規軍の行動と、強力なゲリラの行動との境界は明確ではなく、連続面がある。
また、正規軍が
特殊部隊によって後方攪乱を行うこともある。
コマンドー攻撃と呼ばれるが、内容はゲリラと似通っている。
現代のゲリラ
農村ゲリラ
現代においてゲリラ戦の有効性を実証し、同時に民間人に多大な犠牲を強いたのは
毛沢東が率いた
中国共産党の
便衣兵であった。彼は都市蜂起戦術を批判し、山岳を根拠地とする農村ゲリラをはじめた。背景には中国史に数ある農民反乱の伝統があったが、毛沢東は単純に農民の数をあてにするのではなく、険阻な山岳に士気の高いゲリラ軍が入って長期抗戦の体勢を整え、それを一般の
農民が支援するというスタイルを編み出す。
独立後、主としてアジアで、毛沢東の思想的影響を受けて革命を目指すゲリラが興ったが、大半が失敗し、中国の影響下にはない
キューバの
フィデル・カストロと
チェ・ゲバラの反独裁ゲリラが成功をおさめた。その後、中南米ではキューバの影響をうけて独裁や軍事政権に反対するゲリラが起こされるが、
ニカラグアの
サンディニスタ革命など成功するものもあったものの多くは敗北するか、長引く
内戦ですべての当事者が疲弊する結果に終わった。1990年代になるとその一部は麻薬取引に資金源を見出すようになる。
アジアとアフリカには、国内
少数民族による独立要求が多くある。その一部もゲリラ戦の形で戦争を行なっている。
都市ゲリラ
都市ゲリラは、1960年代にブラジルの
カルロス・マリゲーラが提唱したもので、都市において軍隊と警察に間断なく小襲撃を加えることである。ゲリラはふだんは住民にまぎれ、住民に匿われて潜伏している。都市ゲリラは、活動の開始時こそ世間の耳目を集めたが、小規模で散発的な
テロリズムを超えることはなかった。例外的に成長したのがウルグアイの
トゥパマロスであったが、これも激しい弾圧を受けて頓挫し、いずれも名ほどの実を伴わない結果に終わった。先進国にも都市ゲリラを標榜し実行した組織は多いが、それだけで戦争の一類型というほどの規模になったものはない。
中国の
便衣兵も一種の都市ゲリラであったが、日中戦争後半ではどちらかというと共産党軍の一兵科であるという性格が強くなっていった。
キプロス独立に際しては、ゲオルギオス・グリバス率いる、「エオカ」と呼ばれる
ギリシャへのキプロス併合をも求める
ギリシャ人過激派が駐留
英軍とその家族に対して攻撃を行ない、後に
トルコ系住民や独立運動に関心を示さないギリシャ系住民をも標的とした。作戦そのものは成功したが、彼らの本来の目標であるギリシャ併合は達成されなかった。また、独立後、こうした行動がトルコ系住民の反発と怒りを買い、トルコ系住民独自の民兵組織が結成された。エオカの後身(「エオカB」と呼ばれる)とトルコ系民兵組織は激しく衝突し、
1974年にはトルコの軍事介入とキプロス北部の占領によってトルコ系住民だけの国家「
北キプロス・トルコ共和国」が建国され、キプロスは
分断国家、という「
副作用」に苦しめられる事になった。
国際法上の位置づけ
ゲリラ戦は、正規軍同士の戦争で劣勢が明白な側が、敗北を認めずに続行する延長戦として用いられることが多い。強国にとってゲリラ戦は弱い敵を屈服させにくくする障害でしかない。しかし弱者にとってゲリラ戦は侵略に対する有効な戦法であり、中にはゲリラ戦によって独立を勝ち取った国もある。近代戦時国際法(
国際人道法)の形成期には両者の対立があり、
1874年のブリュッセル会議、
1899年のハーグ会議で争われた。
この対立は、ゲリラ戦に従事した者が戦闘中、または非戦闘中に敵に捕らえられたときの
捕虜待遇と直結するものである。ゲリラ戦否認はゲリラ兵を凶悪な殺人者として処刑して良いとする主張に道を開くが、ゲリラ戦を承認すればゲリラの戦闘参加が犯罪とみなされることはない。両者の妥協として生まれた諸条約は、基本的に後者の立場をとるが民間人保護のために制限を課した。
ハーグ陸戦条約は、責任を持つ長を持ち、遠方から認識できる
徽章を付け、公然武器を携行し、戦争の法規と慣例を遵守する
民兵・
義勇兵は交戦者資格を持つと定めた(1条)。また、占領地の人民が敵の接近に際して軍を組織する暇なく公然武器を携行し、戦争の法規と慣例を遵守するときには、これもまた交戦者資格を持つとした(2条)。条件は、非戦闘員たる住民と
戦闘員たるゲリラ兵を区別し、一般住民を装って接近してから突如武器を取り出して攻撃を加えるような背信を防ぐ意義を持つ。
しかしながらこれらの条件は、満たすことが難しいだけでなく、満たした場合においても敵国から戦闘員としての権利を否認されることが多かった。ゲリラは制服や徽章を着用していない場合が多く、着用していても敵に
制服・徽章としての効力を否定されることが多かったからである。
また、この条文は「戦闘時に、自身の所属する部隊を証明する軍服を着用していればよい」とも解釈でき、
特殊部隊などは、自国の
戦闘服の上に交戦国の服を着用、戦闘直前に脱ぎ捨てるという戦法をとるケースがあった(
便衣兵)。
第二次世界大戦後、植民地からの独立のためにゲリラ戦を遂行する組織に交戦者資格を与えようとする動きが高まり、
ジュネーブ条約第一議定書で正規軍とゲリラに区別なく交戦者資格を与える規定が盛りまれた。同議定書は、敵側の承認の有無にかかわらず政府・当局の下で武装され組織された集団を軍隊と定め、正規軍と非正規軍の区別を廃した(43条1項)。また、一般住民との区別のためには、攻撃準備行動中に敵に見られている間と交戦中に公然と武器を携行することを条件とした(44条)。
この拡張を勘案しても、都市ゲリラが戦闘員として認められる余地はほとんどない。条約が課した条件を満たさない状態で戦闘した兵士が敵に捕らえられた場合、捕虜として遇されることはなく、その戦闘参加行為を犯罪として裁かれる。被捕縛者は一般の犯罪者として扱われ、判決を待たずして処罰することはできない(
ハーグ陸戦条約23条)。とはいえ将校らが略式裁判(特別
軍事法廷)を行って犯罪行為が認定された場合には処刑する事に違法性は無く、ゲリラを捕らえた部隊が現場で略式裁判を執り行いそのまま処刑することすら可能である。人道的見地や尋問、あるいは自主的な
降伏を促すために処刑しない事もあるがあくまで捕縛側の判断に任される。
ゲリラ戦に関する古典
関連項目
けりら
けりら
けりら
けりら
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